悪魔と過ごした一週間

板倉恭司

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五日目(1)

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 その翌日。
 僕は、あの三人について考えてみた。中学生の時以来、奴らとは会うどころか噂すら聞いていない。生きているのか死んでいるのか、それさえも不明なのだ。
 まあ、恐らくは生きているのだろう。ああいった人種は、不思議と事故にも病気にも遭わずに生き延びてしまう。自分のやって来た悪さの報いを受けることなく、のうのうと平穏な人生を送っていたりするのだ。
 因果応報という言葉がある。人にはそれぞれ、おこないに応じた報いがあるという意味らしいが……そんなものは、まるきりの嘘っぱちだ。どんなに悪逆非道な振る舞いをしようが、何人の人間を殺そうが、生き延びる奴は生き延びる。その後、何事もなかったかのように幸せな人生を歩んでいたりするのだ。罪の意識など、全く感じていないだろう。それ以前に、自分のやったことすらよく覚えていないまま、世の中を生きている者も少なくない。
 ペドロがいい例だ。この悪魔のごとき男は、世界のルールを完全に無視し、自由きままに生きているのだ。彼は、これまでにも数多くの人間を殺してきた。あるいは、殺すのと同じくらい恐ろしい目に遭わせてきたことだろう。
 しかし、ペドロはその報いを受けていない。彼のような絶対の強者には、何の意味もないのだ。
 一方、僕のような弱者はと言えば……いつも踏みつけられて、挙げ句に泣き寝入りである。
 しょせん、この世は弱肉強食なのだ。弱い者のことなど、誰も助けてはくれない。



「やあ哲也くん。どうだい、調子は?」

 不意に声がした。顔を上げると、目の前にペドロが立っていた。今日もまた、ラフなジャージ姿である。前回と同じく、音もなく気配を殺して部屋に侵入して来たのだ。
 しかし、僕は驚かなかった。むしろ、彼の訪問を心待ちにしていたような気がする。

「ええ、調子は悪くないです。それより……公園であなたのことを探してる人がいましたよ。桑原徳馬という名の、おかしな雰囲気の人です。たぶん、ヤクザじゃないかと思います」

 僕の言葉に、ペドロは首を振る。

「クワバラトクマ? 聞いたことがないな。そもそも、俺は日本のヤクザと揉めた覚えはないはずだがね。一応、参考までに聞いておくが……どんな男だったんだい?」

 大して興味のなさそうな表情で聞いてきた。

「髪を七三分けにした、地味なスーツ姿の人でしたね。一見するとサラリーマン風です。でも、右手で子供の頭を撫でながら、左手で拳銃のトリガーを引けるような雰囲気も持っている不気味な男でしたね」

 そう答えると、ペドロは笑みを浮かべた。少しは関心を持ったらしい。

「ほう、なかなか面白そうな紳士だね。一度は会ってみてもいいかもしれないな。それより哲也くん、昨日はあちこちに行ってみたんだが……君の言っていた三人を見つけたよ」

「え!?」

 驚いた。いくらなんでも、昨日の一日だけで三人を見つけてしまうとは……にわかには信じられなかったのだ。
 そんな僕の表情を見て、ペドロは目を細める。

「君は、人を探すのは難しいと思っているようだね。しかしね、メキシコに悪党が逃げ込んだケースとは訳が違うんだよ。彼ら三人は、自己顕示欲が非常に旺盛なようだね。あちこちに自分の足跡を残してくれていたよ」

「足跡?」

「そうだ。彼ら三人は今も連絡を取り合い、あちこちに出没していた。自らの個人情報や武勇伝を、SNSでさかんに吹聴していたよ。放っておいても、彼ら三人は警察の厄介になっていただろう。まあ、その前に俺が捕獲しておいたがね」

 そう言うと、ペドロは楽しそうな笑みを浮かべる。

「では、そろそろ出かけるとしようか。今日はまず、松橋修一郎くんを片付けるとしようか」

「ま、松橋を……ですか……」

 突然、理解不能なことが起きた。松橋の名を口にした直後、僕の体が震え出したのだ。
 次の瞬間、得体の知れない恐怖に襲われる……呼吸は荒くなり、鼓動が異常に早くなった。

 なんだこれ!?
 苦しい!?

