悪魔との取り引き

板倉恭司

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もうひとりの怪物

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 幸乃と紫苑は、昼の田舎道を歩いていた。
 今日もいい天気だ。空は青く、暑くもなく寒くもない。とても過ごしやすい陽気である。たまに吹いてくる風が心地いい。
 ただ、あと二ヶ月もすれば冬がやってくる。冷暖房完備だった都内の家に比べると、ここの冬は寒さが厳しい。紫苑の体調には、気を配らなくてはならないのだ。
 やがて、ふたりは神社に到着した。念のため周囲を見てみたが、蛇の類はいないようだ。時おり、かさかさという音が聞こえるが、恐らく虫だろう。あるいは、ネズミやトカゲのような小動物か。
 日課の通り、ふたりで並んで両手を合わせ一礼する。その後、レジャーシートを敷き座った。
 リュックから弁当箱を取り出した時、待っていたかのように草むらから現れたのはコトラだ。丸い顔を出すと、にゃあと鳴いた。のっそりと草むらを出て、こちらに歩いて来る。
 
「コトラちゃん、こんにちは」

 紫苑は手を伸ばし、近づいてきた猫を撫でる。コトラは喉をごろごろ鳴らしながら、頬を擦り付けていった。弁当のおこぼれが目当てなのはわかっているが、それでも娘に懐いてくれるのは嬉しい。
 いつもと同じく、平和な時間が流れている。だが、コトラの様子が一変した。耳をピンと立てたかと思うと、さっと草むらに身を隠す。

 ふたりは、顔を見合わせた。何が起きるかはわかっている。

「西野さんが来たんだね」

 紫苑が言うと、幸乃も苦笑しつつ頷いた。これも、いつもの風景である。

「あの子、よっぽど西野さんが嫌いなんだね」

「どうして西野さんを嫌うのかな。いい人なのにね」

 首を傾げつつ、疑問を口にした紫苑。
 確かに、奇妙な話である。あの猫は、自分たち親子にはすぐに懐いてくれた。会った直後こそ、手の届かぬ場所でうろうろしていたものの、五分も経たぬうちに紫苑の前で腹を見せていたのだ。恐らく、かつては飼い猫だったのだろう。
 そんなコトラだが、西野の接近を察知するやいなや、ぱっと身を隠すのだ。何が気に食わないのか、未だにわからない。

「さあね。コトラにしかわからない理由があるんだよ」

 そう答えた時、車が見えて来た。こちらに向かい走って来たかと思うと、数メートル手前で停止する。ひょっとしたら、コトラが車が嫌いなのだろうか。
 運転席のドアが開き、昭夫が出てきた。いつもと異なり、神妙な顔つきである。さらに、助手席から出てきた者がいた。
 ペドロだ。Tシャツとデニムパンツという格好で、悠然とした態度で歩いてくる。いつもの通り、掴みどころのない表情を浮かべていた。

「あっ、ペドロのおじさんだ! 帰ってきたんだね!」

 嬉しそうに叫んだ紫苑に対し、幸乃の顔は引き攣っている。どうも、この男は苦手だ。向こうに敵意がないことはわかっている。とりあえずは、こちらに害を為す人間でないこともわかっている。だが、そばにいられると妙に構えてしまう。上手く言えないが、異質な何かを感じるのだ。
 コトラが西野を嫌うのも、同じ理由なのかもしれない。

「どこ行ってたの?」

 紫苑が無邪気に尋ねると、ペドロは真面目な顔で口を開いた。

「町のあちこちで、忙しく動いていた。少々、厄介なことになっていてね」

 シリアスな雰囲気の言葉に、紫苑はきょとんとなっている。横にいる幸乃も困惑していた。小さな子供だろうが、ペドロは話し方を変える気はないらしい。
 そのペドロの視線が、こちらに向けられた。
 
「今夜、とても大事な話がある。是非とも、皆に聞いて欲しい話だ」
 
「えっと、どんな話です?」

 恐る恐る聞いた。
 その瞬間、背筋がぞっとなった。ペドロの目から、異様なものを感じたのだ。上手く言えないが、とんでもないことが起きそうな気がする。
 とんでもないことの震源地は、目の前にいるこの男だ──

「君らの将来にかかわる重大な話だ。今はまだ言えないが、ある選択をしてもらう。どちらを選ぶかは、君たち次第だ」

 ペドロの言葉に、幸乃は何も言えなかった。その時、自分の間違いに気づく。
 とんでもないことが起きるのではない。この怪物が、とんでもないことを起こすのだ。

 ・・・

 その日の夜。
 竹内徹が率いる一団は、御手洗村へと向かう山道にいた。彼らは明日、村を襲撃し杏奈と可憐を連れ戻す予定である。一名を除いた全員の顔に、微かな緊張感があった。
 しかし今、その件とは別の問題が起きようとしていた。



 車を止めて、外に出ていた時だった。キャンプのように、皆は火を囲んで食事をとっている。竹内徹が動き回り、皆の分を作ったり器によそったりしている。
 この男、裏の世界ではそれなりに知られており、今回の件の依頼主でもある。同時に、キャンプ好きな一面もある。裏稼業の人間らしからぬまめさで動き回り、場を仕切っていた。
 一見すると、和やかなムードであった。しかし、ひときわ大柄な男がそのムードをぶち壊す。

「竹内さん、はっきり言わせてもらう。こんな奴とは組めねえ。俺か、このチビか、どっちか選んでくれ」

 言葉は徹に向けられているが、その目は桐山譲治へと向けられていた。たき火の明かりで照らされたがっちりした体は、異様な迫力を醸し出している。
 当の桐山はというと、我関せずという様子で地面に座り込み、火で炙った魚肉ソーセージを食べている。大男のことは、無視するつもりらしい。

「おい矢部ヤベっち、そんなこと言うなよ。これから一緒に仕事すんだからさ」

 徹が軽い口調で言った。しかし、和らぐ気配はない。場の空気も一変する。皆の顔つきが、険しくなっていた。どうやら、桐山に対し良からぬ印象を持つ者がほとんどのようである。
 矢部と呼ばれた男は桐山を睨みながら、さらに続ける。

「俺はプロだ。他の連中もそうだよ。皆、きっちり仕事をこなすつもりで来ている。だがな、この桐山はどうだよ。遊びに来てるようにしか見えねえ。真剣さが感じられねえんだよ。ガキの喧嘩のノリで来てるんじゃねえのか」

 声そのものは静かだが、奥には怒りがこもっている。しかし、言われている当の桐山は、相変わらずの態度だ。怯えている様子はないが、かといって言い返そうという気配もない。
 矢部は舌打ちし、徹に視線を移す。

「だいたいな、桐山を入れるメリットは何なんだ? このガキは、車は動かせねえは、チャカは持たせられねえは、スマホもろくに扱えねえときた。ここまで使えねえ奴、初めて見たよ。役立たずなんてレベルじゃねえ。そのくせ、やる気もねえときてやがる。そこらのホームレス拾ってきた方が、まだ使えるぜ。こんな奴がいたんじゃ、皆のやる気にかかわるんだよ」

 そこで、矢部は口を閉じた。文句があるなら言ってみろとでもいいたげな顔で、再び桐山を睨みつける。
 だが、桐山は彼を無視していた。あくびをしながら、地面を見ている。
 矢部は、また聞こえるように舌打ちした。徹に視線を戻す。

「これは遊びじゃねえんだよ。断言するがな、こんな奴がいたら仕事は失敗する。もし、どうしてもこのチビを外さないってんなら、俺が降りる」

 その時になって、ようやく桐山が反応する。面倒くさそうに立ち上がった。あくびをしつつ、徹に向かい口を開く。

「なんか面倒くさいことになってんのにゃ。だったら、僕ちん帰るのん。だいたいさあ、初めからやる気なんかなかったっちゃよ。誘拐されたちっちゃな女の子を救い出すなんて、僕ちんのやることじゃないのん」

 そう言うと、すたすた歩き出した。徒歩ならば、街に到着するまで数時間はかかるだろう。しかも、辺りは暗い。都会と違い、街灯などなく本当の暗闇である。その上、道は険しい。かなり急な山道であり、足元も悪い。
 そんな状況にもかかわらず、この少年は歩いて帰るつもりらしい。見ていた者たちは、呆れた様子で顔を見合わせていた。
 しかし、徹は違う反応をした。立ち上がり、ぱっと動く。桐山に追いつき、肩を押さえた。

「待て待て。桐山、帰るな。せっかく来てくれたんだ。それによう、ここで帰ったら三村の顔を潰すことになるぞ。いいのか?」 

 三村という名前を聞いた途端、桐山の表情が僅かに変化した。立ち止まり、振り向く。

「それ言われると弱いのん」

 いかにも不満そうな表情ではあるが、向きを変え戻ってきた。一方、徹は矢部に向かい口を開く。

「矢部っちよう、今どっちか選んでくれって言ったな? だったら、ステゴロで選ぶ。桐山とやってくれ。勝った方を選ぶ」

 その途端、皆がざわめいた。当の矢部はといえば、呆れた様子でかぶりを振る。

「おい、あんた何を言ってるんだ? そんなもん、勝負にもならない。本気でやったら、このチビが大怪我するぞ」

「構わない。矢部っちの言うように、どっちか選ぶと言ってんだよ。お前がプロだというなら、まずは俺の指示通り桐山をぶっ飛ばして見せてくれ。そうしたら、桐山を外す。骨の二本や三本、へし折っても構わねえ」

「本当にいいのか? 骨折じゃ済まないことになるかもしれねえぞ」

 矢部の表情は真剣である。この男は、ルールのないステゴロの恐さを知り尽くしているのだ。本気でやり合えば、殺す気がなくても死に至らしめることはある。チンピラ同士の喧嘩でも、ちょっとしたアクシデントにより死んでしまうケースは少なくないのだ。
 だが、徹は動じていない。

「いいよ。棺桶逝きにしても構わねえ。後の始末は俺がやってやる」

 そう言うと、徹は桐山の方を向いた。

「桐山、お前もだ」

「あんまし、やる気ないのんな。本当、面倒だにゃ」

 言葉の通り、やる気は欠片ほども感じられない。怯えているからではなく、単純に面倒くさがっているように見えた。

「いいからやれや。頼むぜ」

 徹はといえば、ニヤニヤ笑っている。彼にしてみれば、これから品定めの時間なのだ。楽しみで仕方ない、という表情を浮かべていた。



 たき火の明かりで照らされる中、桐山と矢部は向かい合った。両者の間の距離は、五メートルほど離れている。まるで、格闘技の試合のようである。
 矢部が、両拳を挙げ構える。その顔からは、確かな自信が感じられた。だが、桐山を侮るような素振りはない。
 一方の桐山は、リラックスしきった様子だ。腕をだらりと下げ、自然体で矢部に視線を向けている。巨体の矢部を恐れる様子はない。
 体格差は歴然としている。身長で三十センチほど、体重にいたっては三十キロ……いや、それ以上の差があるだろう。
 格闘技の世界では、今や体重制が当たり前になっている。ボクシングの世界では、六十キロの世界チャンピオンより百キロの四回戦ボーイの方が強い。どんなに優れた格闘技術も、圧倒的な体格差の前には意味を持たない。恵まれた体格も、才能のひとつなのだ。
 まして、矢部は素人ではない。自衛隊に入隊し、十年以上のキャリアがある。所属していた部隊では、それなりの地位にいた。しかし部下に対する暴行とパワハラがマスコミにより暴かれ、依願退職させられてしまう。その後、紆余曲折を経て裏の世界に入ってきた。普段は裏の世界でのボディーガードや、人をさらったり痛め付けたりといった分野の仕事をしている。徒手格闘の腕も、プロレベルという噂だ。
 彼の勝ちは揺るがない……周囲にいる者のほとんどが、そう思っていた。しかし、その予想は大きく裏切られる。
 先にうごいたのは、桐山だった。ふわりとした独特の動きである。あまりにも自然で、殺気はおろか余分な力みすら全く感じられない。まるでテレポートしたかのようであった。瞬時に、矢部の懐へと入り込んでいたのである。ここまで接近されると、大柄な矢部としては効果的なパンチやキックを放てない。完全に桐山の間合いだ──
 矢部の表情が強張る。予想していなかった展開に、一瞬ではあるが戸惑った。だが、彼とて数々の修羅場をくぐってきた男だ。この間合いで、何をすればいいかはわかっていた。横殴りの肘打ちが、桐山の顔めがけ放たれる。
 桐山は、パッとしゃがみ込んだ。頭上を、肘打ちが通り過ぎる。
 次の瞬間、桐山は飛んだ。同時に、矢部のみぞおちに左前蹴りを叩き込む──
 矢部の顔が、苦痛で歪む。蹴りの衝撃で、体がくの字に曲がっていた。通常、三十キロ以上の体格差があれば、殴ろうが蹴ろうがびくともしないはずだ。しかし、桐山の蹴りは勝手が違っていた。時速百六十キロで飛んできたボールを、まともに食らったような威力だ。
 しかも、攻撃は終わっていなかった。左足がみぞおちをえぐるのとほぼ同時に、今度は右足が放たれる。矢部の顔面を、弾丸のような速さの飛び回し蹴りが打ち抜いた──
 その蹴りもまた、凄まじい威力であった。プロ野球選手が、バットでフルスイングしたような衝撃力である。矢部の下顎は砕け、前歯が飛び散った。顔の下半分は、完全に崩壊しただろう。当然、脳の方も無事には済まない。蹴りにより脳が揺らされ、意識が保てなくなる。
 一瞬遅れて、矢部の巨体がぐらりと揺れた。直後、切り倒された大木のような勢いでばたりと倒れる。
 異様な空気が、その場を支配していた。矢部は、集められた者たちの間でも一目置かれる存在だ。元自衛官という経歴もさることながら、仕事に対するストイックな姿勢は裏の世界でも知られていた。
 今回の仕事でも、リーダー格として仕切るはずだった矢部……そんな男が今、顔面を砕かれ地面に倒れている。それも、百六十センチもないような小柄な少年に、まばたきする間にノックアウトされてしまったのだ。
 そんなことをしでかした桐山はといえば、鼻の穴に小指を突っ込んでいる。呼吸は乱れていないし、顔色も変化はない。通行に邪魔なものを片付けた、そんな雰囲気だ。
 鼻をほじりながら、ボソッと呟いた。

「この人、早く病院連れてった方がいいのん。ほっといたら、顔面バーンのまま治らないかもしんないのにゃ」

 その言葉に反応したのは竹内だ。

「ああ、そうだな。飯嶋、早く病院連れてってやれ」

「は、はい」

 飯嶋が慌てて返事し、矢部の体を起こそうとした。しかし、巨体をもてあまし気味だ。
 すると、桐山が口を開いた。

「いいよ。僕ちんが運ぶのんな」

 言った直後、ひょいと矢部の体を担ぎ上げる。百キロ近い巨体を軽々と背負い、車に運び込む。小さな細身の体からは、想像もつかない腕力だ。
 その姿を見た竹内は、ニヤリと笑う。

「ショーは終わりだ。病院送りになった矢部っちには悪いが、俺の言うことを聞かなかった報いと思って病室で反省してもらおう。飯島、悪いが矢部っちを病院まで運んでくれ。治療費くらいは払ってやろう」

 言われた飯島は、無言で頷き車へと歩いていく。一方、徹は他の者たちへと視線を移す。

「他の連中は明日、俺と一緒に御手洗村に行く。行って、誘拐された娘と孫を連れ戻すんだ。いいな?」

 その言葉に、皆は頷く。すると、桐山が首を傾げた。

「で、僕ちんは何すりゃいいのん?」

 緊張感がまるで感じられない、のんびりとした声である。先ほど、見事な闘いをやってのけた男と同一人物とは思えない。徹は苦笑しつつ答えた。

「お前は……とりあえず、ひとりで動け。杏奈と可憐を見つけたら、縛ってでもいいから連れてこい。ただし、怪我はさせるな。他の村人に会ったら、ぶっ飛ばしておねんねさせとけ。場合によっちゃあ、ひとりやふたりっちまっても構わねえ。わかったな?」

「オッケー農場」





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