悪魔の授業

板倉恭司

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初めての体験

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「またここかい。今度は、何も飲まないからな」

 郁紀は、軽口を叩いた。

「心配ない。今回は、何も飲む必要はない」

 そっけなく答え、ペドロは建物内へと入っていく。郁紀は、後に続いた。



 二人が来たのは、もはやお馴染みとなっている廃墟だ。最初に来た時、郁紀は人形を相手に大立ち回りを演じた。次に来た時は、ドラッグを飲まされ幻覚を見た。あの映像は、今もはっきりと脳裏に焼き付いている。
 今日、またしても来ることになるとは……もっとも、郁紀に不安はない。前回の経験が、彼に自信を与えていた。あの狂気の一夜を耐えたのだ。恐れるものなどなかった。
 その自信は、一瞬で崩れ去ることになるのだが──

 前回と同じく、階段を通り下の階へと降りた。ペドロは暗い中を進んでいき、郁紀はその後ろをついていく。
 やがて、ペドロは立ち止まった。前回、使ったのと同じ部屋だ。ただ、前回とは違う点がある。中に明かりが灯っていることだ。ドアは閉まっているが、隙間から光が洩れている。 

「ここだよ。ついてきたまえ」

 そう言うと、ペドロは室内に入っていく。
 中に入った途端、郁紀の表情は凍りついた。
 そこには、巨大なテーブルが置かれていた。木で出来た長方形のものだ。頑丈そうであり、だいぶ年季が入っている。だが、郁紀の目にそんなものは入っていなかった。
 なぜなら、テーブルの上に若い女が仰向けに寝かされていたからだ。黒い布で目隠しされており、口には猿ぐつわが掛けられている。ピンク色のジャージ姿で、靴は履いていない。なぜか、足の裏は真っ黒に汚れている。
 その上、革の拘束具で胴体をがっちりと固定されていた。手足も、革製の拘束具で固定され、大の字の姿勢で身動き出来ないようにされていた。そんな状態にもかかわらず、女は必死でもがいている。時おり、口から荒い息が聴こえた。
 たちの悪いエロ動画のような光景が、現実に目の前にある。しかし、ペドロはこんなことを楽しむ男ではないはずだ……。
 衝撃を受けつつも、郁紀はどうにか声を絞り出した。

「な、なあ、こいつ誰だよ?」

 声を震わせる郁紀に、ペドロは冷静な表情で答える。

「彼女の名前は、高山静江タカヤマシズエ。五年前、幼い息子を虐待した挙げ句に死なせた。当時、日本ではそこそこ騒がれた事件だったそうだ。もっとも、君は知らないようだね」

 そんな話、全く記憶にない。もしかしたら、テレビなどで大々的に報道されていたのかも知れないが。
 いや、考えてみれば……当時は、テレビのニュースなど見る余裕がなかった。そのため、気付かなかったのかもしれない。
 黙り込む郁紀に、ペドロは語り続ける。

「そんな大罪を犯したにもかかわらず、彼女はたった三年で刑務所から出て来た」

 その言葉には、さすがに顔をしかめた。子供を殺しておいて、三年で済むのか。

「三年!? 何でだよ!?」

「当時、彼女は薬物をやっていたんだよ。その影響化にあったため、心神耗弱の状態にあった……と裁判員たちに判断され、刑がだいぶ軽くなったのさ。弁護士は、心神喪失による無罪を勝ち取るつもりだったが、さすがにそれは認められなかった。もっとも裁判では、育児ノイローゼに悩む哀れな母親を演じて、裁判員の同情を買っていたがね」

「んだと……」

「ちなみに、高山さんは今も薬物をやっている。彼女の腕を見たまえ。この汚らしい注射痕が、何よりの証拠だ」

 言いながら、ペドロは彼女の袖をまくり肘を指差す。その肘の裏側には、ポツポツと傷痕が付いていた。醜いイボのような形だ。それも、ひとつやふたつではない。腕の静脈に沿って、十以上の傷痕が付いていた。
 郁紀は、嫌悪感を覚えた。この女は、本物のクズだ。自分の子供を死なせておきながら、反省もせず薬に溺れている──
 その時、ペドロが再び語り出した。

「さて、前置きはここまでだ。本題に入るとしよう。今日は、この女を殺してもらう」

「えっ……」

 郁紀は、思わず後ずさる。まさか、そんな展開になろうとは……。
 しかし、ペドロには一切の容赦がなかった。突然しゃがみ込と、テーブルの下から何かを拾い上げる。
 それは、巨体なナイフだった。刃渡りは三十センチはあるだろう。刃は研ぎ澄まされ、先端は剣のように鋭く尖っている。ナイフというより、ナタに近い。
 ペドロはナイフをいじりながら、ゆっくりと語り出した。

「俺は言ったはずだ。本物の極悪人と戦うには、彼ら以上の凶暴さと残虐さが必要だ……とね。それらを得るには人間をやめるくらいの覚悟を持たねばならない、とも言った。つまりは、人ひとりくらい殺せなくては話にならないんだよ」

 その言葉に、郁紀は震えながら下を向く。
 人殺しなど簡単だ……今までは、そう思っていた。これまで痛め付けてきたチンピラが後で死んだとしても、知ったことではなかった。
 だが、実際に人を殺すというのは、話が別だった。考えただけで、体が震え足がガクガクする。まともに立っていることすら困難だ。
 そんな郁紀に向かい、ペドロはさらに追い討ちをかける。

「君は、その事実を理解した上で俺の申し出を受けたのではなかったのかい?」

 彼の問いは、刃物の鋭さで心をえぐる。郁紀は、返事が出来なかった。
 ようやく悟る。自分は、ペドロという男のことを全く理解できていなかった。この怪物は、本気なのだ。本気で、自分を何者かへと変えようとしている……。
 その時、ペドロはナイフを振り上げる。テーブルに、勢いよく突き刺した──
 拘束されている高山は、声にならない叫び声を上げた。首をブンブン振り、体をくねらせ必死でもがく。しかし、それは無駄な抵抗だった。
 そんな彼女を見ながら、ペドロは口を開いた。

「どうしても出来ないのかい? ならば、ここまでだ」

「ど、どういうことだ?」

「君は落第だ。ここで、全てが終わる。後は、家に帰るだけさ。俺との縁も切れる。だがね、それでいいのかい?」

 そこで、ペドロは口を閉じた。無言で、郁紀を凝視する。彼の目からは、理屈ではない力を感じた。そのまま目を合わせていたら、石にでも変えられてしまいそうな錯覚に襲われる。たまらず、目を逸らした。
 ややあって、ペドロは再び語り始める。

「高山さんはね、薬物に溺れた挙げ句、自分の息子に暴力を振るった。その挙げ句に、雨の降る中ベランダに放置して死なせた。そんなとんでもないことをしておきながら、今もまだ薬物を続けている。君は、この女の悪行を知りつつ見逃してしまうのかい? だとしたら、君はまた同じ過ちを繰り返すことになる」

「あ、過ち?」

 たまらず、言葉が出ていた。その声は震えている。
 ペドロの方は、落ち着いていた。学生と向き合う教師のごとき口調で答える。

「俺は、こうも言ったよ。悪を見逃すのも悪だ、と。この高山さんはね、自分の息子を虐待して死なせた。さらに、その原因となった薬物を何のためらいもなく続けている人間だよ。彼女は、誰がどう見ても悪だ」

 悪──
 確かに、ペドロの言う通りだ。この女は、自分の息子を死なせておきながら、今までのうのうと生きてきた。しかも、薬も止めていない。誰がどう見ても悪だ。
 しかし、自分が殺さねばならないのか。

「それにね、ここで終わったら、君は奥村雅彦氏と会うことは出来ない。それでいいのかい?」

 その時、郁紀は思い出した。
 紗耶香に言ったことを。

(俺は、ペドロの課す試練に耐える。そして、必ず奥村雅彦にケジメ取らせる。あいつに、生まれて来たことを後悔させてやるよ。それこそが、お前に対する償いだ)

 紗耶香……いや、紗耶香の形をした何かに言ったことが、耳元に響いてくる。自分で発した言葉のはずなのに、他人から言われているように感じた。
 やがて、郁紀はナイフを手にした。

「わかった。俺が、この女を殺す。その代わり、必ず奥村を連れて来てくれ」

 その言葉に、ペドロは頷いた。

「ああ、もちろんだ」





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