 呼吸が出来ない。胸を押さえ、その場にうずくまる。すると、背中に手のひらが触れるような感触があった。

「落ち着くんだ。冷静に深呼吸をしたまえ。いつかのように、ね。君はひとりじゃない。今回は俺が付いている。俺は、どんな人間にも負けない。まさか、俺の強さを疑うのかい?」

 ペドロの落ち着いた声が聞こえてきた。と同時に、僕の呼吸は正常なものに戻る。気持ちも落ち着いてきた。ペドロの特技が幾つあるのかは知らないが……彼の特技の中には、人を壊すだけでなく、人を癒やすものもあった。その時のペドロの声には、確実に鎮静効果があったのだ。

「哲也くん、今の君を見て確信したよ。やはり、荒療治が必要だ。このままだと、君は永遠に彼らの存在を恐れて生きることになる。あの三人を、君の手で消し去るんだ」

「わかりました。奴らを殺します」

 僕はそう言った。それしかないのだ。このままだと、奴らと偶然に町で出会ったとしたら、僕はどうなるかわからない。ひょっとしたら、その場で倒れてしまうかもしれないのだ。
 奴らから受けた仕打ち。その忌まわしき記憶は、三年経っても僕の心と体から消えてくれない。
 奴らの存在を消し去らなくてはならない。でないと、僕は永遠に奴らから逃れられないのだ。

「そうか。では行こう。まずは、松橋くんに報いを受けさせようじゃないか。君という人間は、新しく生まれ変われるんだ」

「生まれ変われる?」

「そうさ。彼ら三人を、この世から消し去った体験。その体験で塗り潰すんだよ。彼ら三人から受けた忌まわしい記憶を、ね」

 ペドロはゆっくりと、諭すような口調で言った。その表情は穏やかなものだ。脱獄した殺人鬼には、とても見えない。まるで、熟練の精神科医のようだ。
 そんなペドロの雰囲気に影響されたのか、僕の心と体は平静な状態へと戻っていく。
 ほとんどの人間は、自分の体を自由に出来ると思っている。それは間違いではない。確かに、人間は手を動かしたり足で移動したり出来る。だが、それはあくまで簡単な動作だからだ。自分の想定外の出来事に遭遇した時、ほとんどの人間はまともに動くことさえ難しくなる。
 思考も同じだ。大抵の場合、人は自分の頭で考えているようで、その場の感情に脳を支配されてしまっている。だから、想定外の事態に襲われた時、人は考えることすら出来ない。ただ、恐怖に怯えるだけだ。
 ペドロという怪物は、他人の行動を操ることが出来た。恐怖という感情を用い、他人を思うがままに動かす。僕は当時、自分の意思で動いているつもりでいた。自分の自由意思で、行動し、考え、そして決定しているつもりだった。
 だが、それは大きな間違いだった。ペドロの意のままに動かされていただけだったのだ。
 今さらではあるが、ペドロの魔法使いじみた能力には驚かされるばかりだ。幼い子供ならともかく、ひとりの人間を洗脳するには、それなりに準備と時間が必要なはず。
 なのにペドロは、誰の手も借りずにやってのけたのだ。それも、僅か数日で……本当に恐ろしい男だ。
 そういえば、北九州の方でも洗脳により一家を意のままに操り、殺し合わせた事件があったと聞く。ペドロに限らず、凶悪な犯罪者の中には、常人には抗しがたい魅力を持っている人間がいるらしい。
 もっとも、僕はペドロ以上に恐ろしい犯罪者はいないだろうと確信している。彼と出会い、そして過ごした一週間。ペドロが僕をどうしたかったのか、未だにわからない。

「では哲也くん、行くとしようか。松橋くんは、君の来るのを待っているよ。俺は出来るだけ早いうちに、全てを終わらせたいからね」

 そう言うと、ペドロは笑みを浮かべた。とても楽しそうな顔つきだ。その、どこか狂気めいた表情を前にして、僕はただ頷くことしか出来なかった。



「え……ここで何をするんですか?」

「決まっているじゃないか……松橋くんの始末だ。彼はここにいる。さあ、来たまえ」

 そう言うと、ペドロは目の前の扉を開けた。だが、僕には入って行くことが出来なかった。
 なぜなら、そこは死体があるはずの場所だったからだ。僕とペドロが一昨日に訪れた、取り壊しになる予定の社員寮であり、藤岡が繋がれていた部屋のある建物。そこに、僕たちは来ていたのだ。

「いいから、早くするんだ。時間がもったいないよ。俺も暇じゃない。さっさと終わらせるんだ」

 そう言うと、ペドロは部屋の中に入って行く。僕には、彼に逆らうことなど出来るはずがない。黙ったまま、後に付いて行った。

 その光景を見た時、僕は衝撃のあまり言葉が出なかった。
 藤岡は、まだそこに居た。いや、そこにあったと言った方が正しいだろう。鎖に繋がれたまま、隅の方に転がっていた。どうやら死んでいるらしい……屍肉を漁っているような、虫の蠢く音がかすかに聞こえていた。
 だが、それよりも……僕は部屋の中央にいる者の方に視線が釘付けになっていた。
 部屋の中央に倒れているのは、確かに松橋だった。一応、まだ生きている。僕たち二人を、必死の形相で見上げていた。その口には、猿ぐつわがかけられている。そのため、何やら唸ってはいるが……はっきりとした言葉にはなっていなかった。
 そんな彼の手足は、不自然な方向に折れ曲がっていた。

「すまないね、哲也くん。本当なら、両手両足を切断し、この場でコトコト煮込んで松橋くんに食べさせるというショーをお見せしたかったのだがね。あいにくと、時間と物が用意できなかったんだ。生きたまま両手両足を切断し、さらに生かしておくというのは、なかなか面倒な作業でね。麻酔などのちゃんとした医療設備がない状況で行えば、途中で死んでしまうことも少なくない。だから今回は、松橋くんの両手両足の関節を外すことにした。手首、肘、肩、足首、膝、股関節……全部外したよ。関節技というものは、こういった時に便利だね。機会があったら、君も学んでおくといい」

 そう言った後、ペドロはいかにも愉快そうな表情で笑った。
 一方、僕はその場で凍りついていた。ペドロによって破壊された人体、それはあまりに不気味なものだった。肘や膝が、不自然な形で曲がっているのだ。まるで壊れたマネキンのような不自然な状態で、松橋は地面に倒れ伏している。しかし、顔だけは何とか動くようだ。僕とペドロを交互に見ながら、必死で何かを訴えている。もっとも、猿ぐつわを噛まされているため言葉にはならないが。
 その直後に放たれたペドロの言葉は、理解不能なものだった。

「さてと……関節を外されて動けない松橋くんと、亡くなった挙げ句に蛆を湧かせている藤岡くんには申し訳ないのだが、今から昼食を食べさせてもらおうか」

 そう言うと、ペドロはジャージのポケットの中から、潰れてぐちゃぐちゃになったサンドイッチを取り出す。さらに、缶コーヒーも。

「え? い、今、ここで食べるんですか?」

 呆然としながら、かろうじて言葉を絞り出す。だが、ペドロは平然とした表情で頷いた。

「ああ、そうさ。君も覚えておくといい。人間は、必ず飢える。自分でも気がつかないうちに、飢えが脳と体を蝕んでいることもある。結果、正常な判断が出来なくなる事態も起こりうる。必要な量の食事は、食欲がなくても食べておいた方がいいよ」

 言いながら、ペドロはサンドイッチを食べていた。僕は凍りついた状態のまま、じっとその様子を見ていた。
 部屋の中では、ペドロの咀嚼する音と松橋のうめき声、さらに蛆虫の蠢くカサカサという音が響く。普段なら聞こえないような音のはずなのに。
 気分が悪くなってきた。同時に、松橋があまりにも貧弱であることにも気づかされた。床の上で這いつくばっている松橋は、怯えきった表情でうめき続けている。その姿はあまりにも無様なものだった。

 僕は今まで、こんな奴を恐れながら生きていたのか。

 そんなことを考えていた時だった。

「君、うるさいよ」

 その言葉と同時に、ペドロが動いた。床に転がっている松橋の肩を、無造作に蹴りつける。
 次の瞬間、松橋は獣の断末魔のような叫び声を上げた。彼の肩は、ペドロによって完全に外されていたのだ。明らかに不自然な方向に曲がっているのが見てとれる。その部分に一撃を入れたのだ。蹴りそのものは軽いとはいえ、松橋の肩には激痛が走ったはずだ。
 そんな中、静かな声が響く。

「松橋くん、俺はうるさいと言ったんだよ。君は、そんな簡単な日本語が理解できないほどの愚か者なのかい」



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