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母娘の日常と、奇妙な事件
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幼い少女と母親が、昼の田舎道を歩いている。
少女は髪を肩まで伸ばしており、オーバーオール姿である。目は大きく、好奇心旺盛な雰囲気だ。隣にいる母親の手を握り、のんびりと歩いていた。
娘は、慎重に一歩ずつ進んでいる。その歩む速度はとても遅い。一歩進むのに、一秒以上かかっているだろう。年齢を考慮しても、遅すぎる歩みである。
母親もまた、娘に速度を合わせゆっくり歩いている。背は女性にしては高く、百七十センチ近いだろう。Tシャツにデニムパンツといういでたちで、髪は短めだ。背中には、大きめのリュックを背負っている。娘を見下ろす顔には、優しい表情が浮かんでいた。急かす様子もなく、のんびりと進んでいる。
ふたりの周囲に、人工的な建造物はひとつもない。土に覆われた道がずっと伸びており、道の両脇には木が生い茂っている。辺りは、静寂に包まれていた。風で、木の枝が揺れる音が聞こえるくらい静かである。
母親は歩きながら、ふと空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっている。思えば、都会にいた時は、こうして空を見ることもなかった。いつも誰かしらに急かされ、時間に追われていた気がする。娘を連れてのんびり歩くことなど、考えられなかった。
かといって、田舎は田舎で住みにくかった。近所の人の異様なまでの図々しさには、ついていけないものを感じる。また、偏見や迷信も根強い。中には、娘の病は狐の仕業だからお祓いをしろ……などと、真顔で言ってくる者までいた始末だ。
スマホも通じない不便な場所ではある。しかし、ここに来て本当によかったと思っている。あと願うことがあるとすれば、一日だけ娘より長生きさせて欲しい……ただ、それだけだ。
やがて、親子は目的地に辿り着いた。
ふたりの目の前には、小さな神社がある。そもそも、神社と呼べるものなのかも怪しい。林の中に、小さなお堂がぽつんと建てられているだけだ。神主のような者はおらず、村の者がたまに掃除をしにくるだけのようである。
しかし、親子にとっては大切な場所だ。ふたりで、パンパンと手を打って頭を垂れる。
その後、大きなレジャーシートを敷いて座る。さらに母親は、背負っていたリュックからお弁当と水筒を出した。この神社で、ふたりして昼御飯を食べる……それが、親子の日課であった。
すると、待ち構えていたかのように草むらから顔を出した者がいた。丸い顔をした茶虎柄の猫だ。にゃあと鳴きながら、親子に近づいてくる。
娘は、ニッコリ笑った。
「コトラちゃん、おはよう」
言いながら、手を伸ばす。猫はトコトコ近づいてきて、少女の手に頬を擦り付けた。
この猫、神社を縄張りとする野良……のはずなのだが、妙に人懐こい。野良猫にしては丸々とよく太っており、丸い顔は愛嬌がある。コトラという名前は少女が付けた。小さい虎、という意味らしい。
コトラは今も、その可愛らしさを存分に発揮している。少女の前に来たかと思うと、こてんと寝そべった。仰向けになり、肉付きのいい腹を見せつけている。その姿に、母親は思わず笑みを浮かべた。
そのぷっくらしたお腹に、少女は手を伸ばす。ぎこちない動きで触れ、そっと撫でた。コトラには抵抗する気配がなく、されるがままになっている。
だが、その態度は一変した。急に顔を上げたかと思うと、パッと起き上がり草むらに隠れる。
母と娘は、顔を見合わせクスリと笑った。猫が姿を隠した理由は、ふたりともわかっている。
やがて、車のエンジン音が聞こえてきた。音は、どんどん大きくなる。こちらに近づいているのだ。
娘は、ニッコリ微笑む。
「西野さんの車だね」
・・・
西野昭夫は、バンを走らせていく。
やがて、神社が見えてきた。お堂の前で、シートを敷いて座っているふたりの姿も見える。
昭夫は、ふたりのことをよく知っていた。真壁幸乃と、その娘の紫苑である。この親子の住んでいる場所も知っているし、生活サイクルについてもだいたいは把握している。
