舞い降りた悪魔

板倉恭司

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九月五日 敦志の接触

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「これは、どういうことなんです?」

(いやあ、何なんだろうねえ。俺にもわからないよ。ただひとつ確かなのは、ペドロ氏は君に興味を持ったようだということだけだね。いずれ、向こうから接触してくるんじゃないかな。じゃ、忙しいから切るね)

 受話器から聞こえてくる住田健児の声は、あまりにも呑気なものだった。立島敦志は、思わず奥歯を噛み締める。これが公衆電話でなかったら、手近にある物を蹴飛ばしていただろう。

「ちょっと待ってくださいよ。何でペドロが、俺の前に現れるんです? 奴は、俺が白土市を訪れることを知っていたんですか?」

(んなこと、俺にわかるわけないじゃん。むしろ、ラッキーじゃない。向こうから現れてくれるなんてさ。探す手間が省けて、よかったよかった)

 よくねえんだよ、という罵声が出かかったが、かろうじて喉の段階で押さえる。代わりに、努めて冷静な声を出した。

「ところで、もしも俺がこの件から降りると言ったら、あなたはどうします?」

(おやおや、それは残念だね。まあ、アッちゃんがどうしても……というなら、それは仕方ない。ただ、よく考えてみるんだね。果たして、ここで降りてしまっていいのか)

 住田の声音は、先ほどと変わっていない。しかし敦志にはわかっていた。これは脅しなのだ。降りたらどうなるのか、よく考えろ……という意味なのである。
 受話器を持ったまま黙りこんだ。すると、住田の優しい声が聞こえてきた。

(アッちゃん、あと一週間だけ居てよ。一週間したら、全部おっぽり投げて帰って来ていいから。まあ、無理にとは言わないけど)



 車を道路脇に停めると、敦志はため息をついた。今の住田のセリフから察するに、あと一週間は仕事を継続しなくてはならないらしい。やりきれない思いだ。
 だが次の瞬間、そのやりきれない思いは吹き飛んだ。

 前方から、奇妙な男が歩いて来るのが見える。この辺りは、山に囲まれた田舎道だ。少し道路を外れると、そこは背の高い草の生い茂る野原である。
 なのに、男は何の荷物も持たず、作業服を着た格好ですたすたと歩いている。まるで地元民のような気楽な顔つきだった。
 もっとも、希代の殺人鬼であるこの男にとっては、何でもないことなのだろう。
 そう、ペドロ・クドーが、こちらに向かい真っ直ぐ歩いて来ていたのだ。その距離は、どんどん縮まって来ていた。今や、彼の顔がフロントガラス越しにはっきりと見える。
 改めて近くで見ると、実に不思議な顔つきだった。はっきり言って、人相は良くない。全身から危険な香りを漂わせている。だが、それとは真逆の知性と品のようなものも感じられるのだ。敦志が、これまでに会ってきた人物とは違って見える。飼い犬と野生の狼が、似て非なる性質の持ち主であるように。
 ペドロが近づいて来るにつれ、不思議な感覚に襲われた。車の中の空気が、どんどん重苦しくなっているのだ。あの殺人鬼の体から発せられる何かが緊張感を生み出し、その緊張感が軽い息苦しさを生じさせていた。
 やがて、ペドロは立ち止まった。運転席のドアガラスのすぐ横で、じっと敦志を見つめている。不思議な目だった。何もかもを呑み込んでしまいそうな暗い瞳である。敦志は、その視線に捕らわれてしまったかのような感覚に襲われた。
 不意に、ペドロはタバコの箱を取り出す。一本抜き取ると、口にくわえて火を点ける。
 美味そうな表情で煙を吐き出すと、ドアガラスを軽く叩いた。
 すると敦志の体は、本人の意思とは無関係に動いていた。ドアガラスを開け、顔を合わせる。

「やあ、随分と顔色が悪いね。体の方は大丈夫なのかい?」

 意外なことに、その口から出たのは流暢な日本語だった。発音も完璧だ。どう見ても、日本人では無いのだが。

「あ、あんたは……ペドロ・クドーだな?」

 敦志は戸惑いながらも、どうにか言葉を返した。すると、ペドロはニヤリと笑う。

「うん、そうだよ。で、君は俺に、どんな用事があるんだい?」

 ペドロの方は落ち着き払っていた。敦志を威圧しようとする気配は無い。まるで友人と世間話をしているかのような、のんびりとした口調だ。

「あんたに聞きたいことがある」

 その声は微かに震えていた。彼は今、異常な感覚に捕らわれている。目の前の殺人鬼に対し、理解しがたいほどの恐怖を感じていた。
 だが同時に、ペドロのことを知りたいという欲求をも感じている。ペドロを殺そうと思えば、殺せないこともないはずだった。隙を見て、足首に隠した拳銃を抜いて撃てばいい。
 だが、そんな気にはなれなかった。

「聞きたいこと、か。それは何かな?」

「あんたは、ここで何をしているんだ?」

 その問いに、ペドロは笑みを浮かべる。

「それが知りたいなら、付いて来るんだね。ただし、君にそんな度胸があれば、の話だが」

 そう言うと、向きを変え歩き出す。
 考えるより先に、体が動いた。敦志は車のドアを開け、外に出る。ペドロの後を追い歩き出した。



 ペドロは落ち着いた様子で、林道を歩いて行く。一方、敦志は辺りを見回しながら付いて行った。
 歩きながらも、敦志は頭の中で考えを巡らせていた。この怪物は、何をするつもりなのだろう。いざとなれば、撃ち殺すしかない──
 その時、ペドロは立ち止まり、くるりと振り向いた。まるで、こちらの考えを見抜いていたかのように。
 余裕に満ちた表情で口を開く。

「ここでいいかな。ここなら、部外者に話を聞かれる心配はないよ。さて……君は立島敦志くん、だね?」

「お、俺の名前を誰から聞いたんだ?」

 思わぬ言葉に動揺し、敦志は語気鋭く尋ねる。
 すると、ペドロの顔から表情が消えた。彼はため息をつき、呆れたように首を振って見せる。

「質問に質問で返す、それは会話の仕方としては良くないな。無作法な男だね、君は」

 言った直後、ペドロの姿が視界から消える。
 直後、敦志の体はバランスを失った。そのまま宙を舞う。
 一回転し、背中から地面に落ちた。

 敦志は一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかし、体は自動的に反応する。素早く地面を転がり、間合いを離して立ち上がった。これまで積んできた厳しい訓練により、考えるより先に体が動いていたのだ。

「なにしやがる!」

 毒づきながら、敦志は足首の拳銃に手を伸ばす。
 だが、そこに拳銃は無かった。

「こんな武器じゃあ、俺は殺せないな」

 驚愕の表情を浮かべる敦志の前で、拳銃を掲げて見せるペドロ。この男は、一秒にも満たない間に敦志に接近して投げ飛ばしたのだ。しかも、敦志の足首に隠してあった拳銃を抜き取ると同時に。
 そんな人間離れした芸当をしたペドロの表情は、至って冷静なものである。すました顔つきで、じっとこちらを見ていた。
 一方の敦志は、形容の出来ない何かが湧き上がってくるのを感じていた。彼の目の前にいるペドロは、自分のこれまで相手にしてきた連中とは根本的に違う。住田から聞いていた話を、遥かに上回る怪物だ。
 恐怖、喜び、殺意、畏敬……敦志の体内には、幾つもの思いが同時に湧き上がっていた。ペドロの圧倒的な強さを目の当たりにし、なぜか笑みが零れる。

「ほう、面白いな。さすが、この地域に派遣されるだけのことはある。それなら、ちょっと試させてもらおうか」

 そう言うと、ペドロは拳銃を自身の足元に落とす。
 ニヤリと笑った。

「敦志くん、俺とちょっと遊んでもらうよ」

「あ、遊ぶだと……」

 言いながら、敦志は状況を目の動きだけで確認する。ペドロまでの距離は約三メートル。拳銃は、ペドロの足元に落ちている。しかし、敦志にそれを拾えるような余裕はない。また、ペドロも拳銃を使う気はなさそうである。
 一方、ペドロの方は余裕たっぷりだ。薄笑いを浮かべ、じっと士郎を見ている。

「君も知っているだろう。この白土市には、厄介な秘密がある。俺はそれを調べるために、ここに来た。しかし、ひとりでは手に余る。そこでだ、君をテストさせてもらうよ」

 そこまで言った直後、ペドロは突進してきた。
 敦志はとっさに、弾くような目突きを放った。左手の指先が、相手の眼球めがけて伸びていく。
 しかし、ペドロは薄ら笑いを浮かべて顎を引いた。指先を額で受け止める。
 だが、敦志の攻撃は止まらない。次の瞬間、右の掌底が飛んでいく。掌底は狙いたがわず、ペドロの顔面に炸裂──
 しかし、ペドロは眉ひとつ動かさなかった。直後、敦志は腕を掴まれる。
 一回転する景色、背中を襲う強烈な痛み。敦志は思わず呻いた。またしても、強烈な投げを喰らったのだ。まるで武術の達人のような、見事な動きである。常人ならば、この投げで動けなくなっていただろう。
 だが敦志も、これで動けなくなるような鍛え方はしていない。すぐさま反撃する。
 ペドロの右足首を掴み、素早く脇に抱え込む。そのまま、関節を極めにいった。アキレス腱固めで、右足首の破壊を狙ったのだ。さらに自らの両足を、ペドロの左足へと絡ませていく。彼を地面に引き倒し、寝技の攻防に持ち込まんとする。
 しかし、ペドロは意に介さなかった。一瞬にして右足を引き抜いたのだ。同時に左足も外す。
 さらに右の膝が、鳩尾に落とされた──
 敦志は呻いた。あまりにも強烈な一撃だ。直後、ペドロは薄ら笑いを浮かべながら、右拳を振り上げる。
 反射的に、顔面を両手でガードする敦志。しかし、ペドロの動きは止まっていた。拳を振り上げた体勢のまま、静かに口を開く。

「さっきも言った通り、俺にはやることがある。それが終わったら、日本を離れるつもりだ。もし良かったら、俺に協力してくれないか?」

「何だと?」

 想定外の言葉に、敦志は戸惑っていた。だが、ペドロはお構い無しだ。

「君が何を依頼されたのか、おおよその見当はついている。俺と接触するように命令されたんだろう? だったら、任務遂行のために俺の仕事を手伝うというのはどうかな」

「仕事? それは……」

 思いもかけぬ言葉に困惑し、口ごもる。すると、ペドロは紙切れを手渡してきた。

「俺の携帯の番号だ。その気になったら、連絡してくれ」





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