舞い降りた悪魔

九月九日 敦志の衝撃

「ところで、君はいま何歳なんだい？」

　不意に、ペドロが軽い口調で尋ねてきた。

「二十五だよ。いつの間にやら、この歳になってた」

　車を運転しながら、敦志は答えた。
　二人は今、車の中にいる。ペドロの指示に従い、敦志の運転する車で田舎道を走っているのだ。とはいえ、今のところは白土市を車でうろうろしているだけ……としか思えない。このドライブの目的は不明であるが、敦志にはペドロの指示に従う以外の選択肢がなかった。



　昨日の話を聞いた限りでは、ペドロの目的は旧三日月村の跡地から逃げ出した被験体を捕らえようとしているらしい。だが、それ以上のことは何もわからないのだ。
　しかも、上からの指示でしばらく様子見だ……とも言っていた。様子見の間に、被験体が消えてしまったとしたらどうするのだろうか。
　そんなことを考えていた時だった。

「敦志くん、すまないが停めてくれ」

　不意に、ペドロが鋭い声で叫んだ。敦志は突然の変わりように首を捻りながらも、指示通りに車を停めた。
　すると、ペドロは車を降りる。ゆったりとした足取りで、反対車線の方に歩いて行った。
　そこにも、一台の車が停まっていた。運転席には、短髪で小太りの男が乗っている。ガラス越しで表情までは見えないが、近づいて来るペドロを、じっと見つめているのはわかる。
　敦志は思わず顔をしかめた。停まっているのは、黒塗りのベンツなのだ。かつては、ヤクザ愛用車として一世を風靡した高級車である。近頃では、裏社会の住人たちの間でも高級車離れが進んでいるとの噂を聞く。事実、半グレの中には安い中古車に乗っている者もいた。しかし、目の前に停まっている車は違うらしい。中に乗っている者を見る限り、ヤクザの中にも未だにベンツの愛用者はいるのだ。
　運転席にて、鋭い表情でペドロを見ている者は、ほぼ間違いなくヤクザだろう。そんな輩やからに、いったい何の用があるのだろうか？
　強い不安を覚え、敦志も車から降りる。あのペドロは、野放しにしておくと何をするかわからない。
　次の瞬間、驚きのあまり全身の毛が逆立っていた──

　ペドロは平然とした様子で、ベンツに向かい歩いている。その足取りは軽く、まるで友人宅に遊びに行くかのようである。
　やがて、ベンツのサイドウィンドウの前で立ち止まる。
　直後、ペドロが何をしたのかは敦志にもはっきりと見えなかった。ただひとつわかったのは……ペドロの腕が動いた瞬間、車の窓ガラスが叩き割られたことだ。
　唖然となる敦志の前で、ペドロはまだ動き続けていた。中にいる運転手らしき男を、片手で軽々と引きずり出したのだ。男は何やら喚きながら、必死で抵抗している。しかし、ペドロの人間離れした腕力にかなうはずがなかった。呆気なく車の外に引きずり出される。
　すると、ペドロは男の顔に手を伸ばした。直後、まるで人形を破壊するように、無造作に首をへし折ってしまった。
　ここまでは、僅か数秒の間の出来事である。常人なら、何が起きたのかすら把握できなかっただろう。
　しかし、敦志は考えるより先に動いていた。拳銃を抜き、ペドロに銃口を向ける。

「おいペドロ！　お前なに考えてんだよ！」

　怒鳴りつける。だが、ペドロは平静な態度を保っていた。拳銃を構えている敦志の目の前で、死体に変えた男の所持品を探っている。

「何を考えているのか聞いてんだろうが！？　何のために殺した！？」

　敦志は苛立った表情で、なおも尋ねる。それに対し、ペドロは無言のまま左手を上げた。手のひらを、こちらに向けている。待て、ということだろうか。
　だが次の瞬間、ペドロは音もなく林の中に入る。一瞬にして、敦志の目の前から消えてしまった。

　ひとり残された敦志は、仕方なく死体に視線を移す。短髪で色白、太った体をブランド物のスーツで覆っている。映画に出てくるような、典型的ヤクザスタイルだ。未だに、この手のタイプは存在するらしい。もっとも、ヤクザは見栄を売る商売でもあるため、仕方ないのかもしれないが。
　そんなことを考えていた時、林の中からペドロが戻って来た。ご丁寧にも、もうひとりの男の体を背負っている。
　敦志は、思わず表情を歪めていた。この怪物は、五分にも満たない僅かな時間で、立て続けに二人の人間を殺したのだ。
　だが、何のために？　
　思わず、声が出ていた。

「てめえ、何を考えてやがるんだ──」

「まあ待ちたまえ。怒る気持ちも分からなくもない。だがね、これは必要なことなんだ」

　言いながら、ペドロは背負っていた男の体を地面に横たえる。あちこちの骨をへし折られているらしく、腕や足が不自然な方向に曲がっていた。長い髪を後ろで束ね、髭を蓄えている男だ。身に付けているものも、高級ブランド品ばかりである。恐らく、こちらもヤクザであろう。

「敦志くん、そっちの太った男は拳銃を懐に入れている。デザートイーグルだ。この先、必要になってくる。君が使いたまえ」

　そう言いながら、ペドロは長髪の男の所持品を調べている。
　一方、敦志は思わず眉をひそめていた。デザートイーグル……大型の拳銃だ。一発の威力はあるが、その分こちらへの反動も大きく使いづらい。

「デザートイーグル？　そんなもん要らない」

「いや、今後は必要になるんだよ。この二人のようなタイプは、得てして必要もない物を持ちたがる。デザートイーグルのような拳銃は、日本のヤクザにとって必要のない物だ。威力はあるが弾数が少ないし、何よりかさばる。君の持っているグロックの方が、日本で扱う分にはよほど実戦的だよ。軽くて、弾数も多いしね。だがね、我々が探している者には、グロックだけでは心許ないんだ。君には、デザートイーグルを持っていて欲しい。我々なら、この二人よりは有効に使えるしね」

　淀みなく答えている。敦志は、さらに聞いた。

「じゃあ、そのためだけに二人を殺したのか？」

「いいや。捜索を混乱させる、という理由もある。この二人を始末したやり方は、我々が探している者の殺し方と同じなのさ。他の連中はきっと、彼女の仕業だと思うだろうね。結果として、他の連中を出し抜ける可能性が高くなるわけさ」

　そう言うと、ペドロは笑い出した。クックック……という不気味な笑い声が、その場に響き渡る。
　一方、敦志はただただ唖然となっていた。何と恐ろしい男なのだろう。他の連中を出し抜く、そのためだけに二人を殺したのか。

「そんなことより、早くここを離れようじゃないか。続きは車の中で、ゆっくり語り合うとしよう」

　そう言うと、ペドロはのんびりした動きで車に乗り込む。敦志は、彼の指示に従う以外の行動を思い付かなかった。



「さっきのあれは、どういうことなんだ？」

　車を運転しながら、敦志は静かな口調で切り出す。

「さっきのあれ、というと……二人のヤクザを殺した件だね。あれは仕方ないのさ」

　ペドロの口調も淡々としている。その要領を得ない言葉に、敦志は軽い苛立ちを感じた。

「仕方ない、か？　俺には訳が分からねえよ。あんたは突然、目の前で二人のヤクザを殺した。あんたの指示には従うがね、少しは事情を説明してくれてもいいんじゃねえのかな」

「いいだろう。俺が、旧三日月村の跡地から被験体を逃がしたのは教えたね。その被験体は今、白土市のどこかに潜伏している。どこにいるか、だいたいの予想がついているがね。彼女はまだ、言わば幼虫の状態だ。もっとも、幼虫といえども素手で成人男性の首をへし折るくらいの殺傷能力はある」

　ペドロは笑みを浮かべながら、静かな口調で語る。
　敦志は車を停め、じっと彼の顔を見つめた。嘘をついているようには見えないが、理解不能な話ではある。今度は幼虫なる単語が出てきた。幼虫というからには、いずれは成虫になる、とでもいうのだろうか？

「なあ、その幼虫ってのは……放っておいたらどうなるんだ？　蝶になって飛んでいくのか？」

　敦志の問いに、ペドロは首を振った。

「わからない」

「わからない？　どういうことだ？」

「俺も、今まで見たことがないんでね。ただ、極めて奇怪な形状へと変化するらしい。怪物、とでも呼ぶべき存在にね。実に興味深い話だよ。俺も一度は見てみたいものだ」

　ペドロの表情が、微かに変化した。感情らしきものが、その顔に見え隠れしている。敦志は黙ったまま、彼の話を聞いていた。

「はっきり言ってしまうと、俺を雇った人間は彼女が成虫になった状態のものを見たいらしいんだ。死体となっていても構わない、とにかく成虫の状態を……という要望でね」

「なるほど」

「しかし、彼女を元の場所に連れ戻したいと思う者たちもいるんだよ。彼女が成虫に変わる前に連れ戻す、それが彼らの目的さ。彼らと俺とでは、完全に利害が対立している訳だよ。だから、彼らの捜索を撹乱させなくてはならないんだ」

「だから、あのヤクザ二人の首をへし折ったのか？」

　敦志の言葉に、ペドロは満足気な笑みを浮かべて頷いた。

「その通り。俺は、彼女が成虫になるまで待たなくてはならない。しかし、この白土市を支配する者は、彼女をさっさと連れ戻したいわけだ。我々は今、非常に厄介な立場にいるんだよ。君が協力してくれて、本当に助かった。首尾よく成虫になった彼女を引き渡せば、君にもそれなりの報酬を支払えるはずだ」

「成虫、か」

　思わず苦笑する。もはや、自分の理解を完全に超えている。ペドロの存在自体が、ホラー映画に登場する超人的な殺人鬼そのものなのだ。
　なのに、その口から成虫ときた。さらには、白土市を陰から支配している連中までもが絡んでくるとは。

「という訳でだ、俺たちはしばらくの間、奴らの妨害をする。そして、彼女が幼虫から成虫へと成長するのを待つんだ。いいね」

　ペドロの言葉に対し、敦志は頷くことしか出来なかった。今まで、様々なものを見てきた敦志……だが今回の件は、自分の理解の遥か上を行っている。

「わかったよ。その成虫とやらを引き渡せば、あんたは日本から出て行ってくれるんだよな。それなら手伝うよ」

　そこまで言った時、敦志はある事実に気づいた。

「なあ、その成虫とやらは……この拳銃で倒せるのか？」

「どうだろうね。まだ未確認の情報なんだが、三日月村の住人たちを全滅させた真犯人は、その成虫らしいんだよ」

　ペドロの答えを聞き、敦志の眉間に皺が寄る。

「おいおい……そんな化け物を、俺とあんただけで仕留められるのかよ？」

「さあ、どうだろうね。まあ、やれるだけやってみようじゃないか」

　その口調は、あくまでも平静であった。