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因縁の再会
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世の中ってのは、おかしな具合に出来てるんだよな。特に俺みたいな特殊な稼業をしている奴は、本当に予想もしなかったことに巻き込まれちまう。
俺がお京に接触したのは。純粋に奴の腕が目当てだった。この殺し屋稼業を続けていく以上、腕の立つ仲間が必要だ。だから、お京たちと手を組んだわけだ。
それが、めぐりめぐって古い因縁に決着をつけることになるとはな。この世に神様って奴が本当にいるのだとしたら、そいつは恐ろしく性格の悪い奴だよ。俺たち人間の苦しむ姿を雲の上から見て、けらけら笑っているんだろうな。
・・・
日も暮れようかという時間に、藤村左門はひとりで竹林の中を歩いていた。その足取りは重く、表情も暗い。町を見回っている時のような、へらへらした態度は消え失せていた。
しばらく歩いた後、彼が到着したのは古いあばら家であった。かつては、どこかの商人が愛人との逢い引きに使っていたらしいのだが……十年ほど前に商人は亡くなり、愛人も江戸を離れている。
そして今は、逢い引きなどという言葉とは最も縁遠い者が住み着いていた。
左門は、あばら家の前で立ち止まった。溜息を吐き、無言で邸内に入っていく。
目指す相手は、すぐに見つかった。縁側に腰かけ、荒れ放題の庭をぼんやり眺めている。侵入者である左門のことなど、見ようともしていない。
左門は、距離を空けた位置で立ち止まった。改めて、かつて兄弟子だった者を見つめる。顔は老け込んだが、体つきは全く衰えていないように見える。着物はみすぼらしいものだが、裾から覗く腕は筋肉質だ。傍らには、抜き身の刀が置かれている。
この男こそ、雉間正厳である。左門のかつての兄弟子であり、お京の仇のひとりでもあった。
「雉間さん、久しぶりですな」
そっと声をかけると、雉間は面倒くさそうに口を開いた。
「誰かと思えば、藤村ではないか。今、何をしているのだ?」
こちらを見もせず答える。縁側に座りこんだまま、荒れ放題の庭の眺めていた。草は伸び放題であり、虫もぶんぶん飛んでいる。
「見ての通りの見回り同心ですよ。世間では、案山子などと呼ばれております」
「情けない奴だ。かつて先生の下で修行していた時、俺とまともに勝負できるのはお前だけだった。そのお前が、案山子とはな……」
言いながら、首だけをこちらに向けた。
既に四十を過ぎた年齢のはずなのだが、目つきの鋭さは衰えていない。睨みつけるかのような表情で語り続ける。
「俺はな、後輩のお前に抜かされたくない……その一念で技を磨いてきた。結果、俺は誰にも負けない腕を得た」
「そうでしたね。私も、あなたとは竹刀で何度も立ち合いましたなあ。しかし、三回に一度……いや、四回に一度くらいしか勝てなかったですね。あなたは、本当に強かった」
語る左門の顔には、笑みが浮かんでいる。そう、この雉間の剣技は素晴らしいものだった。単なる小手先の技ではない。彼の太刀筋からは、真の殺気を、気迫を感じた。稽古の度に竹刀で手ひどく打ち据えられ、生傷が絶えなかった。
にもかかわらず、若かりし頃の左門は雉間に何度も立ち向かっていった。周りから呆れられながらも、雉間との稽古をやめない。竹刀で打ちのめされながらも、痛みに耐え立ち上がり向かっていく。やがて、四回に一度は一本を取れるようになった。
左門にとって、本当の意味で剣の師匠と呼べるのは、この雉間なのかもしれない。もっとも、その磨いた腕も今では発揮する場がないのだが──
「何を言っている。他の者たちは、十回に一度も勝てなかったぞ。先生ですら、俺には勝てなくなっていたよ。しまいには、なんだかんだ理由をつけ俺との稽古を避ける始末だ。情けない男だよ。あれで、剣術の師範とは呆れたものだ」
吐き捨てるような口調だった。
雉間の言葉は嘘ではない。確かに、師範の田所は雉間との稽古を避けていた。はっきり言うなら、雉間から逃げていたのだ。
「あの頃の俺に、向かってきたのはお前だけだ。お前との稽古だけが、俺に緊張感と充実感を与えてくれた。あのまま稽古を続けていれば、お前は俺と同等の腕前になっていたかもしれんな。いや、俺以上になっていても不思議ではない。お前は、本当に強かった」
しみじみと語る雉間。その言葉は、お世辞ではなさそうだ。そもそも、お世辞など言うような男ではない。左門は、形容の出来ない何かが込み上げて来るのを感じていた。
「先生を斬った理由は、あなたに勝てなくなったからですか?」
穏やかな口調で尋ねる。そう、雉間は道場の師範である田所を斬ったのだ。
あの日のことは、今も覚えている。左門らが道場に行ったところ、田所が血まみれで倒れていた。傍らには、己の師範を冷たい目で見下ろす雉間が立っている。その手には、真剣が握られていた。
左門らの視線に気づくと、雉間は焦る様子もなく悠然とした態度で去っていく。その頃になって、弟子たちはやっと動いた。田所の側に駆け寄るが、時すでに遅く死亡していた。死因は、刀傷によるものだった。
以後、雉間の行方はわからないままだった。左門は江戸で見回り同心となり……紆余曲折の後に裏の世界へと足を踏み入れる。
さらに時が経ち、裏の情報網を駆使した結果、雉間が江戸にいることを知った。だが、会いたいという気分にはならなかった。雉間は師を殺した相手であるが、今さら仇討ちなど、する気になれない。
雉間の方は、冷めた表情で口を開く。
「違う。あの日、いきなり先生に呼び出されたのだ。そこで俺は道場に行った。すると、何の口上もなく真剣で斬りかかってきたのだ。あれは決闘でも何でもない。完全な不意打ちだ。斬らねば斬られていた、だから斬った。それだけのことだ。俺は、自分が罪を犯したとは思っていない」
そんなことだろう、とは思っていた。
晩年の田所は、雉間に対し明らかに怯えていた。同時に、己の腕を超えてしまった雉間に激しい嫉妬心を抱いていたことも、弟子たち全員が感づいていた。
そんな思いが頭をよぎった時、雉間の表情が変わる。
「藤村、お前は何をしに来たのだ? まさか、昔話をしにきただけなのか?」
「そうです。昔話をしに来たのです」
答える左門を、雉間はじろりと睨んだ。
「俺はな、あれから大勢の人を斬った。斬って斬って斬りまくった。いつか、俺を殺してくれる強者と出会うためにな。ところが、誰も俺には勝てなかった。俺の人生を、終わらせてはくれなかった。一度、修羅の道に身を落とした者は、仏すら救ってはくれん」
何かに憑かれたような目で語る雉間に、左門は深い憐れみを覚えた。
この男は、若い頃と何も変わっていない。心も体も、剣に支配されてしまっている。財産も地位も名誉も、雉間にはなんら価値のないものなのだ。友と酒を酌み交わしたり、家族と食卓を囲むといった幸せですら、彼には何の値打ちもない。
雉間の幸福は、斬り合いの中にしかないのだ──
「なあ藤村、久しぶりに立ち合わんか? お前となら、面白い勝負ができそうだ」
言ったかと思うと、雉間は立ち上がる。その目は、異様な輝きを帯びている。
左門は、思わず苦笑した。
「私は、この刀を抜く気はありません」
「何だと!? どういうことだ!?」
血相を変える雉間に向かい、左門は静かな口調で語り出した。
「私はね、奉行所の役人をしています。同心になった時は、理想に燃えていましたよ。世の中の矛盾を正そう……当時は、本気でそう思っていました」
語る左門の顔に、笑みが浮かぶ。だが、その笑みは自嘲であった。
あの頃の左門は、本気で世の中を変えられると思っていた。弱き者の泣く現状を、どうにかしたい……そのため、しゃにむに働いていたこともあった。
ところが、ある事件により奉行所の裏側を知らされる。その時、心の底から絶望した。以来、死人のように生きることを選んだ。挙げ句、付いた渾名が案山子だ。
「しかしね、現実は違っていたのです。奉行所は、腐りきった場所でした。要領と金と権力が全ての、ろくでもない世界でしたよ。権力者の息子だという理由で、人を殺した者が解き放ちになっている……そんなものを、幾度となく見せつけられてきました」
「お前は何が言いたい?」
問うてきた雉間の目には、あからさまな殺気がある。今すぐにでも斬りかかって来そうな雰囲気だ。ひょっとしたら、斬り合いのみならず人の命を奪うことにも快楽を見いだしているのか。
今の雉間を尊敬は出来ない。それでも、彼を羨む気持ちはある。雉間は、あの頃から変わっていない。今も純粋に、己の剣技を高めることのみを追い続けているのだ。自分とは違う。
左門は、歪んだ表情で口を開いた。
「私はね、何もかも嫌になってしまったんですよ。奉行所にいる限り、しょせんは権力者の犬でしかありません。そこで決めました。奉行所にいる間は、絶対に刀を抜かないと誓ったのです。この誓いを破るのは、役人を辞める時です。そして私は、役人を辞める気はありません。一生、辞めないつもりです」
左門の偽らざる本音であった。今まで、誰にも告げず裡に秘めていた決意……それを今、初めて他人にさらけ出した。
純粋だった若き日の記憶が、鮮やかに蘇る。この雉間に勝つためだけに、血の小便が出るような修行に耐え、ひたすら体を鍛え抜き技を磨いてきた。その必死で磨いてきた己の剣技を、権力者のためなどに用いたくはない。ましてや、人を斬るなどもっての他だ。残りの生涯を、案山子として生きる──
しかし、雉間にはわかってもらえなかった。
「ならば、抜かなくてはならない状況にするまでだな。さあ、楽しもうではないか」
低い声で言った直後、脇に置かれていた刀を手にする。だが、左門はすっと後方に下がった。
「あいにくですがね、私は逃げ足が早いのですよ。それに、焦る必要はありません。いずれ、ここに刺客が来ます。今の私より、遥かに手強いと思われる女がね」
「女だと?」
訝しげな顔つきの雉間だったが、直後に左門の口から出た言葉に表情が一変する。
「あなたは、お忘れになったのですか。かつて、あなたたちは山奥にある尾仁之村なる集落を襲い、住人たちのほとんどを殺したそうですね。ところが、お京という女が生き延びたんですよ。彼女は、あなたの残した書き置きだけを頼りに江戸にきました」
「尾仁之村、だと?」
訝しげな表情になる雉間だったが、次の瞬間に表情が一変する。
「思い出したぞ! 足が潰れた女か! あの地獄を生き延びたというのか!」
雉間の顔に、狂気めいた笑みが浮かぶ。嬉しくてたまらないらしい。
「そうです。しかも、お京は猿蔵と犬飼三兄弟を仕留めました。あの女は強いですよ。あなたの生涯において、最強の相手となるでしょうな」
「面白い……今すぐ、ここに連れてこい!」
雉間の瞳は輝いている。まるで、新しい玩具を買ってやると言われた幼子のようだ……左門は苦笑しつつ答える。
「今すぐは無理です。しかし、あと三日もすればここに来ますよ。あなたを殺すために、ね」
「本当だな?」
「ええ。お京は、必ずここに来ます。ですから、素振りでもしながら待っていてください」
俺がお京に接触したのは。純粋に奴の腕が目当てだった。この殺し屋稼業を続けていく以上、腕の立つ仲間が必要だ。だから、お京たちと手を組んだわけだ。
それが、めぐりめぐって古い因縁に決着をつけることになるとはな。この世に神様って奴が本当にいるのだとしたら、そいつは恐ろしく性格の悪い奴だよ。俺たち人間の苦しむ姿を雲の上から見て、けらけら笑っているんだろうな。
・・・
日も暮れようかという時間に、藤村左門はひとりで竹林の中を歩いていた。その足取りは重く、表情も暗い。町を見回っている時のような、へらへらした態度は消え失せていた。
しばらく歩いた後、彼が到着したのは古いあばら家であった。かつては、どこかの商人が愛人との逢い引きに使っていたらしいのだが……十年ほど前に商人は亡くなり、愛人も江戸を離れている。
そして今は、逢い引きなどという言葉とは最も縁遠い者が住み着いていた。
左門は、あばら家の前で立ち止まった。溜息を吐き、無言で邸内に入っていく。
目指す相手は、すぐに見つかった。縁側に腰かけ、荒れ放題の庭をぼんやり眺めている。侵入者である左門のことなど、見ようともしていない。
左門は、距離を空けた位置で立ち止まった。改めて、かつて兄弟子だった者を見つめる。顔は老け込んだが、体つきは全く衰えていないように見える。着物はみすぼらしいものだが、裾から覗く腕は筋肉質だ。傍らには、抜き身の刀が置かれている。
この男こそ、雉間正厳である。左門のかつての兄弟子であり、お京の仇のひとりでもあった。
「雉間さん、久しぶりですな」
そっと声をかけると、雉間は面倒くさそうに口を開いた。
「誰かと思えば、藤村ではないか。今、何をしているのだ?」
こちらを見もせず答える。縁側に座りこんだまま、荒れ放題の庭の眺めていた。草は伸び放題であり、虫もぶんぶん飛んでいる。
「見ての通りの見回り同心ですよ。世間では、案山子などと呼ばれております」
「情けない奴だ。かつて先生の下で修行していた時、俺とまともに勝負できるのはお前だけだった。そのお前が、案山子とはな……」
言いながら、首だけをこちらに向けた。
既に四十を過ぎた年齢のはずなのだが、目つきの鋭さは衰えていない。睨みつけるかのような表情で語り続ける。
「俺はな、後輩のお前に抜かされたくない……その一念で技を磨いてきた。結果、俺は誰にも負けない腕を得た」
「そうでしたね。私も、あなたとは竹刀で何度も立ち合いましたなあ。しかし、三回に一度……いや、四回に一度くらいしか勝てなかったですね。あなたは、本当に強かった」
語る左門の顔には、笑みが浮かんでいる。そう、この雉間の剣技は素晴らしいものだった。単なる小手先の技ではない。彼の太刀筋からは、真の殺気を、気迫を感じた。稽古の度に竹刀で手ひどく打ち据えられ、生傷が絶えなかった。
にもかかわらず、若かりし頃の左門は雉間に何度も立ち向かっていった。周りから呆れられながらも、雉間との稽古をやめない。竹刀で打ちのめされながらも、痛みに耐え立ち上がり向かっていく。やがて、四回に一度は一本を取れるようになった。
左門にとって、本当の意味で剣の師匠と呼べるのは、この雉間なのかもしれない。もっとも、その磨いた腕も今では発揮する場がないのだが──
「何を言っている。他の者たちは、十回に一度も勝てなかったぞ。先生ですら、俺には勝てなくなっていたよ。しまいには、なんだかんだ理由をつけ俺との稽古を避ける始末だ。情けない男だよ。あれで、剣術の師範とは呆れたものだ」
吐き捨てるような口調だった。
雉間の言葉は嘘ではない。確かに、師範の田所は雉間との稽古を避けていた。はっきり言うなら、雉間から逃げていたのだ。
「あの頃の俺に、向かってきたのはお前だけだ。お前との稽古だけが、俺に緊張感と充実感を与えてくれた。あのまま稽古を続けていれば、お前は俺と同等の腕前になっていたかもしれんな。いや、俺以上になっていても不思議ではない。お前は、本当に強かった」
しみじみと語る雉間。その言葉は、お世辞ではなさそうだ。そもそも、お世辞など言うような男ではない。左門は、形容の出来ない何かが込み上げて来るのを感じていた。
「先生を斬った理由は、あなたに勝てなくなったからですか?」
穏やかな口調で尋ねる。そう、雉間は道場の師範である田所を斬ったのだ。
あの日のことは、今も覚えている。左門らが道場に行ったところ、田所が血まみれで倒れていた。傍らには、己の師範を冷たい目で見下ろす雉間が立っている。その手には、真剣が握られていた。
左門らの視線に気づくと、雉間は焦る様子もなく悠然とした態度で去っていく。その頃になって、弟子たちはやっと動いた。田所の側に駆け寄るが、時すでに遅く死亡していた。死因は、刀傷によるものだった。
以後、雉間の行方はわからないままだった。左門は江戸で見回り同心となり……紆余曲折の後に裏の世界へと足を踏み入れる。
さらに時が経ち、裏の情報網を駆使した結果、雉間が江戸にいることを知った。だが、会いたいという気分にはならなかった。雉間は師を殺した相手であるが、今さら仇討ちなど、する気になれない。
雉間の方は、冷めた表情で口を開く。
「違う。あの日、いきなり先生に呼び出されたのだ。そこで俺は道場に行った。すると、何の口上もなく真剣で斬りかかってきたのだ。あれは決闘でも何でもない。完全な不意打ちだ。斬らねば斬られていた、だから斬った。それだけのことだ。俺は、自分が罪を犯したとは思っていない」
そんなことだろう、とは思っていた。
晩年の田所は、雉間に対し明らかに怯えていた。同時に、己の腕を超えてしまった雉間に激しい嫉妬心を抱いていたことも、弟子たち全員が感づいていた。
そんな思いが頭をよぎった時、雉間の表情が変わる。
「藤村、お前は何をしに来たのだ? まさか、昔話をしにきただけなのか?」
「そうです。昔話をしに来たのです」
答える左門を、雉間はじろりと睨んだ。
「俺はな、あれから大勢の人を斬った。斬って斬って斬りまくった。いつか、俺を殺してくれる強者と出会うためにな。ところが、誰も俺には勝てなかった。俺の人生を、終わらせてはくれなかった。一度、修羅の道に身を落とした者は、仏すら救ってはくれん」
何かに憑かれたような目で語る雉間に、左門は深い憐れみを覚えた。
この男は、若い頃と何も変わっていない。心も体も、剣に支配されてしまっている。財産も地位も名誉も、雉間にはなんら価値のないものなのだ。友と酒を酌み交わしたり、家族と食卓を囲むといった幸せですら、彼には何の値打ちもない。
雉間の幸福は、斬り合いの中にしかないのだ──
「なあ藤村、久しぶりに立ち合わんか? お前となら、面白い勝負ができそうだ」
言ったかと思うと、雉間は立ち上がる。その目は、異様な輝きを帯びている。
左門は、思わず苦笑した。
「私は、この刀を抜く気はありません」
「何だと!? どういうことだ!?」
血相を変える雉間に向かい、左門は静かな口調で語り出した。
「私はね、奉行所の役人をしています。同心になった時は、理想に燃えていましたよ。世の中の矛盾を正そう……当時は、本気でそう思っていました」
語る左門の顔に、笑みが浮かぶ。だが、その笑みは自嘲であった。
あの頃の左門は、本気で世の中を変えられると思っていた。弱き者の泣く現状を、どうにかしたい……そのため、しゃにむに働いていたこともあった。
ところが、ある事件により奉行所の裏側を知らされる。その時、心の底から絶望した。以来、死人のように生きることを選んだ。挙げ句、付いた渾名が案山子だ。
「しかしね、現実は違っていたのです。奉行所は、腐りきった場所でした。要領と金と権力が全ての、ろくでもない世界でしたよ。権力者の息子だという理由で、人を殺した者が解き放ちになっている……そんなものを、幾度となく見せつけられてきました」
「お前は何が言いたい?」
問うてきた雉間の目には、あからさまな殺気がある。今すぐにでも斬りかかって来そうな雰囲気だ。ひょっとしたら、斬り合いのみならず人の命を奪うことにも快楽を見いだしているのか。
今の雉間を尊敬は出来ない。それでも、彼を羨む気持ちはある。雉間は、あの頃から変わっていない。今も純粋に、己の剣技を高めることのみを追い続けているのだ。自分とは違う。
左門は、歪んだ表情で口を開いた。
「私はね、何もかも嫌になってしまったんですよ。奉行所にいる限り、しょせんは権力者の犬でしかありません。そこで決めました。奉行所にいる間は、絶対に刀を抜かないと誓ったのです。この誓いを破るのは、役人を辞める時です。そして私は、役人を辞める気はありません。一生、辞めないつもりです」
左門の偽らざる本音であった。今まで、誰にも告げず裡に秘めていた決意……それを今、初めて他人にさらけ出した。
純粋だった若き日の記憶が、鮮やかに蘇る。この雉間に勝つためだけに、血の小便が出るような修行に耐え、ひたすら体を鍛え抜き技を磨いてきた。その必死で磨いてきた己の剣技を、権力者のためなどに用いたくはない。ましてや、人を斬るなどもっての他だ。残りの生涯を、案山子として生きる──
しかし、雉間にはわかってもらえなかった。
「ならば、抜かなくてはならない状況にするまでだな。さあ、楽しもうではないか」
低い声で言った直後、脇に置かれていた刀を手にする。だが、左門はすっと後方に下がった。
「あいにくですがね、私は逃げ足が早いのですよ。それに、焦る必要はありません。いずれ、ここに刺客が来ます。今の私より、遥かに手強いと思われる女がね」
「女だと?」
訝しげな顔つきの雉間だったが、直後に左門の口から出た言葉に表情が一変する。
「あなたは、お忘れになったのですか。かつて、あなたたちは山奥にある尾仁之村なる集落を襲い、住人たちのほとんどを殺したそうですね。ところが、お京という女が生き延びたんですよ。彼女は、あなたの残した書き置きだけを頼りに江戸にきました」
「尾仁之村、だと?」
訝しげな表情になる雉間だったが、次の瞬間に表情が一変する。
「思い出したぞ! 足が潰れた女か! あの地獄を生き延びたというのか!」
雉間の顔に、狂気めいた笑みが浮かぶ。嬉しくてたまらないらしい。
「そうです。しかも、お京は猿蔵と犬飼三兄弟を仕留めました。あの女は強いですよ。あなたの生涯において、最強の相手となるでしょうな」
「面白い……今すぐ、ここに連れてこい!」
雉間の瞳は輝いている。まるで、新しい玩具を買ってやると言われた幼子のようだ……左門は苦笑しつつ答える。
「今すぐは無理です。しかし、あと三日もすればここに来ますよ。あなたを殺すために、ね」
「本当だな?」
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(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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