35 / 77
二章
御前試合 キャロル13歳
しおりを挟む
新国王の宣誓式が行われ、アレックス王子は王位継承権が一位となった。カミュ様は大公なので三位のまま据え置かれる。継承権二位の座は空席となった。
宣誓式の後は速やかに国政の新体制が発表となる。新宰相はベッケル公爵、副宰相に前国政管理室長ボルロー伯爵、父上は国政管理室の室長と順当な繰り上がりで落ち着く。ギスラン書記官の机の下の情報戦も、切り札使用後の父上の弁舌も、みんなが作った書類も全てが上手く作用した。結果、以下の人事も概ね国政管理室の思惑どおりの布陣となったそうだ。
「糖分と愛の力は最強だよねー」
後日中庭で会った時にギスランはそう言って笑うと、私にお菓子を一つくれた。
この人事でバスティア公爵家が国政の中心から名を消す。まだ有力な地位に多くの者が残るものの、求心力の低下が社交界で囁かれるようになった。
悲しみの中にも新しい風が吹く。安寧の王アーノルド・マールブランジュ前国王の国葬は無事に終わった。
そして、三か月の月日がたって、翌年の準備に忙しい私に一枚の手紙が届く。王冠を抱く女神の封蝋は勿論アレックス王子からだ。久しぶりの手紙に心躍らせて開封する。
「ジル、この手紙を燃やして、届いていないことにはできませんか?」
半分まで読んで頭が痛くなった。内容は私とディエリの手合わせの件に関する事だ。私から書状を受け取ったジルが一読する。
「騎士団の練習場にて御前試合とは、随分お話が大きくなりましたね」
「大きくなり過ぎです! この顔ぶれ! 全く余興ではないです!」
悲しみにくれた貴族たちを慰撫する余興として、来週開催が決まった6組の試合。最終試合は新近衛団長ヴァセラン侯爵と新騎士団長ゴーベール伯爵。余興にしては迫力がありすぎる組み合わせだ。他出場者も今回人事で特に飛躍した者の子息や甥などの関係者がずらりと並んぶ。これを国王が観覧するとなれば、単なる余興ではなく新体制の名前を売るのが真の目的なのは明白だ。
「ノエル様は一試合目でディエリ様とですね。参加者の中で唯一、国政の中心から遠い方です。御前試合に含まれた意義を考えると、負けるわけにはまいりませんね」
「負けませんが……、御前試合なんて聞いてません……この顔ぶれって注目度が高い方ばかりだし……」
責任重大。その言葉が頭の中に思い浮かぶ。子供の試合だし、一試合目がだし、一応余興なわけだし、観覧者は少ないよね? 頭を抱えて掻きむしる。ぼさぼさになった髪をジルが撫でるようにして直してくれる。
お腹が痛くなりそう……、お腹が痛いからお休み許されるよね? 子供だし。手紙の焼却処分を決めて、上目づかいでジルを見上げると首を傾げる。私のおねだりが来るのに気づいてジルが苦笑いを浮かべた。
おねだりを口にする前に、屋敷が揺れる程の大きな音を立てて部屋のドアが開けられる。片手を頬に当てて夢見る乙女の笑顔を浮かべた母上が現れる。その手にある手紙も、封蝋は王冠を抱く女神だ。ジルのため息が横から聞こえた。
「ノエル様、同じ書状が奥様宛にも届いてしまったようです。書状の焼却処分も、病欠もは不可能かと存じます」
御前試合は勝ちましょうね、と母上が私の手をとる。私の強制出場が確定した瞬間だった。
この後の一週間は、人生で最も必死で過酷な練習に明け暮れた。練習三日目の素振りの途中に、私は心から決意する。二度と私と対戦したいと思う人物が現れないよう、全力で叩き潰す。こんな思いはもう、御免です!
御前試合の会場に集まる貴族を眼下に見つめる。練習場に入れない人もでそうな列ができていた。多くの人の目的は新人事で躍進した家との繋がりづくりだ。子供の試合には興味はさほどない、心の中でそう言い聞かせる。
控室として当てられたのは二階の騎士たちの休憩所、対戦相手とは同室にならないよう控室は二室用意されている。窓から見える人たちの頭に呪文をかける。石ころ、木のみ、石ころ、木のみ。ジワリと手の平が湿っぽくなるのはこの部屋が暑いからで緊張のせいじゃない。
「ノエル、大丈夫か?」
振り返ると、防具を付けて準備を始めたクロードが心配そうな表情で私を見つめる。クロードは私の次の試合に参加する。相手は新しい作戦戦略室室長の子息で学園で二年生になる人物だ。かなりのの格上になる。
「クロードこそ、三年も上の人だけど大丈夫ですか?」
「ああ。楽しみだ。頭の切れる戦い方をする人物らしい」
本当に剣技に一途だと思う。ずっとクロードとは三年間剣を合わせてきた。最近は私が勝てる事は殆どない。私が弱い訳ではなく、まっすぐにその道を究めようとするクロードの力も技量も同年代の子を遥かに超えているのだ。楽しみだと笑うクロードの瞳の力強さに、自然と彼なら勝てるという気持ちが湧き上がる。クロードの笑顔はどんなときも信頼を寄せる事を許してくれる。
「勝てます。友としてクロードの勝利を信じます!」
「ああ。絶対に勝つ。頭の切れる戦い方はお前が教えてくれた。任せろ」
本当にこの人はかっこいいと思う。いつも自然に人を認めて、自信を分けてくれる。クロードが私の友でよかった。握った手の汗が引いていく。私もクロードのお陰で強い相手と戦うことを知っている。だから、私も勝つ。
「顔洗ってきますね! 戻ったら、私も支度にかかります」
控室を出る。隣の第二休憩室は、それぞれの対戦相手の控室になっている。その前の廊下で、私に敵意のある眼差しを向ける一団から、負けろと囁く声が聞こえる。ディエルの関係者なのだろう。こんな場所にまで取り巻きを連れてくることに呆れる。
ジルを伴うと囁きを無視して洗面室に向かう。陰口には随分慣れた。煌びやかな社交界には真っ暗な感情が日の当たらない所で渦を巻く。渦は知らぬふりをするのが一番だ。音だけでこちらに向かうことは殆どない。向かう力があるぐらいなら、こんなところで渦なんて巻かない。
勢いよく出した水で顔を洗う。冷たい水に、冬が終われば春が来るのだと思う。でも、春に思いを馳せるのはまだ先だ。今は勝つことに集中する。濡れた手で頬を叩いてから、自分の両頬を片手て押してみる。大好きな人が私にさせる顔はちっとも可愛くなくて、自然と笑みが零れた。
すっきりした気持ちで部屋に戻ろうとした私に、一団が足を出す。想定内の古典的な嫌がらせ。僅かに止まってから、その足を思いっきり踏みつける。
「失礼。突然出てきたので、うまく避け損ねました」
「いてぇ! くっそ!!」
随分前に見たことのある気がする顔だ。凄い顔で私を睨みつける表情に見覚えがある。一体どこの誰だっただろうか? 思い出せないから多分親しくしている人物ではないと思う。
「倉庫番の子のくせに、ディエリ様に勝てるとおもうなよ!」
思い出した。ガエル・ベカエールだ。10歳の頃より大きくなって、頭一つ分私より大きい。顔も大人になったのに、やる事がちっとも昔と変わってない! ディエリ様とよぶなら、今はディエリの取り巻きの一人という事だ。以前同様、彼に容赦はいらない。
「勝つのは私です」
威圧を込めて冷ややかな笑顔を浮かべて、私は宣言する。怯んだように顔をこわばらせてガエルが一歩下がる。
「姑息な真似をする相手には決して負けません。貴方のお気に入りを勝たせたいなら、ここで私に挑んでみてはいかがですか? 私に傷の一つでもつけれたら、きっと喜んでもらえる筈ですよ。ただし、返り討ちは覚悟してください」
一緒にいた他の取り巻き達も一瞥すると、次々と顔を背けていく。小さく笑ってから私は背を向けて歩き出す。私の背に向けて絞りだされる怨嗟の言葉。
「絶対、お前なんか引きずり降ろしてやる! バスティア公爵がこちらにはいるんだ!!」
