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夏帆と栞(1)
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「ああ、あの事件ね。本当に、酷い話だよ。家の中にいきなり脱獄犯が入って来て、旦那さんが殴り殺された挙げ句に、奥さんと子供が人質にされる……こんなのって、あるかい? あたしゃ、世の中が怖くなってきたよ。昔は、こんなわけのわからない犯罪なんか起きなかったんだけどねえ」
上田聡子は、眉間に皺を寄せながら語る。見た目からして、確実に五十歳を過ぎているだろう。小太りの体全体から、話したくて仕方ないというオーラを発していた。ヒョウ柄の服を着て大阪の商店街をうろうろしていても、全く違和感がない。
もっとも、彼女の住所は大阪ではない。松村の家の隣に住んでいる主婦だ。子供は既に独立し、現在は夫と二人だけで暮らしているという。
松村邸の近所に住んでいた者たちの中で、取材に応じてくれたのは上田だけだった。他にも何人か当たってはみたのだが、こちらの意図を知るや無言で電話を切るような者ばかりである。
どうやら、この地域には余所者を拒絶する空気が漂っているらしい。
「本当のこと言うとね、あたしゃ娘がいるなんて知らなかったよ。姿はおろか、声も聞いたことなかったし。あの事件で、初めて知ったからね」
出されたパンケーキを食べながら、上田は喋り続ける。二人がいるのは、駅前のファミリーレストランだ。店内には、他に数人の客がいる。彼ら二人に、注意を払う者はいない。
「えっと……確認ですが、お隣りに住んでいるのに、娘さんの姿を見たことはなかったんですね?」
今川は、思わず身を乗り出して聞いていた。お隣りとは言っても、両者の家は十メートル近く離れている。したがって、都内の下町のようなわけにはいかないだろうが……それでも、子供の姿を見たことがない、というのは妙だ。
「うん。そんな小さな娘さんがいること自体知らなかったよ。あたしゃ、てっきり奥さんと二人暮らしかと思ってたくらいだからね」
これは、予想外の言葉である。今川は、さらに尋ねてみた。
「そうでしたか。となると、夏帆さんと栞ちゃんは、ほとんど外出していなかったんでしょうかね?」
「そうだねえ……さっきも言った通り、娘さんの姿は見たことなかったね。もし、外に出てたら絶対に気づいてたと思うよ。このあたりじゃ、小さな子供は少ないしね」
顔をしかめながら、上田は答える。確かに、このあたりは子供が少ない。というより、住居自体が少ない。全体的に、寂れた雰囲気が漂っている。現在、夏帆が住んでいる白土市よりは人が多い……という程度だ。一流企業のエリートサラリーマンが住む場所として、相応しい地域だとは思えない。
そもそも、広志が勤めている会社は……ここから、車で一時間以上はかかる。電車などの公共の交通機関を使えば、さらに時間がかかるはずだ。まあ、数時間かけてマイホームから会社に通うサラリーマンも珍しくはないが、広志のような男がそこまでする必要があるのだろうか。
広志はなぜ、こんな場所に家を建てたのだろう。土地代の安さゆえか。あるいは、他に何か理由があるのか。
そんなことを思いつつも、今川は話を続ける。
「実は、娘の栞ちゃんは生れつき耳が不自由なんですよ。あと、喋ることもできないみたいで……ですから、なるべく外出させないようにしていたのかもしれませんね」
何気なく放った言葉、のつもりだった。ところが、上田の顔つきがみるみるうちに変わっていったのだ。
「ちょっと待ちなよ。それ、本当かい?」
「はい、間違いないですよ」
今川が答えた途端、上田の目つきはさらに鋭くなる。
「じゃあ……耳が不自由だから、その娘を外に出さなかったってのかい?」
恐ろしい形相で、上田は聞いてきた。今川は面食らいながらも、どうにか答える。
「えっ? いや、それは僕にはわかりませんが──」
「そんなの間違ってるよ! いいかい、どんな子供だって、いつかはひとりで生きていかなきゃならないんだ。外にどんな危険があるか、自分の体で学ばなきゃわからないだろ! 子供には、そういう時期が必要だよ! それとも、一生家に閉じ込めておく気なのかい!?」
上田は、とんでもない剣幕でまくし立てて来る。親の仇に、十年ぶりに遭遇したかのごとき勢いだ。今川は狼狽しながらも、落ち着かせようと両手を前に出した。まあまあまあ、のポーズだ。へらへら笑いながら、何とかなだめようと試みる。
「ちょ、ちょっと待ってください。つい先日のことですが、僕は夏帆さんと栞ちゃんの姿を見かけました。、お二人は、とても楽しそうに外を散歩してましたよ」
「えっ……本当かい?」
今度は、上田が面食らう番だった。今川は苦笑しつつ、言葉を続ける。
「はい、この目ではっきりと見ましたよ。夏帆さんは、栞ちゃんの手をしっかりと握って、楽しそうに外を散歩してました。時おり立ち止まっては、親子で手話を用いて会話したりもしていました。見ていて、思わず微笑んでしまうような光景でしたね。少なくとも、夏帆さんは娘さんを家に閉じ込めておこう……という考えの持ち主ではなかったようですよ」
実際に微笑みながら、今川は語る。
彼の言葉に、上田は黙り込んだ。下を向き、何やら難しい表情を作る。彼女なりに、何か思うところがあるらしい。
今川は無言で、その様をじっと見守っていた。急かす必要はない。上田のような性格の女は、黙っていることが苦手だ。放っておいても、必ずや自分から語り出す。
ややあって、彼女は顔を上げた。
「実はね、あの家から……たまに、怒鳴り声みたいなのが聞こえてきてたんだよ」
読み通り、上田は自分から語り始めた。今川は、真面目くさった顔で言葉を返す。
「怒鳴り声、ですか。覚えている範囲で結構ですので、その内容を詳しく教えていただけませんか?」
その言葉に、上田はためらうような表情を浮かべた。少し間が空いたが、声をひそめて語り出した。
「あのう……男の声だったけど、お前、聞いてんのかよ! とか、てめえブッ殺すぞ! みたいな感じだったね。まあ、普通じゃなかったよ。そんなのを、家の前を通りかかった時に二、三回聞いた覚えがあったねえ」
「男の声、ですか。となると、やはり広志さんでしょうか?」
聞くまでもなく、声の主が誰なのかはわかっている。だが、一応聞いてみた。
上田は、顔をしかめながら頷く。
「うん、たぶんね。たださ、どんな仲のいい夫婦でも、たまに喧嘩くらいはするじゃないか。あたしの家だって、若い頃はちょくちょくやったしね。だから、別に気にもしてなかったけど。でも……」
そこで、またしても口ごもる。他にも何かあるらしい。やはり、隣人でないとわからない部分があったのだ。
「何でしょうか?」
「死んだ人の悪口は言いたくないけど、今から考えれば、あの家はちょっとおかしかったね。娘さんのこともそうだけど……奥さんが外に出てるのも、あんまり見たことなかったし。たまに顔を合わせると、凄く暗い目をしてるんだよ。パチンコで有り金残らずスッちゃった時みたいな、虚ろな目で歩いてたね」
この女には、そんな経験があるのだろうか……などと思いつつ、今川は相槌を打った。
「暗い目、ですか」
「そう。あの奥さん、女優みたいな綺麗な顔してたけど……いつも俯いて、下ばかり見て歩いてた。声をかけると、ビクッとなって顔を上げるんだよ。なんか、怯えた動物みたいな感じだったね。見てるこっちが暗くなるよ」
「怯えた動物、ですか。いやあ、それは意外でしたね」
別に意外ではない。その可能性は、既に頭の片隅にあった。しかし、その予想を裏付ける証人・上田と話せたのは非常にありがたい。
「ねえ、あたしから聞いたなんて書かないよね?」
上田は、心配そうな顔で聞いてきた。今になって、不安がよぎったらしい。今川は、にこやかな表情で頷いた。
「もちろん、あなたの名前は公表しませんよ。ですから、安心してください」
上田への取材を終えた後、今川は改めて松村邸の周囲を歩いてみた。二階建ての一軒家だが、正直、お世辞にも洒落た外観とは言えない。はっきり言うなら、やっつけ仕事で建てたように見える。
塀の周囲にはロープが張られ、立入禁止と書かれた看板が立てかけられている。庭は雑草が伸び放題で、あちこちから虫や小動物の動く音が聞こえてくる。
その上、周囲に人通りはなく、辺りは沈黙が支配していた。閑静な住宅地といえば聞こえはいいが、むしろゴーストタウンといった方が近い気がする。限界集落地にも似た空気が漂っているのだ。
そもそも、ここ真幌市はもともと工業地帯である。景気の良かった時代には、あちこちに町工場が立ち並び、その全てが毎日フル稼働していたのだ。それに伴い、居酒屋や風俗店などのような店も増えていった。
しかし景気の波が去ると同時に、工場もバタバタと潰れていった。夜逃げする経営者が多数でたが、それはまだマシな方である。借金で追い詰められた挙げ句、家族を道連れに一家心中をした工場経営者も珍しくなかった。
もっとも、工場の建物自体は未だに残っている。廃墟と化した工場が、町のあちこちに建ったままになっているのだ。取り壊す費用もなく、かといって再稼働させる訳にもいかず、使い途のない工場が哀れな骸を晒している状態であった。
結果、ゴーストタウンのような不気味な一角が出来上がってしまったのだ。それは、未だに残っている。
どう見ても、松村広志のイメージとは合わない町だ。一流企業のエリートサラリーマンであり交遊関係も広く、IT関係や芸能人の知り合いもいたと聞く。そんな男が、好き好んでこんな寂れた町に住むだろうか。
今川はふと、夏帆と栞の散歩していた姿を思い出していた。親子そろって、とても楽しそうな表情を浮かべていた。木々の生い茂る道路で立ち止まり、ニコニコしながら手話で会話していた母と娘。その光景を見れば、裏の世界で長年生きてきたヤクザ者ですら、思わず微笑んでしまうだろう。
では、上田がここで見ていた光景は何を意味するのだろうか。
今川は、もう一度周りを見回してみた。人気はない。人の通りかかる気配もない。
ならば、そんな場所に相応しい動きをするまでだ。今川は、旧松村邸に素早く入り込んだ。張ってあったロープを乗り越え、裏口から家の中へと侵入してみる。もちろん犯罪だが、今さら手段を選んでいられない。
家の中は、外よりも重苦しい空気が流れていた。単に、かつて殺人があった場所……というイメージだけではない。この家に、何年にも渡って住んでいた人間の負の思いを感じるのだ。不気味な空気、殺風景な壁の色、装飾品の類いを完璧に排除された部屋。障害を抱えた幼い子供を住まわせるのには、どう見ても不向きだ。
今川は、幽霊の類いを信じていない。また、今までに幽霊のようなものを見たこともない。だが、この家からは異様なものを感じていた。長きに渡って住人を縛り付けていた呪縛が、未だに色濃くたちこめているのだ。この家はいずれ、心霊スポットとして紹介されてもおかしくない。
ふと、妙な考えが頭に浮かんだ。
この家、まるで牢屋みたいだな──
そう、牢獄のようなのだ。住んでいる者の心を癒そうという意図が、全く感じられない構造である。ただ、生活さえ出来ればいいという感じなのだ。親子三人、仲睦まじく暮らしていた……という雰囲気は欠片ほどもない。
いや、牢屋というより……鳥籠だったのかも知れない──
そんなバカな思いが、彼の頭を掠めた。籠の中の鳥だった母と娘。暗い目をして外を歩いていた夏帆と、家の中に閉じ込められていた栞。
これが、今川の妄想でないとしたら……松村広志はなぜ、母と娘を籠に閉じ込めていたのだろうか。
さらに、ここに来て様々な疑問も湧いてきた。島田義人はなぜ、この家を襲撃したのだろう。見た感じ、周囲の家と比べて特に侵入しやすいというわけではない。なのに、島田は他の家には目もくれずに松村邸に押し入った。
当時、ドアに鍵はかかっていなかったらしいが……それもまた妙な話だ。猟銃と数十発の弾丸が保管されている家だというのに、入口に鍵すらかけていなかった。これは、あまりにも無用心だ。確か、猟銃の免許を取るには、取り扱いはもちろん保管についても細心の注意を払うよう指導されるはずである。
それよりも、大きな疑問がある。島田の脱獄した刑務所と、この松村邸は数十キロの距離があるのだ。車でも、一時間はかかるだろう。徒歩ともなれば、何時間かかることか。
しかも、途中には山がある。さほど険しいものではないが、土地勘のない者が越えるのは困難なはずだ。
にもかかわらず、島田はその山を越え、数十キロの距離を走破した。警察の目を恐れ、安全そうな山の中に潜伏する……という選択肢を、彼は選ばなかったのだ。
野を越え山を越えて、島田は松村邸に到着する。周囲の家は、完全に無視していたようだ。あたかも、真っすぐ松村邸を目指していたかのようにすら見える。
タイミング良く(悪くと言うべきか)玄関のドアの鍵が開いており、島田はあっさりと家の中に侵入した。百八十センチ七十五キロという体格のスポーツマンであった松村広志を、警察に通報する隙も与えることなく一瞬で撲殺してのける。その後は猟銃と弾薬と現金を奪い、妻の夏帆と娘の栞を連れて車で逃走した。
しかも、逃走する寸前のタイミングで制服警官が松村邸を訪れていたのだ。ところが、島田は猟銃で二人を脅し、手錠で繋ぎ家の中に放置した。
想像していて、今川は思わず苦笑した。こんな展開、ご都合主義のライトノベルでもありえない。宝くじに当たるような運に恵まれない限り、不可能であろう。
では、この事件の真相はどこにある?
上田聡子は、眉間に皺を寄せながら語る。見た目からして、確実に五十歳を過ぎているだろう。小太りの体全体から、話したくて仕方ないというオーラを発していた。ヒョウ柄の服を着て大阪の商店街をうろうろしていても、全く違和感がない。
もっとも、彼女の住所は大阪ではない。松村の家の隣に住んでいる主婦だ。子供は既に独立し、現在は夫と二人だけで暮らしているという。
松村邸の近所に住んでいた者たちの中で、取材に応じてくれたのは上田だけだった。他にも何人か当たってはみたのだが、こちらの意図を知るや無言で電話を切るような者ばかりである。
どうやら、この地域には余所者を拒絶する空気が漂っているらしい。
「本当のこと言うとね、あたしゃ娘がいるなんて知らなかったよ。姿はおろか、声も聞いたことなかったし。あの事件で、初めて知ったからね」
出されたパンケーキを食べながら、上田は喋り続ける。二人がいるのは、駅前のファミリーレストランだ。店内には、他に数人の客がいる。彼ら二人に、注意を払う者はいない。
「えっと……確認ですが、お隣りに住んでいるのに、娘さんの姿を見たことはなかったんですね?」
今川は、思わず身を乗り出して聞いていた。お隣りとは言っても、両者の家は十メートル近く離れている。したがって、都内の下町のようなわけにはいかないだろうが……それでも、子供の姿を見たことがない、というのは妙だ。
「うん。そんな小さな娘さんがいること自体知らなかったよ。あたしゃ、てっきり奥さんと二人暮らしかと思ってたくらいだからね」
これは、予想外の言葉である。今川は、さらに尋ねてみた。
「そうでしたか。となると、夏帆さんと栞ちゃんは、ほとんど外出していなかったんでしょうかね?」
「そうだねえ……さっきも言った通り、娘さんの姿は見たことなかったね。もし、外に出てたら絶対に気づいてたと思うよ。このあたりじゃ、小さな子供は少ないしね」
顔をしかめながら、上田は答える。確かに、このあたりは子供が少ない。というより、住居自体が少ない。全体的に、寂れた雰囲気が漂っている。現在、夏帆が住んでいる白土市よりは人が多い……という程度だ。一流企業のエリートサラリーマンが住む場所として、相応しい地域だとは思えない。
そもそも、広志が勤めている会社は……ここから、車で一時間以上はかかる。電車などの公共の交通機関を使えば、さらに時間がかかるはずだ。まあ、数時間かけてマイホームから会社に通うサラリーマンも珍しくはないが、広志のような男がそこまでする必要があるのだろうか。
広志はなぜ、こんな場所に家を建てたのだろう。土地代の安さゆえか。あるいは、他に何か理由があるのか。
そんなことを思いつつも、今川は話を続ける。
「実は、娘の栞ちゃんは生れつき耳が不自由なんですよ。あと、喋ることもできないみたいで……ですから、なるべく外出させないようにしていたのかもしれませんね」
何気なく放った言葉、のつもりだった。ところが、上田の顔つきがみるみるうちに変わっていったのだ。
「ちょっと待ちなよ。それ、本当かい?」
「はい、間違いないですよ」
今川が答えた途端、上田の目つきはさらに鋭くなる。
「じゃあ……耳が不自由だから、その娘を外に出さなかったってのかい?」
恐ろしい形相で、上田は聞いてきた。今川は面食らいながらも、どうにか答える。
「えっ? いや、それは僕にはわかりませんが──」
「そんなの間違ってるよ! いいかい、どんな子供だって、いつかはひとりで生きていかなきゃならないんだ。外にどんな危険があるか、自分の体で学ばなきゃわからないだろ! 子供には、そういう時期が必要だよ! それとも、一生家に閉じ込めておく気なのかい!?」
上田は、とんでもない剣幕でまくし立てて来る。親の仇に、十年ぶりに遭遇したかのごとき勢いだ。今川は狼狽しながらも、落ち着かせようと両手を前に出した。まあまあまあ、のポーズだ。へらへら笑いながら、何とかなだめようと試みる。
「ちょ、ちょっと待ってください。つい先日のことですが、僕は夏帆さんと栞ちゃんの姿を見かけました。、お二人は、とても楽しそうに外を散歩してましたよ」
「えっ……本当かい?」
今度は、上田が面食らう番だった。今川は苦笑しつつ、言葉を続ける。
「はい、この目ではっきりと見ましたよ。夏帆さんは、栞ちゃんの手をしっかりと握って、楽しそうに外を散歩してました。時おり立ち止まっては、親子で手話を用いて会話したりもしていました。見ていて、思わず微笑んでしまうような光景でしたね。少なくとも、夏帆さんは娘さんを家に閉じ込めておこう……という考えの持ち主ではなかったようですよ」
実際に微笑みながら、今川は語る。
彼の言葉に、上田は黙り込んだ。下を向き、何やら難しい表情を作る。彼女なりに、何か思うところがあるらしい。
今川は無言で、その様をじっと見守っていた。急かす必要はない。上田のような性格の女は、黙っていることが苦手だ。放っておいても、必ずや自分から語り出す。
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「実はね、あの家から……たまに、怒鳴り声みたいなのが聞こえてきてたんだよ」
読み通り、上田は自分から語り始めた。今川は、真面目くさった顔で言葉を返す。
「怒鳴り声、ですか。覚えている範囲で結構ですので、その内容を詳しく教えていただけませんか?」
その言葉に、上田はためらうような表情を浮かべた。少し間が空いたが、声をひそめて語り出した。
「あのう……男の声だったけど、お前、聞いてんのかよ! とか、てめえブッ殺すぞ! みたいな感じだったね。まあ、普通じゃなかったよ。そんなのを、家の前を通りかかった時に二、三回聞いた覚えがあったねえ」
「男の声、ですか。となると、やはり広志さんでしょうか?」
聞くまでもなく、声の主が誰なのかはわかっている。だが、一応聞いてみた。
上田は、顔をしかめながら頷く。
「うん、たぶんね。たださ、どんな仲のいい夫婦でも、たまに喧嘩くらいはするじゃないか。あたしの家だって、若い頃はちょくちょくやったしね。だから、別に気にもしてなかったけど。でも……」
そこで、またしても口ごもる。他にも何かあるらしい。やはり、隣人でないとわからない部分があったのだ。
「何でしょうか?」
「死んだ人の悪口は言いたくないけど、今から考えれば、あの家はちょっとおかしかったね。娘さんのこともそうだけど……奥さんが外に出てるのも、あんまり見たことなかったし。たまに顔を合わせると、凄く暗い目をしてるんだよ。パチンコで有り金残らずスッちゃった時みたいな、虚ろな目で歩いてたね」
この女には、そんな経験があるのだろうか……などと思いつつ、今川は相槌を打った。
「暗い目、ですか」
「そう。あの奥さん、女優みたいな綺麗な顔してたけど……いつも俯いて、下ばかり見て歩いてた。声をかけると、ビクッとなって顔を上げるんだよ。なんか、怯えた動物みたいな感じだったね。見てるこっちが暗くなるよ」
「怯えた動物、ですか。いやあ、それは意外でしたね」
別に意外ではない。その可能性は、既に頭の片隅にあった。しかし、その予想を裏付ける証人・上田と話せたのは非常にありがたい。
「ねえ、あたしから聞いたなんて書かないよね?」
上田は、心配そうな顔で聞いてきた。今になって、不安がよぎったらしい。今川は、にこやかな表情で頷いた。
「もちろん、あなたの名前は公表しませんよ。ですから、安心してください」
上田への取材を終えた後、今川は改めて松村邸の周囲を歩いてみた。二階建ての一軒家だが、正直、お世辞にも洒落た外観とは言えない。はっきり言うなら、やっつけ仕事で建てたように見える。
塀の周囲にはロープが張られ、立入禁止と書かれた看板が立てかけられている。庭は雑草が伸び放題で、あちこちから虫や小動物の動く音が聞こえてくる。
その上、周囲に人通りはなく、辺りは沈黙が支配していた。閑静な住宅地といえば聞こえはいいが、むしろゴーストタウンといった方が近い気がする。限界集落地にも似た空気が漂っているのだ。
そもそも、ここ真幌市はもともと工業地帯である。景気の良かった時代には、あちこちに町工場が立ち並び、その全てが毎日フル稼働していたのだ。それに伴い、居酒屋や風俗店などのような店も増えていった。
しかし景気の波が去ると同時に、工場もバタバタと潰れていった。夜逃げする経営者が多数でたが、それはまだマシな方である。借金で追い詰められた挙げ句、家族を道連れに一家心中をした工場経営者も珍しくなかった。
もっとも、工場の建物自体は未だに残っている。廃墟と化した工場が、町のあちこちに建ったままになっているのだ。取り壊す費用もなく、かといって再稼働させる訳にもいかず、使い途のない工場が哀れな骸を晒している状態であった。
結果、ゴーストタウンのような不気味な一角が出来上がってしまったのだ。それは、未だに残っている。
どう見ても、松村広志のイメージとは合わない町だ。一流企業のエリートサラリーマンであり交遊関係も広く、IT関係や芸能人の知り合いもいたと聞く。そんな男が、好き好んでこんな寂れた町に住むだろうか。
今川はふと、夏帆と栞の散歩していた姿を思い出していた。親子そろって、とても楽しそうな表情を浮かべていた。木々の生い茂る道路で立ち止まり、ニコニコしながら手話で会話していた母と娘。その光景を見れば、裏の世界で長年生きてきたヤクザ者ですら、思わず微笑んでしまうだろう。
では、上田がここで見ていた光景は何を意味するのだろうか。
今川は、もう一度周りを見回してみた。人気はない。人の通りかかる気配もない。
ならば、そんな場所に相応しい動きをするまでだ。今川は、旧松村邸に素早く入り込んだ。張ってあったロープを乗り越え、裏口から家の中へと侵入してみる。もちろん犯罪だが、今さら手段を選んでいられない。
家の中は、外よりも重苦しい空気が流れていた。単に、かつて殺人があった場所……というイメージだけではない。この家に、何年にも渡って住んでいた人間の負の思いを感じるのだ。不気味な空気、殺風景な壁の色、装飾品の類いを完璧に排除された部屋。障害を抱えた幼い子供を住まわせるのには、どう見ても不向きだ。
今川は、幽霊の類いを信じていない。また、今までに幽霊のようなものを見たこともない。だが、この家からは異様なものを感じていた。長きに渡って住人を縛り付けていた呪縛が、未だに色濃くたちこめているのだ。この家はいずれ、心霊スポットとして紹介されてもおかしくない。
ふと、妙な考えが頭に浮かんだ。
この家、まるで牢屋みたいだな──
そう、牢獄のようなのだ。住んでいる者の心を癒そうという意図が、全く感じられない構造である。ただ、生活さえ出来ればいいという感じなのだ。親子三人、仲睦まじく暮らしていた……という雰囲気は欠片ほどもない。
いや、牢屋というより……鳥籠だったのかも知れない──
そんなバカな思いが、彼の頭を掠めた。籠の中の鳥だった母と娘。暗い目をして外を歩いていた夏帆と、家の中に閉じ込められていた栞。
これが、今川の妄想でないとしたら……松村広志はなぜ、母と娘を籠に閉じ込めていたのだろうか。
さらに、ここに来て様々な疑問も湧いてきた。島田義人はなぜ、この家を襲撃したのだろう。見た感じ、周囲の家と比べて特に侵入しやすいというわけではない。なのに、島田は他の家には目もくれずに松村邸に押し入った。
当時、ドアに鍵はかかっていなかったらしいが……それもまた妙な話だ。猟銃と数十発の弾丸が保管されている家だというのに、入口に鍵すらかけていなかった。これは、あまりにも無用心だ。確か、猟銃の免許を取るには、取り扱いはもちろん保管についても細心の注意を払うよう指導されるはずである。
それよりも、大きな疑問がある。島田の脱獄した刑務所と、この松村邸は数十キロの距離があるのだ。車でも、一時間はかかるだろう。徒歩ともなれば、何時間かかることか。
しかも、途中には山がある。さほど険しいものではないが、土地勘のない者が越えるのは困難なはずだ。
にもかかわらず、島田はその山を越え、数十キロの距離を走破した。警察の目を恐れ、安全そうな山の中に潜伏する……という選択肢を、彼は選ばなかったのだ。
野を越え山を越えて、島田は松村邸に到着する。周囲の家は、完全に無視していたようだ。あたかも、真っすぐ松村邸を目指していたかのようにすら見える。
タイミング良く(悪くと言うべきか)玄関のドアの鍵が開いており、島田はあっさりと家の中に侵入した。百八十センチ七十五キロという体格のスポーツマンであった松村広志を、警察に通報する隙も与えることなく一瞬で撲殺してのける。その後は猟銃と弾薬と現金を奪い、妻の夏帆と娘の栞を連れて車で逃走した。
しかも、逃走する寸前のタイミングで制服警官が松村邸を訪れていたのだ。ところが、島田は猟銃で二人を脅し、手錠で繋ぎ家の中に放置した。
想像していて、今川は思わず苦笑した。こんな展開、ご都合主義のライトノベルでもありえない。宝くじに当たるような運に恵まれない限り、不可能であろう。
では、この事件の真相はどこにある?
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ウェップ家の侯爵夫妻は誰もが羨むおしどり夫婦。しかし実態は、互いに暗殺を試みる仮面夫婦だった。
ある日、侯爵夫人の生誕パーティーで、夫、侯爵のエドウィン・ウェップが毒を飲んで倒れてしまった。
犯人は誰か。目的は何なのか。
それぞれの思いを各視点で語る中編小説。
※ミステリーカテにしておりますが、そこまでミステリー感はありません。ヒューマンドラマかな?書いてる私もカテゴリ迷子です。
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