ザイニンタチノマツロ

板倉恭司

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六月十日 孝雄、ついに限界を迎える

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 異臭が漂っている。
 塚本孝雄は不快そうな様子で立ち上がり、下に降りて行く。覚醒剤が効いている間は、どうにか無視していられた。しかし、ここまで酷くなっては素知らぬ顔も出来ない。何かしら策を講じる必要がある。



 一階は、酷い有り様であった。
 父と母の死体には、既にハエが寄ってきていた。嫌な匂いが充満しており、死体の形も微妙に変わってきている。六月ともなると、死体が腐るまでの時間も早い……このままでは、近所から通報されるのも時間の問題だろう。
 孝雄は動いた。まず部屋のクーラーをつけ、極限まで温度を下げることにした。次に、ふたりの死体に匂い消しを撒いた。消臭スプレーを大量に吹き付け、最後に電気を消す。
 その後は床に座り込み、どうすればいいのか考えた。

 下手の考え休むに似たり、という言葉がある。無論、その言葉が世の中の全ての状況に当てはまるとは限らない。しかし、今の孝雄にはピタリと当てはまっていた。
 孝雄は必死で考えた。しかし、そもそも名案などあるはずがない。この状況は、もはや彼の手に負えるものではないのだ。速やかに警察を呼ぶ、孝雄にはそれ以外の選択肢などないはずであった。
 にもかかわらず、彼はこの期に及んでまだ考えている。今の状況を、一瞬で何とか出来るような方法を探しているのだ。
 この、どうしようもなく都合のいい思考回路……これは、ほとんどのポン中に共通する部分であろう。彼らは、いつか何とかなると思っている。あるいは、考えれば名案が浮かぶと思っている。さらには、本気を出せば自分の人生何とかなると信じているのだ。
 だが、物事がそうそう自分にだけ都合よく運ぶはずがない。
 結局、孝雄は何も思いつけなかった。考えに考えた挙げ句、とりあえず部屋に戻り覚醒剤を打つことにしたのだ。
 覚醒剤を打ったところで、この状況を好転させることなど出来はしない。かえって悪化させるだけだ。
 かと言って、いくら考えたところで……今の孝雄には、出来ることなど何もない。出来ることと言えば、覚醒剤を注射して何もかも忘れ、問題の解決を先延ばしにすることくらいだった。



 覚醒剤という名の魔物に取り憑かれた者たち。
 そのほとんどには、共通する思考がある。覚醒剤が手元にある間は、細かいことを考えるのはよそう。やめるのは、いつでも出来る。それより、今は覚醒剤を楽しもう……というものだ。
 端から見れば、思わず顔をしかめたくなるくらいに愚かな行動である。だが本人にしてみれば、自らの行動が愚かであるとは露ほども思っていない。むしろ合理的であるとすら思っている。
 確かに、ある面では合理的ではある。彼らの行動のベクトルは、覚醒剤を手に入れるという方向に向けられている。覚醒剤のためなら、彼らは恐ろしく合理的になるのだ。
 今、孝雄は覚醒剤のもたらす束の間の多幸感に酔いしれていた。覚醒剤が効いている間は、何もかも忘れていられる……はずだった。

 その幸せな時間は、唐突に終わりを告げる。
 下から物音が聞こえた。非常に小さな音である。普通なら、聞き逃したとしても不思議ではない。
 しかし覚醒剤の影響で、孝雄の感覚は鋭敏になっている。ごく僅かな物音を、彼の聴覚は拾っていた。
 次の瞬間、孝雄は素早く立ち上がった。血走った目で周囲を見回す。

 今の音は何だ?

 とりとめの無い考え……いや、妄想が頭の中に浮かんでは消える。呼吸が荒くなり、孝雄は凄まじい形相で扉に近づいた。
 必死の形相で耳をすませる。
 間違いない。下から、物音が聞こえているのだ。足音のような音である。何者かが、家に侵入したのだ。その者は今、死体の放置された一階をうろうろしている──
 その点に考えが至った直後、孝雄はすぐさま行動を開始していた。周囲を見回し、武器になりそうな物を探す。
 すると、床に落ちている果物ナイフが目に留まる。孝雄はすぐに拾い上げ、そっとドアを開けた。
 息を殺し、静かに部屋を出る。家に侵入した不審者と戦うべく、彼は下へと降りていく。
 だが、孝雄は気づいていなかった。彼の部屋に、果物ナイフなど存在していなかったはずの事実に──

 階段を降りていき、そっとリビングを覗いてみた。
 すると、そこには誰かが立っていた。ふたりの死体を見下ろしている。
 その瞬間、孝雄は果物ナイフを抜いた。殺意を剥き出しに、襲いかかろうとする──
 すると、侵入者は振り向いた。黒いパーカーを着ている。フードを目深に降ろしているため顔は見えないが、パーカー越しにも分かる広い肩幅や厚い胸板から察するに、間違いなく男であろう。
 パーカーの男は、孝雄に言った。

「このキチガイが……何人殺しゃあ気が済むんだ?」

 待てよ。
 こいつ、何を言っているんだ?

 得体の知れない、危険な侵入者と向き合っている。そんな危険な状況にもかかわらず、孝雄の動きは止まった。頭が混乱し、思わず口が開く。訳が分からない。何がどうなっているのだ?

 殺したのは、お前だろうが。
 それとも俺は幻覚を見ているのか?
 あるいは、俺は殺した事実を覚えていないのか?
 俺はキチガイなのか?

 孝雄の頭の中に、様々な考えが浮かんで消えていく。






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