舞い降りた悪魔

板倉恭司

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九月一日 徳郁の仕事

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 とある住宅地の片隅にて、黒いパーカーを着た若者が立っていた。
 若者の名は、吉良徳郁キラ ノリフミ。塀にもたれかかり、パーカーのフードを目深に被り、スマホをいじっている。もっとも、その目は数メートル先を歩いて行く者をじっと見つめていた。
 視線の先にいるのは、彼と同じスマホをいじりながら歩いている若い女だ。身長は高すぎず低すぎず、スタイルも抜群だ。しかも、身に付けているアクセサリーやバッグは、高級ブランド品ばかりである。全て合わせれば、かなりの金額になるのは間違いない。
 辺りは暗く、彼女の顔はよく見えない。だが徳郁は、女の顔を既に確認している。事前に写真で見たものと同じだ。モデルや女優と言っても通じるような、美しく整った顔立ちをしている。エステや整形にかけている費用もまた、身に付けているブランド品に負けず劣らずの金額なのだろう。
 彼女の名は、高槻美夏タカツキ ミナツである。聞いた話では、その整形により作り上げた美しい顔とスタイル、さらにベッドの中でのテクニックをフル活用し、かなりの金額を稼ぎ出したらしい。何人もの男を持ち前の美貌でたらしこみ、思うがままに操っているとのことだ。
 この高槻のために破産したり破滅したりした男も、ひとりやふたりでは済まないという話を聞いている。男女を問わず、相当な数の人間から恨まれている、とも聞いた。
 しかし徳郁にとって、そんな事実など知ったことではない。さりげなく周囲を見渡してみた。こちらに注目している者はいない。それ以前に、そもそも他に人がいないのだ。今は、夜中の二時である。しかも、この辺りは閑静な高級住宅地だ。午後十時を過ぎれば、人通りはほとんど無くなる。
 今この場にいる人間は、徳郁と女だけだ。あとは、十メートルほど離れた場所に車が一台停まっているくらいのものである。
 少し間を置いて、徳郁は動き出した。ごく自然な動作で、女に近づいて行く。その足取りは、ゆったりとしている。速すぎず、遅すぎず。ただし、足音は立てていない。気配を完璧なまでに消した状態で、女が気づく間もなく背後に接近する。
 次の瞬間、徳郁は高槻の首に腕を回した。強靭な腕力で、細い首を一気に絞め上げる──
 頸動脈と気道を絞められた女は、自分が何をされたのかも分からぬうちに意識が途切れていた。全身の力が抜け、彼にもたれかかる。
 しかし、徳郁の動きは止まらない。放っておけば崩れ落ちてしまうであろう高槻の体を支えた状態で、にこやかな表情を浮かべながらを開く。

「やあ、久しぶりだねえ。こんな時間に、美人のひとり歩きは感心できないな。よかったら、俺の車に乗っていきなよ」

 意識を失った高槻に向かい、徳郁は一方的にベラベラと話しかけつつ運んでいく。強靱な腕力で、意識がなく今にも崩れ落ちそうな女を支え、並んで歩いているかのような状態で進んでいく。目指すは、近くに停まっている車だ。他人の目には、仲の良い友人もしくは恋人同士が会話しているように映っただろう。
 女の体を支えながら歩き、ごく自然な動作でドアを開けて車内へと入って行く。と同時に、待っていたかのように車が発進した。
 あっという間に、車はその場を走り去って行く。一部始終を目撃した者は、ひとりもいなかった。



 数時間後、徳郁は町外れにある小さな精肉工場の中にいた。今、彼は全ての「作業」を終わらせ、衣服を着替えているところなのである。
 様々な色の汚れが大量に付着した作業服を脱ぎ捨てると、徳郁の鍛えぬかれた肉体が露になる。余分な脂肪は削ぎ落とされ、筋肉に覆われた体はライトヘビー級のボクサーのようである。頭は五厘刈りの坊主であり、ただでさえ強面の容貌を一層際だたせていた。
 作業服を脱ぎ捨てた徳郁は、タオルを手に取り、自らの体に付着したものを綺麗に拭き取る。その付着している物質は、人間の血液や脂や肉片などである。数時間前に、徳郁が絞め落とした女の肉体を構成していたものだった。
 体に付着していたものを拭き取り、着替え終わった徳郁の元に、若い男がひとり近づいて来る。妙に軽い足取りで、ニヤニヤしながら歩いて来た。

「はいはい、ご苦労さん。さすがプロだねえ、やるこたぁ素早い上にそつが無いときた。いつもながら、お見事だったよノリちゃん」

 いかにも馴れ馴れしい口調で、徳郁にそう言ったのは成宮亮ナリミヤ リョウだ。安物の地味なスーツに身を包んだ姿は、入社したてで学生気分が抜けていない若いサラリーマンか、売れていないホストといった感じである。いかにも軽薄そうだが、整った顔立ちと人懐こそうな笑顔の持ち主であり、大抵の人に好感を持たれるだろう。坊主頭で見るからに厳つい顔つきの徳郁とは、完全に真逆の風貌である。もっとも年齢は、徳郁と同じ二十二歳だ。
 しかし、彼はその見た目とは裏腹に、裏の世界では少しばかり名の知れた男なのだ。同時に、筋金入りの人間嫌いである徳郁が、かろうじてマトモに付き合うことの出来る唯一の知人であった。

「大したことじゃない。いつものことだ。それよりも、早く金をくれ。頼んでいた物もな」

 ぶっきらぼうな口調で徳郁は言った、同時に、ぐいと手のひらを突き出す。亮は苦笑し、ぽんと封筒を手渡した。さらに、何かが詰まった布製のトートバッグも差し出す。

「これな、うちのボニーとクライドも喜んで食べるんだよ。なかなか美味いぜ。お前も一度、食ってみろよ」

 その言葉に、徳郁は怪訝そうな表情を向ける。ちなみに、ボニーとクライドとは亮の飼っている猫と犬だ。

「何だと? お前、まさか自分で食ったのか?」

「ああ、食ったよ。自分で食ってみなきゃ、質の良し悪しは分からない……ごく当たり前のことだぜ。こいつは、なかなかの上物だよ。間違いない。俺が保証する」

 亮はもっともらしいような表情を作り、うんうんと頷きながら答える。その様子を見た徳郁は、思わず眉をひそめて首を振った。

「お前は、本当に変わった奴だな」

「はあ? 変わった奴だとお? あのなぁ、俺はノリちゃんにだけは言われたくねえな。まあ、いいけどさ。何かあったら、また頼むぜ」

 笑いながら言った後、徳郁の肩めがけ、軽いパンチを打ち込んでいく。いかにも親しげな様子だ。一方、その行為に対し、徳郁は露骨に不快そうな表情をして睨み付ける。しかし、亮は全く怯んでいない。軽薄そうな表情でヘラヘラ笑っているだけだ。
 もっとも、この反応はまだマシな方なのである。仮に他の人間が同じことをしたとしたら、徳郁は相手を反射的に殴り倒しているだろう。いや、下手をすると殺してしまうかもしれないのだ。



 他人に対する、異常なまでの生理的な嫌悪感……それは、吉良徳郁という男の人生にずっと付きまとっているものだった。そんな人間の居場所など、表の世界には存在しない。彼には、裏の世界以外には居場所が無かったのだ。




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