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九月十日 大下の捜査(1)
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「あいつは、何をしたんですか?」
高岡健太郎は、不安そうな表情で聞いてきた。
この男は児童養護施設『ちびっこの家』の代表を務めている。高岡自身も、この施設で少年時代を過ごした。高校卒業と同時に、大学に通いながらスタッフとして働くようになる。
現在は四十五歳だが、普段から子供たちと接しているせいか実年齢より若く見える顔立ちだ。小太りの体に、温厚そうな丸い顔が乗っている姿は、何となくゆるキャラを連想させる。事実、幼い子供たちからの人気は高いらしい。
そんな高岡に、大下敏行は語り出した。
「今のところ、五十人以上が焼死した鬼灯村火災からの生還者、ということだけです。私が事情聴取を担当したのですが、彼は何も見ていないというばかりでした。しかし、あれはただの火事ではありません。何も見ていない、とは思えないのですよ」
「そうですか。私も、ここ数年は全く連絡をとっていない状態です。あまり、お役には立てないかと思いますよ」
「いえいえ、そんなことは問題ありません」
そう、全く問題はない。あの男の、過去が知りたいのだから。
大下と高岡は、駅近くのカラオケボックスの一室にいる。大下は、どこで話を聞いてもよかったのだが、高岡としては他の人間には聞かせたくないらしい。
それも無理はないだろう。両者の話題は、あの桐山譲治なのだから。
桐山譲治は事故で両親を失い、『ちびっこの家』へと預けられる。親戚のうち、彼を引き取ろうと名乗り出る者はいなかったらしい。
聞けば聞くほど、哀れな話ではある。だからといって、あの男を野放しには出来ないのだ。
「桐山は、十二歳の時に同級生を殺害していますね。その動機について、何か心当たりはありますか?」
聞かれた高岡は、複雑な表情で頷いた。
「その理由は、山村伽耶にあります。桐山譲治は、伽耶を助けるために、あの子を殺したんです」
「どういうことです?」
「伽耶は当時、いじめに遭っていたんです。あの子は曲がったことが大嫌いで、理不尽な真似をする人間には立ち向かっていくような性格でした。そのため、目を付けられてしまったのでしょうね。桐山に殺された上原さんは、伽耶をいじめていた集団のリーダー格だったんですよ」
この高岡、山村伽耶のことは下の名前で呼んでいる。だが、桐山譲治のことは名字で呼んでいる。高岡が、両者に対しどのような思いを抱いているかは伝わってきた。もっとも、今日はその話をしに来たのではない。
「それは初耳です。資料を読みましたが、そのような話は書かれていなかったですね」
「でしょうね。私も事件の前から、学校に何度も伝えていました。ところが、いじめの共犯者は口を揃えて、やってないという。同級生たちに聞いても、知らないというばかりだったそうです。担任の教師の対応も、おざなりなものでした。もし学校側がきちんと調査していれば、あの事件は起きなかったかもしれないんですよ」
高岡の顔には、悔しさがにじんでいた。
山村伽耶……この少女と桐山とは、相当に親密な関係のようだ。大下の調査によると、彼女はチンピラの父とヤク中の母との間に生を受けたという。父はヤクザにもなれない半端者で、人から小銭を巻き上げる日々であった。母に至っては、娘のことを無視して昼間から覚醒剤を打っているような、ろくでもない女だったらしい。つまり、完全な育児放棄の状態だった。虐待こそされていなかったそうだが、つまりはは娘の存在すら目に入っていなかった、ということなのだろう。
その上、彼女が五歳になるかならないかの時に、両親は姿を消した。今、どこで何をしているのかは不明だ。死んでいるのか生きているのかさえわかっていない。父親は、裏社会の人間に不義理を働いていたという噂もある。消されたとしても不思議でない素性なのだ。
幸いなことに、近所の住人からの通報により、伽耶はすぐに警察により保護された。その後『ちびっこの家』に入って来る。
そんな最悪の環境で育ってきた反動なのか、彼女は異常なくらい正義感が強かったという。やがて桐山が入所してきたが、すぐに仲良くなった。特殊学級の生徒だった桐山をからかったりする者たちには、凄まじい形相で食ってかかったという話も聞いている。もっとも、いじめの話は本当に初耳だったが。
事件を起こした桐山が閉鎖病棟に送られた後も、伽耶は電話や手紙などで彼と連絡を取り合っていたらしい。さらに、鬼灯親交会にも桐山と共に参加しているが……まあ、彼女のことはいい。今、知りたいのは桐山の情報だ。
「話を整理しますね。山村伽耶さんをいじめていた集団のリーダー格が、上原さんだった。そこで桐山が怒り、上原さんを殺したと」
「そうです。より正確にいうと、あの事件の日……上原さんは取り巻きを引き連れ、伽耶をトイレに力ずくで連れ込んだのですよ。その上、コンビニで買った蕎麦《そば》を無理やり食べさせられたそうです」
「はい? 蕎麦、ですか?」
大下は戸惑った。いじめていた相手に蕎麦を食べさせるとは、どういうことだろう?