求心力を失ったとはいえ、バスティア公爵家が悪い根を深くつなげる相手は多くいると父上が言っていた。その根の行方は枯れて消えるのか、腐って害をなすのか、どちらになるのだろう。
人がひしめき合う騎士団の練習場の舞台の側面の貴賓観覧席から、御前試合の開催を告げるアントニー・マールブランシュ国王陛下の声が響く。アレックス王子と少し似た透明な声質は聞くものの心に届く響きがあった。側にはクロードの父であるヴァセラン侯爵が白い近衛騎士の制服で控える。左右を埋めるのは王族と新体制で国王に近い者たち。父上と母上もそこに並んで座っていた。
出場者が跪いて国王に礼を取ると、国王の言葉に静まり返っていた会場が再び歓声に包まれる。満員御礼。余興とは思えない人数の観覧者だ。出場者は左右の待機場所へ移動する。貴賓観覧席のアレックス王子とカミュ様から最後尾の私たち声が降ってくる。
「ノエル、クロード。私に必ず勝利を献上しろ」
「頑張ってください。勝利を信じておりますよ」
微笑んで送り出すのは信頼の証。振り返って二人の瞳に私たちはしっかりと頷き返す。
待機場所につくとクロードとお互いに装備を確認しなおす。騎士団に入る前の者は軽い胸当てと兜の着用が決められていて、それ以外は自由だ。私は追加は脛当てのみの軽装にしている。あまり重くして動きにくいのは私の戦い方に向かない。クロードの方は籠手や肩当もきちんと着用して騎士らしい装備だ。
「ノエルは、軽い装備だから接触には注意しろよ」
「クロードは、装備に頼り過ぎないようにね」
向き合って注意しあう私たちに一般席から、癖のある艶っぽい声が降ってくる。
「ノエル、クロード。ただいま」
見上げるとユーグが楽しそうに微笑んでいる。最後に会った時より少し伸びた髪が、また少しユーグを艶っぽく見せる。
「おかえりなさい、ユーグ」
「マグマ洞の研究は終わったのか?」
私たちの言葉にほんの少し首を傾げてから、不満そうな顔をする。どうやら研究は不本意な結末だったようだ。
「うちの探求者が遊びにきて悪戯したせいで、コーエンの洞が一つ吹き飛んだ。すごく不本意だけど、これは管理者の僕の責任になるんだってさ。今日は、始末書を出しに戻って来たんだけど……君たち面白いことしてるね? すごく楽しみだよ。勝ったら僕たちシュレッサーがご褒美に花火を見せてあげるよ」
ユーグとシュレッサーの花火はなんだか少し怖いけど楽しみだ。勝つのを待ってて、とクロードと私が返せば頑張ってね、と楽しそうに手をひらひらと振ってくれる。
「第一試合! ディエリ・バスティア、ノエル・アングラード。 両者前へ!!」
立会人に名を呼ばれて壇上に上がり、指定の位置で止まる。本物の剣を使うこの勝負は、相手に致命傷を与えることは許されない、寸のところで止めるのも技量だ。確実に入いる位置で止めた致命打を立ち合い人が有効として判断すれば、制止の声を上げて勝敗が来まる。
「両者、礼!」
ディエリの緑の瞳が真っすぐに私に向けられる。今日は侮蔑の色はない。お互いに立礼を取るとそれぞれ剣を構える。ディエリの剣は騎士の剣だ。高く構える姿勢は騎士の基本の型。私も二本の剣を眼前に交差するように構える。まずはディエリの動きを見極める事に徹する。
「始め!!!」
声と同時に激しい剣戟が響く。ディエリの斬撃をしっかり剣で受ける。早くて重い一撃。クロードと速さなら同等、重さはやや軽い。同年代ならトップクラスの攻撃だ。
スピードに乗せてディエリが連続して叩きこんでくる。二撃、三撃、四撃……、五撃目を二つの剣を使ってがっちり受け止める。膠着した剣を押し返して跳ねのけると攻撃に転じる。今度は受ける力を見せてもらう番だ。
利き手の右の剣を少しだけ抑えたスピードで外に払う。追いかけるように、違う角度で左手の剣を打ち込む。角度を変えながら連続させた攻撃にしっかりと付いてくる。ややスピードを上げた三撃目は体をそらして躱された。反応が早いと思った。そして早くて柔軟な動き。バランスの良い剣筋はバスティア公爵家らしいと言える。
でも速さは私の方がディエリよりも上だと確信する。続けて連続して追い込んでいく。剣戟の音が高く何度も響いた。