親子もまた、昭夫のことを知っていた。ニコニコしながら、こちらを見ている。
そんなふたりの前で、昭夫は車を停めた。窓ガラスを開け、軽く会釈する。
「どうも、こんにちは」
声をかけると、紫苑はペこりと頭を下げた。
「こんにちは」
舌足らずな口調で挨拶を返す。幸乃は、娘の頭を撫でつつ口を開く。
「何か連絡でもあるの?」
「いえ、特にありませんよ。今日も、全てが順調です」
「それはよかった」
そう答えた時、コトラが草むらから顔を出した。迷惑そうな様子で、昭夫を見ている。いや、睨んでいるのかもしれない。
昭夫は苦笑した。
「いやあ、僕はこいつに嫌われちゃってるんですよね。早く消えろ、って言ってるみたいですね」
「そんなことないでしょ、コトラ」
幸乃がとりなすように言ったが、コトラはぷいと横を向いた。昭夫を完全に無視し、毛繕いを始める。
「やっぱり嫌われちゃってますね。邪魔者は消えるとします」
そう言うと、昭夫は車を発進させた。
村のあちこちを回り雑事をこなした後、昭夫が最後に寄ったのは高木和馬の家である。もう、夕方になっていた。
高木の家は、木造の平屋だ。ひとり暮らしの老人には、いささか広い住居である。村のあちこちの家を回り、最後にここで報告をするのが昭夫の日常だ。
昭夫は、古い引き戸の前に立った。そっと声をかける。
「高木さん、西野です」
ややあって、戸が開いた。いかつい風貌の男が顔を出す。髪はかなり薄くなっており、目は細い。七十近い年齢のはずだが、未だに背筋は伸びており足腰もしゃんとしていた。額と頬には、長い傷痕がある。目つきや醸し出す雰囲気も尋常ではない。平々凡々な生活を送ってきた人物でないのは、一目でわかるだろう。ジャージ姿なのに、妙な貫禄を感じさせる。
「ご苦労様。何か変わったことはあったか?」
「特にありません。普段通りであったように思われます」
答える昭夫に、高木は深く頷いた。
「そうか。それはよかった。明日も頼むぞ」
帰り道、昭夫はのんびり車を走らせていく。
それはよかった、と高木は言っていた。昭夫の本音は、よかったとは言いきれない。この御手洗村の存在には、少しだけ割り切れないものを感じていた。もちろん、今の仕事に対し熱意は持っている。やり甲斐も感じている。内容にも不満はない。
ただ村人たちと接触した後、これでいいのか? という疑問が湧き上がるのも確かだ。
実のところ、ここは村とは名ばかりである。様々な問題を抱えた者が十人ほど住んでいるだけだ。彼らは皆、生活保護と様々な手当を支給される身分なのである。お互いに深く干渉することなく、適度な距離感を保ち生活していた。互いの普段の生活には口を出さないが、何かトラブルが起きた時には協力する……それが、御手洗村の基本的スタンスだ。ある意味では、守られた環境で暮らしている。
それでいいのだろうか。
守られたまま、現実を知らないままでいいのだろうか──
・・・
その日の夜、品祖駅前の繁華街にて、異様な事件が起きた──
「すまないが、これは計算ミスではないのかな」
ソファーに座った男が、伝票を手に尋ねる。
肌は浅黒く、彫りの深い顔立ちである。百六十センチ強の体に紺色のスーツを着ており、髪は黒い。外国人であるのは間違いないが、その口から出る日本語は完璧なものだ。
「いいえ、ミスはありません。全部、お客さんの飲み代ですよ」
ワイシャツにベストの男が、すました顔で答える。年齢は三十代、身長は高いが痩せていた。顔は青白く、長髪を後ろで結んでいる。一応は笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
そんな男の後ろには、三人の若者が控えている。全員、十代後半から二十代前半だろう。見るからに柄が悪いが、彼らも店員である。
さらに、外国人の両脇には若い女が座っていた。どちらも化粧は濃く、肌もあらわなドレスを着ている。男あしらいにも慣れていそうな雰囲気だ。
「俺の記憶に間違いがないなら、このビールは数百円で買えるもののはずだ。にもかかわらず、一本で十万円とは少々高すぎないかね」
外国人は、落ち着いた様子で語る。店内に漂う危険な空気も、意に介していない。
