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彼女の運命
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昭夫は今まで、村の住人についてのデータはほぼ把握できていると思っていた。どこに誰が住んでいて、その人間はこんな問題を抱えているか、それさえ知っていればいい。
確かに、御手洗村で平穏に生活するだけなら、他の情報は必要ないだろう。しかし、人生には想定外の事態がつきものだ。その時には、人間の隠されていた一面が出ることもある。
そんな当たり前の事実を、今日になって思い知ることとなった。
午前十時、昭夫とペドロを乗せた車は、岡田家へと向かっていた。
この岡田家の構成は、父の雄一と母の文江、そして娘の結菜の三人だ。
雄一は、木造一軒家の自宅周辺で様々な野菜を作っている。とはいっても、ちょっと規模の大きなガーデニング程度のものだ。娘の結菜と共に、種を蒔いたり水をあげたり雑草を刈ったりしている姿を何度か見ている。いずれは、小型の家畜も飼ってみたいと語っていた。
そんな家族の家に、ふたりは向かっていた。十メートルほど手前にて車を停め、家までの道を歩いていく。
すると、待っていたかのように三人が出てきた。全員、ジャージ姿だ。母と娘は、手を繋いでいる。どちらも身長百五十センチ強だが、娘の方がぐっとスレンダーである。あどけない表情で、ニコニコしながら歩いている。
父は、そんなふたりに優しい目を向けつつ歩いていた。平和そのものの雰囲気だ。
だが、その雰囲気は一瞬で変わる。距離が縮まり、向こうにも昭夫の隣にいる者の人相が見えてきた。その途端、雄一が顔を歪める。目つきが変わり、ピタッと立ち止まった。明らかに、普段とは違う様子だ。
昭夫は、思わず首を捻る。この岡田雄一という男は、常に笑顔を絶やさないタイプの男だ。人を見ただけで、露骨に顔を歪めたりしない。スキンヘッドに恰幅のいい体だが、強面ではない。目は細く、口角は常に上がっている。同じスキンヘッドでも、反社会的勢力とは真逆である。袈裟を着て説法する方が似合っているだろう。
そんな男が、今は敵と出会った兵士のごとき表情になっているのだ──
昭夫が唖然となっている間にも、状況は変化していた。雄一は、妻に向かい鋭く声を発した。何と言ったか、はっきりとは聞こえなかったが、文江は理解したようだ。こくんと頷き、結菜を抱きしめた状態でじりじり下がっていく。
結菜はといえば、何が起きたかわからないらしい。きょとんとした顔で、されるがままになっていた。
ついで、雄一はポケットに片方の手を突っ込んだ。中で何かを握っているらしく膨らんでいる。
その体勢で、ペドロを睨みつけた。いや、睨んでいるという表現は生温いだろう。それ以上近づいたら殺す、と目で語っているのだ──
昭夫は、目の前で何が起きているのかわからなかった。
この岡田雄一、かつては従業員数人の有限会社『岡田工業所』の代表取締役だったと聞いている。建築関係の下請らしい。
しかし、不況により仕事が激減した。追い討ちをかけるように、娘が奇怪な事件の被害者となってしまう。結菜のために何もかも捨てて御手洗村に移り住んできた、そんな人物である。性格は極めて温厚で優しく、声を荒げた姿など一度も見たことがない。年下の昭夫に対しても、礼儀正しく接している。これまでに、武勇伝めいた話を口にしたことなど一度もなかった。
そんな温厚な人間が、今は仁王のごとき形相でペドロの前に立っているのだ。
唖然となり言葉が出ない昭夫を尻目に、ペドロの方も動き出す。まず、雄一に向かいペこりと頭を下げた。
「俺の名はペドロ。この御手洗村にしばらく厄介になるつもりだ。こちらには、自己紹介がてらお邪魔した。もちろん敵意はない。不必要な緊張をそちらに与えているようだから、すぐに立ち去ることにするよ。ところで、あなたは以前、俺と似たような業種にかかわっていたようだね」
そう言って、にやりと笑う。だが雄一は、警戒を解こうとはしない。ちらりと昭夫に視線を移す。本当か、とその目は聞いている。普段とはまるで違う、殺気に満ちた表情だ。昭夫は、弾かれたような勢いで喋り出した。
「は、はい! ペドロさんは、先日この村に来た人です! 村の家を、挨拶のため一軒一軒回ってます!」
上擦った声で答える。その口調がおかしかったのか、雄一は苦笑した。ようやく体の緊張が解け、ペこりと頭を下げる。
「いやあ、そうでしたか。てっきり、どこかの怖い人が紛れこんだのかと……すみませんね、小心者なもんで」
申し訳なさそうに言うと、また頭を下げる。その時、昭夫はさらなる異変に気づいた。雄一は、頭と顔に大量の汗をかいていたのだ。ペドロに対する緊張が、そうさせたのだろう。
つまり、雄一は初対面にもかかわらず、ペドロという男の本質を見抜いた──
一方、ペドロは昭夫の方を向いた。
「今の雄一さんの動きを見たかい? 相手を睨みながら、ズボンのポケットに手を突っ込んで膨らませた。この中に凶器を握りしめてるぞ、というハッタリだ。これはね、相手からすると厄介なものだよ。相手のポケットにナイフが入っているか、あるいは拳銃が入っているか、実際に出してみるまでわからないからね。ちなみに今回、雄一さんのポケットには何も入っていない」
言い終えたペドロは、雄一に意味ありげな視線を向けた。雄一は、まいったねえとでも言いたげな表情でポケットから手を出す。
「その通り。あんた凄いな。ところで、ここには何しに来たんです?」
雄一の口調は穏やかなものだったが、その目はまっすぐペドロへと向けられている。昭夫はどきりとした。雄一は、ペドロへの警戒心を完全には解いていないのだ。
「今は言えない。しかし、いずれ君らもわかるよ。俺が、ここに何しに来たか──」
ペドロが語り出した時、突然うえーんという声が響き渡る。声の主は、娘の結菜である。普段は優しい父が、いかつい表情になったことでパニックを起こしたらしい。もっとも、この異様な空気の中で今まで黙っていられたことを褒めるべきだろう。文江が、どうにかなだめようとしている。
結菜は、十代半ばから後半のように見えた。にもかかわらず、この態度はかなり不自然である。顔つきも仕種も、あまりに幼稚だ。今も母に頭を撫でられ、涙を拭かれている。
その理由を、昭夫は知っていた。はっきり言うなら、知りたくない話であった。だが、知らないわけにもいかなかった。
「申し訳ない。我々の来訪により、彼女を混乱させてしまったね。では、また日を改めて」
そういうと、ペドロは軽く会釈した。向きを変えると、すたすた歩き出す。昭夫は、慌てて後を追った。
帰りの車の中、昭夫は恐る恐る聞いてみた。
「あの、岡田雄一さんとは、以前に会ったことがあるのですか?」
会ったことがあるのですか? と聞いているが、実のところ知りたいのは雄一の過去だ。どうやら彼は、かつてペドロと同じ世界にいたらしい。もっとも、ペドロより格下なのは間違いないが。
雄一の口から、そういった類いの話を聞いたことはない。昭夫が知っているのは、岡田工業所の社長だったが不況で仕事がなくなり潰した、ということだけだ。
ひょっとしたら、それすら嘘という可能性も出てくる。
しかし、ペドロの返事はそっけなかった。
「君が何を聞きたいかはわかるが、それは言えないな。今、君がどうしても知らねばならない情報とも思えない。それよりも、俺に話すことがあるのではないかな」
冷たく、有無を言わせぬ口調だ。昭夫は、思わず顔を歪める。確かに、その通りだ。
「すみません。たぶん、あなたには説明の必要はないのでしょうね。でも、一応言っておきます。岡田結菜は、現在二十歳です。しかし、本人は自分を十歳だと思いこんでいます」
そこで言葉を切った。昨日のうちに書いておいた文章を思いだし、心を落ち着かせる。今回の件は、御手洗村にいる者の中でももっとも悲惨なケースだろう。
だからこそ、余計な感情を排除し説明しなくてはならない。
「十歳の時、下校途中だった結菜は、何者かに連れ去られたんです。地元の警察署は、かなりの捜査員を投入し捜索しましたが、発見されることはなかったのです。それから七年後、夜の国道をひとりでフラフラ歩いている女性がいました。通報を受け駆けつけた警官が保護したのが、結菜だったんですよ。発見当時は、かなりひどい状態だったようです。体重が三十キロないくらいまで痩せていました。筋肉量は、同じ年代の女子の半分程度しかなかったそうです。さらに体の至るところに打撲痕や切傷痕がありました。しかも、性交の形跡も多数あったそうです。性器と肛門もひどく傷つけられており……」
そこまでが限界だった。昭夫は急ブレーキをかけ、車を停める。直後、喚きながらハンドルを叩いた。さらに、もう一度。凄まじい形相で荒い息を吐きながら、前方を睨みつける。その目からは、涙が溢れていた。
怒り、苦しみ、悲しみ、己の無力さ……様々な負の感情が、語っているうちに心の奥底から湧いて出てきたのだ。岡田一家と毎日のように顔を合わせ、じかに触れ合っているからこそ、口には出さない思いも伝わってくるのだ。出来ることなら、この犯人を探し出して報いを受けさせたい。
その時、何かがそっと肩に触れる。ペドロの手だった。
「君は、相手に感情移入しすぎるところがあるな。はっきり言うが、この仕事を続けていく上ではマイナスだ。感情をコントロールする術を身につけないと、いつか破滅するよ」
静かな口調だったが、刃物よりも鋭く昭夫の心をえぐる。
「それは、どういう意味ですか!?」
気がつくと、怒鳴るような口調で問うていた。だが、ペドロはすました表情だ。
「まあ落ち着きたまえ。言葉の通りさ。それよりも、話の続きを頼む」
相変わらずのクールさである。この男には、人の感情があるのだろうか。そもそも、共感するということが出来るのだろうか。
腹の立つ話だが、今はペドロの言うことが正しい。出かかった言葉を飲み込み、話を再開する。
「医師によれば、妊娠と中絶らしき痕もあったそうです。当然、警察は結菜から証言をとろうと躍起になったのですが、無駄でした。なにせ、結菜は自分がまだ十歳だと思いこんでいます。事件の記憶は、頭からすっぽり抜けているんですよ。あんな事件はなかった、自分はまだ十歳だ……そう思い込むことで、かろうじて精神を守っているのかもしれない。また、そういう状態だったから、犯人も解放したのかもしれないです。解放されてから三年が経ちましたが、結菜は今も自分を十歳だと思い込んでいるんですよ」
気持ちを押さえ、出来るだけ冷静に語ったつもりだった。それでも、感情の動きは止められない。
岡田結菜の話は、ここで終わりでもよかったはずだった。だが、感情のうねりが彼に話を続けさせた。
「犯人は、十歳の少女を誘拐しました。どこかに彼女を監禁し、毎日殴る蹴るの暴行を加え支配し、数えきれないくらいレイプしました。挙げ句に中絶までさせたあと、解放しました。いや、路上に放置したという方が正確でしょう。僕は、この犯人が本物の悪魔だったと聞かされても驚きません。こんな極悪非道な人間が、今もどこかでのうのうと生きているんですよ。本当に理不尽な話です。この世の動きの全てを司るのが神だとして、結菜の件もまた神の決めたことだと言うなら、僕は犯人と一緒に神も殺してやりたいですよ」
一気に喋り終えると、昭夫は荒い息を吐いた。今語ったのは全て、常日頃から胸のうちに溜まっていたものだ。岡田結菜と接するたびに感じていたことである。
だが、それは誰にも言ってはいけないことだった。村の住人は、お互いの顔と名前くらいしか知らない。自分ひとりの判断で、特定の住人の過去の傷を、他の人に話していいのか? という思いがあった。全ての事情を知っている高木にすら、語ったことはなかった。
それを今、ペドロという名の怪物のごとき男にぶつけた。この男なら、この気持ちに対する答えをくれるかもしれない……そんな願いが、心のどこかにあったのだろう。
だが、ペドロの口から出たのは違うものだった。
「気をつけたまえ。君は今、殺してやりたいと口にした。普段の君なら、口にしなかったタイプの言葉のはずだ。人間が闇を覗く時、知らぬ間に自身の心も徐々に蝕まれているんだよ。些細なことと思うかもしれないが、人間は些細なことがきっかけで少しずつ変わっていく。まして、ここは闇を抱えた人間が多い」
完全に意表を突かれ、昭夫は下を向いた。今のペドロの言葉には、何も言い返せない。確かに、殺してやりたい、などと軽々しく口にするのは、品行方正なタイプではないだろう。
結菜を襲った事件に対する怒りが、自分の思考や言動をあちら側へ寄せていたのか。
「俺はさっき、君は感情移入しすぎるところがあるといった。今のやり取りにも、それが表れている。だがね、感情的になったところで何も解決しないんだよ。岡田結菜に同情し家族と一緒に泣いても、何も解決しない。事件の犯人に真剣に怒ったところで、これまた何もならない。君がすべきは、冷静な状態で話を聞くことだ」
「一緒に泣いて、一緒に怒っちゃいけないんですか?」
搾り出すような声が出た。ペドロの言うことは正しい。間違っているのは、自分の方だろう。頭ではわかっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
「僕は、少しでも彼らの怒りや悲しみをわかってあげたいんです。同じ気持ちを味わいたいんです。それは、間違っていますか?」
「正解も間違いも、今この時点では断言できないよ。それに、俺が何を言おうが、君は自分のやり方を曲げないだろう。君は、自分の信じる方向に進めばいい。俺はただ、忠告するだけさ」
確かに、御手洗村で平穏に生活するだけなら、他の情報は必要ないだろう。しかし、人生には想定外の事態がつきものだ。その時には、人間の隠されていた一面が出ることもある。
そんな当たり前の事実を、今日になって思い知ることとなった。
午前十時、昭夫とペドロを乗せた車は、岡田家へと向かっていた。
この岡田家の構成は、父の雄一と母の文江、そして娘の結菜の三人だ。
雄一は、木造一軒家の自宅周辺で様々な野菜を作っている。とはいっても、ちょっと規模の大きなガーデニング程度のものだ。娘の結菜と共に、種を蒔いたり水をあげたり雑草を刈ったりしている姿を何度か見ている。いずれは、小型の家畜も飼ってみたいと語っていた。
そんな家族の家に、ふたりは向かっていた。十メートルほど手前にて車を停め、家までの道を歩いていく。
すると、待っていたかのように三人が出てきた。全員、ジャージ姿だ。母と娘は、手を繋いでいる。どちらも身長百五十センチ強だが、娘の方がぐっとスレンダーである。あどけない表情で、ニコニコしながら歩いている。
父は、そんなふたりに優しい目を向けつつ歩いていた。平和そのものの雰囲気だ。
だが、その雰囲気は一瞬で変わる。距離が縮まり、向こうにも昭夫の隣にいる者の人相が見えてきた。その途端、雄一が顔を歪める。目つきが変わり、ピタッと立ち止まった。明らかに、普段とは違う様子だ。
昭夫は、思わず首を捻る。この岡田雄一という男は、常に笑顔を絶やさないタイプの男だ。人を見ただけで、露骨に顔を歪めたりしない。スキンヘッドに恰幅のいい体だが、強面ではない。目は細く、口角は常に上がっている。同じスキンヘッドでも、反社会的勢力とは真逆である。袈裟を着て説法する方が似合っているだろう。
そんな男が、今は敵と出会った兵士のごとき表情になっているのだ──
昭夫が唖然となっている間にも、状況は変化していた。雄一は、妻に向かい鋭く声を発した。何と言ったか、はっきりとは聞こえなかったが、文江は理解したようだ。こくんと頷き、結菜を抱きしめた状態でじりじり下がっていく。
結菜はといえば、何が起きたかわからないらしい。きょとんとした顔で、されるがままになっていた。
ついで、雄一はポケットに片方の手を突っ込んだ。中で何かを握っているらしく膨らんでいる。
その体勢で、ペドロを睨みつけた。いや、睨んでいるという表現は生温いだろう。それ以上近づいたら殺す、と目で語っているのだ──
昭夫は、目の前で何が起きているのかわからなかった。
この岡田雄一、かつては従業員数人の有限会社『岡田工業所』の代表取締役だったと聞いている。建築関係の下請らしい。
しかし、不況により仕事が激減した。追い討ちをかけるように、娘が奇怪な事件の被害者となってしまう。結菜のために何もかも捨てて御手洗村に移り住んできた、そんな人物である。性格は極めて温厚で優しく、声を荒げた姿など一度も見たことがない。年下の昭夫に対しても、礼儀正しく接している。これまでに、武勇伝めいた話を口にしたことなど一度もなかった。
そんな温厚な人間が、今は仁王のごとき形相でペドロの前に立っているのだ。
唖然となり言葉が出ない昭夫を尻目に、ペドロの方も動き出す。まず、雄一に向かいペこりと頭を下げた。
「俺の名はペドロ。この御手洗村にしばらく厄介になるつもりだ。こちらには、自己紹介がてらお邪魔した。もちろん敵意はない。不必要な緊張をそちらに与えているようだから、すぐに立ち去ることにするよ。ところで、あなたは以前、俺と似たような業種にかかわっていたようだね」
そう言って、にやりと笑う。だが雄一は、警戒を解こうとはしない。ちらりと昭夫に視線を移す。本当か、とその目は聞いている。普段とはまるで違う、殺気に満ちた表情だ。昭夫は、弾かれたような勢いで喋り出した。
「は、はい! ペドロさんは、先日この村に来た人です! 村の家を、挨拶のため一軒一軒回ってます!」
上擦った声で答える。その口調がおかしかったのか、雄一は苦笑した。ようやく体の緊張が解け、ペこりと頭を下げる。
「いやあ、そうでしたか。てっきり、どこかの怖い人が紛れこんだのかと……すみませんね、小心者なもんで」
申し訳なさそうに言うと、また頭を下げる。その時、昭夫はさらなる異変に気づいた。雄一は、頭と顔に大量の汗をかいていたのだ。ペドロに対する緊張が、そうさせたのだろう。
つまり、雄一は初対面にもかかわらず、ペドロという男の本質を見抜いた──
一方、ペドロは昭夫の方を向いた。
「今の雄一さんの動きを見たかい? 相手を睨みながら、ズボンのポケットに手を突っ込んで膨らませた。この中に凶器を握りしめてるぞ、というハッタリだ。これはね、相手からすると厄介なものだよ。相手のポケットにナイフが入っているか、あるいは拳銃が入っているか、実際に出してみるまでわからないからね。ちなみに今回、雄一さんのポケットには何も入っていない」
言い終えたペドロは、雄一に意味ありげな視線を向けた。雄一は、まいったねえとでも言いたげな表情でポケットから手を出す。
「その通り。あんた凄いな。ところで、ここには何しに来たんです?」
雄一の口調は穏やかなものだったが、その目はまっすぐペドロへと向けられている。昭夫はどきりとした。雄一は、ペドロへの警戒心を完全には解いていないのだ。
「今は言えない。しかし、いずれ君らもわかるよ。俺が、ここに何しに来たか──」
ペドロが語り出した時、突然うえーんという声が響き渡る。声の主は、娘の結菜である。普段は優しい父が、いかつい表情になったことでパニックを起こしたらしい。もっとも、この異様な空気の中で今まで黙っていられたことを褒めるべきだろう。文江が、どうにかなだめようとしている。
結菜は、十代半ばから後半のように見えた。にもかかわらず、この態度はかなり不自然である。顔つきも仕種も、あまりに幼稚だ。今も母に頭を撫でられ、涙を拭かれている。
その理由を、昭夫は知っていた。はっきり言うなら、知りたくない話であった。だが、知らないわけにもいかなかった。
「申し訳ない。我々の来訪により、彼女を混乱させてしまったね。では、また日を改めて」
そういうと、ペドロは軽く会釈した。向きを変えると、すたすた歩き出す。昭夫は、慌てて後を追った。
帰りの車の中、昭夫は恐る恐る聞いてみた。
「あの、岡田雄一さんとは、以前に会ったことがあるのですか?」
会ったことがあるのですか? と聞いているが、実のところ知りたいのは雄一の過去だ。どうやら彼は、かつてペドロと同じ世界にいたらしい。もっとも、ペドロより格下なのは間違いないが。
雄一の口から、そういった類いの話を聞いたことはない。昭夫が知っているのは、岡田工業所の社長だったが不況で仕事がなくなり潰した、ということだけだ。
ひょっとしたら、それすら嘘という可能性も出てくる。
しかし、ペドロの返事はそっけなかった。
「君が何を聞きたいかはわかるが、それは言えないな。今、君がどうしても知らねばならない情報とも思えない。それよりも、俺に話すことがあるのではないかな」
冷たく、有無を言わせぬ口調だ。昭夫は、思わず顔を歪める。確かに、その通りだ。
「すみません。たぶん、あなたには説明の必要はないのでしょうね。でも、一応言っておきます。岡田結菜は、現在二十歳です。しかし、本人は自分を十歳だと思いこんでいます」
そこで言葉を切った。昨日のうちに書いておいた文章を思いだし、心を落ち着かせる。今回の件は、御手洗村にいる者の中でももっとも悲惨なケースだろう。
だからこそ、余計な感情を排除し説明しなくてはならない。
「十歳の時、下校途中だった結菜は、何者かに連れ去られたんです。地元の警察署は、かなりの捜査員を投入し捜索しましたが、発見されることはなかったのです。それから七年後、夜の国道をひとりでフラフラ歩いている女性がいました。通報を受け駆けつけた警官が保護したのが、結菜だったんですよ。発見当時は、かなりひどい状態だったようです。体重が三十キロないくらいまで痩せていました。筋肉量は、同じ年代の女子の半分程度しかなかったそうです。さらに体の至るところに打撲痕や切傷痕がありました。しかも、性交の形跡も多数あったそうです。性器と肛門もひどく傷つけられており……」
そこまでが限界だった。昭夫は急ブレーキをかけ、車を停める。直後、喚きながらハンドルを叩いた。さらに、もう一度。凄まじい形相で荒い息を吐きながら、前方を睨みつける。その目からは、涙が溢れていた。
怒り、苦しみ、悲しみ、己の無力さ……様々な負の感情が、語っているうちに心の奥底から湧いて出てきたのだ。岡田一家と毎日のように顔を合わせ、じかに触れ合っているからこそ、口には出さない思いも伝わってくるのだ。出来ることなら、この犯人を探し出して報いを受けさせたい。
その時、何かがそっと肩に触れる。ペドロの手だった。
「君は、相手に感情移入しすぎるところがあるな。はっきり言うが、この仕事を続けていく上ではマイナスだ。感情をコントロールする術を身につけないと、いつか破滅するよ」
静かな口調だったが、刃物よりも鋭く昭夫の心をえぐる。
「それは、どういう意味ですか!?」
気がつくと、怒鳴るような口調で問うていた。だが、ペドロはすました表情だ。
「まあ落ち着きたまえ。言葉の通りさ。それよりも、話の続きを頼む」
相変わらずのクールさである。この男には、人の感情があるのだろうか。そもそも、共感するということが出来るのだろうか。
腹の立つ話だが、今はペドロの言うことが正しい。出かかった言葉を飲み込み、話を再開する。
「医師によれば、妊娠と中絶らしき痕もあったそうです。当然、警察は結菜から証言をとろうと躍起になったのですが、無駄でした。なにせ、結菜は自分がまだ十歳だと思いこんでいます。事件の記憶は、頭からすっぽり抜けているんですよ。あんな事件はなかった、自分はまだ十歳だ……そう思い込むことで、かろうじて精神を守っているのかもしれない。また、そういう状態だったから、犯人も解放したのかもしれないです。解放されてから三年が経ちましたが、結菜は今も自分を十歳だと思い込んでいるんですよ」
気持ちを押さえ、出来るだけ冷静に語ったつもりだった。それでも、感情の動きは止められない。
岡田結菜の話は、ここで終わりでもよかったはずだった。だが、感情のうねりが彼に話を続けさせた。
「犯人は、十歳の少女を誘拐しました。どこかに彼女を監禁し、毎日殴る蹴るの暴行を加え支配し、数えきれないくらいレイプしました。挙げ句に中絶までさせたあと、解放しました。いや、路上に放置したという方が正確でしょう。僕は、この犯人が本物の悪魔だったと聞かされても驚きません。こんな極悪非道な人間が、今もどこかでのうのうと生きているんですよ。本当に理不尽な話です。この世の動きの全てを司るのが神だとして、結菜の件もまた神の決めたことだと言うなら、僕は犯人と一緒に神も殺してやりたいですよ」
一気に喋り終えると、昭夫は荒い息を吐いた。今語ったのは全て、常日頃から胸のうちに溜まっていたものだ。岡田結菜と接するたびに感じていたことである。
だが、それは誰にも言ってはいけないことだった。村の住人は、お互いの顔と名前くらいしか知らない。自分ひとりの判断で、特定の住人の過去の傷を、他の人に話していいのか? という思いがあった。全ての事情を知っている高木にすら、語ったことはなかった。
それを今、ペドロという名の怪物のごとき男にぶつけた。この男なら、この気持ちに対する答えをくれるかもしれない……そんな願いが、心のどこかにあったのだろう。
だが、ペドロの口から出たのは違うものだった。
「気をつけたまえ。君は今、殺してやりたいと口にした。普段の君なら、口にしなかったタイプの言葉のはずだ。人間が闇を覗く時、知らぬ間に自身の心も徐々に蝕まれているんだよ。些細なことと思うかもしれないが、人間は些細なことがきっかけで少しずつ変わっていく。まして、ここは闇を抱えた人間が多い」
完全に意表を突かれ、昭夫は下を向いた。今のペドロの言葉には、何も言い返せない。確かに、殺してやりたい、などと軽々しく口にするのは、品行方正なタイプではないだろう。
結菜を襲った事件に対する怒りが、自分の思考や言動をあちら側へ寄せていたのか。
「俺はさっき、君は感情移入しすぎるところがあるといった。今のやり取りにも、それが表れている。だがね、感情的になったところで何も解決しないんだよ。岡田結菜に同情し家族と一緒に泣いても、何も解決しない。事件の犯人に真剣に怒ったところで、これまた何もならない。君がすべきは、冷静な状態で話を聞くことだ」
「一緒に泣いて、一緒に怒っちゃいけないんですか?」
搾り出すような声が出た。ペドロの言うことは正しい。間違っているのは、自分の方だろう。頭ではわかっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
「僕は、少しでも彼らの怒りや悲しみをわかってあげたいんです。同じ気持ちを味わいたいんです。それは、間違っていますか?」
「正解も間違いも、今この時点では断言できないよ。それに、俺が何を言おうが、君は自分のやり方を曲げないだろう。君は、自分の信じる方向に進めばいい。俺はただ、忠告するだけさ」
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近々公演予定の舞台で、さくらが主役を務めることが決まっていた。事件をきっかけに、劇団員たちの間に不安が広がり始め、互いに疑心暗鬼に陥り、絆に亀裂が入る。公演中止、解散寸前の状態に。
連と警察は、劇団員の動向に注目しながらも、それら以外の害者周辺の情報を集める中、さくらの両親が交通事故に遭って亡くなっていたという情報を入手する。今回の事件との関連性は薄いと感じながらも取材や捜査は進められた。
死後の世界が科学的に証明された世界で。
智恵 理侘
ミステリー
二〇二五年九月七日。日本の研究者・橘紀之氏により、死後の世界――天国が科学的に証明された。
天国と繋がる事のできる装置――天国交信装置が発表されたのだ。その装置は世界中に広がりを見せた。
天国交信装置は天国と繋がった時点で、言葉に出来ないほどの開放感と快感を得られ、天国にいる者達との会話も可能である。亡くなった親しい友人や家族を呼ぶ者もいれば、中には過去の偉人を呼び出したり、宗教で名立たる者を呼んで話を聞いた者もいたもののいずれも彼らはその後に、自殺している。
世界中で自殺という死の連鎖が広がりつつあった。各国の政府は早々に動き出し、天国教団と名乗る団体との衝突も見られた。
この事件は天国事件と呼ばれ、その日から世界での最も多い死因は自殺となった。
そんな中、日本では特務という天国関連について担当する組織が実に早い段階で結成された。
事件から四年後、特務に所属する多比良圭介は部下と共にとある集団自殺事件の現場へと出向いた。
その現場で『heaven』という文字を発見し、天国交信装置にも同じ文字が書かれていた事から、彼は平輪市で何かが起きる気配を感じる。
すると現場の近くでは不審人物が保護されたとの報告がされる。その人物は、天国事件以降、否定される存在となった霊能力者であった。彼女曰く、集団自殺事件がこの近くで起こり、その幽霊が見えるという――
幽子さんの謎解きレポート~しんいち君と霊感少女幽子さんの実話を元にした本格心霊ミステリー~
しんいち
ミステリー
オカルトに魅了された主人公、しんいち君は、ある日、霊感を持つ少女「幽子」と出会う。彼女は不思議な力を持ち、様々な霊的な現象を感じ取ることができる。しんいち君は、幽子から依頼を受け、彼女の力を借りて数々のミステリアスな事件に挑むことになる。
彼らは、失われた魂の行方を追い、過去の悲劇に隠された真実を解き明かす旅に出る。幽子の霊感としんいち君の好奇心が交錯する中、彼らは次第に深い絆を築いていく。しかし、彼らの前には、恐ろしい霊や謎めいた存在が立ちはだかり、真実を知ることがどれほど危険であるかを思い知らされる。
果たして、しんいち君と幽子は、数々の試練を乗り越え、真実に辿り着くことができるのか?彼らの冒険は、オカルトの世界の奥深さと人間の心の闇を描き出す、ミステリアスな物語である。
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