29 / 42
朝夫の衝撃
しおりを挟む
「だからよお、さっきから言ってんじゃねえか! 相手は極悪非道なヤクザだって!」
怒鳴りつける立花欣也に、清田隆平も罵声で返していく。
「お前こそ、話を聞けよ! そいつは、本当に極悪非道なヤクザなのか? だいたいな、ヤクザで極悪非道じゃない奴なんかいねえよ!」
部屋の中、荒い口調で言い合うふたりを、有村朝夫は顔をしかめながら見ていた。なぜ、こうなってしまったのだろう。
ことの起こりは、次の獲物について話し合うため、朝夫の部屋に欣也と隆平が集まっていた時だだった。
突然、欣也が真剣な表情で口を開いたのだ。
「みんな、ちょっと聞いてほしいんだ。今回は、俺に協力してくれ。とんでもない極悪人のヤクザを取っ捕まえたいんだよ。そいつはな、俺の先輩を病院送りにしやがったんだ。しかも、その先輩は行方不明になってる。ひょっとしたら、そのヤクザに殺されてるかも知れないんだ。俺は、そいつを拉致して聞き出すつもりだよ。だから、お前らの力を貸してくれ。もちろん、協力してくれれば礼はするから」
いきなりの欣也の発言に、朝夫は呆気に取られ言葉が出てこなかった。しかし、隆平の反応は違っていた。
「はあ? 何言ってんだ。んなもん知らねえよ。何で、俺たちがそんなことしなきゃならないんだ? 却下だ却下」
隆平の態度は、普段とは異なっていた。その口調にはトゲがある。短気な欣也は、すぐにムッとした表情になった。
「んだと? おい、却下ってなんだよ!?」
「却下だから却下なんだよ。意味くらいわかんだろうが」
「だから、何でお前が決めるんだよ!」
そこから、ふたりの言い合いが始まってしまったのだ。朝夫は突然の展開に付いていけず、ただただ困惑するばかりだった。
戸惑う朝夫を尻目に、ふたりの言い合いは続いている。
「だいたいな、お前はその話を誰から聞いたんだよ?」
「えっ? な、何言ってんだよ?」
欣也の口調が弱くなった。隆平は、ここぞとばかりに詰め寄る。
「聞こえなかったのか? なら、もう一度聞くぞ。そのヤクザの話は、誰から聞いたんだよ?」
「そ、それは……」
口ごもる欣也に、隆平は顔を歪めた。
「言えないのか? なら、俺が正解を言ってやる。お前、そのヤクザと敵対してる別のヤクザから聞いたんだろうが」
「うっ……」
欣也は目線を逸らし、下を向く。その反応を見て、隆平は鼻で笑った。
「図星かよ。本当、わかりやすい奴だな」
そう言って、軽蔑したような目つきで欣也を見た。さらに、大げさな仕草でため息を吐き、かぶりを振る。
「お前、本当にバカだな。はっきり言ってやるよ。お前はな、そのヤクザから利用されてんだよ」
「違う! 片桐さんは、そんな人じゃねえ! てめえに何がわかるんだよ!」
「なるほど、そのカタギリってのが裏で糸引いてるのか。俺たちに、敵対するヤクザを襲わせようって腹だな。汚い奴だよ」
そう言うと、隆平は朝夫に視線を移した。
「朝夫、今の聞いたろ? こいつの言うこと聞いたら、俺らはヤクザの思惑通りに動く羽目になるんだぞ。俺らは、いつからヤクザの手先になったんだよ。ヤクザに飼われるなんて、俺はごめんだぜ。お前だって、そう思うだろ?」
その隆平の問いに答えたのは、朝夫ではなく欣也だった。恐ろしい形相で、隆平を睨みながら顔を近づけて行く。
「おいコラ、こっちがおとなしくしてりゃ、いい気になりやがって……てめえは、金が目当てなんだろ。金さえもらえば、何でもやるんだろうが。心配しなくても、金はちゃんとくれてやる。だから、お前は余計なこと言わないで、黙って手伝えばいいんだよ。この乞食野郎が」
「ああン? 誰が乞食野郎だ? 殺すぞオラ」
隆平の表情も一変した。低い声で凄み、欣也を睨み返す。その時になって、ようやく朝夫は我に返る。
「ちょっと待てよ。まずは落ち着け。冷静に話し合おうぜ」
出来るだけ冷静な声を出しながら、どう動くべきか考えを巡らせる。同時に、この状況に微かな違和感を覚えてもいた。
なんだよ、これ?