だが、すぐに思い出した。事件の日、伽耶もまた病院に運ばれたのだ。蕎麦によるアレルギー症状で、呼吸困難を起こし死にかけた。
こちらの考えを読んだかのように、高岡は頷いた。
「伽耶には、生れつき蕎麦アレルギーがあったんです。そのことは、上原さんも知っていました。にもかかわらず、彼女は伽耶に無理やり蕎麦を食べさせたんです。子供の悪ふざけでは、すまされないものがありますよ」
語る声からは、怒りが感じられた。その気持ちはわからなくもない。桐山を擁護するつもりは毛頭ないが、上原香澄のしてきたことも褒められたものばかりではなさそうだ。
「そこに桐山が駆けつけ、一瞬で上原さんの腕をへし折り蕎麦を投げ捨てました。上原さんは必死で教室に逃げまして……後は、ご存知の通りです。ところが、その事実は完全に黙殺されました。もちろん、いじめていたから殺していいという話ではありません。ですがね、桐山が駆けつけなかったら、伽耶の方が死んでいた可能性もあったんです」
高岡は、いかにも不愉快そうな表情を浮かべつつ語り終えた。
警察に訴えたが、黙殺された……有りがちな話だ。人がひとり殺された事件で、蕎麦を食べさせたかどうかという証言は、ほとんどが調べるに値しないと判断されるだろう。せいぜい、「いじめをしていた可能性があります」などと報道されるだけだ
まして、伽耶も高岡も社会的影響力の弱い人間だ。いじめの加害者たちも、口裏を合わせ知らぬ存ぜぬを決め込むだろう。一方、殺された上原香澄の父親はIT企業の重役だ。裏表どちらにも顔が利く人物だとも聞いている。マスコミは、父親の発言のみをクローズアップして伝えていたが。
大下の脳裏に、父親である上原竜太の映像が浮かぶ。
(法には絶望した。いつか、私がこの手で犯人を殺してやる)
涙を浮かべ、体を震わせながらカメラに向かい叫んでいた。犯人に復讐を誓う被害者遺族……マスコミ受けしそうな画である。しばらくは、あちこちのワイドショーで取り上げられていたのだ。嫌でも目に入って来る。
その時、ひとつの考えが浮かぶ。もし、上原竜太が事件を引き起こしたのだとしたら? 桐山への復讐のため銀星会に依頼し、鬼灯村に裏社会の人間を送り込んだのだとしたら?
いや、それはどうだろう。思わず苦笑した。桐山ひとりを殺すため、一個分隊のような人数を送りこむ……今時のヤクザにしては、やり方が派手すぎる。あまりにも不自然な点も多い。可能性のひとつとして心に留めておく程度にしよう。
「あの、どうかされましたか?」
高岡が聞いてきた。無言のまま、ひとりで苦笑している姿を見て不安になったのだろう。大下は慌てて頭を下げる。
「いえ、なんでもありません。失礼しました。あなたから見て、桐山譲治はどんな少年でした?」
その途端、高岡は目をつぶった。ふうと溜め息を吐く。
ややあって、口を開いた。
「一言でいうなら、超人です」
「は、はい? 何をおっしゃっているのですか?」
思わず聞き返していた。この男は冗談を言っているのか、と高岡の顔をまじまじと見つめる。
その顔には、冗談だとは書かれていなかった。しかも次に放れたのは、大下の度肝を抜く言葉だった。
「桐山はね、十歳の時に百メートルを八秒台で走ったんです。間違いなく、世界新記録でしょうね」
大下は何も言えず、呆然と高岡の顔を見つめた。この男、頭がおかしいのでは……という疑惑が浮かぶ。
すると、高岡は苦笑した。
「信じてもらえないのも無理はありません。この記録は、私と桐山のふたりだけで計ったものですから公式な記録にはなりません。でも、あなたも気づいているのでしょう。でなければ、わざわざ私に会いに来たりしませんから」
「な、何のことですか?」
ごまかそうとする大下に、高岡は決定的な一言を放つ。
「桐山の怖さです」
その言葉に、大下は思わず目を逸らした。一方、高岡はフッと笑みを浮かべる。直後、またしても意味不明な言葉が飛び出す。
「刑事さんは、野生のチンパンジーの体重が何キロかご存知ですか? 個体差はあるでしょうが、成体はだいたい四十キロから五十キロ程度といわれているそうです」
「はあ? 何を言ってるんだ?」
乱暴な口調で聞き返していた。やはり、高岡は頭がおかしいのかもしれない。チンパンジーの体重と桐山と、何の関係があるのだ。
だが、高岡の表情は変わらぬままだった。こちらの反応に構わず、天井を見ながら話を続ける。
「人間の場合、五十キロのフライ級ボクサーがいかに強くても、百キロのヘビー級ボクサーには勝てないのですよ。人間同士の格闘では、体格差があると勝負になりません。ところが五十キロのチンパンジーは、百キロのヘビー級ボクサーを簡単に殺せる身体能力を持っているんですよ。百二十キロの総合格闘技チャンピオンだろうが、二百キロの横綱だろうが、本気の殺意を持って襲いかかって来る五十キロのチンパンジーには、まず勝てないでしょうね。チンパンジーは、握力が二百キロ以上あるといわれています。また、自分と同程度の重さの物を、片手で持ち上げて放り投げることも出来るそうです」
不意に、高山は話を中断した。こちらの反応を確かめるかのような顔つきで、大下に視線を移す。
大下は黙ったまま、高岡を見つめるだけだ。しかし、その表情は変化していた。相手のいわんとしていることが、おぼろげながら見えてきたのだ。桐山の身長は百五十センチ強、体重は五十キロ程度ではなかったか。人間の中では小柄だが、チンパンジーはその体格でヘビー級の格闘技チャンピオンをも殺せるのだ……。
そんな大下の思いを読み取ったのか、高岡は再び語り出した。
「圧倒的な体格差の前には、優れた格闘技術も通じません。しかし、その常識が通じるのは、人間が相手の場合だけです。獣は、体格差も格闘技術の差も覆してしまえるのですよ。獣の中では、チンパンジーはさほど強い部類ではありません。ところが、そんなチンパンジーですら、殺傷能力は人間の遥か上をいっています。桐山は一応は人間ですが、野生のチンパンジー以上の殺傷能力の持ち主だったんですよ」
有り得ない、という言葉が大下の口から出かかった。だが、その言葉を途中で飲み込む。あの桐山譲治なら、有り得る話ではないのか。
そんな大下に向かい、高岡は淡々と語り続ける。
「私は思うんですよ。桐山は、事故により脳の機能に障害を持ってしまった。だが、その障害の二次的作用により、体に先祖帰りのような現象が起きたのではないかと。まあ、科学的根拠はありません。妄想やオカルトと紙一重の仮説ですがね。ただ、あの男は人間がまだ獣だった頃の……いや、それ以上の身体能力を持っていたのは間違いありません」
その時になって、大下はようやく口を開いた。
「で、でも、桐山は体育の授業を全て見学していたと聞いています。子供同士の遊びにも参加しなかったと──」
「それは、私の指示です。体育や体を使う遊びには参加してはいけない、と言ってありました。彼には、不定期ではありますが凄まじい頭痛に襲われる持病を持っており、そのため体育には参加させられない、と学校に伝えてあったのですよ。まあ、それが一番の理由ですが……当時はまだ、桐山に注目を集めたくなかったという思いもありました。まずは、普通の穏やかな日々を過ごさせてあげようと思っていたのです」
そこで、高岡は顔をしかめた。ためらうような仕草の後、再び語り出す。
「私はね、彼に普通の子供として過ごす時間をあげたかったのですよ。幼い頃だけは、平凡な子供として楽しく生きて欲しかった。しかし、私は間違っていました。大いなる力には、大いなる責任を伴う……という言葉があります。これは、監督する人間にも言えることです。桐山は、私みたいな凡人が監督できるような人間ではなかったんですよ。他人に暴力を振るってはいけない、とも言ってあったんです。あの日までは、それをきっちり守っていたのですが……」
高岡の表情は歪んでいた。その顔には、複雑な感情が浮かんでいる。今でも、桐山の事件に対し責任を感じているのだろう。大下は微かな憐れみを感じたが、今聞きたいことはその話ではない。
「今、頭痛に襲われる持病とおっしゃいましたね。具体的な病名は?」
「わかりません」
「はい? どういうことですか?」
「医師が、原因は不明だと言ったんです。事故の後遺症なのは間違いないが、病名を断定は出来ない……とのことでした。病名はともかく、発作の時の桐山は、本当に苦しそうでした。見ているこちらも辛かったですね。頭痛のせいで、学校を休むことや早退もたびたびありました。医師から薬を処方されてはいましたが、効いていたのかどうかはわからなかったです。ひどい時には、頭を抱えたままベッドで一日中うずくまっていたこともありました」
淡々と語る高岡。その話に、嘘はなさそうだ。それにしても、一日中うずくまるほどの痛みとは。あのふざけた態度からは、想像もつかない。
「では、薬はちゃんと処方されていたのですね。私が事情聴取をした時のことですが、桐山は、脳が痛くなったら薬くれるの? などと聞いてきました」
何の気なしに口から出た言葉だった。しかし、高岡の表情が強張る。
「脳、ですか……」
そこで、高岡の言葉が詰まる。ややあって、彼は異様な顔つきで口を開いた。
「これは関係あるかはわかりませんが、私が最後に桐山と会ったのは、閉鎖病棟への入院が決まった時です。彼は、頭痛を消す方法がわかったよ! と嬉しそうに言いました。その時、なぜか大量の冷や汗が、背中から湧き出たんですよ。あの時のガラス越しの不気味な笑顔を、今も忘れられません」
語り終えた高岡は、青ざめた顔をしていた。当時の記憶が、脳裏に鮮明に蘇ったのかもしれない。大下は、思わず顔をしかめる。彼もまた、あの時の記憶が蘇ったのだ。
「実は私も、彼を事情聴取した時に似た経験をしています。私は断言しますよ。鬼灯村の事件は、火の不始末による火災ではありません。あれは、日本の犯罪史上に残るような殺人事件なんです。そして桐山は、事件の根幹に関係しているはずなんですよ。ところが奴は、ふざけた発言を繰り返した挙げ句に行方不明になりました。もし、桐山が立ち寄りそうな場所をご存知でしたら、連絡いただけると助かります」
高岡健太郎は、不安そうな表情で聞いてきた。
この男は児童養護施設『ちびっこの家』の代表を務めている。高岡自身も、この施設で少年時代を過ごした。高校卒業と同時に、大学に通いながらスタッフとして働くようになる。
現在は四十五歳だが、普段から子供たちと接しているせいか実年齢より若く見える顔立ちだ。小太りの体に、温厚そうな丸い顔が乗っている姿は、何となくゆるキャラを連想させる。事実、幼い子供たちからの人気は高いらしい。
そんな高岡に、大下敏行は語り出した。
「今のところ、五十人以上が焼死した鬼灯村火災からの生還者、ということだけです。私が事情聴取を担当したのですが、彼は何も見ていないというばかりでした。しかし、あれはただの火事ではありません。何も見ていない、とは思えないのですよ」
「そうですか。私も、ここ数年は全く連絡をとっていない状態です。あまり、お役には立てないかと思いますよ」
「いえいえ、そんなことは問題ありません」
そう、全く問題はない。あの男の、過去が知りたいのだから。
大下と高岡は、駅近くのカラオケボックスの一室にいる。大下は、どこで話を聞いてもよかったのだが、高岡としては他の人間には聞かせたくないらしい。
それも無理はないだろう。両者の話題は、あの桐山譲治なのだから。
桐山譲治は事故で両親を失い、『ちびっこの家』へと預けられる。親戚のうち、彼を引き取ろうと名乗り出る者はいなかったらしい。
聞けば聞くほど、哀れな話ではある。だからといって、あの男を野放しには出来ないのだ。
「桐山は、十二歳の時に同級生を殺害していますね。その動機について、何か心当たりはありますか?」
聞かれた高岡は、複雑な表情で頷いた。
「その理由は、山村伽耶にあります。桐山譲治は、伽耶を助けるために、あの子を殺したんです」
「どういうことです?」
「伽耶は当時、いじめに遭っていたんです。あの子は曲がったことが大嫌いで、理不尽な真似をする人間には立ち向かっていくような性格でした。そのため、目を付けられてしまったのでしょうね。桐山に殺された上原さんは、伽耶をいじめていた集団のリーダー格だったんですよ」
この高岡、山村伽耶のことは下の名前で呼んでいる。だが、桐山譲治のことは名字で呼んでいる。高岡が、両者に対しどのような思いを抱いているかは伝わってきた。もっとも、今日はその話をしに来たのではない。
「それは初耳です。資料を読みましたが、そのような話は書かれていなかったですね」
「でしょうね。私も事件の前から、学校に何度も伝えていました。ところが、いじめの共犯者は口を揃えて、やってないという。同級生たちに聞いても、知らないというばかりだったそうです。担任の教師の対応も、おざなりなものでした。もし学校側がきちんと調査していれば、あの事件は起きなかったかもしれないんですよ」
高岡の顔には、悔しさがにじんでいた。
山村伽耶……この少女と桐山とは、相当に親密な関係のようだ。大下の調査によると、彼女はチンピラの父とヤク中の母との間に生を受けたという。父はヤクザにもなれない半端者で、人から小銭を巻き上げる日々であった。母に至っては、娘のことを無視して昼間から覚醒剤を打っているような、ろくでもない女だったらしい。つまり、完全な育児放棄の状態だった。虐待こそされていなかったそうだが、つまりはは娘の存在すら目に入っていなかった、ということなのだろう。
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幸いなことに、近所の住人からの通報により、伽耶はすぐに警察により保護された。その後『ちびっこの家』に入って来る。
そんな最悪の環境で育ってきた反動なのか、彼女は異常なくらい正義感が強かったという。やがて桐山が入所してきたが、すぐに仲良くなった。特殊学級の生徒だった桐山をからかったりする者たちには、凄まじい形相で食ってかかったという話も聞いている。もっとも、いじめの話は本当に初耳だったが。
事件を起こした桐山が閉鎖病棟に送られた後も、伽耶は電話や手紙などで彼と連絡を取り合っていたらしい。さらに、鬼灯親交会にも桐山と共に参加しているが……まあ、彼女のことはいい。今、知りたいのは桐山の情報だ。
「話を整理しますね。山村伽耶さんをいじめていた集団のリーダー格が、上原さんだった。そこで桐山が怒り、上原さんを殺したと」
「そうです。より正確にいうと、あの事件の日……上原さんは取り巻きを引き連れ、伽耶をトイレに力ずくで連れ込んだのですよ。その上、コンビニで買った蕎麦《そば》を無理やり食べさせられたそうです」
「はい? 蕎麦、ですか?」
大下は戸惑った。いじめていた相手に蕎麦を食べさせるとは、どういうことだろう?
だが、すぐに思い出した。事件の日、伽耶もまた病院に運ばれたのだ。蕎麦によるアレルギー症状で、呼吸困難を起こし死にかけた。
こちらの考えを読んだかのように、高岡は頷いた。
「伽耶には、生れつき蕎麦アレルギーがあったんです。そのことは、上原さんも知っていました。にもかかわらず、彼女は伽耶に無理やり蕎麦を食べさせたんです。子供の悪ふざけでは、すまされないものがありますよ」
語る声からは、怒りが感じられた。その気持ちはわからなくもない。桐山を擁護するつもりは毛頭ないが、上原香澄のしてきたことも褒められたものばかりではなさそうだ。
「そこに桐山が駆けつけ、一瞬で上原さんの腕をへし折り蕎麦を投げ捨てました。上原さんは必死で教室に逃げまして……後は、ご存知の通りです。ところが、その事実は完全に黙殺されました。もちろん、いじめていたから殺していいという話ではありません。ですがね、桐山が駆けつけなかったら、伽耶の方が死んでいた可能性もあったんです」
高岡は、いかにも不愉快そうな表情を浮かべつつ語り終えた。
警察に訴えたが、黙殺された……有りがちな話だ。人がひとり殺された事件で、蕎麦を食べさせたかどうかという証言は、ほとんどが調べるに値しないと判断されるだろう。せいぜい、「いじめをしていた可能性があります」などと報道されるだけだ
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「いえ、なんでもありません。失礼しました。あなたから見て、桐山譲治はどんな少年でした?」
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ややあって、口を開いた。
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「は、はい? 何をおっしゃっているのですか?」
思わず聞き返していた。この男は冗談を言っているのか、と高岡の顔をまじまじと見つめる。
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すると、高岡は苦笑した。
「信じてもらえないのも無理はありません。この記録は、私と桐山のふたりだけで計ったものですから公式な記録にはなりません。でも、あなたも気づいているのでしょう。でなければ、わざわざ私に会いに来たりしませんから」
「な、何のことですか?」
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「桐山の怖さです」
その言葉に、大下は思わず目を逸らした。一方、高岡はフッと笑みを浮かべる。直後、またしても意味不明な言葉が飛び出す。
「刑事さんは、野生のチンパンジーの体重が何キロかご存知ですか? 個体差はあるでしょうが、成体はだいたい四十キロから五十キロ程度といわれているそうです」
「はあ? 何を言ってるんだ?」
乱暴な口調で聞き返していた。やはり、高岡は頭がおかしいのかもしれない。チンパンジーの体重と桐山と、何の関係があるのだ。
だが、高岡の表情は変わらぬままだった。こちらの反応に構わず、天井を見ながら話を続ける。
「人間の場合、五十キロのフライ級ボクサーがいかに強くても、百キロのヘビー級ボクサーには勝てないのですよ。人間同士の格闘では、体格差があると勝負になりません。ところが五十キロのチンパンジーは、百キロのヘビー級ボクサーを簡単に殺せる身体能力を持っているんですよ。百二十キロの総合格闘技チャンピオンだろうが、二百キロの横綱だろうが、本気の殺意を持って襲いかかって来る五十キロのチンパンジーには、まず勝てないでしょうね。チンパンジーは、握力が二百キロ以上あるといわれています。また、自分と同程度の重さの物を、片手で持ち上げて放り投げることも出来るそうです」
不意に、高山は話を中断した。こちらの反応を確かめるかのような顔つきで、大下に視線を移す。
大下は黙ったまま、高岡を見つめるだけだ。しかし、その表情は変化していた。相手のいわんとしていることが、おぼろげながら見えてきたのだ。桐山の身長は百五十センチ強、体重は五十キロ程度ではなかったか。人間の中では小柄だが、チンパンジーはその体格でヘビー級の格闘技チャンピオンをも殺せるのだ……。
そんな大下の思いを読み取ったのか、高岡は再び語り出した。
「圧倒的な体格差の前には、優れた格闘技術も通じません。しかし、その常識が通じるのは、人間が相手の場合だけです。獣は、体格差も格闘技術の差も覆してしまえるのですよ。獣の中では、チンパンジーはさほど強い部類ではありません。ところが、そんなチンパンジーですら、殺傷能力は人間の遥か上をいっています。桐山は一応は人間ですが、野生のチンパンジー以上の殺傷能力の持ち主だったんですよ」
有り得ない、という言葉が大下の口から出かかった。だが、その言葉を途中で飲み込む。あの桐山譲治なら、有り得る話ではないのか。
そんな大下に向かい、高岡は淡々と語り続ける。
「私は思うんですよ。桐山は、事故により脳の機能に障害を持ってしまった。だが、その障害の二次的作用により、体に先祖帰りのような現象が起きたのではないかと。まあ、科学的根拠はありません。妄想やオカルトと紙一重の仮説ですがね。ただ、あの男は人間がまだ獣だった頃の……いや、それ以上の身体能力を持っていたのは間違いありません」
その時になって、大下はようやく口を開いた。
「で、でも、桐山は体育の授業を全て見学していたと聞いています。子供同士の遊びにも参加しなかったと──」
「それは、私の指示です。体育や体を使う遊びには参加してはいけない、と言ってありました。彼には、不定期ではありますが凄まじい頭痛に襲われる持病を持っており、そのため体育には参加させられない、と学校に伝えてあったのですよ。まあ、それが一番の理由ですが……当時はまだ、桐山に注目を集めたくなかったという思いもありました。まずは、普通の穏やかな日々を過ごさせてあげようと思っていたのです」
そこで、高岡は顔をしかめた。ためらうような仕草の後、再び語り出す。
「私はね、彼に普通の子供として過ごす時間をあげたかったのですよ。幼い頃だけは、平凡な子供として楽しく生きて欲しかった。しかし、私は間違っていました。大いなる力には、大いなる責任を伴う……という言葉があります。これは、監督する人間にも言えることです。桐山は、私みたいな凡人が監督できるような人間ではなかったんですよ。他人に暴力を振るってはいけない、とも言ってあったんです。あの日までは、それをきっちり守っていたのですが……」
高岡の表情は歪んでいた。その顔には、複雑な感情が浮かんでいる。今でも、桐山の事件に対し責任を感じているのだろう。大下は微かな憐れみを感じたが、今聞きたいことはその話ではない。
「今、頭痛に襲われる持病とおっしゃいましたね。具体的な病名は?」
「わかりません」
「はい? どういうことですか?」
「医師が、原因は不明だと言ったんです。事故の後遺症なのは間違いないが、病名を断定は出来ない……とのことでした。病名はともかく、発作の時の桐山は、本当に苦しそうでした。見ているこちらも辛かったですね。頭痛のせいで、学校を休むことや早退もたびたびありました。医師から薬を処方されてはいましたが、効いていたのかどうかはわからなかったです。ひどい時には、頭を抱えたままベッドで一日中うずくまっていたこともありました」
淡々と語る高岡。その話に、嘘はなさそうだ。それにしても、一日中うずくまるほどの痛みとは。あのふざけた態度からは、想像もつかない。
「では、薬はちゃんと処方されていたのですね。私が事情聴取をした時のことですが、桐山は、脳が痛くなったら薬くれるの? などと聞いてきました」
何の気なしに口から出た言葉だった。しかし、高岡の表情が強張る。
「脳、ですか……」
そこで、高岡の言葉が詰まる。ややあって、彼は異様な顔つきで口を開いた。
「これは関係あるかはわかりませんが、私が最後に桐山と会ったのは、閉鎖病棟への入院が決まった時です。彼は、頭痛を消す方法がわかったよ! と嬉しそうに言いました。その時、なぜか大量の冷や汗が、背中から湧き出たんですよ。あの時のガラス越しの不気味な笑顔を、今も忘れられません」
語り終えた高岡は、青ざめた顔をしていた。当時の記憶が、脳裏に鮮明に蘇ったのかもしれない。大下は、思わず顔をしかめる。彼もまた、あの時の記憶が蘇ったのだ。
「実は私も、彼を事情聴取した時に似た経験をしています。私は断言しますよ。鬼灯村の事件は、火の不始末による火災ではありません。あれは、日本の犯罪史上に残るような殺人事件なんです。そして桐山は、事件の根幹に関係しているはずなんですよ。ところが奴は、ふざけた発言を繰り返した挙げ句に行方不明になりました。もし、桐山が立ち寄りそうな場所をご存知でしたら、連絡いただけると助かります」
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ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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