ツミビトタチノアシタ

板倉恭司

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明日に向かって…… 尚輝

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 坂本尚輝の朝は早い。まだ暗いうちに起きて、外を走る。まるでプロボクサーだった頃のように、ひたすら走る。あの事件がきっかけとなり、尚輝は再びトレーニングをするようになった。四十を過ぎてはいるが、メンテナンスさえしっかりしておけば、まだまだ体は動くようだ。


 廃墟の中、尚輝は結局、救急車を呼んだ。さらに、警察にも通報した。このままだと、スーツの男たちが何をしでかすかわからない。拳銃を取り上げているとはいえ、この人数に襲いかかられては危ない。
 それに、奴らにはルイスを殺した罰を与えたかった。

 取り調べの際、尚輝は己の身に起きたことを包み隠さず話した。結果、彼は逮捕される。
 幸いにも、判決は懲役三年、執行猶予五年だった。佐藤浩司の殺害に直接は関わっていないこと、自ら申し出て捜査に協力したことが心証を良くしたようだ。
 以来、尚輝は裏の仕事とは縁を切った。
 執行猶予中だというのも、理由のひとつだ。ルイスや陽一のような本物の怪物と出会い、自分はああは成れないと思ったからでもある。さらに佐藤や中村や春樹のようなクズの生きざまを見て、こうはなりたくないと思ったのも理由のひとつだ。
 しかし、もっとも大きな理由は綾人だった。

 尚輝は、今も思い出すことがある。
 あの時、死に逝くルイスに向かい、綾人は必死で語りかけていた。人を殺してはいけない理由を、泣きじゃくりながら教えていた。その姿は、尚輝の心に強い衝撃を与えたのだ。
 裁判の間、拘置所の独房の中で、尚輝は何度も、あの姿を思い出した。泣きながら、ルイスの亡骸にすがっていた綾人。思い出すたび、自分がどうしようもなく醜いクズに思えてくる。
 尚輝はこれまでの人生を振り返り、己に問いかけた。俺が死んだら、あんな風に泣いてくれる人はいるのだろうか……と。
 そんな人間は、どこにもいない……と、己の中の何者かが答えた。



 尚輝はランニングを終えると、公園のベンチに座りこんだ。これから夏目正義の経営する『夏目探偵事務所』に出勤するのだ。西村陽一の紹介してくれた職場である。あの青年は、警察が来る前に逃げた。拘置所にいる尚輝に、何かと差し入れや手紙をくれたのだ。夏目正義のことも、手紙の中に書かれていた。
 そんな陽一は、今もあちこちで悪さをしているらしい。最近は、連絡も取っていない。
 いつかは、あの男も足を洗って欲しいものだ。尚輝がそんなことを考えた時だった。

「坂本さん、ですよね?」

 不意に女の声が聞こえてきた。尚輝は立ち上がり、声の方向を見る
 そこには、女が立っていた。年齢は二十代後半から三十代前半だろう。近所の住民なのか、スウェットの上下を着ている。髪は短く、化粧っ気のない素朴な感じの顔立ちだが、同時に親しみやすさも感じられた。犬用のリードを右手に持っており、リードは可愛らしい仔犬の首輪に繋がっている。
 尚輝は首をかしげた。見覚えがないのだ。

「あ、あの……失礼ですが、どちらさんでしょうか?」

「あたし、大場久美子です。大場政夫の妹の……覚えてませんか? あたし、坂本さんの大ファンだったんですよ」

 そう言って、にっこり微笑んだ。対照的に、尚輝の方は驚きのあまり、返事も出来ずに立ち尽くしていた。



 大場政夫……かつて、同じジムに所属していたプロボクサーである。尚輝の後輩にあたる男だ。尚輝は彼の才能に非凡なものを感じ、何かと面倒を見ていたのである。
 大場もまた、尚輝のことを尊敬していた。尚輝の試合の時は、いつもセコンドを務めてくれていたのだ。
 しかし……尚輝が片目の視力を失い、ボクシングを辞めてからは疎遠になってしまった。
 その後、大場は世界チャンピオンにまで登りつめたのだ。しかし、交通事故で命を落としたのだ。そんな大場には、妹がいたのも覚えている。たまにジムに来て、トレーニングを見学したりしていた。
 もう、十年以上前の話だ。



「今日ね、この子が妙にうるさくて……だから、こんな朝早く散歩してたんです。まさか、坂本さんと会えるとは思いませんでした。この子のおかげですね」

 久美子はしゃがみ込むと、犬を撫でつつこちらを見上げた。

「そ、そうか」

「そのうち、兄のお墓に顔を見せてあげて下さい。兄も、待ってると思います」

 そう言って、久美子は真っ直ぐな瞳で尚輝を見つめた。
 尚輝は柄にもなくドキドキし、目を逸らしてうつむいた。

 人生、たまにはこんなことがあってもいいよな?



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