「ちっ。早いな。重さもまずまずだ……」
忌々しそうにディエリは漏らすと、弾くように私の剣を押し返した。そのまま斜めに切りつけてくる。うまい返しだ。僅かに身を引いて間合いからはずれた視界にディエリの手元が映る。
指先に力を込めて僅かに引く。その動きを私は知っている。母に完敗した日に見たのと同じ、この流れは突きだ。引いた体は反転する余裕はない。ディエリが踏み込む足の動きより早く、両手の剣を前に戻して受けることを選ぶ。
耳障りな剣の響きに、観客のどよめきが続く。ディエリの突きを正面から刃で受け止めた私が後方に吹き飛ぶ。転がる様に受け身を取って大きく離れる。距離を取って安堵した私の前方に、半分におれた刃が転がった。
「……」
「さて、二本の剣が一本になった。どうする、ノエル・アングラード?」
少し顎を上げて満足げな笑みをディエリが浮かべる。
宣誓式の後は速やかに国政の新体制が発表となる。新宰相はベッケル公爵、副宰相に前国政管理室長ボルロー伯爵、父上は国政管理室の室長と順当な繰り上がりで落ち着く。ギスラン書記官の机の下の情報戦も、切り札使用後の父上の弁舌も、みんなが作った書類も全てが上手く作用した。結果、以下の人事も概ね国政管理室の思惑どおりの布陣となったそうだ。
「糖分と愛の力は最強だよねー」
後日中庭で会った時にギスランはそう言って笑うと、私にお菓子を一つくれた。
この人事でバスティア公爵家が国政の中心から名を消す。まだ有力な地位に多くの者が残るものの、求心力の低下が社交界で囁かれるようになった。
悲しみの中にも新しい風が吹く。安寧の王アーノルド・マールブランジュ前国王の国葬は無事に終わった。
そして、三か月の月日がたって、翌年の準備に忙しい私に一枚の手紙が届く。王冠を抱く女神の封蝋は勿論アレックス王子からだ。久しぶりの手紙に心躍らせて開封する。
「ジル、この手紙を燃やして、届いていないことにはできませんか?」
半分まで読んで頭が痛くなった。内容は私とディエリの手合わせの件に関する事だ。私から書状を受け取ったジルが一読する。
「騎士団の練習場にて御前試合とは、随分お話が大きくなりましたね」
「大きくなり過ぎです! この顔ぶれ! 全く余興ではないです!」
悲しみにくれた貴族たちを慰撫する余興として、来週開催が決まった6組の試合。最終試合は新近衛団長ヴァセラン侯爵と新騎士団長ゴーベール伯爵。余興にしては迫力がありすぎる組み合わせだ。他出場者も今回人事で特に飛躍した者の子息や甥などの関係者がずらりと並んぶ。これを国王が観覧するとなれば、単なる余興ではなく新体制の名前を売るのが真の目的なのは明白だ。
「ノエル様は一試合目でディエリ様とですね。参加者の中で唯一、国政の中心から遠い方です。御前試合に含まれた意義を考えると、負けるわけにはまいりませんね」
「負けませんが……、御前試合なんて聞いてません……この顔ぶれって注目度が高い方ばかりだし……」
責任重大。その言葉が頭の中に思い浮かぶ。子供の試合だし、一試合目がだし、一応余興なわけだし、観覧者は少ないよね? 頭を抱えて掻きむしる。ぼさぼさになった髪をジルが撫でるようにして直してくれる。
お腹が痛くなりそう……、お腹が痛いからお休み許されるよね? 子供だし。手紙の焼却処分を決めて、上目づかいでジルを見上げると首を傾げる。私のおねだりが来るのに気づいてジルが苦笑いを浮かべた。
おねだりを口にする前に、屋敷が揺れる程の大きな音を立てて部屋のドアが開けられる。片手を頬に当てて夢見る乙女の笑顔を浮かべた母上が現れる。その手にある手紙も、封蝋は王冠を抱く女神だ。ジルのため息が横から聞こえた。
「ノエル様、同じ書状が奥様宛にも届いてしまったようです。書状の焼却処分も、病欠もは不可能かと存じます」
御前試合は勝ちましょうね、と母上が私の手をとる。私の強制出場が確定した瞬間だった。
この後の一週間は、人生で最も必死で過酷な練習に明け暮れた。練習三日目の素振りの途中に、私は心から決意する。二度と私と対戦したいと思う人物が現れないよう、全力で叩き潰す。こんな思いはもう、御免です!
御前試合の会場に集まる貴族を眼下に見つめる。練習場に入れない人もでそうな列ができていた。多くの人の目的は新人事で躍進した家との繋がりづくりだ。子供の試合には興味はさほどない、心の中でそう言い聞かせる。
控室として当てられたのは二階の騎士たちの休憩所、対戦相手とは同室にならないよう控室は二室用意されている。窓から見える人たちの頭に呪文をかける。石ころ、木のみ、石ころ、木のみ。ジワリと手の平が湿っぽくなるのはこの部屋が暑いからで緊張のせいじゃない。
「ノエル、大丈夫か?」
振り返ると、防具を付けて準備を始めたクロードが心配そうな表情で私を見つめる。クロードは私の次の試合に参加する。相手は新しい作戦戦略室室長の子息で学園で二年生になる人物だ。かなりのの格上になる。
「クロードこそ、三年も上の人だけど大丈夫ですか?」
「ああ。楽しみだ。頭の切れる戦い方をする人物らしい」
本当に剣技に一途だと思う。ずっとクロードとは三年間剣を合わせてきた。最近は私が勝てる事は殆どない。私が弱い訳ではなく、まっすぐにその道を究めようとするクロードの力も技量も同年代の子を遥かに超えているのだ。楽しみだと笑うクロードの瞳の力強さに、自然と彼なら勝てるという気持ちが湧き上がる。クロードの笑顔はどんなときも信頼を寄せる事を許してくれる。
「勝てます。友としてクロードの勝利を信じます!」
「ああ。絶対に勝つ。頭の切れる戦い方はお前が教えてくれた。任せろ」
本当にこの人はかっこいいと思う。いつも自然に人を認めて、自信を分けてくれる。クロードが私の友でよかった。握った手の汗が引いていく。私もクロードのお陰で強い相手と戦うことを知っている。だから、私も勝つ。
「顔洗ってきますね! 戻ったら、私も支度にかかります」
控室を出る。隣の第二休憩室は、それぞれの対戦相手の控室になっている。その前の廊下で、私に敵意のある眼差しを向ける一団から、負けろと囁く声が聞こえる。ディエルの関係者なのだろう。こんな場所にまで取り巻きを連れてくることに呆れる。
ジルを伴うと囁きを無視して洗面室に向かう。陰口には随分慣れた。煌びやかな社交界には真っ暗な感情が日の当たらない所で渦を巻く。渦は知らぬふりをするのが一番だ。音だけでこちらに向かうことは殆どない。向かう力があるぐらいなら、こんなところで渦なんて巻かない。
勢いよく出した水で顔を洗う。冷たい水に、冬が終われば春が来るのだと思う。でも、春に思いを馳せるのはまだ先だ。今は勝つことに集中する。濡れた手で頬を叩いてから、自分の両頬を片手て押してみる。大好きな人が私にさせる顔はちっとも可愛くなくて、自然と笑みが零れた。
すっきりした気持ちで部屋に戻ろうとした私に、一団が足を出す。想定内の古典的な嫌がらせ。僅かに止まってから、その足を思いっきり踏みつける。
「失礼。突然出てきたので、うまく避け損ねました」
「いてぇ! くっそ!!」
随分前に見たことのある気がする顔だ。凄い顔で私を睨みつける表情に見覚えがある。一体どこの誰だっただろうか? 思い出せないから多分親しくしている人物ではないと思う。
「倉庫番の子のくせに、ディエリ様に勝てるとおもうなよ!」
思い出した。ガエル・ベカエールだ。10歳の頃より大きくなって、頭一つ分私より大きい。顔も大人になったのに、やる事がちっとも昔と変わってない! ディエリ様とよぶなら、今はディエリの取り巻きの一人という事だ。以前同様、彼に容赦はいらない。
「勝つのは私です」
威圧を込めて冷ややかな笑顔を浮かべて、私は宣言する。怯んだように顔をこわばらせてガエルが一歩下がる。
「姑息な真似をする相手には決して負けません。貴方のお気に入りを勝たせたいなら、ここで私に挑んでみてはいかがですか? 私に傷の一つでもつけれたら、きっと喜んでもらえる筈ですよ。ただし、返り討ちは覚悟してください」
