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六月二日 義徳、キレかかる
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小沼ビルの地下一階。
そこは、満願商事のオフィスのひとつ……のはずなのだが、照明は暗く陰気なムードに満ちている。広くガランとした室内には、机と椅子が複数置かれている。もっとも、使われている気配は無いが。机の上には電話がある。しかし、こちらも机と同様に、使われている気配は無い。
緒形義徳は普段、このオフィスで午前九時から午後五時までを過ごす。仕事などしない。ただひたすら、ここで暇を潰すだけだ。テレビを観たり、スマホをいじったりしてだらだらと時間を過ごし、五時になるのを待つだけだ。そして五時になったら、さっさと帰る……それが、義徳の日常である。
しかし、今日は別だった。彼の机の上には、たくさんの書類と写真とが無造作に置かれている。
義徳は、その書類の一枚一枚にじっくりと目を通していた。その表情は真剣ではあったが、どこか虚ろな雰囲気も漂っていた。感情を押し殺し、機械と化して作業をしている……端から見れば、そのような印象を受けるだろう。
その印象は正しい。義徳にとって、これはやりたくない仕事であった。だが同時に、やらなくてはならない事でもあった。
自分と娘の、平和な生活を守るために。
不意に、机の上の電話が鳴る。相手が誰であるか、義徳には番号を見る前からわかっていた。この電話に連絡してくるような人間はひとりしかいない。
住田健児……自分にこの仕事をさせている男だ。
(やあ、義徳さん。調子はどうですか?)
相変わらず、軽薄かつ馴れ馴れしい口調の健児……義徳は怒りがこみ上げてくるのを感じていた。だが、そんな感情はおくびにも出さない。
「ええ、とりあえずは数人、目ぼしい奴を見つけました。期限は、いつ頃までなんですか?」
(そうですね……なるべく早くお願いしますよ。出来れば、二週間以内でお願いします)
「二週間、ですか。わかりました。キツいですが、何とかやってみます。それでいいですね住田さん?」
(ちょっとお……そりゃないんじゃないですか義徳さん? 住田さん、なんて呼ばないでくださいよ。昔みたいに、健児と呼んでくださいよ)
健児の惚けた声が、受話器から聞こえてくる。しかし、義徳には分かっているのだ。この男は、利用できるものは何でも利用する。現に今、無関係の企業で窓際の閑職にいる自分のことを使っているくらいだ。
いや、無関係とも言いきれないのも確かだが。
「いや、もう昔とは違うんですから。とにかく、今夜から取りかかります。出来るだけ早く、終わらせるようにしますから」
(嫌だなあ……俺にとって義徳さんは、今でも偉大な先輩であり、良き兄貴分ですよ。思い出しますねえ、義徳さんにシゴかれた若き日のことを……俺は、昨日のことのように覚えていますよ)
その言葉の直後、受話器から聞こえてくる健児の笑い声。聞いている義徳は、たまらなく不快になってきた。さっさと、この会話を終わらせたい。
「やめてください。そんな昔の話、今さら何の意味もありません。仕事はきっちりやり遂げますから、心配しないでください」
(何ですか、そりゃあ……可愛い後輩に、冷たいじゃありませんか。意地悪しないでくださいよ。あっ、そういやあ有希子ちゃんは元気ですか──)
「有希子のことは、今は関係ないでしょうが……」
語気鋭く、健児の言葉を遮る。受話器を握る手に思わず力がこもっていた。
(ちょっとお、そんな怖い声ださないでくださいよ。まったく、義徳さんは有希子ちゃんのことになると人が変わるんだから……有希子ちゃんの彼氏になる人は大変ですね。なんたって、義徳さんのキツい審査をクリアしなくちゃならないんですから──)
「すみません、そろそろ外に出なきゃならないんで失礼します。また今度、連絡しますよ」
そう言うと、義徳は電話を切ろうとした。だが、健児の慌てたような声が聞こえてくる。
(ちょっと待ってくださいよ、まだ話は終わってないんですから。明日、そちらに手伝いの人間が行くことになってますんで、よろしくお願いしますよ)
「はあ? 手伝い、ですか?」
思わず顔をしかめる。確かに、自分ひとりでは面倒な仕事ではある。だからといって、手伝いの人間が来るというのは想定していなかった。
(そうです。まだ若いですが、なかなか有能な男ですよ。まあ、義徳さんの好きなように、こき使ってやってください)
電話を切ると、義徳は見るからに不快そうな表情のまま立ち上がる。
そして、オフィスを出て行った。特に外出する用事は無かったが、胸がムカムカしていたのだ。
夕方になり、義徳は満願商事を後にする。今日は本当に疲れた。久しぶりに、仕事らしい仕事をしたような気がする。今までは、午前九時から午後五時までの間をオフィスで過ごす……それが仕事だった。時おり満願商事の雑用をやらされることもあったが、基本的には暇潰しが仕事である。毎日ボーッとしているだけで給料が貰えるのだから、ありがたい話ではある。
その代わり、今回のような面倒な仕事をやらされることもあるのだ。そう、義徳は健児のお陰で、この満願商事の社員という身分を得られた。もっとも、義徳の存在は、満願商事ではほとんど知られていないのだ。
とにかく、今の生活を守るために……義徳は、健児の命令には従わざるを得ないのだ。もし健児に逆らえば、義徳は今の生活を失うことになる。
いや、全てを失うことにもなりかねない。
頭の中で様々な考えを巡らせながら、義徳は家に到着する。すると、真っ先に出迎えてくれたのは、いつもと同じく、丸々と太った黒猫のマオニャンである。尻を床に着け、お行儀よく前足を揃えた姿で玄関にいる。義徳を見上げると、いかにも嬉しそうに、にゃあと鳴いた。
「マオニャン、ただいま」
義徳は微笑みながら、玄関に腰を下ろし靴を脱ぐ。するとマオニャンは、喉をゴロゴロ鳴らしながら顔を擦り付けてくる。義徳は改めて、マオニャンの存在に感謝した。荒んだ気持ちが和らいでいくのがわかる。どうやら、有希子は出かけているらしい。
マオニャンを撫でながら、義徳は幸せを感じた。あんな汚れ仕事を行なう自分でも、慕ってくれる存在がいるのだ。
こんな仕事、さっさと終わらせよう。
一日も早く、元の生活に戻るんだ。
そこは、満願商事のオフィスのひとつ……のはずなのだが、照明は暗く陰気なムードに満ちている。広くガランとした室内には、机と椅子が複数置かれている。もっとも、使われている気配は無いが。机の上には電話がある。しかし、こちらも机と同様に、使われている気配は無い。
緒形義徳は普段、このオフィスで午前九時から午後五時までを過ごす。仕事などしない。ただひたすら、ここで暇を潰すだけだ。テレビを観たり、スマホをいじったりしてだらだらと時間を過ごし、五時になるのを待つだけだ。そして五時になったら、さっさと帰る……それが、義徳の日常である。
しかし、今日は別だった。彼の机の上には、たくさんの書類と写真とが無造作に置かれている。
義徳は、その書類の一枚一枚にじっくりと目を通していた。その表情は真剣ではあったが、どこか虚ろな雰囲気も漂っていた。感情を押し殺し、機械と化して作業をしている……端から見れば、そのような印象を受けるだろう。
その印象は正しい。義徳にとって、これはやりたくない仕事であった。だが同時に、やらなくてはならない事でもあった。
自分と娘の、平和な生活を守るために。
不意に、机の上の電話が鳴る。相手が誰であるか、義徳には番号を見る前からわかっていた。この電話に連絡してくるような人間はひとりしかいない。
住田健児……自分にこの仕事をさせている男だ。
(やあ、義徳さん。調子はどうですか?)
相変わらず、軽薄かつ馴れ馴れしい口調の健児……義徳は怒りがこみ上げてくるのを感じていた。だが、そんな感情はおくびにも出さない。
「ええ、とりあえずは数人、目ぼしい奴を見つけました。期限は、いつ頃までなんですか?」
(そうですね……なるべく早くお願いしますよ。出来れば、二週間以内でお願いします)
「二週間、ですか。わかりました。キツいですが、何とかやってみます。それでいいですね住田さん?」
(ちょっとお……そりゃないんじゃないですか義徳さん? 住田さん、なんて呼ばないでくださいよ。昔みたいに、健児と呼んでくださいよ)
健児の惚けた声が、受話器から聞こえてくる。しかし、義徳には分かっているのだ。この男は、利用できるものは何でも利用する。現に今、無関係の企業で窓際の閑職にいる自分のことを使っているくらいだ。
いや、無関係とも言いきれないのも確かだが。
「いや、もう昔とは違うんですから。とにかく、今夜から取りかかります。出来るだけ早く、終わらせるようにしますから」
(嫌だなあ……俺にとって義徳さんは、今でも偉大な先輩であり、良き兄貴分ですよ。思い出しますねえ、義徳さんにシゴかれた若き日のことを……俺は、昨日のことのように覚えていますよ)
その言葉の直後、受話器から聞こえてくる健児の笑い声。聞いている義徳は、たまらなく不快になってきた。さっさと、この会話を終わらせたい。
「やめてください。そんな昔の話、今さら何の意味もありません。仕事はきっちりやり遂げますから、心配しないでください」
(何ですか、そりゃあ……可愛い後輩に、冷たいじゃありませんか。意地悪しないでくださいよ。あっ、そういやあ有希子ちゃんは元気ですか──)
「有希子のことは、今は関係ないでしょうが……」
語気鋭く、健児の言葉を遮る。受話器を握る手に思わず力がこもっていた。
(ちょっとお、そんな怖い声ださないでくださいよ。まったく、義徳さんは有希子ちゃんのことになると人が変わるんだから……有希子ちゃんの彼氏になる人は大変ですね。なんたって、義徳さんのキツい審査をクリアしなくちゃならないんですから──)
「すみません、そろそろ外に出なきゃならないんで失礼します。また今度、連絡しますよ」
そう言うと、義徳は電話を切ろうとした。だが、健児の慌てたような声が聞こえてくる。
(ちょっと待ってくださいよ、まだ話は終わってないんですから。明日、そちらに手伝いの人間が行くことになってますんで、よろしくお願いしますよ)
「はあ? 手伝い、ですか?」
思わず顔をしかめる。確かに、自分ひとりでは面倒な仕事ではある。だからといって、手伝いの人間が来るというのは想定していなかった。
(そうです。まだ若いですが、なかなか有能な男ですよ。まあ、義徳さんの好きなように、こき使ってやってください)
電話を切ると、義徳は見るからに不快そうな表情のまま立ち上がる。
そして、オフィスを出て行った。特に外出する用事は無かったが、胸がムカムカしていたのだ。
夕方になり、義徳は満願商事を後にする。今日は本当に疲れた。久しぶりに、仕事らしい仕事をしたような気がする。今までは、午前九時から午後五時までの間をオフィスで過ごす……それが仕事だった。時おり満願商事の雑用をやらされることもあったが、基本的には暇潰しが仕事である。毎日ボーッとしているだけで給料が貰えるのだから、ありがたい話ではある。
その代わり、今回のような面倒な仕事をやらされることもあるのだ。そう、義徳は健児のお陰で、この満願商事の社員という身分を得られた。もっとも、義徳の存在は、満願商事ではほとんど知られていないのだ。
とにかく、今の生活を守るために……義徳は、健児の命令には従わざるを得ないのだ。もし健児に逆らえば、義徳は今の生活を失うことになる。
いや、全てを失うことにもなりかねない。
頭の中で様々な考えを巡らせながら、義徳は家に到着する。すると、真っ先に出迎えてくれたのは、いつもと同じく、丸々と太った黒猫のマオニャンである。尻を床に着け、お行儀よく前足を揃えた姿で玄関にいる。義徳を見上げると、いかにも嬉しそうに、にゃあと鳴いた。
「マオニャン、ただいま」
義徳は微笑みながら、玄関に腰を下ろし靴を脱ぐ。するとマオニャンは、喉をゴロゴロ鳴らしながら顔を擦り付けてくる。義徳は改めて、マオニャンの存在に感謝した。荒んだ気持ちが和らいでいくのがわかる。どうやら、有希子は出かけているらしい。
マオニャンを撫でながら、義徳は幸せを感じた。あんな汚れ仕事を行なう自分でも、慕ってくれる存在がいるのだ。
こんな仕事、さっさと終わらせよう。
一日も早く、元の生活に戻るんだ。
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