6 / 41
六月二日 孝雄、さらにキメる
しおりを挟む
気がついてみると、既に昼間になっていた。窓から射してくる日差しが、眩しくてたまらない。
塚本孝雄は軽い気だるさのようなものを感じながらも、どうにか立ち上がった。机の上に置いてあったペットボトルの水をがぶ飲みする。
昨日から一睡もしていないし、何も食べていない。それもまた、昨日に射った覚醒剤の効果ゆえだ。久しぶりのせいか、効いている時間が長い。覚醒剤は量や間隔にもよるが……大抵の場合、五時間から十時間は効き目が続く。
しかし、さすがにこの時間帯になると、覚醒剤の効果も切れかかっていた。ポン中(覚醒剤依存症患者を指すスラング)にとって……人生において嫌な気分ランキングの三位以内には入っていると思われるのが、覚醒剤の切れた時である。肉体は衰弱し、精神は酷い鬱に襲われる。この瞬間には、人は呼吸することすら面倒くさく思うほどの虚無感に苛まれるのだ。
この状態を避けるために……ポン中は、またしても覚醒剤を打つ。薬が効いている間は、食事も睡眠も必要ない。覚醒剤のもたらす束の間の快楽に耽り、何もかも忘れていられるのだ。どんな悩みであろうと、薬が効いている間だけは心から消えていてくれる。
だが、数時間後に薬の効き目はなくなる。その時に、またしても襲いくる疲労感と絶望感と虚無感……その鬱状態は、以前よりもさらに大きくなっている。やがて耐えきれなくなり、ポン中はまたしても覚醒剤を打つのだ。
このポン中に特有のスパイラルは、ほとんどの場合エンドレスに続いていく。覚醒剤が手元から無くなるか、自身が警察官に逮捕されるか、肉体が限界を迎えて死ぬまで終わらない。
今の孝雄もまた、ポン中スパイラルの真っ只中にいた。
彼は注射器の針を、自身の左腕の静脈に突き刺した。覚醒剤の水溶液を、一気に注入させていく。
やがて、脳内を突き抜けていくような快感に襲われた。眠気が消えていき、意識が冴え渡る。同時に、自らを悩ませていた鬱もまた消え去っていく。先ほどまで感じていた不快な気分は、綺麗さっぱり無くなっていた。
孝雄はスッキリした頭で、注射器と覚醒剤のパケをDVDのケースに隠す。薬は、あと一回分しか残っていない。これで二万円とは、あまりにも理不尽な値段だ。買った時点で恐らく、〇・二グラムほどしかなかっただろう。
そう、孝雄に覚醒剤を売りつけている小津はプロの売人ではない。プロの売人から一グラム二万円から三万円ほどで買い、それを何等分かに小分けする。その小分けしたもののひとつを孝雄に売りつけているのだ。
もちろん、小津は自分でも覚醒剤をやっているのだ。自分で打つ分を削り、孝雄のような人間に売りつけている。小津は孝雄のような人間を他にも何人か抱え、それら全ての人間に酷い値段で売りつけている。
さながら、小津をリーダーとする小規模なサークルのようなものが出来上がっていたのだ。これは、小津が特別なのではない。覚醒剤を取り巻く人間たちには、よくある事だった。
もっとも、そのサークル活動にも、いつかは終わりが訪れる。
大抵の場合、発端は覚醒剤を射ちすぎておかしくなった者の逮捕から始まる。逮捕される原因は様々だ。覚醒剤をポケットに入れたまま外出し、パトロール中の警察官に職務質問されて逮捕されるケースや、射ちすぎて精神に異常をきたすケースなどが主な原因である。
時には、おかしくなった挙げ句に妄想に支配され、自ら警察に駆け込み自首するケースまであるのだ。
その逮捕された者たちが売人や薬仲間のことを自供し、やがて全員が芋づる式に逮捕されていくことになる。それが、ポン中サークルの末路なのだ。
とはいえ、今はまだそこまでの事態には至っていない。小津と、彼を取り巻く――もちろん孝雄も含む――ポン中のサークルは……今のところら安全であった。危ういながらも、全員がどうにかバランスを保ち綱渡りを続けていられたのである。
塀の内と外との、境界線を渡りながら……。
孝雄は他のポン中に比べると、かなり慎重なタイプである。彼は絶対に、外出先で打つような真似はしない。ポン中が逮捕されるケースでもっとも多いのが、外で覚醒剤を使用し通報される場合である。
また、友人の家でも射たないのだ。友人の家で打つ……ということは、いつか帰らなくてはならない。帰り途で、警察官に職質を受ける可能性もある。覚醒剤が効いている状態で職質などされたら、確実にまずい事態になるのだ。したがって、孝雄は友人の家でも覚醒剤を射ったりはしない。彼が覚醒剤を打つのは、あくまでも自宅に帰ってからである。
ポン中の中でも、孝雄のように自分なりのセオリーを持ち、それを守るタイプの人間は長く生き延びる可能性が高い。
そして孝雄は今日も、覚醒剤のもたらす束の間の快楽に溺れる。
覚醒剤が効いている間だけは、孝雄は全てを忘れていられた。悩みも不安も消え、代わりに幸福な気分だけを感じていられる。
たとえ、まやかしの幸福であったとしても。
孝雄が初めて注射器を使って覚醒剤を射ったのは二年前だ。その頃には、覚醒剤に対するイメージは全く変わってしまっていた。 映画やドラマなどで見るポン中は……目をギラギラさせて、半開きの口からはヨダレを垂れ流している。さらに意味不明の言葉を叫びながら、街中で刃物を振り回す、といったものだった。
しかし、自分の周囲で覚醒剤をやっている人間は……皆、表面上はまともだったからだ。挙動は少しおかしいが、それでも危険なものには見えない。
「テレビで見るポン中? あんなの、嘘に決まってるじゃねえか。テレビや映画はああやって、シャブを怖いものだと思いこませているのさ。やったこともない奴が、偉そうにシャブの害を語ってるだけなんだよ」
孝雄の知り合いは、そう言っていた。さらに続けて、こんなことも言った。
「いいか……シャブを炙り――気化させた煙を吸い込むやり方――でやるなんて、もったいねえぞ。ポンプで打つ方が無駄がないぜ。試してみるか?」
ポンプとは何のことなのか、孝雄は知らなかった。知らないまま、うんと頷いてしまったのだ。
その日を境に、孝雄は狂ったように覚醒剤にのめり込む羽目になってしまったのだが……本人はまだ、そのことに気づいていなかった。
塚本孝雄は軽い気だるさのようなものを感じながらも、どうにか立ち上がった。机の上に置いてあったペットボトルの水をがぶ飲みする。
昨日から一睡もしていないし、何も食べていない。それもまた、昨日に射った覚醒剤の効果ゆえだ。久しぶりのせいか、効いている時間が長い。覚醒剤は量や間隔にもよるが……大抵の場合、五時間から十時間は効き目が続く。
しかし、さすがにこの時間帯になると、覚醒剤の効果も切れかかっていた。ポン中(覚醒剤依存症患者を指すスラング)にとって……人生において嫌な気分ランキングの三位以内には入っていると思われるのが、覚醒剤の切れた時である。肉体は衰弱し、精神は酷い鬱に襲われる。この瞬間には、人は呼吸することすら面倒くさく思うほどの虚無感に苛まれるのだ。
この状態を避けるために……ポン中は、またしても覚醒剤を打つ。薬が効いている間は、食事も睡眠も必要ない。覚醒剤のもたらす束の間の快楽に耽り、何もかも忘れていられるのだ。どんな悩みであろうと、薬が効いている間だけは心から消えていてくれる。
だが、数時間後に薬の効き目はなくなる。その時に、またしても襲いくる疲労感と絶望感と虚無感……その鬱状態は、以前よりもさらに大きくなっている。やがて耐えきれなくなり、ポン中はまたしても覚醒剤を打つのだ。
このポン中に特有のスパイラルは、ほとんどの場合エンドレスに続いていく。覚醒剤が手元から無くなるか、自身が警察官に逮捕されるか、肉体が限界を迎えて死ぬまで終わらない。
今の孝雄もまた、ポン中スパイラルの真っ只中にいた。
彼は注射器の針を、自身の左腕の静脈に突き刺した。覚醒剤の水溶液を、一気に注入させていく。
やがて、脳内を突き抜けていくような快感に襲われた。眠気が消えていき、意識が冴え渡る。同時に、自らを悩ませていた鬱もまた消え去っていく。先ほどまで感じていた不快な気分は、綺麗さっぱり無くなっていた。
孝雄はスッキリした頭で、注射器と覚醒剤のパケをDVDのケースに隠す。薬は、あと一回分しか残っていない。これで二万円とは、あまりにも理不尽な値段だ。買った時点で恐らく、〇・二グラムほどしかなかっただろう。
そう、孝雄に覚醒剤を売りつけている小津はプロの売人ではない。プロの売人から一グラム二万円から三万円ほどで買い、それを何等分かに小分けする。その小分けしたもののひとつを孝雄に売りつけているのだ。
もちろん、小津は自分でも覚醒剤をやっているのだ。自分で打つ分を削り、孝雄のような人間に売りつけている。小津は孝雄のような人間を他にも何人か抱え、それら全ての人間に酷い値段で売りつけている。
さながら、小津をリーダーとする小規模なサークルのようなものが出来上がっていたのだ。これは、小津が特別なのではない。覚醒剤を取り巻く人間たちには、よくある事だった。
もっとも、そのサークル活動にも、いつかは終わりが訪れる。
大抵の場合、発端は覚醒剤を射ちすぎておかしくなった者の逮捕から始まる。逮捕される原因は様々だ。覚醒剤をポケットに入れたまま外出し、パトロール中の警察官に職務質問されて逮捕されるケースや、射ちすぎて精神に異常をきたすケースなどが主な原因である。
時には、おかしくなった挙げ句に妄想に支配され、自ら警察に駆け込み自首するケースまであるのだ。
その逮捕された者たちが売人や薬仲間のことを自供し、やがて全員が芋づる式に逮捕されていくことになる。それが、ポン中サークルの末路なのだ。
とはいえ、今はまだそこまでの事態には至っていない。小津と、彼を取り巻く――もちろん孝雄も含む――ポン中のサークルは……今のところら安全であった。危ういながらも、全員がどうにかバランスを保ち綱渡りを続けていられたのである。
塀の内と外との、境界線を渡りながら……。
孝雄は他のポン中に比べると、かなり慎重なタイプである。彼は絶対に、外出先で打つような真似はしない。ポン中が逮捕されるケースでもっとも多いのが、外で覚醒剤を使用し通報される場合である。
また、友人の家でも射たないのだ。友人の家で打つ……ということは、いつか帰らなくてはならない。帰り途で、警察官に職質を受ける可能性もある。覚醒剤が効いている状態で職質などされたら、確実にまずい事態になるのだ。したがって、孝雄は友人の家でも覚醒剤を射ったりはしない。彼が覚醒剤を打つのは、あくまでも自宅に帰ってからである。
ポン中の中でも、孝雄のように自分なりのセオリーを持ち、それを守るタイプの人間は長く生き延びる可能性が高い。
そして孝雄は今日も、覚醒剤のもたらす束の間の快楽に溺れる。
覚醒剤が効いている間だけは、孝雄は全てを忘れていられた。悩みも不安も消え、代わりに幸福な気分だけを感じていられる。
たとえ、まやかしの幸福であったとしても。
孝雄が初めて注射器を使って覚醒剤を射ったのは二年前だ。その頃には、覚醒剤に対するイメージは全く変わってしまっていた。 映画やドラマなどで見るポン中は……目をギラギラさせて、半開きの口からはヨダレを垂れ流している。さらに意味不明の言葉を叫びながら、街中で刃物を振り回す、といったものだった。
しかし、自分の周囲で覚醒剤をやっている人間は……皆、表面上はまともだったからだ。挙動は少しおかしいが、それでも危険なものには見えない。
「テレビで見るポン中? あんなの、嘘に決まってるじゃねえか。テレビや映画はああやって、シャブを怖いものだと思いこませているのさ。やったこともない奴が、偉そうにシャブの害を語ってるだけなんだよ」
孝雄の知り合いは、そう言っていた。さらに続けて、こんなことも言った。
「いいか……シャブを炙り――気化させた煙を吸い込むやり方――でやるなんて、もったいねえぞ。ポンプで打つ方が無駄がないぜ。試してみるか?」
ポンプとは何のことなのか、孝雄は知らなかった。知らないまま、うんと頷いてしまったのだ。
その日を境に、孝雄は狂ったように覚醒剤にのめり込む羽目になってしまったのだが……本人はまだ、そのことに気づいていなかった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
さらば真友よ
板倉恭司
ミステリー
ある日、警察は野口明彦という男を逮捕する。彼の容疑は、正当な理由なくスタンガンと手錠を持ち歩いていた軽犯罪法違反だ。しかし、警察の真の狙いは別にあった。二十日間の拘留中に証拠固めと自供を狙う警察と、別件逮捕を盾に逃げ切りを狙う野口の攻防……その合間に、ひとりの少年が怪物と化すまでの半生を描いた推理作品。
※物語の半ばから、グロいシーンが出る予定です。苦手な方は注意してください。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが集団お漏らしする話
赤髪命
大衆娯楽
※この作品は「校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話」のifバージョンとして、もっと渋滞がひどくトイレ休憩云々の前に高速道路上でバスが立ち往生していた場合を描く公式2次創作です。
前作との文体、文章量の違いはありますがその分キャラクターを濃く描いていくのでお楽しみ下さい。(評判が良ければ彼女たちの日常編もいずれ連載するかもです)
凶気の呼び声~狭間の世界にうごめく者~
板倉恭司
ミステリー
少年は小説家を目指し作品を書き続けていたが、誰も彼の作品を読まなかった。ある日、少年は恐ろしい男に出会ってしまう……悪魔の気まぐれにより、運命が交錯する四人の男たち。非日常に憧れる少年。裏の世界で生きる仕事人。異様な生活を送るサラリーマン。復讐のため堕ちていく青年。彼らの人生は複雑に絡み合い、やがて恐ろしい事件へ──
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話
赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
冤罪! 全身拘束刑に処せられた女
ジャン・幸田
ミステリー
刑務所が廃止された時代。懲役刑は変化していた! 刑の執行は強制的にロボットにされる事であった! 犯罪者は人類に奉仕する機械労働者階級にされることになっていた!
そんなある時、山村愛莉はライバルにはめられ、ガイノイドと呼ばれるロボットにされる全身拘束刑に処せられてしまった! いわば奴隷階級に落とされたのだ! 彼女の罪状は「国家機密漏洩罪」! しかも、首謀者にされた。
機械の身体に融合された彼女は、自称「とある政治家の手下」のチャラ男にしかみえない長崎淳司の手引きによって自分を陥れた者たちの魂胆を探るべく、ガイノイド「エリー」として潜入したのだが、果たして真実に辿りつけるのか? 再会した後輩の真由美とともに危険な冒険が始まる!
サイエンスホラーミステリー! 身体を改造された少女は事件を解決し冤罪を晴らして元の生活に戻れるのだろうか?
*追加加筆していく予定です。そのため時期によって内容は違っているかもしれません、よろしくお願いしますね!
*他の投稿小説サイトでも公開しておりますが、基本的に内容は同じです。
*現実世界を連想するような国名などが出ますがフィクションです。パラレルワールドの出来事という設定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる