ツミビトタチノアシタ

板倉恭司

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逃走者 尚輝

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「君たち……ちょっと待ってくんないかな」

 坂本尚輝は、低い声で二人を呼び止めた。正直なところ、未だに状況が呑み込めていない。

 なんで、お前らが一緒にいるんだ?

 尚輝は、小林喜美子の息子である綾人に話を聞こうと出向いたのだ。すると、ちょうど二人が荷物をまとめて、部屋を出たところに遭遇したのだった。まあ、それはいい。
 問題は、綾人の隣にいる少年だ。

 あの時、佐藤浩司と一緒にいたガキじゃねえか。

 そう、あの不思議な少年だ。手錠をかけられ、物憂げな表情で室内をうろうろしていた。尚輝は佐藤を拉致すると同時に、少年を逃がしてあげた……はずだった。
 その少年が綾人と一緒に歩いている。この両者に、何の関係があるのだろう。どうしたものか考えながらも、二人の後を追うしかなかった。
 商店街を歩く二人。尚輝も、その後を尾行する。途中から、人通りの少ない裏道に入っていった。尚輝は、声をかけるなら今だと判断した。

「君たち……ちょっと待ってくんないかな」

「な、何ですかあなたは……」

 綾人は、怯えたような表情で答える。一方、少年は物憂げな表情でこちらを見ていた。尚輝を恐れている様子はない。

「小林綾人くん、だよな? 俺は坂本尚輝って者だ。便利屋をやってる。ある人を探すよう依頼されたんだよ。中村雄介さんて人だ。君のお母さんと仲良かったらしいんだけど、知ってるかい?」

「し、知りませんよ!」

 綾人の表情が、たちまち変化した。怯え、恐怖、怒り、罪悪感といった感情が浮かんでは消えていく。罪を犯した者にありがちな態度だ。

 ひょっとしたら……。
 こいつ、中村雄介の失踪に関わっているのか?
 だとすると、鈴木良子とも関係あるのか?

 状況は、さらに混迷の度合いを増してきた。少なくとも、尚輝にはそう思えた。ますます訳のわからないことになりつつある。だが、はっきりしたこともひとつある。
 小林綾人は、中村雄介の失踪について何か知っている。

「君、何か知っているんだろ? 俺にさっさと教えた方がいいよ。でないと、痛い目に遭うから」

 言いながら、尚輝は近づいて行く。目の前の二人を叩きのめすのは簡単だ。左ジャブ一発で鼻血を出し、顔を押さえて戦意喪失するだろう。
 その時、予想外の事態に襲われる。

「あんたに用ない」

 不意に発せられた、無機質な声。あの奇妙な少年だ。少年は恐れる様子もなく、綾人の前に立った。
 尚輝は足を止め、訝しげな表情で少年を見る。自分が怖くないのだろうか? 尚輝は、身長はさほど高くない。だが、かつてボクサーだった名残は顔のあちこちにある。少なくとも、簡単に引き下がるタイプの男には見えないはずだ。
 だが次の瞬間、尚輝の背筋に冷たいものが走る。彼は思わず後方に飛びのき、同時に両拳を顔の位置に上げて構えていた。

 尚輝は一度、来日したフライ級世界チャンピオンの練習相手を務めたことがある。まだ四回戦ボーイの時だった。その時、尚輝は世界チャンピオンのプレッシャーを肌身で感じた。威圧され動けなくなりそうなくらい、ヒリヒリとしたプレッシャー……単なるスパーリングのはずなのに、すっかり縮み上がってしまったのだ。
 だが目の前の少年は、あの世界チャンピオンをも上回る何かを秘めている。尚輝の勘が告げているのだ。こいつは、恐ろしい化け物だと……。
 少年が一歩、前に進み出る。尚輝はビクンと反応した。身構えたまま後ずさりを始める。直後に、足が震え出した。紛れもなく恐怖の反応だ。震えは体全体に広がっていく。
 少年は、無表情のまま近づいて来た。尚輝は、震えながら左ジャブを放つ。
 だが、恐怖のせいで体が固くなり、遅くキレの無い左ジャブになってしまった。素人の力んだパンチの方が、まだマシだったろう。
 その左拳を、少年はあっさりと躱した。さらに、伸ばされた左腕を簡単に掴む。凄まじい腕力が腕から伝わる……しかし、それは一瞬だった。
 次の瞬間、目の前の光景が一回転した──
 尚輝の体は、地面に叩きつけられていた。全身に走る激痛。口からは、呻き声が洩れる。

「ル、ルイス、やめるんだ……」

 綾人の震える声が聞こえた。少年は立ったまま、こちらを見下ろしている。尚輝は自分でも認めたくないほどに怯えていた。目の前にいるのは、本物の化け物だ。恐怖が全身を蝕み、心をも侵していく。

 このままでは殺される。
 嫌だ。
 死にたくない!

「ゆ、許してくれぇ! 殺さないでくれぇ!」

 気がつくと、そんな言葉を叫んでいた。目から涙がこぼれ、鼻水が垂れる。尚輝は恥も外聞もなく、恐怖に突き動かされるがままに動いていた。起き上がると同時に、額を地面に擦りつけ土下座する。
 そんな尚輝を、少年じっと見つめた。やがて、冷めた声が聞こえた。

「あんたは思ったよりつまらない」



 二人が立ち去って行った後も、尚輝はしばらく動けなかった。恐怖が、全身を蝕んでいたのだ。
 立ち上がったのは、かなりの時間が経過してからだった。よろめきながら、その場を離れる。いろんな考えが頭を駆け巡った。

 俺も、もう四十なんだ。
 喧嘩で、勝った負けたなんて言ってられねえ。
 あいつは化け物だ。本気でやり合っても、絶対に勝てなかったよ。
 そう、大したことじゃない。
 大したことじゃない。

 だが、心の奥底では全く違う何かが蠢いている。尚輝はその存在に、気づいていないふりをした。



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