「これはですね、サービス料金なんですよ。お客さん外国から来たからわからないかも知れませんがね、日本じゃ当たり前のことですよ」
両者のやり取りを聞けば、ここがどんな場所かはわかるだろう。俗にいうぼったくりバーである。客引きの青年が、駅前でカモになりそうな者に声をかける。そして店に連れ込み、酒を飲ませて法外な料金を請求する。断れば、怖いお兄さんたちが出てくる……そんなシステムだ。
この外国人も、駅前で客引きの若者に声をかけられ、そのまま店に来てしまったのである。
ただ、彼らは大きな勘違いをしていた。
「ほう、この店はそんなシステムなのか。となると、店自体が非合法なようだね。それはありがたい話だ」
納得したように、外国人はウンウンと頷く。酒に酔っている雰囲気はないが、この危険な空気を完全に無視している。
男たちは、思わず顔を見合わせた。この外国人は、何を考えているのだろうか。どんなバカでも、ここにいる店員たちがまともな人間でないことくらいわかるだろう。
横にいる女たちも、こいつはちょっと違うぞ……とでもいいたげな表情になっている。ひとりは、持っているバッグからスタンガンを取り出した。さらに、若い店員は警棒を抜き、ビュンと振る。威嚇のつもりだ、
しかし、彼には通じていなかった。
「ところで、ひとつ頼みがある。君たちの車を拝借したいのだが、どうだろうね?」
外国人は、にこやかな表情で語り続ける。すると、警棒を抜いた若者が口を開いた。
「おいおい、とんでもねえバカだな。お前、状況をわかってないらしいな?」
「それがね、だいたいのことはわかっているんだよ。君の身長は百七十センチで体重は六十キロ。幼い頃は父と母に虐待されて育ち、最終学歴は高校中退。趣味はパチンコと覚醒剤」
外国人の言葉は、淀みなくすらすらと出てくる。周りを柄の悪い男たちに囲まれているというのに、リラックスした表情のままだ。
「な、なに言ってんだこいつ……」
むしろ、若者の方が怯んでいた。額からは、冷や汗が流れる。だが、それも仕方ないだろう。
外国人の言ったことは、全て当たっていたからだ──
「そろそろ始めるとするか。これから、御手洗村に行かねばならないのでね」
そう言うと、外国人は立ち上がった。表情は先ほどと変わっていない。呼吸も静かだ。目つきも穏やかなものである。
にもかかわらず、室内の空気は完全に変わっていた。店員たちの醸し出していた危険な空気が、一瞬にして呑まれてしまった。
五分後、外国人は悠然とした態度で店を出ていく。その手には、車のキーが握られていた。
さらに五分ほどした時、ひとりの若者が店へと向かい歩いていく。金髪で中肉中背の軽薄そうな男だ。ワイシャツにベストといういでたちだが、全く様になっていない。
「おい、そろそろ交代だよ……」
言いながら、若者はドアを開ける。この男、店の客引きなのだ。今まで、外でめぼしい相手を物色していた。かの外国人を店に連れて来たのも彼である。
ドアを開けた直後、若者は立ちすくんでいた。想像を絶する光景を前に、口を開けたまま入口で硬直している。
そこは、もはや店と呼べる状態ではなかった。テーブルは真っ二つに割れており、頑丈なはずの椅子も砕けて散らばっている。天井に付いていた派手な照明器具は、床に落とされ原型がわからないほど破壊されている。テーブルの上にあったビール瓶は、綺麗に割られていた。床には、酒瓶の中身とおぼしきものが大量に流れ洪水状態だ。さらに、割れた瓶の欠片も散らばっている。
だが、床に散らばっているのはそれだけではない。従業員だったはずの数人の男女も、酒にまみれ倒れていた。全員、手足が有り得ない状態にある。肘が逆方向に曲がっていたり、爪先が背中の方を向いていたり……重傷を負わされているのは、バカでもわかるだろう。
呆然となっている若者。その時、ひとりの男が呻き声を漏らした。
そこでハッとなる。まずは、何が起きたか聞かなくてはならない。
「あ、兄貴! 大丈夫ですか!?」
我に返った若者は、自身の兄貴分に駆け寄る。すると、男はどうにか顔を上げた。
「あ、が、が、が」
兄貴分は声を出したが、言葉になっていなかった。なぜなら、男の顎関節は外されていたのだ。下顎が伸び、口の開閉が出来ない状態である。
恐怖のあまり、若者はその場にへたり込む。破壊された店内を、もう一度見回した。
「こんなの、人間に出来ることじゃねえだろうが……」
少女は髪を肩まで伸ばしており、オーバーオール姿である。目は大きく、好奇心旺盛な雰囲気だ。隣にいる母親の手を握り、のんびりと歩いていた。
娘は、慎重に一歩ずつ進んでいる。その歩む速度はとても遅い。一歩進むのに、一秒以上かかっているだろう。年齢を考慮しても、遅すぎる歩みである。
母親もまた、娘に速度を合わせゆっくり歩いている。背は女性にしては高く、百七十センチ近いだろう。Tシャツにデニムパンツといういでたちで、髪は短めだ。背中には、大きめのリュックを背負っている。娘を見下ろす顔には、優しい表情が浮かんでいた。急かす様子もなく、のんびりと進んでいる。
ふたりの周囲に、人工的な建造物はひとつもない。土に覆われた道がずっと伸びており、道の両脇には木が生い茂っている。辺りは、静寂に包まれていた。風で、木の枝が揺れる音が聞こえるくらい静かである。
母親は歩きながら、ふと空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっている。思えば、都会にいた時は、こうして空を見ることもなかった。いつも誰かしらに急かされ、時間に追われていた気がする。娘を連れてのんびり歩くことなど、考えられなかった。
かといって、田舎は田舎で住みにくかった。近所の人の異様なまでの図々しさには、ついていけないものを感じる。また、偏見や迷信も根強い。中には、娘の病は狐の仕業だからお祓いをしろ……などと、真顔で言ってくる者までいた始末だ。
スマホも通じない不便な場所ではある。しかし、ここに来て本当によかったと思っている。あと願うことがあるとすれば、一日だけ娘より長生きさせて欲しい……ただ、それだけだ。
やがて、親子は目的地に辿り着いた。
ふたりの目の前には、小さな神社がある。そもそも、神社と呼べるものなのかも怪しい。林の中に、小さなお堂がぽつんと建てられているだけだ。神主のような者はおらず、村の者がたまに掃除をしにくるだけのようである。
しかし、親子にとっては大切な場所だ。ふたりで、パンパンと手を打って頭を垂れる。
その後、大きなレジャーシートを敷いて座る。さらに母親は、背負っていたリュックからお弁当と水筒を出した。この神社で、ふたりして昼御飯を食べる……それが、親子の日課であった。
すると、待ち構えていたかのように草むらから顔を出した者がいた。丸い顔をした茶虎柄の猫だ。にゃあと鳴きながら、親子に近づいてくる。
娘は、ニッコリ笑った。
「コトラちゃん、おはよう」
言いながら、手を伸ばす。猫はトコトコ近づいてきて、少女の手に頬を擦り付けた。
この猫、神社を縄張りとする野良……のはずなのだが、妙に人懐こい。野良猫にしては丸々とよく太っており、丸い顔は愛嬌がある。コトラという名前は少女が付けた。小さい虎、という意味らしい。
コトラは今も、その可愛らしさを存分に発揮している。少女の前に来たかと思うと、こてんと寝そべった。仰向けになり、肉付きのいい腹を見せつけている。その姿に、母親は思わず笑みを浮かべた。
そのぷっくらしたお腹に、少女は手を伸ばす。ぎこちない動きで触れ、そっと撫でた。コトラには抵抗する気配がなく、されるがままになっている。
だが、その態度は一変した。急に顔を上げたかと思うと、パッと起き上がり草むらに隠れる。
母と娘は、顔を見合わせクスリと笑った。猫が姿を隠した理由は、ふたりともわかっている。
やがて、車のエンジン音が聞こえてきた。音は、どんどん大きくなる。こちらに近づいているのだ。
娘は、ニッコリ微笑む。
「西野さんの車だね」
・・・
西野昭夫は、バンを走らせていく。
やがて、神社が見えてきた。お堂の前で、シートを敷いて座っているふたりの姿も見える。
昭夫は、ふたりのことをよく知っていた。真壁幸乃と、その娘の紫苑である。この親子の住んでいる場所も知っているし、生活サイクルについてもだいたいは把握している。
親子もまた、昭夫のことを知っていた。ニコニコしながら、こちらを見ている。
そんなふたりの前で、昭夫は車を停めた。窓ガラスを開け、軽く会釈する。
「どうも、こんにちは」
声をかけると、紫苑はペこりと頭を下げた。
「こんにちは」
舌足らずな口調で挨拶を返す。幸乃は、娘の頭を撫でつつ口を開く。
「何か連絡でもあるの?」
「いえ、特にありませんよ。今日も、全てが順調です」
「それはよかった」
そう答えた時、コトラが草むらから顔を出した。迷惑そうな様子で、昭夫を見ている。いや、睨んでいるのかもしれない。
昭夫は苦笑した。
「いやあ、僕はこいつに嫌われちゃってるんですよね。早く消えろ、って言ってるみたいですね」
「そんなことないでしょ、コトラ」
幸乃がとりなすように言ったが、コトラはぷいと横を向いた。昭夫を完全に無視し、毛繕いを始める。
「やっぱり嫌われちゃってますね。邪魔者は消えるとします」
そう言うと、昭夫は車を発進させた。
村のあちこちを回り雑事をこなした後、昭夫が最後に寄ったのは高木和馬の家である。もう、夕方になっていた。
高木の家は、木造の平屋だ。ひとり暮らしの老人には、いささか広い住居である。村のあちこちの家を回り、最後にここで報告をするのが昭夫の日常だ。
昭夫は、古い引き戸の前に立った。そっと声をかける。
「高木さん、西野です」
ややあって、戸が開いた。いかつい風貌の男が顔を出す。髪はかなり薄くなっており、目は細い。七十近い年齢のはずだが、未だに背筋は伸びており足腰もしゃんとしていた。額と頬には、長い傷痕がある。目つきや醸し出す雰囲気も尋常ではない。平々凡々な生活を送ってきた人物でないのは、一目でわかるだろう。ジャージ姿なのに、妙な貫禄を感じさせる。
「ご苦労様。何か変わったことはあったか?」
「特にありません。普段通りであったように思われます」
答える昭夫に、高木は深く頷いた。
「そうか。それはよかった。明日も頼むぞ」
帰り道、昭夫はのんびり車を走らせていく。
それはよかった、と高木は言っていた。昭夫の本音は、よかったとは言いきれない。この御手洗村の存在には、少しだけ割り切れないものを感じていた。もちろん、今の仕事に対し熱意は持っている。やり甲斐も感じている。内容にも不満はない。
ただ村人たちと接触した後、これでいいのか? という疑問が湧き上がるのも確かだ。
実のところ、ここは村とは名ばかりである。様々な問題を抱えた者が十人ほど住んでいるだけだ。彼らは皆、生活保護と様々な手当を支給される身分なのである。お互いに深く干渉することなく、適度な距離感を保ち生活していた。互いの普段の生活には口を出さないが、何かトラブルが起きた時には協力する……それが、御手洗村の基本的スタンスだ。ある意味では、守られた環境で暮らしている。
それでいいのだろうか。
守られたまま、現実を知らないままでいいのだろうか──
・・・
その日の夜、品祖駅前の繁華街にて、異様な事件が起きた──
「すまないが、これは計算ミスではないのかな」
ソファーに座った男が、伝票を手に尋ねる。
肌は浅黒く、彫りの深い顔立ちである。百六十センチ強の体に紺色のスーツを着ており、髪は黒い。外国人であるのは間違いないが、その口から出る日本語は完璧なものだ。
「いいえ、ミスはありません。全部、お客さんの飲み代ですよ」
ワイシャツにベストの男が、すました顔で答える。年齢は三十代、身長は高いが痩せていた。顔は青白く、長髪を後ろで結んでいる。一応は笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
そんな男の後ろには、三人の若者が控えている。全員、十代後半から二十代前半だろう。見るからに柄が悪いが、彼らも店員である。
さらに、外国人の両脇には若い女が座っていた。どちらも化粧は濃く、肌もあらわなドレスを着ている。男あしらいにも慣れていそうな雰囲気だ。
「俺の記憶に間違いがないなら、このビールは数百円で買えるもののはずだ。にもかかわらず、一本で十万円とは少々高すぎないかね」
外国人は、落ち着いた様子で語る。店内に漂う危険な空気も、意に介していない。
「これはですね、サービス料金なんですよ。お客さん外国から来たからわからないかも知れませんがね、日本じゃ当たり前のことですよ」
両者のやり取りを聞けば、ここがどんな場所かはわかるだろう。俗にいうぼったくりバーである。客引きの青年が、駅前でカモになりそうな者に声をかける。そして店に連れ込み、酒を飲ませて法外な料金を請求する。断れば、怖いお兄さんたちが出てくる……そんなシステムだ。
この外国人も、駅前で客引きの若者に声をかけられ、そのまま店に来てしまったのである。
ただ、彼らは大きな勘違いをしていた。
「ほう、この店はそんなシステムなのか。となると、店自体が非合法なようだね。それはありがたい話だ」
納得したように、外国人はウンウンと頷く。酒に酔っている雰囲気はないが、この危険な空気を完全に無視している。
男たちは、思わず顔を見合わせた。この外国人は、何を考えているのだろうか。どんなバカでも、ここにいる店員たちがまともな人間でないことくらいわかるだろう。
横にいる女たちも、こいつはちょっと違うぞ……とでもいいたげな表情になっている。ひとりは、持っているバッグからスタンガンを取り出した。さらに、若い店員は警棒を抜き、ビュンと振る。威嚇のつもりだ、
しかし、彼には通じていなかった。
「ところで、ひとつ頼みがある。君たちの車を拝借したいのだが、どうだろうね?」
外国人は、にこやかな表情で語り続ける。すると、警棒を抜いた若者が口を開いた。
「おいおい、とんでもねえバカだな。お前、状況をわかってないらしいな?」
「それがね、だいたいのことはわかっているんだよ。君の身長は百七十センチで体重は六十キロ。幼い頃は父と母に虐待されて育ち、最終学歴は高校中退。趣味はパチンコと覚醒剤」
外国人の言葉は、淀みなくすらすらと出てくる。周りを柄の悪い男たちに囲まれているというのに、リラックスした表情のままだ。
「な、なに言ってんだこいつ……」
むしろ、若者の方が怯んでいた。額からは、冷や汗が流れる。だが、それも仕方ないだろう。
外国人の言ったことは、全て当たっていたからだ──
「そろそろ始めるとするか。これから、御手洗村に行かねばならないのでね」
そう言うと、外国人は立ち上がった。表情は先ほどと変わっていない。呼吸も静かだ。目つきも穏やかなものである。
にもかかわらず、室内の空気は完全に変わっていた。店員たちの醸し出していた危険な空気が、一瞬にして呑まれてしまった。
五分後、外国人は悠然とした態度で店を出ていく。その手には、車のキーが握られていた。
さらに五分ほどした時、ひとりの若者が店へと向かい歩いていく。金髪で中肉中背の軽薄そうな男だ。ワイシャツにベストといういでたちだが、全く様になっていない。
「おい、そろそろ交代だよ……」
言いながら、若者はドアを開ける。この男、店の客引きなのだ。今まで、外でめぼしい相手を物色していた。かの外国人を店に連れて来たのも彼である。
ドアを開けた直後、若者は立ちすくんでいた。想像を絶する光景を前に、口を開けたまま入口で硬直している。
そこは、もはや店と呼べる状態ではなかった。テーブルは真っ二つに割れており、頑丈なはずの椅子も砕けて散らばっている。天井に付いていた派手な照明器具は、床に落とされ原型がわからないほど破壊されている。テーブルの上にあったビール瓶は、綺麗に割られていた。床には、酒瓶の中身とおぼしきものが大量に流れ洪水状態だ。さらに、割れた瓶の欠片も散らばっている。
だが、床に散らばっているのはそれだけではない。従業員だったはずの数人の男女も、酒にまみれ倒れていた。全員、手足が有り得ない状態にある。肘が逆方向に曲がっていたり、爪先が背中の方を向いていたり……重傷を負わされているのは、バカでもわかるだろう。
呆然となっている若者。その時、ひとりの男が呻き声を漏らした。
そこでハッとなる。まずは、何が起きたか聞かなくてはならない。
「あ、兄貴! 大丈夫ですか!?」
我に返った若者は、自身の兄貴分に駆け寄る。すると、男はどうにか顔を上げた。
「あ、が、が、が」
兄貴分は声を出したが、言葉になっていなかった。なぜなら、男の顎関節は外されていたのだ。下顎が伸び、口の開閉が出来ない状態である。
恐怖のあまり、若者はその場にへたり込む。破壊された店内を、もう一度見回した。
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