悪魔との取り引き

板倉恭司

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ペドロのいない日

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 幸乃と紫苑は、今日も田舎道を歩いていた。
 母の手を握り、ゆっくり歩く紫苑。その目は、まっすぐ前を向いている。この先にあるゴールを、しっかりと見ている。
 横にいる幸乃は、そんな娘と共に歩いている。背負っているリュックの中には、ふたり分の水筒と弁当それにレジャーシート、さらには緊急時に連絡するためのトランシーバーなどが入っている。なかなかの重量だが、幸乃は体力に自信がある。この程度、たいしたことはない。
 ここに入る時、高木和馬と話したことを思い出す。

「ここは、暮らすには便利とは言えない場所です。スマホは通じないし、娯楽施設もありません。万が一の事態が起きても、パトカーも救急車も簡単には来られません。都会で暮らしていた方から見れば、不便な上に退屈でしかないでしょう。それでも、娘さんのために、全てを捨てて御手洗村で生活するおつもりですか?」

「はい。そのつもりです」

 幸乃は即答した。もう、これまでの生活に未練などない。ヒモ同然だった元夫とは完全に縁を切ったし、親戚筋とも付き合いはない。この先も、付き合う気はなかった。
 かつての友人や仲間たちは、今では刑務所にいるか死亡しているかのどちらかだ。自分がそちら側に行かなかったのは、紫苑のおかげである。
 それに、都会に住んでいると不快なこともある。特に不快なのは、紫苑を連れて歩いている時の、周囲の人間たちの目線だ。あれは、本当に嫌だった。ゆっくり時間をかけて歩く少女を、奇異の目で見る者がいた。同情と蔑みとが混じった目で見る者もいた。あえて見ないようにしている者もいた。クスクス笑う者や、歩き方を真似する者までいたのだ。
 そうした者たちの反応には、いつまで経っても慣れることはない。何より嫌なのは、かつての自分もそうだったという事実を思い出してしまうことだ。もし十代の頃の幸乃が、紫苑のような少女を街中で見かけていたら、どんな反応をしていたかは容易に想像できた。間違いなく、クスクス笑ったり歩き方を真似していたはずだ。虫の居所が悪ければ、ちょっかいを出していたかもしれない。
 十代から二十代の頃の自分は、間違いなく最低の人間だった。大勢の人を嘲り、騙し、罵り、奪い、時には暴力を振るって傷つけた。そのことを考えると、たまらない自己嫌悪に襲われる。
 ひょっとしたら娘は、自分のしてきた悪行の報いを受けているのだろうか……そんなことすら考えてしまう。



 やがて、ふたりは目的地に到着した。いつもと同じく手を合わせ一礼し、親子でレジャーシートを敷く。
 その時、にゃあという声がした。続いて、猫のコトラが丸い顔を出す。草むらからのっそりと出て来て、ふたりに近づいてきた。よく来たな、とでも言わんばかりの様子だ。

「コトラちゃん、こんにちは」

 紫苑は、そっと手を伸ばしていく。コトラは逃げもせず、娘に体を触れさせていた。そんな姿を、幸乃は微笑みながら見ている。
 この猫がいてくれたのも、移住を決意した一因である。最初に出会った時から、コトラは娘に懐いてくれた。まるで、友達になるから村においでよ……とでも言っているかのような姿を見て、幸乃は心を決めたのだ。
 そんなことを思いつつ、紫苑とコトラの触れ合いを見ていると、不意に娘の顔がこちらに向けられた。

「コトラちゃんがすぐに出て来たってことは、今は蛇はいないってことだね」

 紫苑の言葉は、先日ここで出会ったペドロなる怪人が言っていたことだ。あの怪人物との、短いやり取りを覚えているとは意外だ。幸乃は僅かに動揺しつつも、こくんと頷いてみせた。

「そうだね。あの時は驚いたよ」

 苦笑しつつ、当時を思い出す。
 あの時は、何が起きているのかわからなかった。ペドロがいきなり動いたかと思うと、草むらにいる何かを踏み付けたのだ。
 周りにいる者たちが唖然としている中で、ペドロは踏み付けたものを拾い上げる。一瞬、革のベルトかと思った。だが、違っていた。赤と黒の斑点が付いた蛇である。それも、ヤマカガシという猛毒を持つものだ。ふたりは、そんな危険なものが潜んでいたことすら気付かなかった。
 そんな毒蛇を、ペドロはいとも殺してしまったのである。
 あの男がいなかったら、親子のどちらかが蛇に襲われていたのかも知れない。ある意味、恩人とも言えるだろう。一応、あれから蛇撃退用のスプレーを持ち歩くようにもなった。

「ママは、ペドロのこと嫌いなの?」

 不意に聞かれ、幸乃はどきりとした。紫苑はコトラのお腹を撫でつつ、母の顔を見上げている。
 正直、答えるのが難しい質問だ。好きか嫌いかと問われれば、嫌いではない。が、好きにもなれない。

「嫌いじゃないよ。ただ、なんか苦手だな」

 気持ちに正直なところを言うなら、この答えになる。近寄りがたいし、また近寄って欲しくないタイプである。恩人であるにもかかわらず、仲良くしたくはない。そばにいるだけで緊張してしまう。たとえるなら、社長や会長といった人種とふたりきりでエレベーターにいるような感覚に襲われるのだ。
 ふと、疑問が浮かぶ。この子は、なぜ平気なのだろう?

「どうして? 何が苦手なの?」

 娘は、なおも聞いてくる。ペドロと仲良くして欲しい、という気持ちゆえだろうか。幸乃は、苦笑しつつ紫苑の頭を撫でた。

「どうしてだろうね。ママもわからない」

 わからない、としか言えなかった。あの男のことは何も知らない。実際、西野昭夫にもそれとなく聞いてみたことがある。しかし、西野は言葉を濁すばかりだ。ペドロについては、あまり多くを語りたくないらしい。
 そんなことを考えていると、コトラがぱっと顔を上げる。起き上がったかと思うと、すぐに草むらへと隠れてしまった。
 紫苑はこちらを向き、ニッコリ笑う。

「西野さんが来たんだね」

 ・・・

 西野昭夫は、車を走らせていた。もうじき、真壁親子の姿が見えてくるだろう。
 今日、ペドロは隣に座っていない。昨日、ちょっと出かけることにした、という一言を残し消えてしまったのだ。
 あの男は、いればいたで厄介だ。同じ部屋にいるだけで、意味もなく緊張する。何をしでかすか、全く想像もつかない。
 しかし、いなければいないで気になる。何をしているのか、気になって仕方ない。
 そんな状態なので、今の昭夫はひどく落ち着かない態度であった。

「どうも。何か変わったことはないですか?」

 顔を出して尋ねている今も、無理に作り笑いを浮かべているのが見え見えである。

「うん、特にないよ」

 幸乃が答えた時、紫苑が口を挟んできた。

「ペドロさんは何してるの?」

「えっ?」

 困惑する昭夫に向かい、紫苑はさらに言葉を続ける。

「あの人、ここに住むんでしょ? また、一緒に遊びたい」

「う、うん。あの人は、今日ちょっと忙しいみたいなんだ」

 そう答えるしかなかった。すると、紫苑は首を傾げる。

「忙しいって、何してるの?」

「えっ? まあ、いろいろあるんだよ」

 いろいろあるんだよ、と言ってはいるが、実際のところ昭夫の方が聞きたかった。あの危険人物は、どこで何をしているのだろうか。

「大人って、忙しいんだね」

 紫苑は、本当に残念そうだ。この少女は、ペドロが大好きなのだろう。



 本当に不思議な男だ。
 昭夫は、ペドロが危険人物であることを知っている。さらに、恩人とも言える高木和馬を殺されてもいるのだ。本来なら、憎むべき仇である。
 にもかかわらず、昭夫はあの男を憎むことが出来なかった。それどころか、ペドロのことを知れば知るほど、強く惹かれていくのを感じている。圧倒的な腕力もさることながら、あの男が昭夫の目の前でおこなってみせた奇跡のごときわざ。あれは、本当に衝撃的であった。あんなことの出来る人間が、この世に存在するとは。
 あの業に衝撃を受けたのは、自分だけではない。佐倉健太の父・広志などは、こんなことを言っていたのだ。

「いやあ、あんな人がいるとはね。俺さ、超能力だの霊能者だの、今まで一切信じないって決めてたんだ。でも、ペドロさんのああいうのを間近で見ちまうと、信じざるを得ないよね」

 広志は、妻の京香キョウカとともに、息子を治す方法はないのかと様々な場所を回った。回った中には、高名な霊能者もいる。わらにもすがる思いで頼ったのだが、霊能者でも健太の中に存在する「兄」を消し去ることは出来なかった。
 佐倉家が最後に選んだのが、この御光村である。ここは、健太のイマジナリーフレンドを否定しない。それどころか、高木和馬と西野昭夫は大自然の中で、健太の「兄」とともに生きる道を模索しようとしてくれる。
 ならば、御手洗村で健太の「兄」と共に生きよう……夫婦は、そう決心したのだ。
 そんな一家に、ペドロは強烈なインパクトを与えた。いや、佐倉家だけではない。あの男がこの村に来てから、一週間も経っていない。にもかかわらず、今や村のカリスマのような存在である。まあ、カリスマとは言っても、全部で十人ほどの小さなコミュニティだが。
 ふと、おかしな考えが浮かんだ。イエス・キリストの使徒は、最初は十二人だったらしい。そんな小さなコミュニティから、全世界規模の宗教が出来上がった──
 昭夫は、思わず苦笑した。かぶりを振る。あまりにバカバカしい。ありえない。あの男は人殺しなのだ。恐らくは、これまで数々の犯罪に手を染めてきた人間。神と言うよりは、悪魔に近い。
 その時、また別の考えが浮かんだ。かつて日本で毒ガスによるテロを企てたカルト教団も、最初は数人によるサークル的なものだったと聞く。明るく楽しいヨガ教室、のようなものだったらしい。だが、後に日本転覆を目論む大規模なテロ集団となった。
 あの怪物の狙いが、御手洗村を己の意のままになるカルト集団に変えることだったとしたら? ペドロなら、その程度は可能なのではないか──
 またしても苦笑した。自分は、いったい何を考えているのだろう。さっきから、バカげた考えばかりが浮かぶ。どうかしている。
 それでも、頭から離れないものがある。本当の意味で弱者を救えるのは……自分のような無力な善人ではなく、ペドロのような善も悪も超越した圧倒的な力を持つ怪物なのかもしれない。

 

 



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