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さよならだけが、人生です(三)
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上手蕎麦は、繁盛している……とは、お世辞にも言えない店である。客も、建具屋の政を初めとする数人の常連がいる程度だ。ましてや、若い女がふらっと立ち寄るような雰囲気ではない。
しかし、今日は勝手が違っていた。
「いらっしゃい」
来客の気配を感じた蘭二は、にこやかな表情で声をかけた。彼の視線の先には、女がひとりで立っている。年齢は、二十代の前半から後半。地味な着物姿だが、器量はなかなかのものだ。
女は席に着くなり、笑みを浮かべて蘭二を見つめる。
「あんたが蘭二さんね。噂通りの、いい男」
「えっ?」
蘭二の表情が凍りつく。この女、何か妙だ。単に蕎麦を食べに来た、というわけではなさそうな気がする。
「ねえ、お禄さんいる?」
女は、さらに聞いてきた。蘭二は、平静を取り繕いながら言葉を返す。
「えっ、ええと……お禄さんに、何か用ですか?」
「いえね、挨拶をしとこうかと思いまして」
「挨拶、ですか?」
「ええ。仕上屋の元締さんに、仕分人の者として挨拶しとこうかと思いましてね」
その瞬間、蘭二の表情が歪む。反射に、懐に呑んだ煙管へと手が伸びた。が、そんな空気をぶち壊す者が現れる。
「お春ちゃん、今日も来たよ……あれ、どしたの?」
不意に入って来たのは、建具屋の政だ。蘭二の放つ緊迫した空気を前に、呆気に取られている。
その時、お禄が奥から顔を出した。
「蘭二、どうかしたのかい?」
口ではそう言いながらも、お禄の視線は女に向けられている。
すると、女は軽く会釈した。
「どうも、お禄さん。あたしの名は、お琴です。今日は、ちょいと挨拶しに来ました。では、これで」
お琴と名乗った女は、にっこり微笑んだ。直後にすっと立ち上がり、音も無く去って行った。
「ね、ねえ……今の、誰?」
困惑した表情の政が、蘭二にそっと尋ねる。だが、蘭二にわかるはずがない。
わかることは、あのお琴が仕分人と名乗っていたことだけ──
・・・
その翌日。
権太が部屋を借りている長屋に、ひとりの男が姿を見せる。
「権太さん、いるかい?」
権太は、複雑な表情で戸を開けた。
「清吉、何の用だ?」
そう、長屋の訪問者は清吉だったのだ。複雑な表情の権太と対照的に、満面の笑みを浮かべている。
「今日はね、あんたにいい話を持って来たんですよ」
「いい話、か」
訝しげな表情になる権太に、清吉は笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、こいつは儲かる話なんですよ。是非、権太さんにも手伝っていただきたいんです」
「なんで俺に?」
さらに尋ねる権太。彼には、清吉の考えが理解できない。なぜ今になって、わざわざ自分の所に来たのだろうか。
「決まってるじゃないですか。権太さんが、俺に親切だったからですよ。島では短い付き合いでしたが、権太さんに助けてもらった恩は忘れてやしません。俺はね、受けた恩は忘れないんです。それに、あんたのその腕っぷし……燻らせとくには、勿体ないですぜ」
清吉に言われるがまま、権太は後を付いて行く。
もちろん彼は、やくざの仲間入りなどをするつもりはない。もともと権太は、組織というものに不信感を抱いている。やくざなどは、役人と同じくらい信用できない存在なのだ。
にもかかわらず、なぜ清吉の後を付いて行くのか……それはやはり、彼のことが気になるからだ。仕方ないとはいえ、やくざになってしまった清吉。まるで、昔の自分を見ているようだ。
権太はふと、ナナイと出会った時のことを思い出す。さらに、お禄と出会った時のことも。もし自分があの日、ナナイやお禄ではなく何処かのやくざと出会っていたなら、清吉と同じくやくざになっていたのかもしれなかった。
あるいは、自ら命を断っていたか──
人生とは、本当に分からないものだ。
しかし、清吉に案内されて到着した場所で見たものは、権太の甘い感傷を軽く吹き飛ばしてしまうものだった。
二人は、町外れの貧民窟に来ている。あばら家や粗末な掘っ立て小屋が立ち並び、怪しげな人相の者たちがうろうろしている。皆、一様に虚ろな顔をしていた。生きる事に疲れはて、明日の希望など何処にもない。せめて今日をどうにか生きる……そんな表情をしていた。誰が言い出したか『非人街』と呼ばれている一角である。
そんな中を、清吉はすたすた歩いて行く。やがて、一軒のあばら家の前で立ち止まった。他の家と比べると大きく、造りもしっかりしている。
「権太さん、ここでさあ」
そう言うと、清吉はあばら家に入って行く。権太も、後から続いた。
「何なんだ、ここは……」
権太は、不快そうな表情で呟いた。
目の前には、犬のような格好で這って来た女がいる。両手と両足を切り落とされ、肘と膝のあたりまでしかない。
盲目なのだろうか。目をつぶったまま、壁を手探りで伝いながら歩いて来る女がいる。
さらには、まだ十にもならないであろう幼い少女までいるのだ。
「ここはね、金持ちの大旦那が集まる場所でさあ。うちに来る客はね、これまで大勢の女を抱いてます。普通の女が相手じゃ、もう満足できねえ……そんな客のために、こんな女たちをあてがうんです。いい金になるんですよ」
得意げな表情で、清吉は言った。そんな彼の顔を、権太はまじまじと見つめる。
「こいつら、どうやって集めた?」
「ああ、それですか。いやあ、手間がかかるんですよね。たとえば、こいつですが……」
そう言うと、清吉は手足のない女を指差す。
「こいつなんか、あれですよ。両手と両足をぶった切った後、すぐに医者に手当てさせたんです。でないと、下手するとそのまま死んじまいますからね」
「なるほど。つまり、お前は外道になっちまったって訳か」
権太は低い声で、呟くように言った。だが、清吉は怯まない。
「へっ、外道ですかい。上等でさあ。俺は、外道にでもなりますよ。この世で信じられるものは、銭だけです。俺みたいな島帰りが銭を稼ぐには、人間をやめるくらいの覚悟が必要なんですよ」
清吉の瞳には、ある種の信念のようなものが感じられた。権太は思わず、視線を逸らす。目の前にいる男は、完全な外道になってしまった。
島では、気のいい青年だったのに。
「それにね、こいつらは口べらしのため親に売られたんですよ。この女たちは皆、特別な器量よしってわけじゃねえ。こいつらが大金を稼ぐためにゃ、手足や目を捨てなきゃならないんですよ。俺たちは、無理やり手足をぶった切ってるわけじゃないんです」
清吉の言葉に、権太は何も言えなかった。確かに、この辺りに住んでいる者は、ろくな仕事に就けない。生きていくためには、仕方ない部分もあるのかもしれないのだ。
一方、清吉はにやりと笑った。
「権太さん、あんたみたいな人がいてくれると助かるんですけどね。この辺りは、なんやかんや言っても食いつめ者やごろつきが多いんです。あんたが睨みを利かせれば、大抵の雑魚は逃げていきますから。それに、よその一家と揉めそうになることもあるんでさあ。どうです、手伝ってもらえませんかね」
「悪いが断る」
静かな口調で言うと、権太は背中を向ける。
「そうですかい、そりゃ残念です。ま、商売の話は抜きにして、いずれ寿司でも食いに行きましょうや」
清吉の声が聞こえてきた。だが、権太はその声を無視し立ち去って行った。
しかし、今日は勝手が違っていた。
「いらっしゃい」
来客の気配を感じた蘭二は、にこやかな表情で声をかけた。彼の視線の先には、女がひとりで立っている。年齢は、二十代の前半から後半。地味な着物姿だが、器量はなかなかのものだ。
女は席に着くなり、笑みを浮かべて蘭二を見つめる。
「あんたが蘭二さんね。噂通りの、いい男」
「えっ?」
蘭二の表情が凍りつく。この女、何か妙だ。単に蕎麦を食べに来た、というわけではなさそうな気がする。
「ねえ、お禄さんいる?」
女は、さらに聞いてきた。蘭二は、平静を取り繕いながら言葉を返す。
「えっ、ええと……お禄さんに、何か用ですか?」
「いえね、挨拶をしとこうかと思いまして」
「挨拶、ですか?」
「ええ。仕上屋の元締さんに、仕分人の者として挨拶しとこうかと思いましてね」
その瞬間、蘭二の表情が歪む。反射に、懐に呑んだ煙管へと手が伸びた。が、そんな空気をぶち壊す者が現れる。
「お春ちゃん、今日も来たよ……あれ、どしたの?」
不意に入って来たのは、建具屋の政だ。蘭二の放つ緊迫した空気を前に、呆気に取られている。
その時、お禄が奥から顔を出した。
「蘭二、どうかしたのかい?」
口ではそう言いながらも、お禄の視線は女に向けられている。
すると、女は軽く会釈した。
「どうも、お禄さん。あたしの名は、お琴です。今日は、ちょいと挨拶しに来ました。では、これで」
お琴と名乗った女は、にっこり微笑んだ。直後にすっと立ち上がり、音も無く去って行った。
「ね、ねえ……今の、誰?」
困惑した表情の政が、蘭二にそっと尋ねる。だが、蘭二にわかるはずがない。
わかることは、あのお琴が仕分人と名乗っていたことだけ──
・・・
その翌日。
権太が部屋を借りている長屋に、ひとりの男が姿を見せる。
「権太さん、いるかい?」
権太は、複雑な表情で戸を開けた。
「清吉、何の用だ?」
そう、長屋の訪問者は清吉だったのだ。複雑な表情の権太と対照的に、満面の笑みを浮かべている。
「今日はね、あんたにいい話を持って来たんですよ」
「いい話、か」
訝しげな表情になる権太に、清吉は笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、こいつは儲かる話なんですよ。是非、権太さんにも手伝っていただきたいんです」
「なんで俺に?」
さらに尋ねる権太。彼には、清吉の考えが理解できない。なぜ今になって、わざわざ自分の所に来たのだろうか。
「決まってるじゃないですか。権太さんが、俺に親切だったからですよ。島では短い付き合いでしたが、権太さんに助けてもらった恩は忘れてやしません。俺はね、受けた恩は忘れないんです。それに、あんたのその腕っぷし……燻らせとくには、勿体ないですぜ」
清吉に言われるがまま、権太は後を付いて行く。
もちろん彼は、やくざの仲間入りなどをするつもりはない。もともと権太は、組織というものに不信感を抱いている。やくざなどは、役人と同じくらい信用できない存在なのだ。
にもかかわらず、なぜ清吉の後を付いて行くのか……それはやはり、彼のことが気になるからだ。仕方ないとはいえ、やくざになってしまった清吉。まるで、昔の自分を見ているようだ。
権太はふと、ナナイと出会った時のことを思い出す。さらに、お禄と出会った時のことも。もし自分があの日、ナナイやお禄ではなく何処かのやくざと出会っていたなら、清吉と同じくやくざになっていたのかもしれなかった。
あるいは、自ら命を断っていたか──
人生とは、本当に分からないものだ。
しかし、清吉に案内されて到着した場所で見たものは、権太の甘い感傷を軽く吹き飛ばしてしまうものだった。
二人は、町外れの貧民窟に来ている。あばら家や粗末な掘っ立て小屋が立ち並び、怪しげな人相の者たちがうろうろしている。皆、一様に虚ろな顔をしていた。生きる事に疲れはて、明日の希望など何処にもない。せめて今日をどうにか生きる……そんな表情をしていた。誰が言い出したか『非人街』と呼ばれている一角である。
そんな中を、清吉はすたすた歩いて行く。やがて、一軒のあばら家の前で立ち止まった。他の家と比べると大きく、造りもしっかりしている。
「権太さん、ここでさあ」
そう言うと、清吉はあばら家に入って行く。権太も、後から続いた。
「何なんだ、ここは……」
権太は、不快そうな表情で呟いた。
目の前には、犬のような格好で這って来た女がいる。両手と両足を切り落とされ、肘と膝のあたりまでしかない。
盲目なのだろうか。目をつぶったまま、壁を手探りで伝いながら歩いて来る女がいる。
さらには、まだ十にもならないであろう幼い少女までいるのだ。
「ここはね、金持ちの大旦那が集まる場所でさあ。うちに来る客はね、これまで大勢の女を抱いてます。普通の女が相手じゃ、もう満足できねえ……そんな客のために、こんな女たちをあてがうんです。いい金になるんですよ」
得意げな表情で、清吉は言った。そんな彼の顔を、権太はまじまじと見つめる。
「こいつら、どうやって集めた?」
「ああ、それですか。いやあ、手間がかかるんですよね。たとえば、こいつですが……」
そう言うと、清吉は手足のない女を指差す。
「こいつなんか、あれですよ。両手と両足をぶった切った後、すぐに医者に手当てさせたんです。でないと、下手するとそのまま死んじまいますからね」
「なるほど。つまり、お前は外道になっちまったって訳か」
権太は低い声で、呟くように言った。だが、清吉は怯まない。
「へっ、外道ですかい。上等でさあ。俺は、外道にでもなりますよ。この世で信じられるものは、銭だけです。俺みたいな島帰りが銭を稼ぐには、人間をやめるくらいの覚悟が必要なんですよ」
清吉の瞳には、ある種の信念のようなものが感じられた。権太は思わず、視線を逸らす。目の前にいる男は、完全な外道になってしまった。
島では、気のいい青年だったのに。
「それにね、こいつらは口べらしのため親に売られたんですよ。この女たちは皆、特別な器量よしってわけじゃねえ。こいつらが大金を稼ぐためにゃ、手足や目を捨てなきゃならないんですよ。俺たちは、無理やり手足をぶった切ってるわけじゃないんです」
清吉の言葉に、権太は何も言えなかった。確かに、この辺りに住んでいる者は、ろくな仕事に就けない。生きていくためには、仕方ない部分もあるのかもしれないのだ。
一方、清吉はにやりと笑った。
「権太さん、あんたみたいな人がいてくれると助かるんですけどね。この辺りは、なんやかんや言っても食いつめ者やごろつきが多いんです。あんたが睨みを利かせれば、大抵の雑魚は逃げていきますから。それに、よその一家と揉めそうになることもあるんでさあ。どうです、手伝ってもらえませんかね」
「悪いが断る」
静かな口調で言うと、権太は背中を向ける。
「そうですかい、そりゃ残念です。ま、商売の話は抜きにして、いずれ寿司でも食いに行きましょうや」
清吉の声が聞こえてきた。だが、権太はその声を無視し立ち去って行った。
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