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松村広志(1)
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「あいつは、とてもいい奴だったよ」
佐藤孝明は、今川に言った。その言葉に、嘘はなさそうに見えた。
立て篭もり事件の被害者のひとりである、松村広志。
彼は幼い頃から優等生であり、学業は優秀で問題を起こしたことなどなかった。中学高校と、トップクラスの成績を維持しつつ早稲田大学へと進学する。
やがて早稲田大学法学部を卒業後は、日本でも屈指の大手電子機器メーカーである柴山産業に入社した。すると、たちまち頭角を現し、三十歳にして課長へと昇進する。どこかの経済系マンガの主人公のような、完璧なエリートコースを走っていた人物だった。
広志は端正な顔立ちであり、また身長百八十センチ体重七十五キロの恵まれた体を持つスポーツマンでもあった。特に射撃に関しては、学生時代に全国大会にも出場するほどの腕前だったという。
二十七歳の時に、以前から付き合っていた三歳下の夏帆と結婚し、やがて栞が生まれる。順風満帆な人生を送っていたが………三十二歳の時、家に侵入してきた脱獄犯の島田義人に殴り殺され、短い生涯を終えた。
生前の広志は明朗快活な好人物であり、上司や部下からの信頼も厚く、仕事のみならず人格の方も高い評価を受けていたのである。今川は、他にも何人かの人間に電話取材をしてみたが、彼を悪く言う者はひとりもいなかった。
もっとも、この事件について、関係者と面と向かって取材をするのは、これが初めてである。松村広志の友人や知人たちの中で……己の時間を割くことになる直接の取材を許可してくれたのは、この佐藤孝明だけであった。
待ち合わせ場所に指定されていた駅前の喫茶店に、佐藤は時間通り現れた。軽く会釈し、今川の向かい側の席に座る。彼が現れただけで、室内の温度が上がったような気がした。
「あんた、何が聞きたいんだ?」
聞いてきた佐藤の顔には、若干の警戒感がある。今川は、にっこり笑ってみせた。とりあえず、少しずつでも警戒心を削いでいくとしよう。
「まず始めに、佐藤さんにとって松村さんは、どのような存在だったのでしょうか?」
「まあ、月並みな言葉で申し訳ないけど……やっぱり、俺にとって奴は無二の親友だよ」
「親友、ですか。かけがえのない存在だったのですね」
今川の言葉に、佐藤は頷いた。
この男は、物流関係の会社に勤めているサラリーマンだ。髪は短く刈り込まれており、日焼けした肌に白い歯という組み合わせだ。学生時代は、ラグビーに打ち込んでいたと聞いている。確かに体格はがっちりしており、背も高い。
いかにもスポーツマンという見た目の青年であるが、体育会系に有りがちな粗暴な雰囲気は今のところ感じられない。どちらかというと、温厚そうなタイプに見える。筋肉量は多いが体脂肪が少なさそうな肉体をスーツに包み、少し強張った表情を浮かべて座っている。体型の維持にも、日頃から気を配っているのだろう。週三回のジム通いを欠かさない、そんな印象だ。
「広志はな、友だちを大切にする男だったよ。何かあれば、一番に駆けつけてくれる……そんな奴だった。俺も、あいつには何度助けられたかわからない。その借りを返せなくなっちまったのが、本当に残念だよ。世の中ってのは、本当に不条理だよな」
佐藤は、静かな口調で語る。その言葉に、嘘は感じられない。また、嘘をつくのが上手いタイプでないことも明白である。彼にとって、松村広志は間違いなく非の打ち所のない人間であると同時に、無二の親友でもあった。それは疑いようがない。
それならば……今川は、話題を変えてみた。
「なるほど。ところで、松村さんから家族の話は聞いていますか?」
その言葉に、佐藤は首を捻った。
「えっ、家族?」
「はい。松村さんの口から、家族に関する話を聞いたことはありましたか? 奥さんや、娘さんのことについてです」
「そういえば……家族の話は、あまりしてなかったかな。でも、俺は家族を本気で愛してる、男は守るべきものが出来て強くなれるんだって言ってたのを聞いた覚えがあるよ。お前も早く家族を作れ、とも言われたな。余計なお世話だ、って言い返したけど」
いかにも懐かしそうな顔つきだった。どうやら、彼は心を開いてくれたらしい。
そんな佐藤を、今川はじっくりと観察する。これまた、嘘をついているとは思えない。ただ、この男の話を全面的に信じるわけにもいかなかった。殺人事件の被害者について取材すると、ほとんどの場合が、故人の悪い部分を言わない。良い部分だけを繰り返し語り、大げさに悲しんでみせる。
(あんないい人が、なんで殺されるんでしょうか)
(本当に、友だち思いのいい奴だったよ)
(犯人のことは、絶対に許せないよ、あんな善人を殺すなんて)
ほとんどの人間が、こんなことを言う。結局のところ、殺人事件の被害者は美化されてしまうのだ。死者の悪口を言ってはいけない……そんな圧力が、この国には存在している。それゆえ、今川はこの手の言葉を信用してはいなかった。
今、目の前にいる佐藤も同じだ。いや、さらに始末が悪いかも知れない。この男は、よくいえば素直。悪くいえば、単純で騙されやすいタイプだ。その上、生前の松村に対し、崇拝に近い感情を抱いていたらしい。それは、死んでからも変わらない。
その思いは、死んでから余計に強くなっているのかもしれない。この男から得られるものは、何もなさそうだ。
ところが、直後に今川が何気なく発した言葉が、状況を一変させる。
「そうですか。まあ、娘の栞ちゃんが、生まれつき耳が不自由でしたから、父親としての責任感も強く大きく持たなくちゃなりませんよね。本当に、無念だったでしょう」
その言葉には、他意はなかったし何の計算もない。単なる繋ぎの話題のつもりだった。
ところが、佐藤の反応は想定外のものだった。彼の目は大きく見開かれ、口は半開きになっていたのだ。唖然、という言葉を全身で表現しているかのごとき様子である。
少しの間を置き、その開いた口から当惑の声が洩れた。
「ええっ? ちょっと待てよ。何だそれ?」
佐藤は、驚愕の表情を浮かべてこちらを見ている。お前は何を言っているんだ? と、全身でこちらに問いかけてきている。
その反応に、今川の目がすっと細くなった。どうやら、自分の何気ない一言がきっかけとなり、思いがけないものを掘り出してしまったらしい。意外な展開だ。
彼は平静を装いながら、さりげなく聞いてみた。
「あのう、どうかしましたか?」
「いや、その……広志の娘の栞ちゃんだけど、何て言うか、耳が不自由だったのか?」
尋ねる佐藤の声は震えている。動揺を隠せていない。今川は、こくりと頷いた。
「ええ、そうですよ。生まれつき耳が聞こえず、話すことも出来ないそうです。実際、栞ちゃんが夏帆さんと手話で会話しているところを見ましたしね。あなたは、松村さんから聞いていなかったんですか?」
今川は、一応尋ねてみた。もっとも、佐藤が栞の障害について聞いていないのは明白であるが。
「いや、聞いてないよ。そんな話は初耳だ。あいつ、なんで言ってくれなかったんだろう……」
呆然とした表情で、佐藤は呟くように答えたた。その目は今川ではなく、あらぬ方向に向けられている。恐らく、その頭の中は混乱しているのだろう。
一方、今川の頭の中にも様々な考えが浮かんでいた。親友であるはずの佐藤に、自分の娘の障害を告げていなかった……この事実は、何を意味するのだろうか。
その疑問を、真正面からぶつけてみることにした。
「それは意外ですね。学生時代からの親友であるあなたにさえ、自分の娘の障害を教えていなかったとは。何か、特別な理由があったのでしょうかね?」
「いや、わからないよ。だいたい、俺なんかにわかるはずないだろう。なんで、そんな大事なことを教えてくれなかったんだろうな」
佐藤は、未だにショックから覚めていないらしい。呆けたような表情で、先ほどと同じような言葉を繰り返すだけだ。今川は黙ったまま、彼の次の言葉を待った。
ややあって、佐藤は口を開く。
「うーん、もしかしたら……俺たちに、余計な気を遣わせないように考えたのかもな」
「というと?」
「あいつはな、周りに気を遣う男だったんだよ。自分のことより、場の空気を優先する……広志は、そんな奴だった。だから、自分の娘の障害について語ることで、みんなに余計な心配をさせたくなかったんじゃないかな。俺は、そう思うよ」
それはどうだろうね、と今川は心の中で呟いた。いくらなんでも、人格を美化しすぎである。
だが、ここで否定したら話が進まない。今川は、もっともらしい顔を作り頷いた。
「なるほど、だとしたら、広志さんは本当に人格者ですね」
「だって、あいつは仕事の愚痴なんかも一切言わない男だった。むしろ、いつもは俺の愚痴を聞いてもらってたくらいだ。だから、家族の苦労話を言うことで、場の雰囲気が暗くなるのを避けてたんだろう。あいつは、そういう奴なんだよ。本音をいえば、そんなことはして欲しくなかったけどな。俺には、何もかも打ち明けて欲しかったよ」
聞いていて、今川は頭が痛くなってきた。ひとりの人間の人格や言動を、よくもまあ、ここまで良い方にだけ捉えられるものだ。ここまで来ると、もはや信者と教祖の関係に近い。
広志という男は、自らのイメージ作りに長けていた……これは、間違いない。その能力を上手く使い、順調に出世していったのだ。あの事件さえなければ、さらに上の地位にいっていただろう。
そんな今川の思いをよそに、佐藤は語り続ける。
「そういえば、あいつ子供の話題はさりげなく避けていたような気もするよ。あいつは、俺たちに楽しい時間を過ごして欲しかったんだろうな」
「なるほど。だとしたら、切ない話ですね」
もっともらしい顔を作り、相槌を打つ。心の中では、んなわけねえだろ、と呟いていたが。
「そうだよ。とにかく、広志は本当にいい奴だったんだ。俺が女だったら、間違いなく惚れてるね。だから……あの島田とかいうクズだけは、今も許せねえよ」
「ああ、犯人の島田義人ですね」
「あの野郎、広志を殴り殺したんだよな? 本当のクズ野郎だよ。本気の喧嘩だったら、広志があんなチンピラに負けるわけねえんだ。いきなり家に入って来て、何の罪もない広志を殴り殺した挙げ句、無関係の夏帆さんと栞ちゃんを人質にして逃げる……こんなの、人間のやることじゃねえだろ。もし警官に撃たれてなかったら、俺がこの手で殺してやりたかった」
佐藤の表情は、見る見るうちに歪んでいった。怒りゆえ、だろう。感情の起伏の激しい男だ。先ほどまで、娘の栞のことで呆然としていたのに、今は島田に対する怒りで体を震わせている。出会った直後は、温厚そうな男……という印象だったが、それは間違いだったらしい。
これまで今川は、数多くの事件に関わって来た。暴行や傷害といった暴力的な罪を犯しやすい者の特徴として、感情の起伏が激しいことが挙げられる。
今、目の前にいる佐藤も、一歩間違えば犯罪者となっていてもおかしくはないようなタイプだ。正義感は強いが、その正義感に突き動かされて暴走しがち……そんな印象を受ける。万引き犯を捕まえたはいいが、取り押さえる過程でやり過ぎて怪我を負わせ、己が訴えられてしまうようなタイプに思える。
もし、松村広志も同類だとしたら……という考えが頭に浮かんだ。だが、今川はその仮説を即座に却下する。仮にも、三十歳で課長になるような男だ。佐藤のように単純な人格ではないだろう。
「あんた、ライターなんだろ? だったら、広志がどんな人間だったか、ちゃんと書いておいてくれ。あいつは、本当に善人だった。そんな男が、何であんなに早く死ななきゃならないんだよ……世の中ってのは、本当に不条理だよな」
去り際、佐藤はそんなことを言った。
「わかりました。僕は、真実を書きますから」
一応は、そう返事をしたものの……佐藤の希望する内容の記事は、書けそうになかった。
佐藤への取材が終わった後、念のため他の友人や知人さらには会社の同僚たちにも電話で聞いてみた。娘の栞ちゃんの障害を知っていましたか、と。
返って来た言葉の種類は違えど、その意味するものは全て同じだった。それは初耳だ、という内容である。それどころか、栞の存在自体を事件の報道で初めて知った……という者までいた。
今川は首を捻った。この事実を、どう捉えればいいのだろうか。三十歳にして、一流企業の課長にまで昇りつめたエリート。人格者として知られ、交遊関係も広く部下からの信頼も厚い。
にもかかわらず、娘の障害を親しい友人たちに告げていなかった。上司や部下にも教えていなかったらしい。
娘の障害を、周囲に隠していたエリートサラリーマン……これは、何を意味するのだろうか。
佐藤孝明は、今川に言った。その言葉に、嘘はなさそうに見えた。
立て篭もり事件の被害者のひとりである、松村広志。
彼は幼い頃から優等生であり、学業は優秀で問題を起こしたことなどなかった。中学高校と、トップクラスの成績を維持しつつ早稲田大学へと進学する。
やがて早稲田大学法学部を卒業後は、日本でも屈指の大手電子機器メーカーである柴山産業に入社した。すると、たちまち頭角を現し、三十歳にして課長へと昇進する。どこかの経済系マンガの主人公のような、完璧なエリートコースを走っていた人物だった。
広志は端正な顔立ちであり、また身長百八十センチ体重七十五キロの恵まれた体を持つスポーツマンでもあった。特に射撃に関しては、学生時代に全国大会にも出場するほどの腕前だったという。
二十七歳の時に、以前から付き合っていた三歳下の夏帆と結婚し、やがて栞が生まれる。順風満帆な人生を送っていたが………三十二歳の時、家に侵入してきた脱獄犯の島田義人に殴り殺され、短い生涯を終えた。
生前の広志は明朗快活な好人物であり、上司や部下からの信頼も厚く、仕事のみならず人格の方も高い評価を受けていたのである。今川は、他にも何人かの人間に電話取材をしてみたが、彼を悪く言う者はひとりもいなかった。
もっとも、この事件について、関係者と面と向かって取材をするのは、これが初めてである。松村広志の友人や知人たちの中で……己の時間を割くことになる直接の取材を許可してくれたのは、この佐藤孝明だけであった。
待ち合わせ場所に指定されていた駅前の喫茶店に、佐藤は時間通り現れた。軽く会釈し、今川の向かい側の席に座る。彼が現れただけで、室内の温度が上がったような気がした。
「あんた、何が聞きたいんだ?」
聞いてきた佐藤の顔には、若干の警戒感がある。今川は、にっこり笑ってみせた。とりあえず、少しずつでも警戒心を削いでいくとしよう。
「まず始めに、佐藤さんにとって松村さんは、どのような存在だったのでしょうか?」
「まあ、月並みな言葉で申し訳ないけど……やっぱり、俺にとって奴は無二の親友だよ」
「親友、ですか。かけがえのない存在だったのですね」
今川の言葉に、佐藤は頷いた。
この男は、物流関係の会社に勤めているサラリーマンだ。髪は短く刈り込まれており、日焼けした肌に白い歯という組み合わせだ。学生時代は、ラグビーに打ち込んでいたと聞いている。確かに体格はがっちりしており、背も高い。
いかにもスポーツマンという見た目の青年であるが、体育会系に有りがちな粗暴な雰囲気は今のところ感じられない。どちらかというと、温厚そうなタイプに見える。筋肉量は多いが体脂肪が少なさそうな肉体をスーツに包み、少し強張った表情を浮かべて座っている。体型の維持にも、日頃から気を配っているのだろう。週三回のジム通いを欠かさない、そんな印象だ。
「広志はな、友だちを大切にする男だったよ。何かあれば、一番に駆けつけてくれる……そんな奴だった。俺も、あいつには何度助けられたかわからない。その借りを返せなくなっちまったのが、本当に残念だよ。世の中ってのは、本当に不条理だよな」
佐藤は、静かな口調で語る。その言葉に、嘘は感じられない。また、嘘をつくのが上手いタイプでないことも明白である。彼にとって、松村広志は間違いなく非の打ち所のない人間であると同時に、無二の親友でもあった。それは疑いようがない。
それならば……今川は、話題を変えてみた。
「なるほど。ところで、松村さんから家族の話は聞いていますか?」
その言葉に、佐藤は首を捻った。
「えっ、家族?」
「はい。松村さんの口から、家族に関する話を聞いたことはありましたか? 奥さんや、娘さんのことについてです」
「そういえば……家族の話は、あまりしてなかったかな。でも、俺は家族を本気で愛してる、男は守るべきものが出来て強くなれるんだって言ってたのを聞いた覚えがあるよ。お前も早く家族を作れ、とも言われたな。余計なお世話だ、って言い返したけど」
いかにも懐かしそうな顔つきだった。どうやら、彼は心を開いてくれたらしい。
そんな佐藤を、今川はじっくりと観察する。これまた、嘘をついているとは思えない。ただ、この男の話を全面的に信じるわけにもいかなかった。殺人事件の被害者について取材すると、ほとんどの場合が、故人の悪い部分を言わない。良い部分だけを繰り返し語り、大げさに悲しんでみせる。
(あんないい人が、なんで殺されるんでしょうか)
(本当に、友だち思いのいい奴だったよ)
(犯人のことは、絶対に許せないよ、あんな善人を殺すなんて)
ほとんどの人間が、こんなことを言う。結局のところ、殺人事件の被害者は美化されてしまうのだ。死者の悪口を言ってはいけない……そんな圧力が、この国には存在している。それゆえ、今川はこの手の言葉を信用してはいなかった。
今、目の前にいる佐藤も同じだ。いや、さらに始末が悪いかも知れない。この男は、よくいえば素直。悪くいえば、単純で騙されやすいタイプだ。その上、生前の松村に対し、崇拝に近い感情を抱いていたらしい。それは、死んでからも変わらない。
その思いは、死んでから余計に強くなっているのかもしれない。この男から得られるものは、何もなさそうだ。
ところが、直後に今川が何気なく発した言葉が、状況を一変させる。
「そうですか。まあ、娘の栞ちゃんが、生まれつき耳が不自由でしたから、父親としての責任感も強く大きく持たなくちゃなりませんよね。本当に、無念だったでしょう」
その言葉には、他意はなかったし何の計算もない。単なる繋ぎの話題のつもりだった。
ところが、佐藤の反応は想定外のものだった。彼の目は大きく見開かれ、口は半開きになっていたのだ。唖然、という言葉を全身で表現しているかのごとき様子である。
少しの間を置き、その開いた口から当惑の声が洩れた。
「ええっ? ちょっと待てよ。何だそれ?」
佐藤は、驚愕の表情を浮かべてこちらを見ている。お前は何を言っているんだ? と、全身でこちらに問いかけてきている。
その反応に、今川の目がすっと細くなった。どうやら、自分の何気ない一言がきっかけとなり、思いがけないものを掘り出してしまったらしい。意外な展開だ。
彼は平静を装いながら、さりげなく聞いてみた。
「あのう、どうかしましたか?」
「いや、その……広志の娘の栞ちゃんだけど、何て言うか、耳が不自由だったのか?」
尋ねる佐藤の声は震えている。動揺を隠せていない。今川は、こくりと頷いた。
「ええ、そうですよ。生まれつき耳が聞こえず、話すことも出来ないそうです。実際、栞ちゃんが夏帆さんと手話で会話しているところを見ましたしね。あなたは、松村さんから聞いていなかったんですか?」
今川は、一応尋ねてみた。もっとも、佐藤が栞の障害について聞いていないのは明白であるが。
「いや、聞いてないよ。そんな話は初耳だ。あいつ、なんで言ってくれなかったんだろう……」
呆然とした表情で、佐藤は呟くように答えたた。その目は今川ではなく、あらぬ方向に向けられている。恐らく、その頭の中は混乱しているのだろう。
一方、今川の頭の中にも様々な考えが浮かんでいた。親友であるはずの佐藤に、自分の娘の障害を告げていなかった……この事実は、何を意味するのだろうか。
その疑問を、真正面からぶつけてみることにした。
「それは意外ですね。学生時代からの親友であるあなたにさえ、自分の娘の障害を教えていなかったとは。何か、特別な理由があったのでしょうかね?」
「いや、わからないよ。だいたい、俺なんかにわかるはずないだろう。なんで、そんな大事なことを教えてくれなかったんだろうな」
佐藤は、未だにショックから覚めていないらしい。呆けたような表情で、先ほどと同じような言葉を繰り返すだけだ。今川は黙ったまま、彼の次の言葉を待った。
ややあって、佐藤は口を開く。
「うーん、もしかしたら……俺たちに、余計な気を遣わせないように考えたのかもな」
「というと?」
「あいつはな、周りに気を遣う男だったんだよ。自分のことより、場の空気を優先する……広志は、そんな奴だった。だから、自分の娘の障害について語ることで、みんなに余計な心配をさせたくなかったんじゃないかな。俺は、そう思うよ」
それはどうだろうね、と今川は心の中で呟いた。いくらなんでも、人格を美化しすぎである。
だが、ここで否定したら話が進まない。今川は、もっともらしい顔を作り頷いた。
「なるほど、だとしたら、広志さんは本当に人格者ですね」
「だって、あいつは仕事の愚痴なんかも一切言わない男だった。むしろ、いつもは俺の愚痴を聞いてもらってたくらいだ。だから、家族の苦労話を言うことで、場の雰囲気が暗くなるのを避けてたんだろう。あいつは、そういう奴なんだよ。本音をいえば、そんなことはして欲しくなかったけどな。俺には、何もかも打ち明けて欲しかったよ」
聞いていて、今川は頭が痛くなってきた。ひとりの人間の人格や言動を、よくもまあ、ここまで良い方にだけ捉えられるものだ。ここまで来ると、もはや信者と教祖の関係に近い。
広志という男は、自らのイメージ作りに長けていた……これは、間違いない。その能力を上手く使い、順調に出世していったのだ。あの事件さえなければ、さらに上の地位にいっていただろう。
そんな今川の思いをよそに、佐藤は語り続ける。
「そういえば、あいつ子供の話題はさりげなく避けていたような気もするよ。あいつは、俺たちに楽しい時間を過ごして欲しかったんだろうな」
「なるほど。だとしたら、切ない話ですね」
もっともらしい顔を作り、相槌を打つ。心の中では、んなわけねえだろ、と呟いていたが。
「そうだよ。とにかく、広志は本当にいい奴だったんだ。俺が女だったら、間違いなく惚れてるね。だから……あの島田とかいうクズだけは、今も許せねえよ」
「ああ、犯人の島田義人ですね」
「あの野郎、広志を殴り殺したんだよな? 本当のクズ野郎だよ。本気の喧嘩だったら、広志があんなチンピラに負けるわけねえんだ。いきなり家に入って来て、何の罪もない広志を殴り殺した挙げ句、無関係の夏帆さんと栞ちゃんを人質にして逃げる……こんなの、人間のやることじゃねえだろ。もし警官に撃たれてなかったら、俺がこの手で殺してやりたかった」
佐藤の表情は、見る見るうちに歪んでいった。怒りゆえ、だろう。感情の起伏の激しい男だ。先ほどまで、娘の栞のことで呆然としていたのに、今は島田に対する怒りで体を震わせている。出会った直後は、温厚そうな男……という印象だったが、それは間違いだったらしい。
これまで今川は、数多くの事件に関わって来た。暴行や傷害といった暴力的な罪を犯しやすい者の特徴として、感情の起伏が激しいことが挙げられる。
今、目の前にいる佐藤も、一歩間違えば犯罪者となっていてもおかしくはないようなタイプだ。正義感は強いが、その正義感に突き動かされて暴走しがち……そんな印象を受ける。万引き犯を捕まえたはいいが、取り押さえる過程でやり過ぎて怪我を負わせ、己が訴えられてしまうようなタイプに思える。
もし、松村広志も同類だとしたら……という考えが頭に浮かんだ。だが、今川はその仮説を即座に却下する。仮にも、三十歳で課長になるような男だ。佐藤のように単純な人格ではないだろう。
「あんた、ライターなんだろ? だったら、広志がどんな人間だったか、ちゃんと書いておいてくれ。あいつは、本当に善人だった。そんな男が、何であんなに早く死ななきゃならないんだよ……世の中ってのは、本当に不条理だよな」
去り際、佐藤はそんなことを言った。
「わかりました。僕は、真実を書きますから」
一応は、そう返事をしたものの……佐藤の希望する内容の記事は、書けそうになかった。
佐藤への取材が終わった後、念のため他の友人や知人さらには会社の同僚たちにも電話で聞いてみた。娘の栞ちゃんの障害を知っていましたか、と。
返って来た言葉の種類は違えど、その意味するものは全て同じだった。それは初耳だ、という内容である。それどころか、栞の存在自体を事件の報道で初めて知った……という者までいた。
今川は首を捻った。この事実を、どう捉えればいいのだろうか。三十歳にして、一流企業の課長にまで昇りつめたエリート。人格者として知られ、交遊関係も広く部下からの信頼も厚い。
にもかかわらず、娘の障害を親しい友人たちに告げていなかった。上司や部下にも教えていなかったらしい。
娘の障害を、周囲に隠していたエリートサラリーマン……これは、何を意味するのだろうか。
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