一緒にいた他の取り巻き達も一瞥すると、次々と顔を背けていく。小さく笑ってから私は背を向けて歩き出す。私の背に向けて絞りだされる怨嗟の言葉。
「絶対、お前なんか引きずり降ろしてやる! バスティア公爵がこちらにはいるんだ!!」
求心力を失ったとはいえ、バスティア公爵家が悪い根を深くつなげる相手は多くいると父上が言っていた。その根の行方は枯れて消えるのか、腐って害をなすのか、どちらになるのだろう。
人がひしめき合う騎士団の練習場の舞台の側面の貴賓観覧席から、御前試合の開催を告げるアントニー・マールブランシュ国王陛下の声が響く。アレックス王子と少し似た透明な声質は聞くものの心に届く響きがあった。側にはクロードの父であるヴァセラン侯爵が白い近衛騎士の制服で控える。左右を埋めるのは王族と新体制で国王に近い者たち。父上と母上もそこに並んで座っていた。
出場者が跪いて国王に礼を取ると、国王の言葉に静まり返っていた会場が再び歓声に包まれる。満員御礼。余興とは思えない人数の観覧者だ。出場者は左右の待機場所へ移動する。貴賓観覧席のアレックス王子とカミュ様から最後尾の私たち声が降ってくる。
「ノエル、クロード。私に必ず勝利を献上しろ」
「頑張ってください。勝利を信じておりますよ」
微笑んで送り出すのは信頼の証。振り返って二人の瞳に私たちはしっかりと頷き返す。
待機場所につくとクロードとお互いに装備を確認しなおす。騎士団に入る前の者は軽い胸当てと兜の着用が決められていて、それ以外は自由だ。私は追加は脛当てのみの軽装にしている。あまり重くして動きにくいのは私の戦い方に向かない。クロードの方は籠手や肩当もきちんと着用して騎士らしい装備だ。
「ノエルは、軽い装備だから接触には注意しろよ」
「クロードは、装備に頼り過ぎないようにね」
向き合って注意しあう私たちに一般席から、癖のある艶っぽい声が降ってくる。
「ノエル、クロード。ただいま」
見上げるとユーグが楽しそうに微笑んでいる。最後に会った時より少し伸びた髪が、また少しユーグを艶っぽく見せる。
「おかえりなさい、ユーグ」
「マグマ洞の研究は終わったのか?」
私たちの言葉にほんの少し首を傾げてから、不満そうな顔をする。どうやら研究は不本意な結末だったようだ。
「うちの探求者が遊びにきて悪戯したせいで、コーエンの洞が一つ吹き飛んだ。すごく不本意だけど、これは管理者の僕の責任になるんだってさ。今日は、始末書を出しに戻って来たんだけど……君たち面白いことしてるね? すごく楽しみだよ。勝ったら僕たちシュレッサーがご褒美に花火を見せてあげるよ」
ユーグとシュレッサーの花火はなんだか少し怖いけど楽しみだ。勝つのを待ってて、とクロードと私が返せば頑張ってね、と楽しそうに手をひらひらと振ってくれる。
「第一試合! ディエリ・バスティア、ノエル・アングラード。 両者前へ!!」
立会人に名を呼ばれて壇上に上がり、指定の位置で止まる。本物の剣を使うこの勝負は、相手に致命傷を与えることは許されない、寸のところで止めるのも技量だ。確実に入いる位置で止めた致命打を立ち合い人が有効として判断すれば、制止の声を上げて勝敗が来まる。
「両者、礼!」
ディエリの緑の瞳が真っすぐに私に向けられる。今日は侮蔑の色はない。お互いに立礼を取るとそれぞれ剣を構える。ディエリの剣は騎士の剣だ。高く構える姿勢は騎士の基本の型。私も二本の剣を眼前に交差するように構える。まずはディエリの動きを見極める事に徹する。
「始め!!!」
声と同時に激しい剣戟が響く。ディエリの斬撃をしっかり剣で受ける。早くて重い一撃。クロードと速さなら同等、重さはやや軽い。同年代ならトップクラスの攻撃だ。
スピードに乗せてディエリが連続して叩きこんでくる。二撃、三撃、四撃……、五撃目を二つの剣を使ってがっちり受け止める。膠着した剣を押し返して跳ねのけると攻撃に転じる。今度は受ける力を見せてもらう番だ。
利き手の右の剣を少しだけ抑えたスピードで外に払う。追いかけるように、違う角度で左手の剣を打ち込む。角度を変えながら連続させた攻撃にしっかりと付いてくる。ややスピードを上げた三撃目は体をそらして躱された。反応が早いと思った。そして早くて柔軟な動き。バランスの良い剣筋はバスティア公爵家らしいと言える。
でも速さは私の方がディエリよりも上だと確信する。続けて連続して追い込んでいく。剣戟の音が高く何度も響いた。
「ちっ。早いな。重さもまずまずだ……」
忌々しそうにディエリは漏らすと、弾くように私の剣を押し返した。そのまま斜めに切りつけてくる。うまい返しだ。僅かに身を引いて間合いからはずれた視界にディエリの手元が映る。
指先に力を込めて僅かに引く。その動きを私は知っている。母に完敗した日に見たのと同じ、この流れは突きだ。引いた体は反転する余裕はない。ディエリが踏み込む足の動きより早く、両手の剣を前に戻して受けることを選ぶ。
耳障りな剣の響きに、観客のどよめきが続く。ディエリの突きを正面から刃で受け止めた私が後方に吹き飛ぶ。転がる様に受け身を取って大きく離れる。距離を取って安堵した私の前方に、半分におれた刃が転がった。
「……」
「さて、二本の剣が一本になった。どうする、ノエル・アングラード?」
少し顎を上げて満足げな笑みをディエリが浮かべる。
0
お気に入りに追加
1,594
あなたにおすすめの小説
無一文で追放される悪女に転生したので特技を活かしてお金儲けを始めたら、聖女様と呼ばれるようになりました
結城芙由奈
恋愛
スーパームーンの美しい夜。仕事帰り、トラックに撥ねらてしまった私。気づけば草の生えた地面の上に倒れていた。目の前に見える城に入れば、盛大なパーティーの真っ最中。目の前にある豪華な食事を口にしていると見知らぬ男性にいきなり名前を呼ばれて、次期王妃候補の資格を失ったことを聞かされた。理由も分からないまま、家に帰宅すると「お前のような恥さらしは今日限り、出ていけ」と追い出されてしまう。途方に暮れる私についてきてくれたのは、私の専属メイドと御者の青年。そこで私は2人を連れて新天地目指して旅立つことにした。無一文だけど大丈夫。私は前世の特技を活かしてお金を稼ぐことが出来るのだから――
※ 他サイトでも投稿中
【完結】気づいたら異世界に転生。読んでいた小説の脇役令嬢に。原作通りの人生は歩まないと決めたら隣国の王子様に愛されました
hikari
恋愛
気がついたら自分は異世界に転生していた事に気づく。
そこは以前読んだことのある異世界小説の中だった……。転生をしたのは『山紫水明の中庭』の脇役令嬢のアレクサンドラ。アレクサンドラはしつこくつきまとってくる迷惑平民男、チャールズに根負けして結婚してしまう。
「そんな人生は嫌だ!」という事で、宿命を変えてしまう。アレクサンドラには物語上でも片思いしていた相手がいた。
王太子の浮気で婚約破棄。ここまでは原作通り。
ところが、アレクサンドラは本来の物語に無い登場人物から言い寄られる。しかも、その人物の正体は実は隣国の王子だった……。
チャールズと仕向けようとした、王太子を奪ったディアドラとヒロインとヒロインの恋人の3人が最後に仲違い。
きわめつけは王太子がギャンブルをやっている事が発覚し王太子は国外追放にあう。
※ざまぁの回には★印があります。
いじめられ続けた挙げ句、三回も婚約破棄された悪役令嬢は微笑みながら言った「女神の顔も三度まで」と
鳳ナナ
恋愛
伯爵令嬢アムネジアはいじめられていた。
令嬢から。子息から。婚約者の王子から。
それでも彼女はただ微笑を浮かべて、一切の抵抗をしなかった。
そんなある日、三回目の婚約破棄を宣言されたアムネジアは、閉じていた目を見開いて言った。
「――女神の顔も三度まで、という言葉をご存知ですか?」
その言葉を皮切りに、ついにアムネジアは本性を現し、夜会は女達の修羅場と化した。
「ああ、気持ち悪い」
「お黙りなさい! この泥棒猫が!」
「言いましたよね? 助けてやる代わりに、友達料金を払えって」
飛び交う罵倒に乱れ飛ぶワイングラス。
謀略渦巻く宮廷の中で、咲き誇るは一輪の悪の華。
――出てくる令嬢、全員悪人。
※小説家になろう様でも掲載しております。
待ち遠しかった卒業パーティー
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢アンネットは、暴力を振るう父、母亡き後に父の後妻になった継母からの虐め、嘘をついてアンネットの婚約者である第四王子シューベルを誘惑した異母姉を卒業パーティーを利用して断罪する予定だった。
しかし、その前にアンネットはシューベルから婚約破棄を言い渡された。
それによってシューベルも一緒にパーティーで断罪されるというお話です。
悪役令嬢に転生したのですが、フラグが見えるのでとりま折らせていただきます
水無瀬流那
恋愛
転生先は、未プレイの乙女ゲーの悪役令嬢だった。それもステータスによれば、死ぬ確率は100%というDEATHエンド確定令嬢らしい。
このままでは死んでしまう、と焦る私に与えられていたスキルは、『フラグ破壊レベル∞』…………?
使い方も詳細も何もわからないのですが、DEATHエンド回避を目指して、とりまフラグを折っていこうと思います!
※小説家になろうでも掲載しています
婚約破棄の特等席はこちらですか?
A
恋愛
公爵令嬢、コーネリア・ディ・ギリアリアは自分が前世で繰り返しプレイしていた乙女ゲーム『五色のペンタグラム』の世界に転生していることに気づく。
将来的には婚約破棄が待っているが、彼女は回避する気が無い。いや、むしろされたい。
何故ならそれは自分が一番好きなシーンであったから。
カップリング厨として推しメン同士をくっつけようと画策する彼女であったが、だんだんとその流れはおかしくなっていき………………
悪役令嬢より取り巻き令嬢の方が問題あると思います
蓮
恋愛
両親と死別し、孤児院暮らしの平民だったシャーリーはクリフォード男爵家の養女として引き取られた。丁度その頃市井では男爵家など貴族に引き取られた少女が王子や公爵令息など、高貴な身分の男性と恋に落ちて幸せになる小説が流行っていた。シャーリーは自分もそうなるのではないかとつい夢見てしまう。しかし、夜会でコンプトン侯爵令嬢ベアトリスと出会う。シャーリーはベアトリスにマナーや所作など色々と注意されてしまう。シャーリーは彼女を小説に出て来る悪役令嬢みたいだと思った。しかし、それが違うということにシャーリーはすぐに気付く。ベアトリスはシャーリーが嘲笑の的にならないようマナーや所作を教えてくれていたのだ。
(あれ? ベアトリス様って実はもしかして良い人?)
シャーリーはそう思い、ベアトリスと交流を深めることにしてみた。
しかしそんな中、シャーリーはあるベアトリスの取り巻きであるチェスター伯爵令嬢カレンからネチネチと嫌味を言われるようになる。カレンは平民だったシャーリーを気に入らないらしい。更に、他の令嬢への嫌がらせの罪をベアトリスに着せて彼女を社交界から追放しようともしていた。彼女はベアトリスも気に入らないらしい。それに気付いたシャーリーは怒り狂う。
「私に色々良くしてくださったベアトリス様に冤罪をかけようとするなんて許せない!」
シャーリーは仲良くなったテヴァルー子爵令息ヴィンセント、ベアトリスの婚約者であるモールバラ公爵令息アイザック、ベアトリスの弟であるキースと共に、ベアトリスを救う計画を立て始めた。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
ジャンルは恋愛メインではありませんが、アルファポリスでは当てはまるジャンルが恋愛しかありませんでした。
オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる