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六月三日 孝雄、ネタが切れる
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体と頭が重かった。
先ほどから、異様な不快感が全身を蝕んでいる。にもかかわらず、彼はずっと動き続けていた。何かに取り憑かれたかのように、血走った目で床のあちこちを睨み付けているのだ。その行動は、他人から見れば狂気の沙汰としか言いようが無いだろう。
塚本孝雄は今、自室の床を這い回っていた。四つん這いの体勢になり顔を床に近づけ、血走った目で床を隅々までじっくり見つめている。床の塵や埃の一粒に至るまで、舐め回すようにチェックしていたのだ。
端から見れば、気が狂ったとしか思えない行動である。しかし、孝雄にとっては至極まともな行動である。彼には、こんなことをするれっきとした理由があった。
孝雄は、覚醒剤を探していたのだ。
パケに残っていた最後の覚醒剤を打ってから、かなりの時間が経過している。薬の効き目はとっくに消え去り、代わりに凄まじく不快な気分が彼の体を支配していた。体全体が、鉛を流し込まれたように重い。頭はだるく、霧がかかったようになっている。まともに思考が出来ないのだ。
しかし、孝雄は知っていた。覚醒剤を打てば、この苦しみからは逃れられる。ほんの一時的に、ではあるが。
そのため孝雄は、床に落ちた覚醒剤がないかどうか探しているのだ。ほんの米粒ほどの量なら、ひょっとして床にこぼしているかもしれない……その思いに取り憑かれ、孝雄は床を這い回っている。実際の話、パケから注射器に移す際、僅かにこぼれてしまうことは珍しくない。
もっとも、仮に床にこぼれた覚醒剤を見つけたところで、それは一時しのぎにしかならない……そんなことは、頭では理解できている。しかし、本人の思考とは無関係に、孝雄の体は動き続けている。床に這いつくばり、覚醒剤の粉末を見逃さないよう目を凝らす。床にこぼれ落ちたかもしれない、僅かな量の覚醒剤を探し求める動きが止まらないのだ。
覚醒剤に憑かれた者に特有の動きである。
やがて、孝雄の肉体は限界を迎えた。かれこれ二日間、飲まず食わずの上に一睡もしていないのだ。衰弱しきった彼の体には、もう体力が残されていなかった。床に這いつくばった姿勢のまま、その場に崩れ落ちる。
あっという間に、深い眠りについた。
注射器で覚醒剤を打つことを覚えると、本格的な薬物依存症患者への道を歩み始めたことになる。
孝雄の場合も、まさにそれだった。彼は普段、注射器を用いて静脈に覚醒剤の水溶液を注入している。もっとも、静脈注射は意外と難しい。現に、プロであるはずの看護師の中にも、上手く出来ない者がいるくらいだ。
孝雄もまた、初めの一、二回は痛い思いをした。上手く静脈に突き刺さらないと、かなりの痛みを感じるのだ。今も時おり、失敗して痛い思いをすることもある。
だが、痛い思いをしながらも覚えた覚醒剤の静脈注射……そこから得られる快感は、これまで想像したことのないものだった。脳天を突き抜けるような、独特の感覚。疲れは消え去り、全ての悩みを忘れているのだ。今まで、あぶり──ライターの火で覚醒剤の結晶を炙り、気化させたものを吸うやり方──でやっていたのが、本当に馬鹿らしく感じられる。
そして……この快感に比べれば、世の中のあらゆる娯楽が取るに足らないものに思えてきたのだ。ゲーム、酒、グルメ、ギャンブル、風俗などなど……世間に幾多ある、人間に快楽をもたらすために存在しているはずのもの。しかし、それらは覚醒剤を射って得られる快感とは、まるきり比べものにならない。
こうして孝雄は、覚醒剤にのめり込んでいく。
娯楽とはそもそも、日常生活におけるスパイスの役割でしかない。どんなに優れたスパイスであっても、食事の代用にはならないのだ。むしろ、多量のスパイスは体にとって害毒にもなり得る。
覚醒剤を打つようになってから、孝雄の生活は覚醒剤を中心に回っていた。薬を買うためだけに働く。余った時間は覚醒剤を打ち、束の間の快感に浸る。
だが、その快感の代償はあまりにも大きいものだ。たとえ二日から三日の間とはいえ、飲まず食わず一睡もせず……という生活をしていては、肉体はそれなりのダメージを負う。まず、顔つきが変わっていくのだ。頬の肉が削げ落ち、目付きもおかしくなってくる。
食事をとらないため、当然ながら体は痩せていく。中には太っている者もいるが、これは覚醒剤が切れた後にドカ食いするタイプである。ダイエットとリバウンドを常に繰り返している状態であり、筋肉は落ち脂肪ばかりが増えていく。
さらに精神的に不安定になり、キレやすくもなるのだ。他人のちょっとした一言に苛立ったり、不信感を抱いたりもする。ポン中と常人が付き合っていくのは、非常に難しい。何気ない一言がきっかけで、突然キレたりするからだ。
しかも、覚醒剤が効いている間は、まともな活動がほとんど出来なくなる。孝雄は仕事を平気でサボるようになり、当時つきあっていた彼女や友人知人との約束を平気で破った。 その結果……孝雄は、それまでの生活で築いていた僅かなものを全て失ってしまった。仕事は休んでばかりでクビになったし、友人知人はどんどん離れて行った。彼女にも、愛想を尽かされてしまったのだ。
それら全ては、覚醒剤に取り憑かれた者全てが辿る道である。生活の全てが覚醒剤に支配され、結果としてまともな社会生活を営めなくなるのだ。
こうして孝雄は、覚醒剤のせいで様々なものを失ってしまった。しかし、今の彼に後悔はなかった。仮に後悔したとしても……覚醒剤に対する渇望が、その後悔の気持ちを忘れさせたのだ。
今、孝雄は泥のように眠っている。覚醒剤の効き目が切れたら、後はひたすら眠り続ける。丸二日の間、眠り続けることも珍しくない。薬の効果により衰弱しきった体は、ひたすらに眠り続けることになる。
覚醒剤を打ち、数日のあいだ一睡もせずに動き回り、薬が切れると同時に数日のあいだ眠り続ける……そのサイクルを繰り返した結果、重大な睡眠障害を引き起こす場合もあるのだ。もっとも、孝雄はまだそこまで至ってはいないが。
孝雄にとっては、いつもと変わらない日常である。しかし彼の身の周りでは、ある重大な変化が起きていた。
もっとも、本人はまだそのことを知らない。知ったところで、今の孝雄にはどうすることも出来なかっただろう。覚醒剤に取り憑かれた人間は、本当に無力である。僅かな量の粉末のためなら、親でも売るようなクズに成り下がるのだから。
先ほどから、異様な不快感が全身を蝕んでいる。にもかかわらず、彼はずっと動き続けていた。何かに取り憑かれたかのように、血走った目で床のあちこちを睨み付けているのだ。その行動は、他人から見れば狂気の沙汰としか言いようが無いだろう。
塚本孝雄は今、自室の床を這い回っていた。四つん這いの体勢になり顔を床に近づけ、血走った目で床を隅々までじっくり見つめている。床の塵や埃の一粒に至るまで、舐め回すようにチェックしていたのだ。
端から見れば、気が狂ったとしか思えない行動である。しかし、孝雄にとっては至極まともな行動である。彼には、こんなことをするれっきとした理由があった。
孝雄は、覚醒剤を探していたのだ。
パケに残っていた最後の覚醒剤を打ってから、かなりの時間が経過している。薬の効き目はとっくに消え去り、代わりに凄まじく不快な気分が彼の体を支配していた。体全体が、鉛を流し込まれたように重い。頭はだるく、霧がかかったようになっている。まともに思考が出来ないのだ。
しかし、孝雄は知っていた。覚醒剤を打てば、この苦しみからは逃れられる。ほんの一時的に、ではあるが。
そのため孝雄は、床に落ちた覚醒剤がないかどうか探しているのだ。ほんの米粒ほどの量なら、ひょっとして床にこぼしているかもしれない……その思いに取り憑かれ、孝雄は床を這い回っている。実際の話、パケから注射器に移す際、僅かにこぼれてしまうことは珍しくない。
もっとも、仮に床にこぼれた覚醒剤を見つけたところで、それは一時しのぎにしかならない……そんなことは、頭では理解できている。しかし、本人の思考とは無関係に、孝雄の体は動き続けている。床に這いつくばり、覚醒剤の粉末を見逃さないよう目を凝らす。床にこぼれ落ちたかもしれない、僅かな量の覚醒剤を探し求める動きが止まらないのだ。
覚醒剤に憑かれた者に特有の動きである。
やがて、孝雄の肉体は限界を迎えた。かれこれ二日間、飲まず食わずの上に一睡もしていないのだ。衰弱しきった彼の体には、もう体力が残されていなかった。床に這いつくばった姿勢のまま、その場に崩れ落ちる。
あっという間に、深い眠りについた。
注射器で覚醒剤を打つことを覚えると、本格的な薬物依存症患者への道を歩み始めたことになる。
孝雄の場合も、まさにそれだった。彼は普段、注射器を用いて静脈に覚醒剤の水溶液を注入している。もっとも、静脈注射は意外と難しい。現に、プロであるはずの看護師の中にも、上手く出来ない者がいるくらいだ。
孝雄もまた、初めの一、二回は痛い思いをした。上手く静脈に突き刺さらないと、かなりの痛みを感じるのだ。今も時おり、失敗して痛い思いをすることもある。
だが、痛い思いをしながらも覚えた覚醒剤の静脈注射……そこから得られる快感は、これまで想像したことのないものだった。脳天を突き抜けるような、独特の感覚。疲れは消え去り、全ての悩みを忘れているのだ。今まで、あぶり──ライターの火で覚醒剤の結晶を炙り、気化させたものを吸うやり方──でやっていたのが、本当に馬鹿らしく感じられる。
そして……この快感に比べれば、世の中のあらゆる娯楽が取るに足らないものに思えてきたのだ。ゲーム、酒、グルメ、ギャンブル、風俗などなど……世間に幾多ある、人間に快楽をもたらすために存在しているはずのもの。しかし、それらは覚醒剤を射って得られる快感とは、まるきり比べものにならない。
こうして孝雄は、覚醒剤にのめり込んでいく。
娯楽とはそもそも、日常生活におけるスパイスの役割でしかない。どんなに優れたスパイスであっても、食事の代用にはならないのだ。むしろ、多量のスパイスは体にとって害毒にもなり得る。
覚醒剤を打つようになってから、孝雄の生活は覚醒剤を中心に回っていた。薬を買うためだけに働く。余った時間は覚醒剤を打ち、束の間の快感に浸る。
だが、その快感の代償はあまりにも大きいものだ。たとえ二日から三日の間とはいえ、飲まず食わず一睡もせず……という生活をしていては、肉体はそれなりのダメージを負う。まず、顔つきが変わっていくのだ。頬の肉が削げ落ち、目付きもおかしくなってくる。
食事をとらないため、当然ながら体は痩せていく。中には太っている者もいるが、これは覚醒剤が切れた後にドカ食いするタイプである。ダイエットとリバウンドを常に繰り返している状態であり、筋肉は落ち脂肪ばかりが増えていく。
さらに精神的に不安定になり、キレやすくもなるのだ。他人のちょっとした一言に苛立ったり、不信感を抱いたりもする。ポン中と常人が付き合っていくのは、非常に難しい。何気ない一言がきっかけで、突然キレたりするからだ。
しかも、覚醒剤が効いている間は、まともな活動がほとんど出来なくなる。孝雄は仕事を平気でサボるようになり、当時つきあっていた彼女や友人知人との約束を平気で破った。 その結果……孝雄は、それまでの生活で築いていた僅かなものを全て失ってしまった。仕事は休んでばかりでクビになったし、友人知人はどんどん離れて行った。彼女にも、愛想を尽かされてしまったのだ。
それら全ては、覚醒剤に取り憑かれた者全てが辿る道である。生活の全てが覚醒剤に支配され、結果としてまともな社会生活を営めなくなるのだ。
こうして孝雄は、覚醒剤のせいで様々なものを失ってしまった。しかし、今の彼に後悔はなかった。仮に後悔したとしても……覚醒剤に対する渇望が、その後悔の気持ちを忘れさせたのだ。
今、孝雄は泥のように眠っている。覚醒剤の効き目が切れたら、後はひたすら眠り続ける。丸二日の間、眠り続けることも珍しくない。薬の効果により衰弱しきった体は、ひたすらに眠り続けることになる。
覚醒剤を打ち、数日のあいだ一睡もせずに動き回り、薬が切れると同時に数日のあいだ眠り続ける……そのサイクルを繰り返した結果、重大な睡眠障害を引き起こす場合もあるのだ。もっとも、孝雄はまだそこまで至ってはいないが。
孝雄にとっては、いつもと変わらない日常である。しかし彼の身の周りでは、ある重大な変化が起きていた。
もっとも、本人はまだそのことを知らない。知ったところで、今の孝雄にはどうすることも出来なかっただろう。覚醒剤に取り憑かれた人間は、本当に無力である。僅かな量の粉末のためなら、親でも売るようなクズに成り下がるのだから。
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