胸に刻まれた誓い

板倉恭司

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考えさせてくれ、という返事

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 人を救うために必要なのは、ほんのちょっとしたものなのかもしれない。竹川親子がくれたものは、ほんの一瞬の、手のひらほどのぬくもりだろう。
 その温もりこそが、少年時代の獅道を救ってくれたのだ。孤独で傷ついた心を、どれだけ癒してくれたことだろう。その後の暗く辛い少年時代も、ふたりとの思い出があったからこそ生きていけた気さえする。
 獅道がこの件にかかわったのは、本当に偶然の為せる業だった。二ヶ月ほど前、別の仕事で白土市を訪れた時、竹川という表札の出た家を発見する。
 ふと、昔の思い出が蘇る。まさか、と思いつつもそっと覗いてみた。すると、ポストに大量の郵便物が入っているのが見えた。半分以上がはみ出ており、宛先の名前が見えている。竹川唯子、と書かれていた。
 懐かしさよりも、違和感の方が大きい。おかしいと思い、独自に調査を開始してみる。すると、唯子は既に死亡届が出されていることがわかった。事故死とされているが、どう見ても不自然である。仮に唯子が事故死したとして、では希望はどこに行ったのか。
 調べていくうちに、樫本直也なる人物が浮上する。白志館学園を私物化している男だ。希望は、その樫本に監禁されている可能性が出てきた。同時に、唯子が生きているかも知れない可能性も。
 獅道は現地に飛び、さらに詳しく調べる決意をした。ところが、運命のいたずらだろうか……白土市に来て二日目、白志館の生徒が希望らしき少年を連れ回している現場に遭遇してしまう。
 変わり果てた姿だったが、昔の面影は残っていた。何より、かつて愛した唯子の美貌が、息子であるはずの彼にも受け継がれている──
 その瞬間、獅道は考えるより先に行動していた。不良たちを叩きのめし、希望をさらってしまった──



 そんなことを思い返しつつも、改めて唯子の顔を見つめた。あの時と変わらぬ美しい顔だ。容貌は全く衰えていない。いや、あの頃とは違った種類の魅力を醸し出している気さえするのだ。
 今ならば、彼女の肉体を好きなように出来る。
 だが、そうする気にはなれなかった。唯子の肉体に対し、欲望がないといえば嘘になる。だが、その欲望に身も心も任せる気にはなれない。それがなぜなのか、考える気にすらならなかった。

「あの時、言えなかったことをいうね。俺、あんたのこと好きだったんだよ。たぶん、あんたが初恋の人だったんだろうね。おかしいよな。おかしくて笑っちまうだろ」

 彼女を真っすぐ見つめ、またしても自嘲の笑みを浮かべつつ言った。
 直後、彼は勢いよく立ち上がる。まるで、気持ちを吹っ切るかのように。

「じゃあ、元気でな。あんたの息子は、俺がきっちり面倒みるよ。絶対に、こっちの世界には来させないから安心してくれ」

 その言葉を残し、獅道は出ていった。
 室内には、ただひとり唯子だけが残される。目は虚ろで、ぴくりとも動かない。
 だが、その口からは声が漏れ出ていた。

「の、ぞみ……のぞみ……」



 病院を出て、車に乗り込む。中には、ナタリーが座っていた。彼の方を見ようともしていない。
 獅道は無言のまま、エンジンをかけ車を発進させる。
 車内には、なんとも言えない空気が漂っていた。が、しばらくして獅道が口を開く。

「いやあ、唯子をバッコンバッコン犯してやったよ。あの女を、ヒイヒイ言わしてやったぜ──」

「くだらん嘘をつくな」

 ナタリーの言葉自体はきついものだったが、奥には優しさが感じられた。さらに、彼女は言葉を続ける。

「君は、本当に不器用な男だな」

 何も言えない獅道は、そのまま前を向き車を走らせる。
 このふたりの関係は、特殊なものだった。両者の間に肉体関係はないし、もちろん恋愛感情もない。だが、ある意味では何十年も連れ添った夫婦よりも固い絆がある。裏の世界で、共に死線をくぐり抜けてきた者同士にしかわかりあえないものがある。男女間の友情は成立するか……などという議論は、このふたりの前では何の意味もないだろう。そもそもふたりの関係は、友情などというありきたりの言葉で語れるものではなかった。



 しばらくの間、車内を沈黙が支配していた。だが、今度はナタリーが口を開く。
 
「立花の蹴りで、肋骨を折られた。内臓もイカレたかと思ったが、とりあえずは無事だったよ。しばらくは、トレーニングも中止だ。ギャラが百万では、割に合わないな」

 その言葉に、獅道は苦笑する。思えば、この女が立花を仕留めなかったら……自分はどうなっていただろうか。
 恐らく、生きていなかっただろう。

「そりゃすまなかった。立花は、そんなに強かったのか?」

「あれは本物だよ。コロンビアマフィアでも、あそこまでの男はそうそういない。日本のような平和な国に、あんな奴がいるとはな」

 ナタリーの声には、不思議な感情がこもっていた。ライバルを讃えるかのようなものだ。彼女にとって、立花薫という男は本当に強敵だったのだろう。だが、それだけではない。戦いの中で、何か感じるものがあったのかもしれない。

「あんたがそこまで言うとはね。さすが、不死身の立花だ」

「岸田はどんな奴だったんだ?」

 聞かれた獅道は、とっさに答えが出てこなかった。岸田が自ら命を絶った事実は、誰にも話していない。なぜか、話したいという気持ちも起きなかった。
 あの男の死に様は、自分ひとりの胸の内に留めておきたい。それがどんな気持ちによるものなのかもわからない。

「わからない」

「わからない?」

 聞き返すナタリー。声からして、怪訝な表情を浮かべているのはわかる。だが、獅道はこう言うしかなかった。

「あいつは、違う世界の人間だった。そんな気がする」

「どういう意味だ?」

「岸田は、間違いなく天才だった。学生の頃は、完璧超人なんて言われてたらしい。つまり、周りの人間が全て自分よりも劣っている、そんな世界で生きていたんだ。ものすごくつまらないと思うよ。大学生と同レベルの知能を持ちながら、無理やり小学校に通わされている気分だったんじゃないか。そんな気がする。あいつは、孤独だったんだよ」

 それが、岸田という人間と拳で語り合い感じたことだった。もうひとつ付け加えるなら、岸田の不幸は己の全能力をかけるに足るものを見つけられなかったことだ。少なくとも、獅道にはそう見えた。
 あの天才を俗世間に繋ぎ止めていたのは、立花という怪物だった。ひょっとしたら、立花だけが岸田を本当に理解していたのかもしれない。怪物と天才、どちらも人間離れした存在だ。人間離れしているが故に、お互いの苦悩が理解できたのかもしれない。凡人の中で生きていくつらさを、共感していたような気もする。
 そんな唯一無二の存在を失ったと知り、岸田の生きる気力も失われたのだろう。あのふたりの結びつきは、それだけ強固なものだった。
 あくまで仮定だが、そうとでも考えなければ説明がつかない。

「希望のことは、どうする気だ?」

 ナタリーが聞いてきた。あまり考えたくなかった問題である。獅道は、顔を歪めつつ口を開く。

「決まってるだろ。あいつは、絶対にこちらの世界の住人にはさせない」

「私が言っているのは、そのことではない。希望の気持ちには、君も気づいているはずだ」

 彼女の表情は、こちらからは見えない。だが、口調からして真剣なものであるのはわかる。
 獅道は、思わず唇を噛んだ。彼女が何を言わんとしているかはわかっている。今まで、あえて答えを出すのを避けてきた問いだ。

「どうする気だ? 希望が自分の本当の想いを打ち明けてきたら、君はなんと答える?」

「考えさせてくれ、としか言えないよ」 

「その考えさせてくれ、は、考える余地はあるという解釈でいいのか?」

「想像に任せるよ」




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