49 / 81
人の一生は、旅に似ています(二)
しおりを挟む
神谷右近はかつて、南町奉行所の同心であった。
仕事熱心で、悪党に対しては冷酷非情であり、南町の虎と呼ばれるほどである。斬り殺した悪党は数知れず、獄門台に送った悪党もまた数え切れないだろう。
しかし、右近を憎む悪党も数知れなかった。
ある日、彼は悪党たちの仕掛けた罠にはめられてしまう。材木置き場にて盗賊を追っていた時、虎ばさみの罠に足を取られたのだ。その上、動けなくなったところに大量の材木を落とされる──
何とか一命を取り留めたものの、右近の両足の骨は粉々に砕けていた。二度と動かなくなってしまったのだ。
体の自由を失い、同心として働けなくなった右近を待っていたのは悲惨な日々であった。奉行所は、僅か一両の見舞金で彼を放り出す。これまで江戸の平和に尽くしてきた右近。だが、その働きへの報いは、あまりにも冷たいものだった。
さらに右近は、住んでいる屋敷からも追い出された。彼は妻の花と共に、流浪の身となってしまったのだ。
そんな右近と花を、悪党は放っておいてくれなかった。悪党たちは皆、右近に強い恨みを抱いている。また悪党でなくても、親兄弟や連れ合いを斬り殺されたり、獄門台に送られたりした者も少なくない。
これまでは同心であるがゆえに、右近には手を出すことが出来なかったが……今の彼は、ただの浪人である。それも、満足に動く事も出来ない体だ。
やがて、徹底的な嫌がらせが始まった。住んでいる長屋にごみを放り込まれたり、石を投げられたり、集団から殴る蹴るの暴行を受けたり……右近にとって、生き地獄のような日々が続く。だが、それはまだ序の口であった。
しまいに妻の花が、彼の目の前で悪党たちに乱暴されてしまったのだ。しかし、体の動かない右近には助けることが出来ない。
ついに二人は耐えきれなくなり、江戸を離れることとなった。
だが、右近の悪党たちを憎む気持ちは消えていなかったのだ。胸の奥に燻っていたその気持ちは、妻への乱暴をきっかけに気違いじみた執念と化した。
やがて執念は、ひとつの奇跡を生む──
右近と花は、旅の賞金稼ぎとなったのである。逃げている悪党を捕らえ、役所に突き出す。場合によっては殺す……そんな修羅の世界に、夫婦は身を投じて行ったのだ。
・・・
「えっ、足が動かないのに賞金稼ぎですかい……どうやって凶状持ちを捕まえるんですか?」
亀吉は、不思議そうに尋ねる。すると、渡辺は険しい表情で答えた。
「あの神谷さんは、同心の中でも一番の凄腕だった。刀、槍、手裏剣、そして捕縛術。武芸に関しては、あの人の右に出る者はいなかったんだよ。奥方が、右近さんの足の代わりをしてるんだろうな……」
「やけに詳しいですね。あの右近と、知り合いなんですか?」
亀吉の問いに、渡辺は頷いた。いつもと違い、神妙な面持ちで口を開く。
「俺に同心のいろはを叩き込んだのが、あの右近さんなのさ」
「えっ? そりゃ本当ですかい?」
「ああ。南町の虎と恐れられた男が、南町の昼行灯を指導してたんだよ。何とも間抜けな話だよ。可笑しくてたまんねえよな」
そう言って、笑って見せる渡辺。だが、その目は笑っていない。むしろ、深い哀しみの色がある。
「俺はな、神谷さんへの処分がどうしても納得いかなかったんだよ。あれだけ江戸の平和のために尽くして来た人が、たった一両の見舞金でお払い箱だぜ。ちょっと酷すぎるだろ。俺はな、上の人間に直訴したんだ。その結果、出世の道は閉ざされちまったってわけさ。お上に楯突きゃ、そういう事になるわな」
「あっしは、全く知りませんでした。そんな事があったんですか」
「そうさ。俺はそれ以来、真面目にやってるのが馬鹿らしくなったんだよ。どんなに手柄を立てようが、いったん上から睨まれた以上、出世は無理だ。長いものには巻かれる、それが正解なんだよ」
冗談めいた口調で言いながら、渡辺は右近らの去って行った方角を見つめた。
今の渡辺なら、何となく事情は理解できる。神谷右近という同心は、くそ真面目な堅物だった。酒も飲まないし女も買わない。博打も打たない。賄賂などもっての他だ。同僚に対する態度も、ぶっきらぼうなものだった。愛想など欠片もない。彼の唯一の生き甲斐……それは、悪党を捕らえる事だったのだ。
そのため周囲からは、仕事は出来るが付き合いが悪く、空気の読めない男だと評価されていた。
さらに、右近は相手が何者であろうが手加減しなかった。有力者の息子を拷問し、罪を自白させた事もある。
そんな右近の存在を煙たがる者も、当時は少なくなかったはずだ。公務の最中の事故で一生歩けない体にされたというのに、たった一両の見舞金しか出ない……これは、明らかに異常である。当時まだ若かった渡辺は納得できず、上の人間に食ってかかった。
だが、今ならわかる。右近は、もう少し上手くやるべきだったのだ。空気を読んだ行動さえ出来れば、足が動かなくなった時の処遇も違っていたかも知れない。
だが、右近は真っ直ぐ過ぎる男だった。その不器用な生き方が、己と妻の花を不幸にした。
渡辺は、改めて運命の皮肉を感じた。南町の虎と恐れられた同心が、今では賞金稼ぎとなってしまった。
一方、その南町の虎に同心のいろはを叩き込まれた自分は?
・・・
右近と花そして銀次郎の三人は、町外れのあばら家にて一息ついていた。ここは、かつて屋敷を追い出された神谷夫妻が、一時的に身を寄せていた空き家である。もっとも、今では虫や鼠の住み家となっているが。
「神谷さん、あの同心はお知り合いですかい?」
銀次郎の問いに、右近は口元を歪める。
「ああ、俺のかつての後輩だ。奴だけだよ、俺のために骨を折ってくれたのは……なあ、花」
「そうでしたね。渡辺さんは、いい人でした」
花が、昔を懐かしむかのような表情で言った。
「そうですかい。それはともかく、今度の相手は、熊次と寅三の兄弟でさあ。もし、あの同心が仕事の邪魔をするようでしたら、どうしなさるんです?」
尋ねる銀次郎。すると、右近は間髪入れずに言葉を返す。
「その時は、奴を消すだけだ」
仕事熱心で、悪党に対しては冷酷非情であり、南町の虎と呼ばれるほどである。斬り殺した悪党は数知れず、獄門台に送った悪党もまた数え切れないだろう。
しかし、右近を憎む悪党も数知れなかった。
ある日、彼は悪党たちの仕掛けた罠にはめられてしまう。材木置き場にて盗賊を追っていた時、虎ばさみの罠に足を取られたのだ。その上、動けなくなったところに大量の材木を落とされる──
何とか一命を取り留めたものの、右近の両足の骨は粉々に砕けていた。二度と動かなくなってしまったのだ。
体の自由を失い、同心として働けなくなった右近を待っていたのは悲惨な日々であった。奉行所は、僅か一両の見舞金で彼を放り出す。これまで江戸の平和に尽くしてきた右近。だが、その働きへの報いは、あまりにも冷たいものだった。
さらに右近は、住んでいる屋敷からも追い出された。彼は妻の花と共に、流浪の身となってしまったのだ。
そんな右近と花を、悪党は放っておいてくれなかった。悪党たちは皆、右近に強い恨みを抱いている。また悪党でなくても、親兄弟や連れ合いを斬り殺されたり、獄門台に送られたりした者も少なくない。
これまでは同心であるがゆえに、右近には手を出すことが出来なかったが……今の彼は、ただの浪人である。それも、満足に動く事も出来ない体だ。
やがて、徹底的な嫌がらせが始まった。住んでいる長屋にごみを放り込まれたり、石を投げられたり、集団から殴る蹴るの暴行を受けたり……右近にとって、生き地獄のような日々が続く。だが、それはまだ序の口であった。
しまいに妻の花が、彼の目の前で悪党たちに乱暴されてしまったのだ。しかし、体の動かない右近には助けることが出来ない。
ついに二人は耐えきれなくなり、江戸を離れることとなった。
だが、右近の悪党たちを憎む気持ちは消えていなかったのだ。胸の奥に燻っていたその気持ちは、妻への乱暴をきっかけに気違いじみた執念と化した。
やがて執念は、ひとつの奇跡を生む──
右近と花は、旅の賞金稼ぎとなったのである。逃げている悪党を捕らえ、役所に突き出す。場合によっては殺す……そんな修羅の世界に、夫婦は身を投じて行ったのだ。
・・・
「えっ、足が動かないのに賞金稼ぎですかい……どうやって凶状持ちを捕まえるんですか?」
亀吉は、不思議そうに尋ねる。すると、渡辺は険しい表情で答えた。
「あの神谷さんは、同心の中でも一番の凄腕だった。刀、槍、手裏剣、そして捕縛術。武芸に関しては、あの人の右に出る者はいなかったんだよ。奥方が、右近さんの足の代わりをしてるんだろうな……」
「やけに詳しいですね。あの右近と、知り合いなんですか?」
亀吉の問いに、渡辺は頷いた。いつもと違い、神妙な面持ちで口を開く。
「俺に同心のいろはを叩き込んだのが、あの右近さんなのさ」
「えっ? そりゃ本当ですかい?」
「ああ。南町の虎と恐れられた男が、南町の昼行灯を指導してたんだよ。何とも間抜けな話だよ。可笑しくてたまんねえよな」
そう言って、笑って見せる渡辺。だが、その目は笑っていない。むしろ、深い哀しみの色がある。
「俺はな、神谷さんへの処分がどうしても納得いかなかったんだよ。あれだけ江戸の平和のために尽くして来た人が、たった一両の見舞金でお払い箱だぜ。ちょっと酷すぎるだろ。俺はな、上の人間に直訴したんだ。その結果、出世の道は閉ざされちまったってわけさ。お上に楯突きゃ、そういう事になるわな」
「あっしは、全く知りませんでした。そんな事があったんですか」
「そうさ。俺はそれ以来、真面目にやってるのが馬鹿らしくなったんだよ。どんなに手柄を立てようが、いったん上から睨まれた以上、出世は無理だ。長いものには巻かれる、それが正解なんだよ」
冗談めいた口調で言いながら、渡辺は右近らの去って行った方角を見つめた。
今の渡辺なら、何となく事情は理解できる。神谷右近という同心は、くそ真面目な堅物だった。酒も飲まないし女も買わない。博打も打たない。賄賂などもっての他だ。同僚に対する態度も、ぶっきらぼうなものだった。愛想など欠片もない。彼の唯一の生き甲斐……それは、悪党を捕らえる事だったのだ。
そのため周囲からは、仕事は出来るが付き合いが悪く、空気の読めない男だと評価されていた。
さらに、右近は相手が何者であろうが手加減しなかった。有力者の息子を拷問し、罪を自白させた事もある。
そんな右近の存在を煙たがる者も、当時は少なくなかったはずだ。公務の最中の事故で一生歩けない体にされたというのに、たった一両の見舞金しか出ない……これは、明らかに異常である。当時まだ若かった渡辺は納得できず、上の人間に食ってかかった。
だが、今ならわかる。右近は、もう少し上手くやるべきだったのだ。空気を読んだ行動さえ出来れば、足が動かなくなった時の処遇も違っていたかも知れない。
だが、右近は真っ直ぐ過ぎる男だった。その不器用な生き方が、己と妻の花を不幸にした。
渡辺は、改めて運命の皮肉を感じた。南町の虎と恐れられた同心が、今では賞金稼ぎとなってしまった。
一方、その南町の虎に同心のいろはを叩き込まれた自分は?
・・・
右近と花そして銀次郎の三人は、町外れのあばら家にて一息ついていた。ここは、かつて屋敷を追い出された神谷夫妻が、一時的に身を寄せていた空き家である。もっとも、今では虫や鼠の住み家となっているが。
「神谷さん、あの同心はお知り合いですかい?」
銀次郎の問いに、右近は口元を歪める。
「ああ、俺のかつての後輩だ。奴だけだよ、俺のために骨を折ってくれたのは……なあ、花」
「そうでしたね。渡辺さんは、いい人でした」
花が、昔を懐かしむかのような表情で言った。
「そうですかい。それはともかく、今度の相手は、熊次と寅三の兄弟でさあ。もし、あの同心が仕事の邪魔をするようでしたら、どうしなさるんです?」
尋ねる銀次郎。すると、右近は間髪入れずに言葉を返す。
「その時は、奴を消すだけだ」
0
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
【受賞作】狼の贄~念真流寂滅抄~
筑前助広
歴史・時代
「人を斬らねば、私は生きられぬのか……」
江戸の泰平も豊熟の極みに達し、組織からも人の心からも腐敗臭を放ちだした頃。
魔剣・念真流の次期宗家である平山清記は、夜須藩を守る刺客として、鬱々とした日々を過ごしていた。
念真流の奥義〔落鳳〕を武器に、無明の闇を遍歴する清記であったが、門閥・奥寺家の剣術指南役を命じられた事によって、執政・犬山梅岳と中老・奥寺大和との政争に容赦なく巻き込まれていく。
己の心のままに、狼として生きるか?
権力に媚びる、走狗として生きるか?
悲しき剣の宿命という、筑前筑後オリジンと呼べる主旨を真正面から描いたハードボイルド時代小説にして、アルファポリス第一回歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」に繋がる、念真流サーガのエピソード1。
――受け継がれるのは、愛か憎しみか――
※この作品は「天暗の星」を底本に、9万文字を25万文字へと一から作り直した作品です。現行の「狼の裔」とは設定が違う箇所がありますので注意。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
三國志 on 世説新語
ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」?
確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。
それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします!
※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる