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ふたりの終焉
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「ここなら大丈夫だから。安心して」
職員は、にっこり微笑む。恰幅のいい体格の中年女性で、田舎の肝っ玉母さんといった感じだ。そばにいるだけで、何となく安心する。晴美の不安も、少しだけ和らいでいった。
晴美が今いるのは、ドメスティックバイオレンス(DV)またはジェンダーバイオレンス(GV)に遭った被害者を、加害者である配偶者などから隔離し、保護するための民間施設である。友人たちのつてを頼りに、僅かな荷物とスマホを持ってここに来たのだ。
簡単な手続きをした後、奥の部屋へと通された。六畳ほどの広さで、殺風景だが生活に必要なものは揃っている。職員の説明を聴いた後、おずおずと尋ねた。
「あの、あたしはここにいていいんですか?」
「もちろん。勘違いしてるみたいだけど、言葉の暴力でもDVは成立するの。あなたは、今まで言葉の暴力をずっと振るわれてきた。もう、我慢する必要なんかない」
そう言って、職員は晴美の手を握りしめる。
「話は、幸恵さんから聞かせてもらった。あなたの気持ちもわかる。でもね、このままだと確実に共倒れになる。あなたたちみたいなケースを、今までたくさん見てきたから」
「は、はい。あたしも、そう思ってここに来ました」
「よく聞いて。あなたは悪くない。旦那さんは、あなたを助けるために左腕を失ったと言った。でもね、それは事故なんだよ。あなたが、刀を振るって切り落としたわけじゃない。あなたは、何も悪くないんだよ」
職員の言葉は、力強くて優しい。晴美は、救われたような気分になっていた。
「それにね、たとえ命の恩人であっても、あなたを奴隷扱いする権利はない。このままだと、あなたが死ぬか旦那さんが死ぬかのどちらかだよ」
職員の言う通りだ。
あの時、晴美は自身の裡に芽生えた殺意を、はっきりと感じた。このままだと、いつか隆之を殺してしまうかも知れない……そう思ったからこそ、家を出る決意をしたのだ。
その時だった。向こうの方から、とんでもない声が聞こえてきたのだ。
「お前ら、晴美をどこにやった!」
聴こえてきたのは、間違いなく隆之の声だ。どうして、ここがわかったのだ?
その理由は、すぐに判明した。スマホだ。GPS機能で、こちらの位置を把握できるではないか。
どうして、こんな簡単なことに気付かなかった?
「晴美! 出てこい! 逃げることなんか出来ないんだよ!」
またしても声が聞こえてきた。さらに、別の人間の悲鳴も……まともではない。完全に狂っている。
このままでは、人を殺しかねない……晴美は顔をしかめ、出ていこうとした。自分のせいで、施設に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
その時、職員が部屋に飛び込んで来た。
「あなたは、ここに隠れていなさい! 今、警察呼んだから!」
「す、すみません! 私のせいで──」
「悪いのは、あなたじゃない! あの男よ! あいつ、完全に狂ってる! 絶対に、ここを出ちゃ駄目よ!」
そう言うと、慌ただしい勢いで出て行った。
やがて、獣のように喚き散らす声が聴こえてきた。続いて、大勢の男たちの声も。晴美は呆然となり、部屋でしゃがみ込んでいた。
夜、晴美は部屋でテレビを観ていた。画面に出ているのは、隆之の写真だ。高校生の時に新人賞を取り、その後も四冊の本を書き出版していた作家の起こした事件である。それなりに世間の耳目も集めやすいだろう。
テレビからは、コメンテーターの声が聴こえてくる。
(彼こそ、まさにDV加害者の典型ですね)
したり顔でべらべらと語るコメンテーターを、晴美はぼんやりとした顔で眺めていた。当事者のはずなのに、他人事のようであった。
・・・
現場にいた人間の話によれば、現れた隆之は包丁を手に持っていた。目は血走り、息は荒い。寝癖だらけのボサボサの髪を振り乱し、職員を睨みつけた。
「晴美! どこだ!」
喚き、包丁を振り上げた。すると、ひとりの女性職員が、サスマタを手に前に出て来る。
サスマタとは、暴漢を捕獲するための武具である。先端にU字型の金具が付いており、柄の長さは二メートルほどある。扱いにはそれなりの鍛練が必要だが、使いこなせれば刃物を持った暴漢相手でも取り押さえられる。
「落ち着いてください。まずは、話し合いましょう。包丁を、床においてください」
職員の口調は穏やかなものだった。敵意は全く感じられない。しかし、隆之には通じなかった。
「お前ら、晴美をどこにやった!」
吠えながら、包丁を振りかざして詰め寄る。その瞬間、サスマタで動きを止められた。U字金具の部分が、隆之の胴の辺りを挟み込む。さらに長い柄に遮られ、進むことが出来ない。さらに、ふたりの職員がサスマタを手に現れた。こうなっては、勝ち目はない。
しかし、隆之は止まらなかった。包丁を振り回し、なおも抵抗を続ける。
「離せ! お前らは何もわかってないんだ! 一目だけでも、晴美と会わせろ!」
必死の形相で怒鳴り暴れるが、サスマタに止められて進めない。もともと、隆之はスポーツの経験がなく体力もない。しかも左手がない上、右手に包丁を握っている。腹を挟んでいるサスマタを、どうにも出来ないのだ。
やがて、数人の警官が到着する。警官は隆之を取り押さえ、連行していった。
「もう大丈夫。しばらくは、留置場から出て来れないから。それに、こんな事件を起こしたら、判事も晴美さんの味方になってくれる。離婚の裁判も、有利に進められるよ」
職員は、そう言っていた。
・・・
晴美は、今後のことを思った。いずれ、裁判になるだろう。あの隆之の様子では、すんなり離婚とは行きそうもない。裁判ともなれば、果たしてどれだけの時間がかかるだろうか。
考えるだけで、頭が痛い。
もっとも裁判になれば、あの時に何が起きたかを調べられる。心の隅に引っ掛かっていた疑問に、ケリをつけられる。
晴美は、異様な感覚を覚えていた。
やっと、自由になれたはずだった。しかし、不安が消えない。なぜか、胸のあたりに異様な感覚を覚えていた。漠然とした不安が、重くのしかかっている。
仮に、このまま離婚が成立したとして……それで、全て丸く収まるのだろうか。
隆之は、いつかまた来るのではないだろうか。ストーカーと化して、いつまでも付きまとって来るのではないだろうか。
晴美は、スマホを手にした。誰かと話していなければ、不安で押し潰されそうだった。彼女は立ち上がり、スマホを持ったまま、せわしなく室内を歩き出す。
だが、その足が止まった。奇妙な感覚が、足裏から広がっていくのだ。彼女は、震えながら足元に視線を移す。
足の甲が、真っ青になっていた。血が一瞬にして引いていき、不気味な色になっている。まるで、ホラー映画に出て来るゾンビのようだ。
ゾンビ?
思い浮かんだ単語に、彼女はぞっとなった。得体の知れない恐怖が、体を駆け巡る。
直後、足から力が抜けていった──
立っていられなくなり、晴美は倒れた。両足が、全く動かないのだ。どんなに頑張っても、力が入らない。
やがて、麻痺はどんどん上がっていく。太ももから腰、さらに腹まで……恐怖のあまり、彼女は叫ぼうとした。
「誰か……助けて」
蚊の鳴くような声に、晴美は愕然となった。大きな声が出せないのだ。下半身が完全に麻痺し、腹に力が入らない。そのため、大きな声が出ないのだ。
その時、胸に鋭い痛みを感じた。死の恐怖を感じ、懸命に腕だけで這おうとする。
だが、遅かった。
晴美の心臓は、停止した──
職員は、にっこり微笑む。恰幅のいい体格の中年女性で、田舎の肝っ玉母さんといった感じだ。そばにいるだけで、何となく安心する。晴美の不安も、少しだけ和らいでいった。
晴美が今いるのは、ドメスティックバイオレンス(DV)またはジェンダーバイオレンス(GV)に遭った被害者を、加害者である配偶者などから隔離し、保護するための民間施設である。友人たちのつてを頼りに、僅かな荷物とスマホを持ってここに来たのだ。
簡単な手続きをした後、奥の部屋へと通された。六畳ほどの広さで、殺風景だが生活に必要なものは揃っている。職員の説明を聴いた後、おずおずと尋ねた。
「あの、あたしはここにいていいんですか?」
「もちろん。勘違いしてるみたいだけど、言葉の暴力でもDVは成立するの。あなたは、今まで言葉の暴力をずっと振るわれてきた。もう、我慢する必要なんかない」
そう言って、職員は晴美の手を握りしめる。
「話は、幸恵さんから聞かせてもらった。あなたの気持ちもわかる。でもね、このままだと確実に共倒れになる。あなたたちみたいなケースを、今までたくさん見てきたから」
「は、はい。あたしも、そう思ってここに来ました」
「よく聞いて。あなたは悪くない。旦那さんは、あなたを助けるために左腕を失ったと言った。でもね、それは事故なんだよ。あなたが、刀を振るって切り落としたわけじゃない。あなたは、何も悪くないんだよ」
職員の言葉は、力強くて優しい。晴美は、救われたような気分になっていた。
「それにね、たとえ命の恩人であっても、あなたを奴隷扱いする権利はない。このままだと、あなたが死ぬか旦那さんが死ぬかのどちらかだよ」
職員の言う通りだ。
あの時、晴美は自身の裡に芽生えた殺意を、はっきりと感じた。このままだと、いつか隆之を殺してしまうかも知れない……そう思ったからこそ、家を出る決意をしたのだ。
その時だった。向こうの方から、とんでもない声が聞こえてきたのだ。
「お前ら、晴美をどこにやった!」
聴こえてきたのは、間違いなく隆之の声だ。どうして、ここがわかったのだ?
その理由は、すぐに判明した。スマホだ。GPS機能で、こちらの位置を把握できるではないか。
どうして、こんな簡単なことに気付かなかった?
「晴美! 出てこい! 逃げることなんか出来ないんだよ!」
またしても声が聞こえてきた。さらに、別の人間の悲鳴も……まともではない。完全に狂っている。
このままでは、人を殺しかねない……晴美は顔をしかめ、出ていこうとした。自分のせいで、施設に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
その時、職員が部屋に飛び込んで来た。
「あなたは、ここに隠れていなさい! 今、警察呼んだから!」
「す、すみません! 私のせいで──」
「悪いのは、あなたじゃない! あの男よ! あいつ、完全に狂ってる! 絶対に、ここを出ちゃ駄目よ!」
そう言うと、慌ただしい勢いで出て行った。
やがて、獣のように喚き散らす声が聴こえてきた。続いて、大勢の男たちの声も。晴美は呆然となり、部屋でしゃがみ込んでいた。
夜、晴美は部屋でテレビを観ていた。画面に出ているのは、隆之の写真だ。高校生の時に新人賞を取り、その後も四冊の本を書き出版していた作家の起こした事件である。それなりに世間の耳目も集めやすいだろう。
テレビからは、コメンテーターの声が聴こえてくる。
(彼こそ、まさにDV加害者の典型ですね)
したり顔でべらべらと語るコメンテーターを、晴美はぼんやりとした顔で眺めていた。当事者のはずなのに、他人事のようであった。
・・・
現場にいた人間の話によれば、現れた隆之は包丁を手に持っていた。目は血走り、息は荒い。寝癖だらけのボサボサの髪を振り乱し、職員を睨みつけた。
「晴美! どこだ!」
喚き、包丁を振り上げた。すると、ひとりの女性職員が、サスマタを手に前に出て来る。
サスマタとは、暴漢を捕獲するための武具である。先端にU字型の金具が付いており、柄の長さは二メートルほどある。扱いにはそれなりの鍛練が必要だが、使いこなせれば刃物を持った暴漢相手でも取り押さえられる。
「落ち着いてください。まずは、話し合いましょう。包丁を、床においてください」
職員の口調は穏やかなものだった。敵意は全く感じられない。しかし、隆之には通じなかった。
「お前ら、晴美をどこにやった!」
吠えながら、包丁を振りかざして詰め寄る。その瞬間、サスマタで動きを止められた。U字金具の部分が、隆之の胴の辺りを挟み込む。さらに長い柄に遮られ、進むことが出来ない。さらに、ふたりの職員がサスマタを手に現れた。こうなっては、勝ち目はない。
しかし、隆之は止まらなかった。包丁を振り回し、なおも抵抗を続ける。
「離せ! お前らは何もわかってないんだ! 一目だけでも、晴美と会わせろ!」
必死の形相で怒鳴り暴れるが、サスマタに止められて進めない。もともと、隆之はスポーツの経験がなく体力もない。しかも左手がない上、右手に包丁を握っている。腹を挟んでいるサスマタを、どうにも出来ないのだ。
やがて、数人の警官が到着する。警官は隆之を取り押さえ、連行していった。
「もう大丈夫。しばらくは、留置場から出て来れないから。それに、こんな事件を起こしたら、判事も晴美さんの味方になってくれる。離婚の裁判も、有利に進められるよ」
職員は、そう言っていた。
・・・
晴美は、今後のことを思った。いずれ、裁判になるだろう。あの隆之の様子では、すんなり離婚とは行きそうもない。裁判ともなれば、果たしてどれだけの時間がかかるだろうか。
考えるだけで、頭が痛い。
もっとも裁判になれば、あの時に何が起きたかを調べられる。心の隅に引っ掛かっていた疑問に、ケリをつけられる。
晴美は、異様な感覚を覚えていた。
やっと、自由になれたはずだった。しかし、不安が消えない。なぜか、胸のあたりに異様な感覚を覚えていた。漠然とした不安が、重くのしかかっている。
仮に、このまま離婚が成立したとして……それで、全て丸く収まるのだろうか。
隆之は、いつかまた来るのではないだろうか。ストーカーと化して、いつまでも付きまとって来るのではないだろうか。
晴美は、スマホを手にした。誰かと話していなければ、不安で押し潰されそうだった。彼女は立ち上がり、スマホを持ったまま、せわしなく室内を歩き出す。
だが、その足が止まった。奇妙な感覚が、足裏から広がっていくのだ。彼女は、震えながら足元に視線を移す。
足の甲が、真っ青になっていた。血が一瞬にして引いていき、不気味な色になっている。まるで、ホラー映画に出て来るゾンビのようだ。
ゾンビ?
思い浮かんだ単語に、彼女はぞっとなった。得体の知れない恐怖が、体を駆け巡る。
直後、足から力が抜けていった──
立っていられなくなり、晴美は倒れた。両足が、全く動かないのだ。どんなに頑張っても、力が入らない。
やがて、麻痺はどんどん上がっていく。太ももから腰、さらに腹まで……恐怖のあまり、彼女は叫ぼうとした。
「誰か……助けて」
蚊の鳴くような声に、晴美は愕然となった。大きな声が出せないのだ。下半身が完全に麻痺し、腹に力が入らない。そのため、大きな声が出ないのだ。
その時、胸に鋭い痛みを感じた。死の恐怖を感じ、懸命に腕だけで這おうとする。
だが、遅かった。
晴美の心臓は、停止した──
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