ザイニンタチノマツロ

板倉恭司

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六月二日 孝雄、さらにキメる

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 気がついてみると、既に昼間になっていた。窓から射してくる日差しが、眩しくてたまらない。
 塚本孝雄は軽い気だるさのようなものを感じながらも、どうにか立ち上がった。机の上に置いてあったペットボトルの水をがぶ飲みする。
 昨日から一睡もしていないし、何も食べていない。それもまた、昨日に射った覚醒剤の効果ゆえだ。久しぶりのせいか、効いている時間が長い。覚醒剤は量や間隔にもよるが……大抵の場合、五時間から十時間は効き目が続く。
 しかし、さすがにこの時間帯になると、覚醒剤の効果も切れかかっていた。ポン中(覚醒剤依存症患者を指すスラング)にとって……人生において嫌な気分ランキングの三位以内には入っていると思われるのが、覚醒剤の切れた時である。肉体は衰弱し、精神は酷い鬱に襲われる。この瞬間には、人は呼吸することすら面倒くさく思うほどの虚無感に苛まれるのだ。
 この状態を避けるために……ポン中は、またしても覚醒剤を打つ。薬が効いている間は、食事も睡眠も必要ない。覚醒剤のもたらす束の間の快楽に耽り、何もかも忘れていられるのだ。どんな悩みであろうと、薬が効いている間だけは心から消えていてくれる。
 だが、数時間後に薬の効き目はなくなる。その時に、またしても襲いくる疲労感と絶望感と虚無感……その鬱状態は、以前よりもさらに大きくなっている。やがて耐えきれなくなり、ポン中はまたしても覚醒剤を打つのだ。
 このポン中に特有のスパイラルは、ほとんどの場合エンドレスに続いていく。覚醒剤が手元から無くなるか、自身が警察官に逮捕されるか、肉体が限界を迎えて死ぬまで終わらない。

 今の孝雄もまた、ポン中スパイラルの真っ只中にいた。
 彼は注射器の針を、自身の左腕の静脈に突き刺した。覚醒剤の水溶液を、一気に注入させていく。
 やがて、脳内を突き抜けていくような快感に襲われた。眠気が消えていき、意識が冴え渡る。同時に、自らを悩ませていた鬱もまた消え去っていく。先ほどまで感じていた不快な気分は、綺麗さっぱり無くなっていた。
 孝雄はスッキリした頭で、注射器と覚醒剤のパケをDVDのケースに隠す。薬は、あと一回分しか残っていない。これで二万円とは、あまりにも理不尽な値段だ。買った時点で恐らく、〇・二グラムほどしかなかっただろう。
 そう、孝雄に覚醒剤を売りつけている小津はプロの売人ではない。プロの売人から一グラム二万円から三万円ほどで買い、それを何等分かに小分けする。その小分けしたもののひとつを孝雄に売りつけているのだ。
 もちろん、小津は自分でも覚醒剤をやっているのだ。自分で打つ分を削り、孝雄のような人間に売りつけている。小津は孝雄のような人間を他にも何人か抱え、それら全ての人間に酷い値段で売りつけている。
 さながら、小津をリーダーとする小規模なサークルのようなものが出来上がっていたのだ。これは、小津が特別なのではない。覚醒剤を取り巻く人間たちには、よくある事だった。

 もっとも、そのサークル活動にも、いつかは終わりが訪れる。
 大抵の場合、発端は覚醒剤を射ちすぎておかしくなった者の逮捕から始まる。逮捕される原因は様々だ。覚醒剤をポケットに入れたまま外出し、パトロール中の警察官に職務質問されて逮捕されるケースや、射ちすぎて精神に異常をきたすケースなどが主な原因である。
 時には、おかしくなった挙げ句に妄想に支配され、自ら警察に駆け込み自首するケースまであるのだ。
 その逮捕された者たちが売人や薬仲間のことを自供し、やがて全員が芋づる式に逮捕されていくことになる。それが、ポン中サークルの末路なのだ。

 とはいえ、今はまだそこまでの事態には至っていない。小津と、彼を取り巻く――もちろん孝雄も含む――ポン中のサークルは……今のところら安全であった。危ういながらも、全員がどうにかバランスを保ち綱渡りを続けていられたのである。
 塀の内と外との、境界線を渡りながら……。

 孝雄は他のポン中に比べると、かなり慎重なタイプである。彼は絶対に、外出先で打つような真似はしない。ポン中が逮捕されるケースでもっとも多いのが、外で覚醒剤を使用し通報される場合である。
 また、友人の家でも射たないのだ。友人の家で打つ……ということは、いつか帰らなくてはならない。帰り途で、警察官に職質を受ける可能性もある。覚醒剤が効いている状態で職質などされたら、確実にまずい事態になるのだ。したがって、孝雄は友人の家でも覚醒剤を射ったりはしない。彼が覚醒剤を打つのは、あくまでも自宅に帰ってからである。
 ポン中の中でも、孝雄のように自分なりのセオリーを持ち、それを守るタイプの人間は長く生き延びる可能性が高い。

 そして孝雄は今日も、覚醒剤のもたらす束の間の快楽に溺れる。
 覚醒剤が効いている間だけは、孝雄は全てを忘れていられた。悩みも不安も消え、代わりに幸福な気分だけを感じていられる。
 たとえ、まやかしの幸福であったとしても。



 孝雄が初めて注射器を使って覚醒剤を射ったのは二年前だ。その頃には、覚醒剤に対するイメージは全く変わってしまっていた。 映画やドラマなどで見るポン中は……目をギラギラさせて、半開きの口からはヨダレを垂れ流している。さらに意味不明の言葉を叫びながら、街中で刃物を振り回す、といったものだった。
 しかし、自分の周囲で覚醒剤をやっている人間は……皆、表面上はまともだったからだ。挙動は少しおかしいが、それでも危険なものには見えない。

「テレビで見るポン中? あんなの、嘘に決まってるじゃねえか。テレビや映画はああやって、シャブを怖いものだと思いこませているのさ。やったこともない奴が、偉そうにシャブの害を語ってるだけなんだよ」

 孝雄の知り合いは、そう言っていた。さらに続けて、こんなことも言った。

「いいか……シャブを炙り――気化させた煙を吸い込むやり方――でやるなんて、もったいねえぞ。ポンプで打つ方が無駄がないぜ。試してみるか?」

 ポンプとは何のことなのか、孝雄は知らなかった。知らないまま、うんと頷いてしまったのだ。
 その日を境に、孝雄は狂ったように覚醒剤にのめり込む羽目になってしまったのだが……本人はまだ、そのことに気づいていなかった。






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