どうなってるんだ?
うまく言葉に出来ない。だが、何かが狂っているのは間違いない。こんなことは、今までなかった。
その違和感が迷いを生み、行動のタイミングを遅らせていた。欣也と隆平は、その間にも罵りあっている。
「だいたいな、てめえは前から気にいらなかったんだよ! 少しは考えて行動出来ねえのか! 金が入れば、盛りのついた犬みてえに風俗ばっか行きやがってよ! お前がバカやれば、俺たちにまで火の粉がかかるんだぞ! ちっとは考えろ!」
「んだとゴラァ!」
怒鳴った直後、欣也のパンチが放たれた──
隆平も剣道の有段者であり、かなり喧嘩慣れはしている。日頃の鍛練も欠かしてはいない。だが、格闘家のパンチは勝手が違っていた。スピード、キレ共に素人のそれとはまるで違う。避け切れず、まともに拳の一撃を喰らった。
次の瞬間、隆平はのけ反って倒れる。だが、欣也の攻撃は止まらない。仰向けに倒れた隆平に馬乗りになり、なおも殴り続ける。
「誰が盛りのついた犬だよ! おら、もういっぺん言って見ろやゴラァ!」
「やめねえかバカ!」
怒鳴ると同時に、朝夫は欣也に飛びついた。渾身の力を込め、どうにか引き離そうとする。だが、欣也の体格は朝夫を遥かに上回っていた。両者の体重差は、三十キロ近くあるだろう。朝夫の腕力も常人よりは強いが、欣也を止めることなど出来ない。逆に突き飛ばされて倒れた。
「クソが……」
呻きながら、朝夫はどうにか立ち上がる。その間にも、欣也は馬乗りの状態で隆平の襟首を掴み、罵声を浴びせている。このままでは、命に関わる。硬い床に頭を打ち付けたら、死に繋がることもあるのだ。
しかも欣也は、完全にキレている。これはもう、普通の手段では止まらない。
次の瞬間、朝夫は欣也の背中めがけ、強烈な回し蹴りを叩き込む。重いサンドバッグを蹴っているような感触だ。分厚い筋肉に覆われた背中には、少々の打撃ではダメージは与えづらい。
が、それでも朝夫の狙った効果はあったらしい。欣也は立ち上がり、朝夫を睨みつける。
「何しやがる! てめえも死にてえのか!」
喚くと同時に、突進してきた。だが、想定外の強烈な衝撃を受け、思わず呻き声を上げる。朝夫に向かい伸ばした手に、異様な痛みを感じたのだ。
顔をしかめる欣也を、朝夫は冷ややかな表情で見つめた。
「悪いけどな、今日は帰ってくれ。家で、頭を冷やせよ。こんなところで、騒ぎ起こしても仕方ないだろ。だいたい、お前の倒すべき敵は隆平じゃないだろうが」
努めて冷静な口調で言った。その手には、スタンガンが握られている。まともに素手でやり合ったら、欣也を止めることなど出来ない。スタンガンを出すしかなかったのだ。
だが、果たして引いてくれるかどうか。もし引かなかったら、倒れるまでスタンガンで攻撃するしかないが、そんなことはしたくない。朝夫は平静を装いながらも、内心では引いてくれと願っていた。
一方、欣也はチッと舌打ちした。だが、攻撃して来る気配はない。スタンガンのショックが興奮を冷ましたようだ。それでも、不快そうな表情は変わることがない。ぷいと横を向き、玄関に向かい歩いて行く。
ドアを開けようとした瞬間、欣也は振り返った。鋭い表情で、朝夫を睨みつける。
「お前は結局、そいつの味方するんだな。勝手にしろや。だがな、隆平はいつか裏切るぞ。そいつはな、金次第で誰にでも尻尾振るんだよ」
捨てぜりふを吐き、去って行った。
「痛えな。あの野郎、今度会ったら頭カチ割ってやる」
忌ま忌ましげな表情で、隆平は呟いた。
欣也が去った後、朝夫は倒れていた隆平を助け起こした。軽い脳震盪を起こしているが、それよりも顔の外傷がひどい。唇は切れ、鼻血も出ている。応急処置はしたものの、明日になったら顔が腫れ上がるのは間違いない。朝夫は、顔をしかめつつ言った。
「いいから、早く病院行けよ。ちゃんと診てもらった方がいいぞ。頭打ってるかもしれないんだぞ」
「ああ、わかったよ」
そう言うと、隆平は立ち上がった。だが、体はふらついている。足取りもおぼつかない。まだ、殴られたダメージが残っているのだ。脳へのダメージは後から出る可能性もある。不安を感じた朝夫は、彼の手に一万円札を握らせつつ言った。
「おい、外に出たらタクシーで行けよ。いいな?」
「ああ、わかったよ。ありがとな。畜生、マジ痛えや……奥歯も折れちまった。他にも、どっか折れたかもしれねえな」
言いながら、隆平は顔に付いた血を拭く。朝夫がティッシュを差し出すと、彼は紙の上に血と奥歯のかけらを吐き出した。
「クソが。あの野郎、今度俺の前に面見せたら、ぶっ殺してやる」
呟くように言った隆平に、朝夫は小さく舌打ちした。これは、非常にまずい状態だ。
隆平は普段、怒りをあらわにしたりしない。怒りをあらわにする時は、相手に対し本気の憎しみを抱いている時だけだ。しかも彼は、いったん嫌いになった人間はとことん拒絶するタイプである。人と揉めても、翌日にはあっさり仲直りできるタイプの欣也とは真逆なのだ。
もっとも、今はそんなことを考えている場合ではない。まずは、隆平に病院に行ってもらう方が先だ。
「わかったから、今は早く病院行けよ。ちゃんと診てもらうんだぞ。でないと、傷が化膿するかもしれないぞ」
ふたりが立ち去った後、朝夫は暗い部屋の中でしゃがみ込んでいた。
以前から、こうなるのではないかという不安はあった。だが、何とかなるだろうとも思っていた。実際、今までは何とかなってきたのだ。
しかし今、欣也と隆平の間には大きな亀裂が入ってしまった。それも、修復困難な亀裂が。
「何で、こうなっちまったんだよ」
虚空に向かい問いかけた。その顔には、深い絶望があった。
これから、自分たちはどうなるのだろう。朝夫は今、たとえようもないほどの寂しさと不安とを感じていた。
この時、朝夫は重大なことを忘れていた。先ほどの違和感についてである。
その正体は、今日の隆平の態度だ。
あのふたりの仲の悪さは、今に始まったことではない。欣也も隆平も、以前からお互いを好いてはいなかったのは確かだ。しかし、先ほどのようにはっきりと対立することはなかった。朝夫の存在が緩衝材になっていたし、また目的を同じくする者という意識もあったためだ。
もっとも、別の理由もある。今までは、クレバーな隆平が、欣也との本気の争いを巧みに避けていたのだ。粗暴だが単純な欣也を上手くコントロールし、感情を逆なでしないよう努めていた部分はある。また、自身の感情もコントロールし、ぶつかり合いを避けていた。だからこそ、今までは何とかなっていたのだ。
実際、朝夫は隆平の大人な対応に感心させられたことが何度もあった。
ところが、今日は違っていた。隆平は最初から、欣也に対し敵意を剥きだしにしていた。あの態度は、明らかにおかしい。
朝夫は、その点を見逃していた。
怒鳴りつける立花欣也に、清田隆平も罵声で返していく。
「お前こそ、話を聞けよ! そいつは、本当に極悪非道なヤクザなのか? だいたいな、ヤクザで極悪非道じゃない奴なんかいねえよ!」
部屋の中、荒い口調で言い合うふたりを、有村朝夫は顔をしかめながら見ていた。なぜ、こうなってしまったのだろう。
ことの起こりは、次の獲物について話し合うため、朝夫の部屋に欣也と隆平が集まっていた時だだった。
突然、欣也が真剣な表情で口を開いたのだ。
「みんな、ちょっと聞いてほしいんだ。今回は、俺に協力してくれ。とんでもない極悪人のヤクザを取っ捕まえたいんだよ。そいつはな、俺の先輩を病院送りにしやがったんだ。しかも、その先輩は行方不明になってる。ひょっとしたら、そのヤクザに殺されてるかも知れないんだ。俺は、そいつを拉致して聞き出すつもりだよ。だから、お前らの力を貸してくれ。もちろん、協力してくれれば礼はするから」
いきなりの欣也の発言に、朝夫は呆気に取られ言葉が出てこなかった。しかし、隆平の反応は違っていた。
「はあ? 何言ってんだ。んなもん知らねえよ。何で、俺たちがそんなことしなきゃならないんだ? 却下だ却下」
隆平の態度は、普段とは異なっていた。その口調にはトゲがある。短気な欣也は、すぐにムッとした表情になった。
「んだと? おい、却下ってなんだよ!?」
「却下だから却下なんだよ。意味くらいわかんだろうが」
「だから、何でお前が決めるんだよ!」
そこから、ふたりの言い合いが始まってしまったのだ。朝夫は突然の展開に付いていけず、ただただ困惑するばかりだった。
戸惑う朝夫を尻目に、ふたりの言い合いは続いている。
「だいたいな、お前はその話を誰から聞いたんだよ?」
「えっ? な、何言ってんだよ?」
欣也の口調が弱くなった。隆平は、ここぞとばかりに詰め寄る。
「聞こえなかったのか? なら、もう一度聞くぞ。そのヤクザの話は、誰から聞いたんだよ?」
「そ、それは……」
口ごもる欣也に、隆平は顔を歪めた。
「言えないのか? なら、俺が正解を言ってやる。お前、そのヤクザと敵対してる別のヤクザから聞いたんだろうが」
「うっ……」
欣也は目線を逸らし、下を向く。その反応を見て、隆平は鼻で笑った。
「図星かよ。本当、わかりやすい奴だな」
そう言って、軽蔑したような目つきで欣也を見た。さらに、大げさな仕草でため息を吐き、かぶりを振る。
「お前、本当にバカだな。はっきり言ってやるよ。お前はな、そのヤクザから利用されてんだよ」
「違う! 片桐さんは、そんな人じゃねえ! てめえに何がわかるんだよ!」
「なるほど、そのカタギリってのが裏で糸引いてるのか。俺たちに、敵対するヤクザを襲わせようって腹だな。汚い奴だよ」
そう言うと、隆平は朝夫に視線を移した。
「朝夫、今の聞いたろ? こいつの言うこと聞いたら、俺らはヤクザの思惑通りに動く羽目になるんだぞ。俺らは、いつからヤクザの手先になったんだよ。ヤクザに飼われるなんて、俺はごめんだぜ。お前だって、そう思うだろ?」
その隆平の問いに答えたのは、朝夫ではなく欣也だった。恐ろしい形相で、隆平を睨みながら顔を近づけて行く。
「おいコラ、こっちがおとなしくしてりゃ、いい気になりやがって……てめえは、金が目当てなんだろ。金さえもらえば、何でもやるんだろうが。心配しなくても、金はちゃんとくれてやる。だから、お前は余計なこと言わないで、黙って手伝えばいいんだよ。この乞食野郎が」
「ああン? 誰が乞食野郎だ? 殺すぞオラ」
隆平の表情も一変した。低い声で凄み、欣也を睨み返す。その時になって、ようやく朝夫は我に返る。
「ちょっと待てよ。まずは落ち着け。冷静に話し合おうぜ」
出来るだけ冷静な声を出しながら、どう動くべきか考えを巡らせる。同時に、この状況に微かな違和感を覚えてもいた。
なんだよ、これ?
どうなってるんだ?
うまく言葉に出来ない。だが、何かが狂っているのは間違いない。こんなことは、今までなかった。
その違和感が迷いを生み、行動のタイミングを遅らせていた。欣也と隆平は、その間にも罵りあっている。
「だいたいな、てめえは前から気にいらなかったんだよ! 少しは考えて行動出来ねえのか! 金が入れば、盛りのついた犬みてえに風俗ばっか行きやがってよ! お前がバカやれば、俺たちにまで火の粉がかかるんだぞ! ちっとは考えろ!」
「んだとゴラァ!」
怒鳴った直後、欣也のパンチが放たれた──
隆平も剣道の有段者であり、かなり喧嘩慣れはしている。日頃の鍛練も欠かしてはいない。だが、格闘家のパンチは勝手が違っていた。スピード、キレ共に素人のそれとはまるで違う。避け切れず、まともに拳の一撃を喰らった。
次の瞬間、隆平はのけ反って倒れる。だが、欣也の攻撃は止まらない。仰向けに倒れた隆平に馬乗りになり、なおも殴り続ける。
「誰が盛りのついた犬だよ! おら、もういっぺん言って見ろやゴラァ!」
「やめねえかバカ!」
怒鳴ると同時に、朝夫は欣也に飛びついた。渾身の力を込め、どうにか引き離そうとする。だが、欣也の体格は朝夫を遥かに上回っていた。両者の体重差は、三十キロ近くあるだろう。朝夫の腕力も常人よりは強いが、欣也を止めることなど出来ない。逆に突き飛ばされて倒れた。
「クソが……」
呻きながら、朝夫はどうにか立ち上がる。その間にも、欣也は馬乗りの状態で隆平の襟首を掴み、罵声を浴びせている。このままでは、命に関わる。硬い床に頭を打ち付けたら、死に繋がることもあるのだ。
しかも欣也は、完全にキレている。これはもう、普通の手段では止まらない。
次の瞬間、朝夫は欣也の背中めがけ、強烈な回し蹴りを叩き込む。重いサンドバッグを蹴っているような感触だ。分厚い筋肉に覆われた背中には、少々の打撃ではダメージは与えづらい。
が、それでも朝夫の狙った効果はあったらしい。欣也は立ち上がり、朝夫を睨みつける。
「何しやがる! てめえも死にてえのか!」
喚くと同時に、突進してきた。だが、想定外の強烈な衝撃を受け、思わず呻き声を上げる。朝夫に向かい伸ばした手に、異様な痛みを感じたのだ。
顔をしかめる欣也を、朝夫は冷ややかな表情で見つめた。
「悪いけどな、今日は帰ってくれ。家で、頭を冷やせよ。こんなところで、騒ぎ起こしても仕方ないだろ。だいたい、お前の倒すべき敵は隆平じゃないだろうが」
努めて冷静な口調で言った。その手には、スタンガンが握られている。まともに素手でやり合ったら、欣也を止めることなど出来ない。スタンガンを出すしかなかったのだ。
だが、果たして引いてくれるかどうか。もし引かなかったら、倒れるまでスタンガンで攻撃するしかないが、そんなことはしたくない。朝夫は平静を装いながらも、内心では引いてくれと願っていた。
一方、欣也はチッと舌打ちした。だが、攻撃して来る気配はない。スタンガンのショックが興奮を冷ましたようだ。それでも、不快そうな表情は変わることがない。ぷいと横を向き、玄関に向かい歩いて行く。
ドアを開けようとした瞬間、欣也は振り返った。鋭い表情で、朝夫を睨みつける。
「お前は結局、そいつの味方するんだな。勝手にしろや。だがな、隆平はいつか裏切るぞ。そいつはな、金次第で誰にでも尻尾振るんだよ」
捨てぜりふを吐き、去って行った。
「痛えな。あの野郎、今度会ったら頭カチ割ってやる」
忌ま忌ましげな表情で、隆平は呟いた。
欣也が去った後、朝夫は倒れていた隆平を助け起こした。軽い脳震盪を起こしているが、それよりも顔の外傷がひどい。唇は切れ、鼻血も出ている。応急処置はしたものの、明日になったら顔が腫れ上がるのは間違いない。朝夫は、顔をしかめつつ言った。
「いいから、早く病院行けよ。ちゃんと診てもらった方がいいぞ。頭打ってるかもしれないんだぞ」
「ああ、わかったよ」
そう言うと、隆平は立ち上がった。だが、体はふらついている。足取りもおぼつかない。まだ、殴られたダメージが残っているのだ。脳へのダメージは後から出る可能性もある。不安を感じた朝夫は、彼の手に一万円札を握らせつつ言った。
「おい、外に出たらタクシーで行けよ。いいな?」
「ああ、わかったよ。ありがとな。畜生、マジ痛えや……奥歯も折れちまった。他にも、どっか折れたかもしれねえな」
言いながら、隆平は顔に付いた血を拭く。朝夫がティッシュを差し出すと、彼は紙の上に血と奥歯のかけらを吐き出した。
「クソが。あの野郎、今度俺の前に面見せたら、ぶっ殺してやる」
呟くように言った隆平に、朝夫は小さく舌打ちした。これは、非常にまずい状態だ。
隆平は普段、怒りをあらわにしたりしない。怒りをあらわにする時は、相手に対し本気の憎しみを抱いている時だけだ。しかも彼は、いったん嫌いになった人間はとことん拒絶するタイプである。人と揉めても、翌日にはあっさり仲直りできるタイプの欣也とは真逆なのだ。
もっとも、今はそんなことを考えている場合ではない。まずは、隆平に病院に行ってもらう方が先だ。
「わかったから、今は早く病院行けよ。ちゃんと診てもらうんだぞ。でないと、傷が化膿するかもしれないぞ」
ふたりが立ち去った後、朝夫は暗い部屋の中でしゃがみ込んでいた。
以前から、こうなるのではないかという不安はあった。だが、何とかなるだろうとも思っていた。実際、今までは何とかなってきたのだ。
しかし今、欣也と隆平の間には大きな亀裂が入ってしまった。それも、修復困難な亀裂が。
「何で、こうなっちまったんだよ」
虚空に向かい問いかけた。その顔には、深い絶望があった。
これから、自分たちはどうなるのだろう。朝夫は今、たとえようもないほどの寂しさと不安とを感じていた。
この時、朝夫は重大なことを忘れていた。先ほどの違和感についてである。
その正体は、今日の隆平の態度だ。
あのふたりの仲の悪さは、今に始まったことではない。欣也も隆平も、以前からお互いを好いてはいなかったのは確かだ。しかし、先ほどのようにはっきりと対立することはなかった。朝夫の存在が緩衝材になっていたし、また目的を同じくする者という意識もあったためだ。
もっとも、別の理由もある。今までは、クレバーな隆平が、欣也との本気の争いを巧みに避けていたのだ。粗暴だが単純な欣也を上手くコントロールし、感情を逆なでしないよう努めていた部分はある。また、自身の感情もコントロールし、ぶつかり合いを避けていた。だからこそ、今までは何とかなっていたのだ。
実際、朝夫は隆平の大人な対応に感心させられたことが何度もあった。
ところが、今日は違っていた。隆平は最初から、欣也に対し敵意を剥きだしにしていた。あの態度は、明らかにおかしい。
朝夫は、その点を見逃していた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~
紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。
行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。
※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。
泉田高校放課後事件禄
野村だんだら
ミステリー
連作短編形式の長編小説。人の死なないミステリです。
田舎にある泉田高校を舞台に、ちょっとした事件や謎を主人公の稲富くんが解き明かしていきます。
【第32回前期ファンタジア大賞一次選考通過作品を手直しした物になります】
virtual lover
空川億里
ミステリー
人気アイドルグループの不人気メンバーのユメカのファンが集まるオフ会に今年30歳になる名願愛斗(みょうがん まなと)が参加する。
が、その会を通じて知り合った人物が殺され、警察はユメカを逮捕する。
主人公達はユメカの無実を信じ、真犯人を捕まえようとするのだが……。
この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―
至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。
二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。
彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。
信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。
歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。
幻想、幻影、エンケージ。
魂魄、領域、人類の進化。
802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。
さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。
私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。
【R15】アリア・ルージュの妄信
皐月うしこ
ミステリー
その日、白濁の中で少女は死んだ。
異質な匂いに包まれて、全身を粘着質な白い液体に覆われて、乱れた着衣が物語る悲惨な光景を何と表現すればいいのだろう。世界は日常に溢れている。何気ない会話、変わらない秒針、規則正しく進む人波。それでもここに、雲が形を変えるように、ガラスが粉々に砕けるように、一輪の花が小さな種を産んだ。
紙の本のカバーをめくりたい話
みぅら
ミステリー
紙の本のカバーをめくろうとしたら、見ず知らずの人に「その本、カバーをめくらない方がいいですよ」と制止されて、モヤモヤしながら本を読む話。
男性向けでも女性向けでもありません。
カテゴリにその他がなかったのでミステリーにしていますが、全然ミステリーではありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる