鬼人たちの挽歌

板倉恭司

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八月二十日 譲治の覚醒(2)

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 黒人トリオは、立ち上がった譲治をまじまじと見つめた。彼の顔から戦意が失われていないのを見てとると、楽しそうに歓声をあげる。その場で三人同時にバック転をして、獣の遠吠えのごとき奇声を発した。もはや、狂っているとしか思えない。
 その時、譲治は微かな違和感に気づいた。黒人トリオの動きがおかしい。人間離れしているのは変わらないが、微妙にキレがなくなってきた。スピードもパワーも落ちている気がする。スタミナ切れだろうか。だが、そうは見えない。呼吸は乱れていないし、顔つきにも疲れている様子はない。現に、今も楽しそうに笑い飛び跳ねている。
 では、何が起きているのか?
 
 待てよ──

 譲治の頭に、突拍子もない考えが浮かんだ。有り得ない発想だが、そもそも黒人トリオの存在からして有り得ないのだ。考えている余裕などない。勝つためには、これに賭けるしかないのだ。
 そう、こいつらとの戦いはゲームとは違う。一秒の無駄が命取りだ。しかも、敗北した時に死ぬのは自分だけではない。ならば、自身の野生の勘を信じて、決めたことをやり遂げるだけだ。

 うだうだやってる場合じゃねえ!

 譲治は、ぱっと振り向いた。凄まじい勢いで、廊下を走り出す。
 当然ながら黒人トリオも追って来るが、譲治も全速力だ。どうにか、追いつかれないくらいのラインを維持している。
 やがて階段へと移り、上の階へと素早く駆け上がる。黒人トリオは、飛ぶような動きで追って来た。走る速度、跳躍力ともに人間レベルではない。オリンピックに出れば確実に金メダルを取れるレベルだろう。譲治の動きに、ピッタリ付いて来ている。
 だが、戦いが始まった直後に比べると微妙に落ちて来ている。距離も縮まる気配がない。
 思った通りだ──

 譲治は数学が苦手で、桁が大きくなると足し算や引き算すら満足に出来ない。計算しようとすると、視界におかしなものが映ったり数字がぼやけて見えたりする。読めない漢字も多く、そっくりな漢字は見分けがつかない。学歴は、ほぼ小卒だろう。
 そうしたものと引き換えに得たのが、超人的な身体能力と不思議な感覚だ。獣の勘、とでも言おうか。特に、違和感を捉える能力に優れている。僅かな動きの変化、息遣いのタイミング、ほんの少しのスピードの差……そういったものが、くっきりと感じ取れるのだ。
 その獣の勘が、彼に教えてくれる。次に、何をすればいいかを。

 譲治は、廊下を全速力で走った。すると、後ろから罵声が聞こえてくる。あの黒人トリオのものだろう。しかし、声の調子にも僅かな変化がある。何より、先ほどまでは追いかけっこを楽しんでいるようなふしがあったが、今は明らかに苛立っている。これは、単純なスタミナ切れや、仕事を早く終わらせたいという気持ちではない。
 黒人トリオにとって、徐々に不利な状態になってきている。彼らは、それをはっきり自覚しているのではないか──
 譲治は廊下を走り抜け、反対側の階段へと向かう。
 階段に到着すると同時に、動きを止めず一気に飛び降り、下の階で着地した。黒人トリオも、付いて来てはいる。が、その速度は落ちていた。距離も開いて来ている。譲治は廊下を走りながら、ちらりと振り返った。
 その時、黒人Aが声を発した。何やら叫ぶと同時に、ひとり立ち止まる。ズボンのポケットから、何かを取り出していた。ペンのようなものを、肩に当てているのが視界の隅に入る。
 あの男が何をやっているのかはわからないが、ようやく三位一体の一角が崩れた。今が千載一遇の反撃のチャンスだ……獣の勘が、そう言っている。
 譲治は、零コンマ何秒かの間に決断した。いきなり立ち止まり、くるりと向きを変える。
 今度は、追っ手の方へと突進していった──

 黒人BとCにとって、譲治の行動は完全に想定外だったらしい。慌てて立ち止まり、反撃の体勢に入ろうとする。
 しかし間に合わなかった。無敵に思えた彼らの力にも陰りが生じている。譲治は一瞬で間合いを詰めていき、黒人Bめがけ飛び上がった。
 強烈な頭突きを、顔面に叩き込む──
 頭突きは、見事にクリーンヒットした。普通の人間なら、間違いなくノックアウトされている一撃だったが、黒人Bはよろめいただけだった。ダメージは与えたものの、致命傷にはなっていない。
 もっとも、譲治にとってはその一瞬が値千金である。着地すると同時にしゃがみ込み、黒人Bの足を掬う。Bは、抵抗も出来ず倒れた。後頭部を、したたか床に打ち付ける。
 ここで終わらすほど、譲治は甘くない。足首を掴んだまま、ハンマー投げのように回転する。そのまま力任せに放り投げた──
 八十キロは超えているであろう人体が、軽々と黒人Cめがけ飛んでいく。しかし、黒人Cはガッチリ受け止めた。恐ろしい腕力だ。
 もっとも、これは譲治の狙い通りの展開である。黒人Bの体をぶん投げると同時に、譲治も壁に飛びついていた。直後、壁を蹴る。三角飛びだ。
 投げつけられた黒人Bの体をCがガッチリ受け止めたと同時に、譲治は彼めがけ飛んでいた。
 Cの側頭部に、三角飛びからの飛び蹴りが炸裂する──
 黒人Cは、予想外の攻撃でよろめいた。受け止めた黒人Bの体を落としてしまう。そのCのドレッドヘアを、譲治は鷲掴みにした。
 渾身の力を込め、頭を壁に叩きつける──
 何かが砕けるような感触が、手に伝わってきた。恐らく頭蓋骨が割れたのだ。
 その時、黒人Aの様子が目に入る。彼は、肩に注射器を突き刺していた。
 だが二人が倒れたのを目にすると、注射器を投げ捨てる。
 奇怪な叫び声をあげ、凄まじい形相で襲いかかってきた──

 黒人Aは、いきなり床を前転した。意表を突く動きで、しかも異様に速い。譲治ですら、反応できなかった。
 次の瞬間、足がビュンと伸びてくる。床から蹴り上げたのだ──
 その蹴り上げを喰らい、譲治は吹っ飛ぶ。バイクが高速でぶつかってきたような衝撃だ。床からの蹴り上げで吹っ飛ぶなど、有り得ないのに。
 譲治は、空中でどうにかバランスを取り着地した。やはり、黒人トリオの身体能力は薬物によるものだったのだ。どういう原理かは不明だが、一時的に身体能力を異様なレベルまで上げるらしい。ただし、切れる時間も早いようだ。まして、この黒人トリオは、人間には有り得ない激しい動きで行動している。その分、切れる時間はより早くなるだろう。
 もっとも、Aは注射を打ったばかりだ。持続時間は不明たが、切れるまで動かし続けて時間を稼ぐ、というやり方は使えない。しかも、こいつは先ほどより強い。
 それでも、トリオを相手にするよりは楽だ。こいつひとりなら勝ち目はある。
 問題は、時おり上から聞こえてくる音だ。ドスンバタンと、ゴリラが暴れているかのような音である。上での戦いは、まだ続いているのだ。
 となると、ナタリーは今も生きて戦っている。
 出来るだけ早く目の前の敵を倒し、すぐに上に向かわなければ。

 その時、黒人が天を仰ぐ。突然、吠えるように歌い出した。曲名はもちろん、ジャンルもわからない奇怪な曲である。
 いや、曲というよりは……どこかの部族の祈りの言葉にも聞こえる。黒人は歌い、さらに手を叩く。低い姿勢で両手をぱちんと叩き、ゆらゆらと動き出す。完全に脱力した体で、なおも歌い続ける。

「お前、ついにイカレたんかい」

 譲治は、思わず呟いた。先ほどまでの陽気なダンサー風のキャラが、完全に変わっている。その姿は、いにしえの戦士の悪霊のようだった。
 ゆらり、と黒人が動く。体そのものが、ぐにゃりと歪んでいるようにすら見える。
 次の瞬間、体が大きく揺らいだ──
 
 黒人が側転して間合いを詰め、その長い足を振り下ろす。譲治は、背後に飛びのいて躱した。
 続けざまに放たれたのは後ろ回し蹴りだ。それも異様に速い。譲治の顔面めがけ、踵が飛んで来る。
 かろうじて躱したものの、ビュンという風圧を顔に受ける。一瞬、顔を背けてしまう。
 今度は、前蹴りが飛んで来た。譲治の腹に足裏が炸裂し、たまらず吹っ飛んでいく。
 黒人は、さらなる追撃をかけるべく突進してきた。その時、上の階から乾いた音が聞こえた。パンパンパンという音だ。村で聞いた拳銃の音に似ている。
 黒人の動きが止まった。訝しげな表情を浮かべる。その瞬間、譲治は顔を上げた。
 口にあったものを、思いきり飛ばす──
 飛んでいったものは、黒人の目に当たる。瞬間、呻き声をあげ目を押さえた。
 その一瞬の隙こそ、譲治の欲しかったものだ。先ほど喰らった飛び蹴りにより、ぐらついていた奥歯。それが、前蹴りをくらい倒れたことにより完全に折れてしまった。その砕けた奥歯を、思いきり飛ばしたのだ。
 ドーピングにより異次元レベルの身体能力を持つ男といえど、眼球を傷つけられては平気でいられない。黒人は呻き、思わず目の周囲をかきむしる。
 その瞬間、譲治は跳んだ。高く跳躍し、己の膝を黒人の顔面に叩き込む。
 同時に、彼の手は相手の喉を掴んでいた。
 人間離れした握力を一気に解放させ、一瞬にして首をへし折った──

 死体と化した黒人を放りだし、譲治は歩いていく。だが、数歩歩いた途端に崩れ落ちた。
 床に両膝を着き、荒い息を吐く。今になって、全身が痛いことに気づいた。幸いなことに骨は折れていないようだが、あちこちに強烈な痛みが走る。打撲だ。そういえば、殴られ蹴られれば痛むという普通の感覚すら忘れていた。
 それだけではない。体が異様に重いのだ。全身に鉛を流し込まれ、二百キロの大男を背中に背負っているような気分である。今まで、ずっと動き続けていたことによる疲労だ。
 しかも今日一日、ろくなものを食べていない。こんなことなら、ナタリーが運んできた食事を食べておけばよかった……などという考えが頭を掠めた。
 しかし、今さら遅い。もはや限界である。譲治は、疲労に耐えられず床に転がった。眠気を感じ、目を閉じる。このまま、何もかも忘れて眠り込んでしまいたい……という強い衝動を覚えた。
 だが、野獣のごとき声が聞こえてきた。寝入りばなに聞いたら発狂しそうになる、そんなイメージの声だ。激痛による悲鳴にも、怒りの咆哮にも聞こえる。しかも日本語ではない。
 ということは、戦いはこれからなのだ。ドーピング愛好家の怪物黒人トリオ撃破ですら、通過点でしかないらしい。
 まだ、休むわけにはいかないのだ。譲治は、どうにか立ち上がった。よろよろしながらも、階段を目指し歩いていく。
 また、あの映像が脳裏をよぎる。忘れたいが、忘れられないもの。譲治は、思わず顔をしかめた。



 譲治には、二度と思い出したくない映像がある。
 幼い頃の、飛行機事故の記憶。頭に何かが突き刺さっているのに、痛みを感じていない。横を見れば、かつて家族だったものがある。もはや人体と衣服の見分けすらつきにくいほどに潰され、ぐちゃぐちゃになったミンチのようなもの。しかも彼の全身に、臓物と血がこびりついている。
 家族のものだ──
 信じられなかった。信じたくなかった。大切なもの全てを、目の前で一瞬にして失ってしまった。だが、これは現実なのだ。
 譲治は目を閉じ、神に祈る。お願いだから、父さんと母さんと兄さんと姉さんを元に戻してください、と。この願いを叶えてくれるなら、死ぬまで悪いことはしません、とも祈った。意識がなくなるまで、ずっと祈り続けた。今まで宗教とは無縁だったが、無力な彼には神に祈る以外に出来ることがなかった。
 やがて力が尽き、意識が闇に落ちる。その寸前、譲治は誓った。

 てめえには、二度と頼らない。
 てめえの決めたことには、絶対に従わねえ。

 あの日以来、譲治は……神も、それに類するものも全て拒絶して生きてきた。その拒絶するリストの中には、後に「良識」「法律」といったものが加わる。
 世の中のほとんどの事象を「そうなんだあ凄いねえ」の一言で切り捨て、自由奔放に生きてきた。そんな譲治にも、死んで欲しくない人がいる。自身の命と同レベルで、守りたい人がいる。
 しかも今日は、その人数が増えてしまった。まさか、一日で二人も増えるとは。
 もう、失いたくない。

「誰も殺させねえよ。さっさと日本から出てけ、この腐れ兵隊ヤクザどもが」

 ぶつぶつ言いながら、譲治は進んでいった。
 



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