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三章
魔力印と名 キャロル14歳
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受け取った小瓶がひんやり冷たいと感じるのは、私の手が緊張して熱いからだと思う。
近寄った泉は美しく澄んでいた。膝ぐらいの深さの決して大きくない美しい泉は、その不思議な水を一体どこから満たしているのだろうか?
小瓶を泉に差し入れる。春の温かい日差しに照らされているのに、真冬のように水は冷たい。小瓶に水を満たして蓋をする。この水が私の中で魔力の在り方を変える。
ナタニエル学園長が頷くのを確認してから、小瓶に魔力を流す。流し方のイメージは相変わらず電気だ。体の中心に溜めた力は電池で腕は同線だと思って、小瓶の水に通していく。
水があっという間に漆黒の闇と同じ色に変わって、ナタニエル学園長が息を飲むのが分かった。
「さすがはアングラード侯爵ご子息です。お飲みください」
唇を寄せる。この水を体に受け入れると、私は大人になるんだと思う。守られる側から守る側へ。強く、強く、強くなりたい。真黒な闇に染まった泉の水が、喉を冷やして体の中に流れ込む。
とくん、と胸が鳴る音がする。体の中に治まった冷たい水が渦を巻いて、左胸が急速に熱を持つ。
水だったものが真黒な靄になり、大きくなって小さくなってを繰り返して渦巻き続ける。これが私の力で魔力だ。意識すると渦は私の意図を汲むように、体の中で大きさも早さも自由に変化を繰り返した。
「これは……素晴らしい魔力量です。レオナール様の時も驚きましたが、アングラード侯爵家には毎回驚かされます」
ビセンテ先生が呆気にとられた表情を浮かべて告げる。嬉しいのだけど、ピンとこない。体の中の魔力の存在は分かるのけど、比べるものがないから魔力量に自覚がもてないのだ。
「魔力が体の中にあるのは分かるのですが、大きいというのが分かりません」
他人事のように呟いてしまった私に、ビセンテ先生が苦笑いを浮かべる。そうして、初めての時のその気持ちは理解できますねと言ってくれた。
「使わないと量を実感するのは難しいですな。でも、貴方の父であるレオナール様は歴代でも優れた闇魔法の使い手です。大規模な上級魔法なら国で一番かもしれない。魔力量でみれば、同じだけの魔法をあなたも使えます。それだけの力がある、そう申し上げたらすこし実感できますか?」
伝達魔法以外の魔法を使ったのを見たことがない父上の評価に驚く。そして、自分がしてきた事が望んだ以上の結果に繋がっていることを理解する。嬉しいという気持ちがこみ上げてきてきて、戻る足取りは軽くなる。
私の次はクロード。少し緊張した表情で儀式に臨む。水色の輝きは水属性でトップクラスと無事に言われるのが聞こえる。ほんの少し口元を綻ばせて私のところに戻ると、右手を上げた。その手を力いっぱい叩いて祝福しあう。お互い満面の笑みだ。
「嘘だ! 嘘だ!! この結果は間違えている!」
悲鳴のような声があがる。剣クラスのエディ・ボナリーと呼ばれた伯爵子息が、小瓶を地面に叩きつけようとしてビセンテ先生に抑えられる。
「落ち着けエディ。そういった事は稀におこるんだ。毎年何人かには起こる事態だ、受け入れろ!」
ナタニエル学園長が厳しい声を上げる。その言葉にもしやと思って、アレックス王子とカミュ様の元に駆け寄る。二人とも固い表情で眉を寄せて、エディーとビセンテ先生のやり取りを見つめていた。
「殿下、カミュ様。エディはもしかして……」
「属性違いだ。ここに来る前に、彼は一族の属性は火だと言っていた」
「先ほど見えた、瓶の中は僅かに黄色に染まり始めておりました……」
このグループに含まれる程の伯爵家だから、古く有力な一族の筈だ。疑わなかった属性が違うと知った衝撃は計り知れないだろう。属性違い結末は、ユーグのシナリオで私は知っている。古く有力な一族であるほど失う力の落差は大きい。悲痛な声で、目の前の属性を否定し続けるエディの姿に胸が痛む。
「ユーグは……」
大丈夫、と呟きかけた言葉を飲み込んで、後に順番を控えるユーグを探す。
少し離れた所に立って見つめるユーグの表情はいつも通り。だけど、不安はある筈だ。シュレッサーの土属性か、私の告げた火属性か。第三の可能性だって彼の中では消えていない筈だ。
「ユーグ、こっちに来い」
アレックス王子がユーグを呼ぶ。その声に面倒そうにユーグがこちらに歩み寄ってくる。
泉のほとりでは学園長とビセンテ先生の説得でエディがようやく儀式の続きを再開した。小瓶の色が濃くなる速度が私たちと比べて格段に遅い。
「なんです? 殿下」
「……君はシュレッサーだ。何があっても、シュレッサーである部分は変わらない。だから私は何があっても君には期待し続ける」
ユーグが首を傾げて、にやりと笑う。アレックス王子の方はそっぽを向いてしまった。これから儀式に向かうユーグへの不器用な言葉は、何があっても変わらない信頼。言った本人の耳は少し赤い。
「ユーグ・シュレッサー」
学園長がユーグを呼び、肩を落としたエディがこちらに戻ってくる。泉に向かう前にユーグが彼らしい色気たっぷりの微笑みを私たちに向けて、舞台の役者のように大げさな立礼をとる。
「私は準備万端です。魔力も、シュレッサーとしての力も期待して頂いてかまいませんよ」
泉に向かったユーグと、入れ替わる様に戻ったエディにも殿下は声をかける。
「剣技を磨け。ボナリー家の強みは集団戦の騎馬術だ。まだ君に期待している」
うな垂れた顔をエディーが上げる。その顔に今度は照れる事なくにアレックス王子が力強く頷いてみせる。ボナリー家が武門伯爵であることも、集団戦の騎馬術が得意なことも私は知らない。
言葉を掛けることが出来るのは、今も知らないことをアレックス王子が勉強し続けている証拠だ。エディの悲観に染まった瞳に小さな目標の灯がともる。未来の王の言葉は、嵐に飲み込まれかけた者にとって羅針盤になる。
畔では、小瓶にユーグが魔力を流し始めた。流れるようにその色が赤に変わっていく。私と彼の契約に答えがでた。後はどれ程伸びているかだ。
赤い色に僅かに皆はざわめく。ユーグは大丈夫と伝えられないのは歯がゆい。
「くそっ、ユーグも属性違いか……」
「大丈夫です!ユーグはコーエンのマグマ洞で研究してました」
「そうですね。色の変化は遅くありませんでした。良き結果を祈りましょう」
「ああ、準備万端と研究バカが笑ったんだ。信じよう」
赤くなった水を飲み干すユーグを私たちは必死で見つめる。彼の努力を知る者も知らない者も、大事な友である彼の結果が心に叶うことを祈る。
「属性違いの火属性だが、上位クラスの魔力がある。……絶対に講義で習う前に魔法を使うなよ!!」
私たちは胸をなでおろす。上位クラスなら回数に制限はあるが、上級魔法の発動は可能だ。今は、エディの事もあるから大きく喜び合うことは控える。
近いうちにワンデリアにいる事になっているキャロルに、ユーグは結果報告の手紙をくれるだろう。いつも返事を返さない手紙。今回だけは、返事を書こう。今、喜んであげられない分のおめでとうを込めて、無茶の注意も忘れないようにしないといけない。
契約の儀が終わると、上級生の一人が別の道から校内まで引率してくれる。
王族専用の馬車寄せがあるアレックス王子とカミュ様と別れると、クロードとユーグと生徒用の車寄せに向かう。
「そういえば、クロード。ドニの伯父の件で顔を顰めた理由は何だったんですか?」
今なら、ユーグしかいないから聞いても問題ないだろう。本来のシナリオよりも早くドニが戻った理由である、当主より強い伯父の存在が気にかかる。
「ジルベール・ラヴェルは女性がらみの問題や不正疑惑で廃嫡された人物だ。何年も王都から姿を消していたが、半年ほど前にこちらに戻って廃嫡の撤回を願い出る書状を出してきたそうだ」
処分での廃嫡された人物が撤回を願い出る事例は珍しい。なぜなら、すべての問題で無実である事を証明しなくては撤回されないからだ。
「撤回は通りましたか?」
「いや。通らなかった」
出された書類は関係者の証言のみで無実を訴える申請で、真偽の確認が殆ど取れない内容だったらしい。当然、不十分として却下された。
不正を騎士団の時に追っていたエドガー侯爵は、その酷く公平性のない申請内容に激怒した。仕事の内容を家庭に持ち込まないエドガー侯爵が、リーリア夫人に怒りをあらわに愚痴をこぼした為クロードにも知るところとなった。
「ドニにディエリと仲良くなるように指示したり、きな臭い気がしますね」
クロードも同じように怪しげな人物が怪しげな一族とつながりを求める様子に眉を顰める。並んで話をきいていたユーグが口を開く。
「バスティア家もちょっと変な雰囲気だよ。書状の真贋確認の要請がシュレッサーに急増してる。しかも、調査した怪しい書状の半分以上が偽物だったそうだよ。おかげでバスティア家の偽書類件数は、今年は断トツでニ番目に浮上したって」
例年は一番はシュレッサーで、二番は国政管理室と数計院が僅差を争うらしい。四番で個人の不正の温床であるバスティア家の名が度々上がってきたが、二番を抜く事態は初めての事だと言う。
魔物の大量発生の危険など、ゲームに登場していない要素は現実にある。
不穏な二家の動きもシナリオに登場しない裏でおこっていた事態なのだろうか?
もし、裏で起こっていたなら未来に変化はない、でもシナリオにない新しい動きならば? 私たちの進む先には何が待つのだろうか、水にインクを一滴垂らしたような不安が広がる。
「まぁ、今のところ書状の内容は対したことないみたいだよ。気に掛けるぐらいでいいんじゃない? そもそも、僕たちに出来ることは変化を通報する程度だしね。個人的にはあんまり興味ないし」
「興味で片付けるのは違うぞ、ユーグ。でも、騎士団も監視を続けているから大丈夫だろう。危険な人物だと覚えておくのが俺たちのできることだな」
私は頷く。今の学園一年生になったばかりの私たちに出来ることはない。ただ、危険な人物と知ったなら注意はしておくべきだ。守られる側から守る側になったなら、抱えられるだけ守りたい。
学園から別邸の方に直接向かう。本邸はお客様が多い為、印が消えるまではこちらに滞在した方が安全という父上からの指示だ。でも、本当は事前に私から別邸で過ごしたいとおねだりしたのだ。
印がでたら魔法が使える。それってとてもわくわくする。消えるまで、何度も印を確認する自分が簡単に想像できた。本邸は私が女の子であることをしらない使用人ばかりで、がっちりしたコルセットは必須だ。でもコルセットだと魔力印が見づらい。だから、マリーゼやジルだけに囲まれて緩めのコルセットで過ごせる別邸での時間を希望した。
帰りの馬車の中でも自然に鼻歌が漏れる。少し熱い左胸には印がある証拠。
馬車を下りたら挨拶も忘れて真っ先に部屋に向かう。ジルには部屋の前で警備をお願いする。
鏡の前で、制服のボタンを少しだけ外して、コルセットのボタンも外していく。抑えられていた体が緊張をとく。溜め息一つ。目を閉じて、いっせーので見てみよう。はじめまして、私の魔力の印。
「いっせーの、せ!」
魔法印が目に入った途端に、すっと言葉が頭に浮かぶ。これが私の魔力印とその名前。
―― 闇の歪を駆ける月の番人 ――
浮かぶのは全ての輝きを吸い込むような闇色の印。大小の点は瞬く星、右上には満月が描かれる。精悍な顔に、しなやかに引き締まる体躯には闇色に塗られたマントを羽織って渓谷を駆け抜ける。この世界の銀色の月の番人……
「って狸です。やっぱり狸です!!」
マントを羽織って暗闇を駆け抜ける狸はとてもかっこよく描かれている。でも、狸……。
実物より細いし、気品ある顔だちで、本当に良いデザインだと思う。でも、狸。
狸はこの世界では白銀と闇色で月の番人という表現も似合う。でも、狸!
「狸ではなく、これは月の番人と思いましょう!! そう、似てるけど、かっこいいのです!」
惜しいぐらいに、かっこいい。月の番人のかっこいい印で十分私は満足だ。もしも、いつか恋人に捧げるとしても不足はない。けど、アングラードの子狸の二つ名が管理室によって広められているから、愛する人は少しだけ笑うかもしれない。
左胸の肌にくっきりと浮かぶ印を撫でる。その部分だけがまだ熱を帯びて熱いのは私の魔力が安定していないから。急いで楽なコルセットに着替えて、制服も普段着に変える。
「ジル! 中に来てください」
ドアの外からノックの音がしてジルが部屋に入ってくる。
「魔法の使い方はお教えできません」
先に言われてしまって肩を落とす。伝達魔法ぐらいなら教えてもらえるかなと期待していたのだけど、ユーグに偉そうなことは言えないなと反省する。それなら、もう一つのお願いだ。
「ジルの印をもう一度見せてもらうことはできますか?」
やっぱり、自分の印を見ると人の印と比べてみたくなる。簡単に見せるものではないから、5年前の誓約の時に見た以来だ。大事な印に興味を優先するのは我儘かなと思うけど、ジルなら許してくれるから甘える。
優しく微笑んで、椅子に座る私の前にジルが跪く。シャツのボタンを少しだけ外すと左胸を大きく開く。
「印を出すときは、その名を呟きます。…………」
左胸に淡い緑の光が集まって、いつか見た印が浮かび上がる。私の印が闇属性の漆黒の光を吸い込む闇色なのに対して、ジルの印は風属性だから薄い緑色に光っている。
「ジルの印はやっぱり綺麗ですね。薄い緑色はとても好きです。私の印は闇属性の色なので、見比べると地味ですね」
「印のまとう輝きは魔力属性が元になります。光は白、闇は黒。火は赤、水は青、土は黄、風は緑でございますね。黒は全てを吸い込む輝きと評されます。ご自分のものだから地味に思われるだけでしょう」
ジルが優しくフォローしてくれる。でも、デザインだって、蝶とか冠とか流線とか、美しい感じがする意匠が本当に素敵だ。
「印に出る模様って選べたらいいですね。私もジルみたいな蝶とか、お花とか違うのも良かったです。たぬ……」
狸は可愛くありませんと言いそうになって慌ててとめる。ジルが楽しいそうに目を細める。
「印の意匠には癖がございます。一族の意匠の一部に必ず描かれるもので、有名なのは王家の女神、シュレッサーのランプ、ヴァセランの剣、アングラードのブルレーデですね。」
「ブルレーデ?」
「はい。遥昔はブルレーデと呼ばれておりました。今は狸の方が通りが良いですね。一族で直系ほど同じ意匠が現れやすくなります」
狸という音の違う名前は、やはり途中で出来たものである事を知る。初めて聞く話だけど、隠されている様子はないから、思ったより早くユーグは色々調べてくるだろうなと思う。
たぬ……ブルレーデがアングラードの有名な意匠なら、お父様やアングラードのお爺さまにもブルレーデが描かれているのかもしれない。
「一部とはいえ印の意匠が有名になっていいのですか? 先生は誰にも見せるなとおっしゃってました」
「知られているのはあくまでも意匠の一部で、印は一人一人細部が異なります。それに魔力印には必ず根幹として存在するのに名も必要になります。印と名の両方を知られれば、魔法で影響を与えることが可能になります。ノエル様もお気をつけ下さいませ。絶対に名は安易に口にしてはいけません」
私は頷く。名前は決して口にしない。いつかジルに印と名を捧げてもらった時に根幹で縛る怖さを感じた。他者が魔力で支配する事に悪意が介在するならばそれは最悪だ。
「お約束します。口にしません! でも、怖いけど印のデザインはおもしろいです。名前にも意味があるのでしょうか?」
「ええ。魔力印学という講義が存在するぐらいに奥が深いです」
「魔力印学!それはおもしろいですね。是非、学びたいです!」
少しだけジルが困ったような笑顔を浮かべる。二年生の選択制の教養学科として選べるが、社会に出て役に立つ学問としてはお勧めできないそうだ。
「趣味として楽しむには良い講義ですが、一年間学ぶにはお勧めいたしません。気になるのであれば、私が選択しておりましたので教えます。他の講義を学園ではお取りくださいませ」
そういえば、ジルは学園にいたのだと思い出す。早熟なオリーブの色に似た黄緑の瞳を曇らす事になるのではとずっと聞くことが出来なかった彼の過去。今なら聞いても許されるだろうか?
「ジルの……ジルの昔のお話を聞いてもいいですか?」
涼やかで変化の少ないジルの表情の中で、その瞳だけはよく表情を映すことを一緒にいて知っている。明るい君を帯びた瞳が、影を落とすように暗く深くなる。聞かずにいても良かったのかもしれない。でも、学園内で誰かの口から何かをしるなら、ジルから先に私は知りたい。主としてジルを一番知っているのが私でありたいのは、私の我儘だと分かっていても。
「ノエル様は随分大きくなられましたね。初めてお会いした時は本当に可愛いらしい姫さまでしたのに」
綺麗な手が私の手を取る。私とジルの距離は他家の従者と主の距離よりもずっと近いと思う。騎士と令嬢という出会いの所為だと思う。それに私は、ジルを前世の記憶にある兄に重ねていたのかもしれない。勝手で時折喧嘩していた前世の兄とジルは全然違うけど、逃げ込むと優しい所や頼ると困ったように笑って聞いてくれる姿が私を守る小さな砦なのは一緒だ。
「あまり、よいお話ばかりではありません。聞いて尚、私の主でいて下さいますか?」
私にとってもはやジルは側にいるのが当たり前のような存在だ。何を聞いても、何を知っても、ジルが願い出る事がない限り、私がその手を離すことはない。
「私はジルの主です。ジルに私の髪の一総を下しました。あの時から一番信頼する者です」
髪を切ったその日に私は、これから選ぶ道についてきて欲しいと願った。僅かな月日でジルの人柄が好きだったし、兄のようだと思ってた。ずっと甘えてばかりだなと思う。あの日だって兄に頼るように心細い道を助けてと願った。今、誰よりも身近で私を支えてくれる人。
ジルが言葉を紡ぎ始める。
「私は13歳の時に、事故に巻き込まれた場で偶然魔力が発動いたしました。その際にお救いした貴族の方にに推挙され、庶民ではありましたが学園に入学することが叶ったのです」
年に数人、魔力を見出されて学園に通う庶民がいる。ジルはその一人だった。
近寄った泉は美しく澄んでいた。膝ぐらいの深さの決して大きくない美しい泉は、その不思議な水を一体どこから満たしているのだろうか?
小瓶を泉に差し入れる。春の温かい日差しに照らされているのに、真冬のように水は冷たい。小瓶に水を満たして蓋をする。この水が私の中で魔力の在り方を変える。
ナタニエル学園長が頷くのを確認してから、小瓶に魔力を流す。流し方のイメージは相変わらず電気だ。体の中心に溜めた力は電池で腕は同線だと思って、小瓶の水に通していく。
水があっという間に漆黒の闇と同じ色に変わって、ナタニエル学園長が息を飲むのが分かった。
「さすがはアングラード侯爵ご子息です。お飲みください」
唇を寄せる。この水を体に受け入れると、私は大人になるんだと思う。守られる側から守る側へ。強く、強く、強くなりたい。真黒な闇に染まった泉の水が、喉を冷やして体の中に流れ込む。
とくん、と胸が鳴る音がする。体の中に治まった冷たい水が渦を巻いて、左胸が急速に熱を持つ。
水だったものが真黒な靄になり、大きくなって小さくなってを繰り返して渦巻き続ける。これが私の力で魔力だ。意識すると渦は私の意図を汲むように、体の中で大きさも早さも自由に変化を繰り返した。
「これは……素晴らしい魔力量です。レオナール様の時も驚きましたが、アングラード侯爵家には毎回驚かされます」
ビセンテ先生が呆気にとられた表情を浮かべて告げる。嬉しいのだけど、ピンとこない。体の中の魔力の存在は分かるのけど、比べるものがないから魔力量に自覚がもてないのだ。
「魔力が体の中にあるのは分かるのですが、大きいというのが分かりません」
他人事のように呟いてしまった私に、ビセンテ先生が苦笑いを浮かべる。そうして、初めての時のその気持ちは理解できますねと言ってくれた。
「使わないと量を実感するのは難しいですな。でも、貴方の父であるレオナール様は歴代でも優れた闇魔法の使い手です。大規模な上級魔法なら国で一番かもしれない。魔力量でみれば、同じだけの魔法をあなたも使えます。それだけの力がある、そう申し上げたらすこし実感できますか?」
伝達魔法以外の魔法を使ったのを見たことがない父上の評価に驚く。そして、自分がしてきた事が望んだ以上の結果に繋がっていることを理解する。嬉しいという気持ちがこみ上げてきてきて、戻る足取りは軽くなる。
私の次はクロード。少し緊張した表情で儀式に臨む。水色の輝きは水属性でトップクラスと無事に言われるのが聞こえる。ほんの少し口元を綻ばせて私のところに戻ると、右手を上げた。その手を力いっぱい叩いて祝福しあう。お互い満面の笑みだ。
「嘘だ! 嘘だ!! この結果は間違えている!」
悲鳴のような声があがる。剣クラスのエディ・ボナリーと呼ばれた伯爵子息が、小瓶を地面に叩きつけようとしてビセンテ先生に抑えられる。
「落ち着けエディ。そういった事は稀におこるんだ。毎年何人かには起こる事態だ、受け入れろ!」
ナタニエル学園長が厳しい声を上げる。その言葉にもしやと思って、アレックス王子とカミュ様の元に駆け寄る。二人とも固い表情で眉を寄せて、エディーとビセンテ先生のやり取りを見つめていた。
「殿下、カミュ様。エディはもしかして……」
「属性違いだ。ここに来る前に、彼は一族の属性は火だと言っていた」
「先ほど見えた、瓶の中は僅かに黄色に染まり始めておりました……」
このグループに含まれる程の伯爵家だから、古く有力な一族の筈だ。疑わなかった属性が違うと知った衝撃は計り知れないだろう。属性違い結末は、ユーグのシナリオで私は知っている。古く有力な一族であるほど失う力の落差は大きい。悲痛な声で、目の前の属性を否定し続けるエディの姿に胸が痛む。
「ユーグは……」
大丈夫、と呟きかけた言葉を飲み込んで、後に順番を控えるユーグを探す。
少し離れた所に立って見つめるユーグの表情はいつも通り。だけど、不安はある筈だ。シュレッサーの土属性か、私の告げた火属性か。第三の可能性だって彼の中では消えていない筈だ。
「ユーグ、こっちに来い」
アレックス王子がユーグを呼ぶ。その声に面倒そうにユーグがこちらに歩み寄ってくる。
泉のほとりでは学園長とビセンテ先生の説得でエディがようやく儀式の続きを再開した。小瓶の色が濃くなる速度が私たちと比べて格段に遅い。
「なんです? 殿下」
「……君はシュレッサーだ。何があっても、シュレッサーである部分は変わらない。だから私は何があっても君には期待し続ける」
ユーグが首を傾げて、にやりと笑う。アレックス王子の方はそっぽを向いてしまった。これから儀式に向かうユーグへの不器用な言葉は、何があっても変わらない信頼。言った本人の耳は少し赤い。
「ユーグ・シュレッサー」
学園長がユーグを呼び、肩を落としたエディがこちらに戻ってくる。泉に向かう前にユーグが彼らしい色気たっぷりの微笑みを私たちに向けて、舞台の役者のように大げさな立礼をとる。
「私は準備万端です。魔力も、シュレッサーとしての力も期待して頂いてかまいませんよ」
泉に向かったユーグと、入れ替わる様に戻ったエディにも殿下は声をかける。
「剣技を磨け。ボナリー家の強みは集団戦の騎馬術だ。まだ君に期待している」
うな垂れた顔をエディーが上げる。その顔に今度は照れる事なくにアレックス王子が力強く頷いてみせる。ボナリー家が武門伯爵であることも、集団戦の騎馬術が得意なことも私は知らない。
言葉を掛けることが出来るのは、今も知らないことをアレックス王子が勉強し続けている証拠だ。エディの悲観に染まった瞳に小さな目標の灯がともる。未来の王の言葉は、嵐に飲み込まれかけた者にとって羅針盤になる。
畔では、小瓶にユーグが魔力を流し始めた。流れるようにその色が赤に変わっていく。私と彼の契約に答えがでた。後はどれ程伸びているかだ。
赤い色に僅かに皆はざわめく。ユーグは大丈夫と伝えられないのは歯がゆい。
「くそっ、ユーグも属性違いか……」
「大丈夫です!ユーグはコーエンのマグマ洞で研究してました」
「そうですね。色の変化は遅くありませんでした。良き結果を祈りましょう」
「ああ、準備万端と研究バカが笑ったんだ。信じよう」
赤くなった水を飲み干すユーグを私たちは必死で見つめる。彼の努力を知る者も知らない者も、大事な友である彼の結果が心に叶うことを祈る。
「属性違いの火属性だが、上位クラスの魔力がある。……絶対に講義で習う前に魔法を使うなよ!!」
私たちは胸をなでおろす。上位クラスなら回数に制限はあるが、上級魔法の発動は可能だ。今は、エディの事もあるから大きく喜び合うことは控える。
近いうちにワンデリアにいる事になっているキャロルに、ユーグは結果報告の手紙をくれるだろう。いつも返事を返さない手紙。今回だけは、返事を書こう。今、喜んであげられない分のおめでとうを込めて、無茶の注意も忘れないようにしないといけない。
契約の儀が終わると、上級生の一人が別の道から校内まで引率してくれる。
王族専用の馬車寄せがあるアレックス王子とカミュ様と別れると、クロードとユーグと生徒用の車寄せに向かう。
「そういえば、クロード。ドニの伯父の件で顔を顰めた理由は何だったんですか?」
今なら、ユーグしかいないから聞いても問題ないだろう。本来のシナリオよりも早くドニが戻った理由である、当主より強い伯父の存在が気にかかる。
「ジルベール・ラヴェルは女性がらみの問題や不正疑惑で廃嫡された人物だ。何年も王都から姿を消していたが、半年ほど前にこちらに戻って廃嫡の撤回を願い出る書状を出してきたそうだ」
処分での廃嫡された人物が撤回を願い出る事例は珍しい。なぜなら、すべての問題で無実である事を証明しなくては撤回されないからだ。
「撤回は通りましたか?」
「いや。通らなかった」
出された書類は関係者の証言のみで無実を訴える申請で、真偽の確認が殆ど取れない内容だったらしい。当然、不十分として却下された。
不正を騎士団の時に追っていたエドガー侯爵は、その酷く公平性のない申請内容に激怒した。仕事の内容を家庭に持ち込まないエドガー侯爵が、リーリア夫人に怒りをあらわに愚痴をこぼした為クロードにも知るところとなった。
「ドニにディエリと仲良くなるように指示したり、きな臭い気がしますね」
クロードも同じように怪しげな人物が怪しげな一族とつながりを求める様子に眉を顰める。並んで話をきいていたユーグが口を開く。
「バスティア家もちょっと変な雰囲気だよ。書状の真贋確認の要請がシュレッサーに急増してる。しかも、調査した怪しい書状の半分以上が偽物だったそうだよ。おかげでバスティア家の偽書類件数は、今年は断トツでニ番目に浮上したって」
例年は一番はシュレッサーで、二番は国政管理室と数計院が僅差を争うらしい。四番で個人の不正の温床であるバスティア家の名が度々上がってきたが、二番を抜く事態は初めての事だと言う。
魔物の大量発生の危険など、ゲームに登場していない要素は現実にある。
不穏な二家の動きもシナリオに登場しない裏でおこっていた事態なのだろうか?
もし、裏で起こっていたなら未来に変化はない、でもシナリオにない新しい動きならば? 私たちの進む先には何が待つのだろうか、水にインクを一滴垂らしたような不安が広がる。
「まぁ、今のところ書状の内容は対したことないみたいだよ。気に掛けるぐらいでいいんじゃない? そもそも、僕たちに出来ることは変化を通報する程度だしね。個人的にはあんまり興味ないし」
「興味で片付けるのは違うぞ、ユーグ。でも、騎士団も監視を続けているから大丈夫だろう。危険な人物だと覚えておくのが俺たちのできることだな」
私は頷く。今の学園一年生になったばかりの私たちに出来ることはない。ただ、危険な人物と知ったなら注意はしておくべきだ。守られる側から守る側になったなら、抱えられるだけ守りたい。
学園から別邸の方に直接向かう。本邸はお客様が多い為、印が消えるまではこちらに滞在した方が安全という父上からの指示だ。でも、本当は事前に私から別邸で過ごしたいとおねだりしたのだ。
印がでたら魔法が使える。それってとてもわくわくする。消えるまで、何度も印を確認する自分が簡単に想像できた。本邸は私が女の子であることをしらない使用人ばかりで、がっちりしたコルセットは必須だ。でもコルセットだと魔力印が見づらい。だから、マリーゼやジルだけに囲まれて緩めのコルセットで過ごせる別邸での時間を希望した。
帰りの馬車の中でも自然に鼻歌が漏れる。少し熱い左胸には印がある証拠。
馬車を下りたら挨拶も忘れて真っ先に部屋に向かう。ジルには部屋の前で警備をお願いする。
鏡の前で、制服のボタンを少しだけ外して、コルセットのボタンも外していく。抑えられていた体が緊張をとく。溜め息一つ。目を閉じて、いっせーので見てみよう。はじめまして、私の魔力の印。
「いっせーの、せ!」
魔法印が目に入った途端に、すっと言葉が頭に浮かぶ。これが私の魔力印とその名前。
―― 闇の歪を駆ける月の番人 ――
浮かぶのは全ての輝きを吸い込むような闇色の印。大小の点は瞬く星、右上には満月が描かれる。精悍な顔に、しなやかに引き締まる体躯には闇色に塗られたマントを羽織って渓谷を駆け抜ける。この世界の銀色の月の番人……
「って狸です。やっぱり狸です!!」
マントを羽織って暗闇を駆け抜ける狸はとてもかっこよく描かれている。でも、狸……。
実物より細いし、気品ある顔だちで、本当に良いデザインだと思う。でも、狸。
狸はこの世界では白銀と闇色で月の番人という表現も似合う。でも、狸!
「狸ではなく、これは月の番人と思いましょう!! そう、似てるけど、かっこいいのです!」
惜しいぐらいに、かっこいい。月の番人のかっこいい印で十分私は満足だ。もしも、いつか恋人に捧げるとしても不足はない。けど、アングラードの子狸の二つ名が管理室によって広められているから、愛する人は少しだけ笑うかもしれない。
左胸の肌にくっきりと浮かぶ印を撫でる。その部分だけがまだ熱を帯びて熱いのは私の魔力が安定していないから。急いで楽なコルセットに着替えて、制服も普段着に変える。
「ジル! 中に来てください」
ドアの外からノックの音がしてジルが部屋に入ってくる。
「魔法の使い方はお教えできません」
先に言われてしまって肩を落とす。伝達魔法ぐらいなら教えてもらえるかなと期待していたのだけど、ユーグに偉そうなことは言えないなと反省する。それなら、もう一つのお願いだ。
「ジルの印をもう一度見せてもらうことはできますか?」
やっぱり、自分の印を見ると人の印と比べてみたくなる。簡単に見せるものではないから、5年前の誓約の時に見た以来だ。大事な印に興味を優先するのは我儘かなと思うけど、ジルなら許してくれるから甘える。
優しく微笑んで、椅子に座る私の前にジルが跪く。シャツのボタンを少しだけ外すと左胸を大きく開く。
「印を出すときは、その名を呟きます。…………」
左胸に淡い緑の光が集まって、いつか見た印が浮かび上がる。私の印が闇属性の漆黒の光を吸い込む闇色なのに対して、ジルの印は風属性だから薄い緑色に光っている。
「ジルの印はやっぱり綺麗ですね。薄い緑色はとても好きです。私の印は闇属性の色なので、見比べると地味ですね」
「印のまとう輝きは魔力属性が元になります。光は白、闇は黒。火は赤、水は青、土は黄、風は緑でございますね。黒は全てを吸い込む輝きと評されます。ご自分のものだから地味に思われるだけでしょう」
ジルが優しくフォローしてくれる。でも、デザインだって、蝶とか冠とか流線とか、美しい感じがする意匠が本当に素敵だ。
「印に出る模様って選べたらいいですね。私もジルみたいな蝶とか、お花とか違うのも良かったです。たぬ……」
狸は可愛くありませんと言いそうになって慌ててとめる。ジルが楽しいそうに目を細める。
「印の意匠には癖がございます。一族の意匠の一部に必ず描かれるもので、有名なのは王家の女神、シュレッサーのランプ、ヴァセランの剣、アングラードのブルレーデですね。」
「ブルレーデ?」
「はい。遥昔はブルレーデと呼ばれておりました。今は狸の方が通りが良いですね。一族で直系ほど同じ意匠が現れやすくなります」
狸という音の違う名前は、やはり途中で出来たものである事を知る。初めて聞く話だけど、隠されている様子はないから、思ったより早くユーグは色々調べてくるだろうなと思う。
たぬ……ブルレーデがアングラードの有名な意匠なら、お父様やアングラードのお爺さまにもブルレーデが描かれているのかもしれない。
「一部とはいえ印の意匠が有名になっていいのですか? 先生は誰にも見せるなとおっしゃってました」
「知られているのはあくまでも意匠の一部で、印は一人一人細部が異なります。それに魔力印には必ず根幹として存在するのに名も必要になります。印と名の両方を知られれば、魔法で影響を与えることが可能になります。ノエル様もお気をつけ下さいませ。絶対に名は安易に口にしてはいけません」
私は頷く。名前は決して口にしない。いつかジルに印と名を捧げてもらった時に根幹で縛る怖さを感じた。他者が魔力で支配する事に悪意が介在するならばそれは最悪だ。
「お約束します。口にしません! でも、怖いけど印のデザインはおもしろいです。名前にも意味があるのでしょうか?」
「ええ。魔力印学という講義が存在するぐらいに奥が深いです」
「魔力印学!それはおもしろいですね。是非、学びたいです!」
少しだけジルが困ったような笑顔を浮かべる。二年生の選択制の教養学科として選べるが、社会に出て役に立つ学問としてはお勧めできないそうだ。
「趣味として楽しむには良い講義ですが、一年間学ぶにはお勧めいたしません。気になるのであれば、私が選択しておりましたので教えます。他の講義を学園ではお取りくださいませ」
そういえば、ジルは学園にいたのだと思い出す。早熟なオリーブの色に似た黄緑の瞳を曇らす事になるのではとずっと聞くことが出来なかった彼の過去。今なら聞いても許されるだろうか?
「ジルの……ジルの昔のお話を聞いてもいいですか?」
涼やかで変化の少ないジルの表情の中で、その瞳だけはよく表情を映すことを一緒にいて知っている。明るい君を帯びた瞳が、影を落とすように暗く深くなる。聞かずにいても良かったのかもしれない。でも、学園内で誰かの口から何かをしるなら、ジルから先に私は知りたい。主としてジルを一番知っているのが私でありたいのは、私の我儘だと分かっていても。
「ノエル様は随分大きくなられましたね。初めてお会いした時は本当に可愛いらしい姫さまでしたのに」
綺麗な手が私の手を取る。私とジルの距離は他家の従者と主の距離よりもずっと近いと思う。騎士と令嬢という出会いの所為だと思う。それに私は、ジルを前世の記憶にある兄に重ねていたのかもしれない。勝手で時折喧嘩していた前世の兄とジルは全然違うけど、逃げ込むと優しい所や頼ると困ったように笑って聞いてくれる姿が私を守る小さな砦なのは一緒だ。
「あまり、よいお話ばかりではありません。聞いて尚、私の主でいて下さいますか?」
私にとってもはやジルは側にいるのが当たり前のような存在だ。何を聞いても、何を知っても、ジルが願い出る事がない限り、私がその手を離すことはない。
「私はジルの主です。ジルに私の髪の一総を下しました。あの時から一番信頼する者です」
髪を切ったその日に私は、これから選ぶ道についてきて欲しいと願った。僅かな月日でジルの人柄が好きだったし、兄のようだと思ってた。ずっと甘えてばかりだなと思う。あの日だって兄に頼るように心細い道を助けてと願った。今、誰よりも身近で私を支えてくれる人。
ジルが言葉を紡ぎ始める。
「私は13歳の時に、事故に巻き込まれた場で偶然魔力が発動いたしました。その際にお救いした貴族の方にに推挙され、庶民ではありましたが学園に入学することが叶ったのです」
年に数人、魔力を見出されて学園に通う庶民がいる。ジルはその一人だった。
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