悪魔との取り引き

板倉恭司

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未知との遭遇

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 幸乃と紫苑は、手を繋いで歩いていた。いつもと同じ風景だが、母の顔は強張っている。緊張しているようだ。反対側の手には、バッグを握っていた。
 やがて、ふたりは神社に到着した。普段なら、手を合わせ一礼するところだが、今日は違っていた。立ったまま、辺りを見回す。
 すると、草むらからコトラが顔を出す。にゃあと鳴きながら、こちらに近づいてきた。
 紫苑はしゃがみ込むと、手招きする。

「コトラちゃん、おいで。この中に美味しいのあるよ」

 横にいる幸乃もしゃがみ込む。バッグを地面に置き、ふたを開けた。これは、猫を移動させる時に用いる専用のキャリーケースなのだ。中には、コトラが好きそうな食べ物が入っている。

「おいで、一緒に行こう。美味しいの、いっぱいあるよ」

 優しく声をかける紫苑に、コトラは何の迷いもなく近づいてきた。だが、キャリーケースの入口で止まる。警戒しているのだろうか、匂いをくんくん嗅いでいる。
 親子は、息をつめて見守っていた。果たして入ってくれるだろうか。心の中で祈りつつ、猫の動きを見つめる。
 しばらくして、コトラは慎重にケースへと入っていく。その瞬間、幸乃はふたを閉めた。ケースを持ち上げ、紫苑と手を繋ぐ。
 その時、後ろの方でがさりという音がした。幸乃は、反射的に振り返る。

「やあ君たち、楽しそうだにゃ」

 声と共に、こちらに歩いて来たのはひとりの少年だ。とても小柄で、身長は百五十センチ台だろう。ダボッとしたTシャツを着てカーゴパンツを履いている。どこかのアイドル事務所にいてもおかしくなさそうな顔立ちではあるが、口元には締まりがなかった。ヘラヘラした態度で、なおも語りかけてくる。

「あのさあのさあのさ、君らは……あの、何だっけ、ナンダナオ村の人なんかい?」

「はい? な、なんだなお?」

 思わず聞き返していた。頭の中は完全に混乱している。この少年は何者だ? ナンダナオとは何だろう? ここで何をしている? 疑問が次々と浮かんでくるばかりだ。
 そんな幸乃に、少年は首を傾げつつも聞いてくる。

「あれ、何だっけな。その、あの、チャンライ村だっけにゃ?」

 すると、紫苑が横から口を挟む。

「もしかして御手洗村?」

「ああ、そうそう、それそれ。サンクスなのん」

 言いながら、紫苑にウインクする少年。その時になって、ようやく幸乃の頭も働き出した。

「あ、あなた何なんですか? 御手洗村に、何の用ですか?」

「何って……僕ちんの名は桐山譲治。正義の味方さ!」

 胸を張って答える。それを見て、横にいた紫苑がプッと吹き出した。幸乃はといえば、さらに混乱するばかりだ。自分を正義の味方だ、などと言う人間と出会ったのは、生まれて初めてである。
 恐る恐る聞いてみた。まともな答えが返ってくることに期待は出来ないが、念のためである。

「あ、あの、どういう意味でしょうか?」

「だから、正義の味方なのん。悪い奴にさらわれた美女と少女を助けに来たのにゃ!」

 言いながら、桐山はガッツポーズをする。その時、車のエンジン音が聞こえてきた。西野昭夫が来たのだ。
 幸乃はホッとした。目の前にいる少年は、明らかにおかしい。ドラッグでもやっているのかもしれない。大麻か何かを吸い、おかしくなった状態で迷い込んでしまったのだろうか。紫苑の手を引き、少しずつ下がっていく。振り返ると、車はすぐ近くまで来ている。
 ちらりと桐山を見てみた。彼は首や肩や足などを動かしながら、興味深そうに車を見ている。悪い奴にさらわれた美女を助けに来た……などと言っていたが、どういうことなのだろう。
 見ているうちに、幸乃は違和感を覚えた。ドラッグでおかしくなった人間とは、どこか違う気もする。そんなことを思いつつ、彼女は徐々に後ずさっていく。いざとなったら、車で逃げるしかない。
 紫苑はといえば、この奇妙な少年に興味を持ったらしい。好奇心に満ちた目で、じっと見つめている。
 その時、車が止まった。ドアの開く音、そして声が聞こえてきた。

「真壁さん! 大丈夫ですか!?」

 昭夫が、慌てた様子で近づいてきた。少し遅れて、ペドロが歩いてくる。

「えっ、ええ。大丈夫……」

 幸乃は、それ以上何も言えなかった。周囲を漂う空気が、一瞬にして変化したのだ。気温が急下降したような異様な感覚に襲われ、体が硬直する──
 その原因は桐山である。近づいてきたペドロを見るなり、彼に変化が生じた。ヘラヘラした態度が消えうせ、低い姿勢で上目遣いになる。次いで、両腕を下げる。今にも襲いかからんとする四足獣のような、異様な体勢だ。
 そのまま、ニイと笑った。

「店ぶっ壊して店員ぶっ飛ばしたの、あんただにゃ」

 低い声だ。先ほどまでと喋り方は同じだが、表情はまるで違う。紫苑や昭夫も、この不気味な雰囲気に完全に呑まれていた。桐山が全身より発する異様な何かにより、体が硬直し動けないのだ。
 ライオンやヒグマのような圧倒的な強さを持つ肉食獣と遮蔽物なしで向き合った時、人は逃げることすら出来なくなるという。恐怖のあまり全身が硬直し、金縛りのような状態に陥るのだ。幸乃も含めた三人が、その状態に陥っていた。今や、呼吸すらままならない──
 その金縛りを解いたのは、ペドロだった。昭夫の肩に、そっと触れる。
 
「昭夫くん、すまないが幸乃さんと紫苑さんを車に乗せてくれ。先に行くんだ」

 途端に、昭夫はビクンと反応する。おろおろした様子で、ペドロと桐山を交互に見つつ口を開く。

「あ、あなたはとうするんですか?」

 昭夫が聞いたが、その時になって幸乃は気づく。ペドロもまた、普段とは違う顔つきになっている。蛇を一瞬で殺した時以上の何かが、彼の全身から漂っている。
 先ほどの空気の変化は、この二匹の怪物がもたらしたのだ──

「俺には構わず、先に行くんだ。後で合流しよう」

 ペドロの声は低く落ち着いていた。聞く者に安堵感を与える、そんな不思議な効果があった。幸乃は、夢から覚めたかのようにハッとなる。ケースを車内に置き、紫苑を抱き寄せて後部席に乗る。同時に、さっとドアを閉めた。
 昭夫は、素早く運転席に戻る。急いで発進させた。
 車は慌ただしい勢いでUターンし、走り去っていった。ペドロと桐山は無言のまま、消えていく車をじっと見ていた。
 ややあって、ペドロが口を開く。

「さて、遊ぼうか」

「遊ぶって、何して遊ぶのかにゃ?」

「君の大好きなことさ。まあ、俺も嫌いではないがね」

「ま、嫌いではないなんて……この、ス・ケ・ベ」

 ふざけた口調ではあるが、桐山の顔つきは獣のごときものとなっている。元自衛官の矢部を倒した時など、比較にならない凄みがあった。完全なる戦闘体勢へと入っている──

「いいよ、来たまえ。時間には限りがある。速やかに終わらせるとしよう」

 一方のペドロは、落ち着きはらっていた。目の前の少年を、観察するかのごとき目で見つめている。だが、全身から異様な何かを発していた。

「では、お言葉に甘えて……いっくよーん!」

 叫んだ直後、桐山は動いた──
 弾丸のごとき速さで少年は移動した。ボクシングのフットワークとは違う、独特の動きで間合いを詰める。
 と同時に、桐山は飛んだ。人間離れした跳躍力で、高く飛び上がる。直後、右足を思い切り振り上げた。太ももから足先までが、ピンと伸びた状態で上空へと上がっている。バレエダンサーのごとき柔軟さだ。
 次の瞬間、ペドロの脳天めがけかかとを振り下ろす──
 一秒にも満たない間に、間合いを詰めて飛び踵落としを放ったのだ。超人的な身体能力を活かした、デタラメとしか言いようのない攻撃である。常人では、何が起きたのかわからぬうちに頭蓋骨を砕かれていただろう。
 ところが、対するペドロの動きもまた、常軌を逸したものだった。その場にとどまったまま、上体を僅かに反らせ向きを変える。たったそれだけの動きで、桐山の攻撃を躱してしまった。ミリ単位で踵の当たる間合いを見切り、上方向からの踵落としを避けたのだ。いにしえの達人にのみ可能なはずの見切りである。

「へっ? 嘘おぉ?」

 桐山の口から、間抜けな声が洩れ出た。ペドロのあまりにも見事な動きを目の当たりにし、驚きのあまり声が出たのだ。しかも、次の行動が遅れてしまった。何の備えもなく、バランスを崩した体勢で着地してしまう。この状況では、やってはいけないミスだ。
 同時に、ペドロの右手が伸びた。桐山のシャツを掴み、片手で頭上高く持ち上げる。
 直後、地面へと叩きつけた──
 今度は、ペドロが顔を歪める番だった。確かに、桐山を掴み持ち上げたはず。その後は高速で地面に叩きつける、少年の首が折れて死亡……で終わりのはずだった。
 だが、叩きつけられる零コンマ何秒かの間に、桐山は対応していたのだ。掴まれ持ち上げられると同時に、シャツから己の体を脱出させる。ありえない動きだ。
 その後の動きも曲芸じみていた。シャツを脱ぎ地面に手から着地すると同時に、逆立ちの体勢から跳ね上がる。ペドロの顔面めがけ、強烈な蹴りを見舞った──
 まともに当たれば、下顎を砕かれノックアウトさせられていただろう。ところが、ペドロもまた怪物であった。凄まじい速さで襲い来る蹴りを、回し受けで避ける……いや、弾き飛ばす。常人離れした腕力で、飛んできた蹴りを体ごと弾き飛ばしてしまったのだ。強すぎる腕力は、防御技術であるはずの受け技すら攻撃へと変えてしまう──
 桐山は地面に倒れた。次いで、ペドロの鋭い横蹴りが放たれる。蹴りというよりは、踏み付けに近い。当たっていれば、桐山は顔面を地面に叩き付けられていた。蹴りの衝撃と地面との挟み打ちで、頭蓋骨の損壊は免れなかっただろう。
 しかし、桐山の反応も速い。弾かれた直後、すぐさま地面を転がる。蹴りを躱し、一気に間合いを離す。
 一瞬にして、数メートルを移動した。そこでスクッと立ち上がり、獣のように低い姿勢でペドロを睨みつける。歯を剥きだし、低い声で唸った。
 一方のペドロもまた、鋭い目で桐山を睨む。その表情には、いつもの余裕がない。この小柄な少年を、強敵だと認めているのだ。
 無言のまま対峙する二匹の怪物。両者の間には、異様な空気が漂っていた。その空気が、虫や小動物にすら影響を与えたらしい。普段なら聞こえるであろう、かさかさという音すら消えている。周囲は、沈黙に支配されていた。
 その沈黙を破り、先に口を開いたのは桐山だった。突然、空に向かい吠える。

「じょ、う、じ、かんげきいぃぃ!」

 意味不明の雄叫びをあげたかと思うと、興奮した面持ちでペドロを指差す。

「あんたすっげーよ! カッコイイよ! 痺れるよ! こんなん初めてだぜ! いやあ、久しぶりにやる気出てきたのんな!」

 わけのわからないことを叫び続ける桐山に、ペドロは苦笑した。穏やかな表情で、人差し指を口に当てる。静かに、というジェスチャーだ。
 すると、桐山はぴたりと口を閉じる。先ほど見せた戦いぶりが、嘘のような素直さだ。
 ペドロはといえば、掴んでいた桐山のシャツを丁寧に畳んだ。そっと傍らに置く。
 次いで、恭しい態度でお辞儀をした。

「俺の名はペドロだ。いきなりで恐縮だが、君の額の傷は銃によるものではないね。刃物でもない。恐らくは事故だ。それも、かなり大規模なもののはず。違うかね?」

 静かな口調である。態度も落ち着いていた。さっきから、意味なく体のどこかを動かし続けている桐山とは真逆である。
 にもかかわらず、両者にはどこか似たものが感じられた。

「当たりだにゃ。よくわかったのん」

 言いながら、両手の人差し指を拳銃のような形でペドロに向ける桐山。相変わらず、真剣さがまるで感じられない態度である。
 ペドロの方は、表情ひとつ変えず語り続けた。

「その事故で負った傷により、君は脳に重大な損傷を負った。だが、脳への損傷の二次的作用により、肉体に先祖帰りのごとき変化が生じる。君は、人間がまだ獣だった時代の……いや、それ以上の身体能力を得た。以上が、君の人間離れした身体能力に対する考察だ。間違っている点はあるかな? 差し支えなければ、教えて欲しい」

「ああ、そういや高岡先生も似たようなこと言ってたにゃ。たぶん、合ってると思うよ」

 答えたと同時に、肩をぐるぐる回す。動きそのものはコミカルだ。しかし、その目は異様に輝いていた。

「さて、お話はこのへんにしよっか。続きやろ」

 しかし、ペドロはかぶりを振った。

「そうしたいのは俺も同じなんだがね、今は他に優先すべきことがある。君を仕留めるのは、少々時間がかかりそうだ。その上、こちらも腕の一本くらい失う覚悟がいる。悪いが、また今度の機会にしてくれ」

「はあ? 何言ってんの? 今度なんか、あるわけないっしょ。やるなら今でしょ!」

 言いながら、桐山は両手を大きく広げる。まるで、今からハグでもしそうな勢いだ。
 その時、ペドロの右手がぱポケットへと入った。

「では、ひとつ問題を出そう。その問題に正解を出すことが出来たら、今から君の気の済むまでり合う。だが、君が答えを外したら、俺は引き上げる。決着は、またの機会だ。どうだい?」

「オッケー農場」

 即答すると同時に、握り拳を突き出し親指のみを伸ばす。GOODのハンドサインだ。ペドロは苦笑しつつ頷いた。

「問題は、このポケットの中に武器が入っているかどうかだ。さあ、言ってみたまえ」

 言いながら、左手で己の右側ポケットを指し示した。そこには、右手が突っ込まれている。
 
「んなもん余裕なのん。入ってないにゃ」

 またしても即答である。ペドロの顔に、奇妙な表情が浮かんだ。

「なぜ、そう思ったのかな? よければ教えてくれないか」

「簡単なのん。俺がそう思ったからにゃ」

「君は……本当に、想定外の男だ。実に素晴らしい。出来れば、別の機会に会いたかった」

 言葉そのものは、皮肉ともとれる。しかし、ペドロの顔には畏敬の念らしきものが浮かんでいた。
 次の瞬間、その表情が一変する。

「残念ながら、君の答えは外れだ」

 言いながら、ペドロは右手をポケットから出した。人差し指と親指で、何かをつまんでいる。桐山は、つままれている物を凝視した。
 次の瞬間、思いきり上体を反らした。空に向かい吠える。

「なんじゃそりゃあぁぁぁ!」

 直後、両手を拳銃の形にして指差し怒鳴りつける。

「ちょいちょいちょい! それ、パチンコ玉じゃん! 武器じゃないじゃんよ! あんた嘘つきなのん!」

「いや、これはれっきとした武器だよ」

 言った直後、ペドロが親指を弾いた──
 放たれたパチンコ玉は、凄まじい速さで飛んでいく。そのままなら、桐山の右目を直撃していただろう。
 だが、桐山も常人ではない。ぱっと首を動かし避ける。
 ビシッという音がした。弾丸のような速さで飛んだパチンコ玉は、後ろの大木にめり込んだのだ。まともに当たっていれば、確実に右目は潰れていた。いや、それどころか脳にまで達していたかも知れない。
 それを見た桐山は、うんうんと頷いた。

「うん、確かに武器なのん。にしても、あっぶねえなあ。当たったらどうすんのよう」

「それは申し訳ない。だがね、入っていたものが武器であることは理解いただけただろう。では、忙しいので失礼するよ」

 そう言うと、くるりと向きを変えた。恐れる様子もなく、背中を向け去っていく。
 すると、桐山が声をかける。

「しゃあないから、今日は見逃すよ。けどさ、明日になったら必死こいて探しちゃうかんね。見つけたら、必ず決着つけるのんな!」

「いいよ」


 


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