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後章
グリージャ皇国の魔女です!
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進み出たクリスに村人たちの眼差しが集まる。
『魔女』の問い掛けに驚く者、進み出た少年を怪訝に思う者、美しい容姿にうっとりとする者。様々な視線を受けて、クリスが柔らかそうな薄紅の髪を揺らして微笑む。
「はじめまして。僕はグージャ皇国より使者として参りました。セラフィン王家の許可を頂き、聖女様の『奇跡』に立ち会う幸運を得ました」
グリージャ皇国の使者、王家の許可と言う言葉にざわりと人々の声が揺れる。騒めきの中でクリスが笑顔を困惑の表情に替えて人々を見渡す。
「本当に素晴らしい力でした。だから、不思議でなりません。何故、『魔女』と仰るのでしょう? 皆さんは、物の『魔女』を知って口にされているのですか?」
答えを探り合う囁き声があちらこちらで交わされる。でも、進み出て答える者は誰もいない。
当然、異国の使者は雲の上の人だから、畏れ多いという事はあるだろう。でも、それ以上に顔を曇らせた村人の様子が、答えに自信がない事を物語っていた。
騒めきは止まらないのに、視線を向ければ俯く。そんな状況にクリスが肩を竦める。
「誰もお答え頂けないなんて残念です」
大して残念そうではない顔でそう告げると、クリスは村人から村長へと向き直る。
「貴方は、当然ご存知なのですよね? 堂々と『魔女』とリーリア様に仰っていましたからね。さぁ、僕の問いに答えを下さい」
弾むような口調でねだるクリスは無邪気な少年にしか見えない。最初は訝しむ様に見ていた村長も、一呼吸して相好を崩すと尊大さを取り戻して胸を張る。
「知っていますよ! 子供だって知っている事です!」
「どのように? もっときちんと聞かせて下さい」
村人の視線がクリスの言葉を追うように村長を見る。
この場の流れをクリスが支配している事に、何人気づいているだろうか。
本物の子供であれば、こんな風に耳目を集める事に長けていない。僅かな間合い、会話の呼吸、小さな仕草。どれも老獪な社交の技術が駆使されている。
「ええ。我が国の物語に『魔女』は幾度も出てくるのですよ。人を誑かし、破滅に導く悪しき存在としてね。その姿は女の形で、得体のしれない恐ろしい力を持つ」
「物語の『魔女』なのですね? 他にはありますか?」
にこりとクリスが笑うと、村長が理解を得たと思ったのか笑みを深める。村長は、クリスが舵をとって何処かへ会話を運ぼうとしている事に気づいていないみたいだ。
見た目と実年齢の大きな差。これはクリスの武器だと思う。幼い愛らさが、彼の狡さを簡単に隠してしまう。
「あります。この国の全ての恐ろしい事には、常に『魔女』の噂が付きまとうんです。我々にとって最も不可思議で恐ろしい虚鬼を生みだすのも『魔女』と言われているんですよ!」
村長が『魔女』について言い切ったとばかりに鼻を鳴らすと、クリスの愛らしい顔に小馬鹿にしたような冷笑が浮かんだ。
天使の外見に大人の表情。無邪気な振る舞いに老獪な計算。その乖離を表に出した瞬間のクリスは、いつも歪な怪物のような気配を一瞬見せる。
「貴方が言った話は、全て人の作り事ですね。僕が尋ねているのは、実在する『魔女』です。それが答えの全てなら、貴方は『魔女』知らないという事です」
突如、雰囲気を変えたクリスに気圧されて、村長が表情を引き攣らせる。
「作り事……。いや、違う。物語なのだが……。だが……ではない魔女は、実在する魔女は……。それは……、私は……知って……」
漸く真剣に『魔女』の実在する記憶を探り始めた村長が、繋いだ言葉を途切れさせて黙り込む。
動揺した姿と答えが返せない状況に、村人のざわめきが不穏などよめきに変わった。
「おい。村長は、何故答えない? 『魔女』はいないのか?」
「まて、まて。『魔女』はいる。ほら、あの話にも、あの噂にも出てくる」
「だから、どれも物語だろう? それに噂は噂で……」
「だが、教会がリーリア・ディルーカは『魔女』だと断言した」
それぞれが自分の知る『魔女』の話を口にして、実在を確認しあう声が幾つも耳に届いた。でも、明確な根拠を打ち出して存在を説明する会話は、一つも聞こえてこなかった。
幾ら囁き合っても、肯定の答えはきっと誰からも上がらないだろう。
王妃の教育の中で、人よりも詳細に私は歴史を学んだ。その記憶を辿っても、『魔女』のようだと表現された悪女はいたけど、本物の『魔女』として裁かれた者の記憶はない。
実在の『魔女』を記憶に見つけられなかったのか、村長が苛立たし気に爪を噛む。そして、挑戦するような眼差しでクリスを見る。
「実在を問われても困りますな。裁かれた女の罪状を私が全て把握しているなら、村長ではなく罪を裁く官吏になっていますよ。そもそも、過去の実在が一体何になるというのです? 不可思議な力を持って、国に仇を成す可能性がある。そんな女を物語になぞらえて『魔女』と呼んで何が悪いのですか?」
答えを棄てて開き直った村長にクリスが顔を顰める。
状況が動かないなら、私が進み出るべきだろうか。でも、当事者の私の言葉は答えを示せても人を納得させられるとは思えない。
誰か。そう考えて視線を周囲に向けると、伺うような眼差しを向けるジュリアと目が合った。
目的の為に、ジュリアは王妃を目指していた。彼女なら答えをきちんと返せる。静かに頷いて行動を認めると、クリスの側までジュリアが進み出た。
手を胸に当てて騎士の一礼をとると、優雅さを兼ね揃えた凛々しさにうっとりとした溜息が周囲から漏れる。
「異国のお客様に対して、自国の歴史に回答ができないなど見過ごせませんわ。わたくしに、発言をお許しいただけますかしら?」
「ええ、麗しい騎士殿。是非、お聞かせください」
申し出にクリスが承諾の返事をすると、村長が顔を真っ赤にしてジュリアを制止する。
「旧国の騎士がでしゃばるな! 引っ込んでいろ!」
異国の使者を前に、自国の派閥を表に出して叱責するなど見苦しい。騎士だけでなく、村人の一部も眉を顰める。
「お黙りなさい。わたくしの名は、ジュリア・グレゴーリ。この国の筆頭貴族であり、代々王家に忠誠を誓ってきたグレゴーリ公爵家の子ですわ。それでも口を出すなと?」
騎士団長を歴任してきたグレゴーリ公爵の名を知らぬものは誰もいない。
毅然とジュリアが自らの名を名乗ると、村人たちが息を飲んで静まり返る。村長の真っ赤だった顔は、青くなったと思ったら、通り越して白に変わった。
唇を震わせた村長を無視して、ジュリアが美しい笑顔をクリスに向ける。
「グリージャ皇国のお客様に、この国の貴族を代表して非礼をお詫び致しますわ」
「お気になさらず。何処にでも底の浅い者はおります」
鷹揚にクリスが謝罪を受け容れると、騎士たちがジュリアの謝罪を後押しするように一斉に礼をとった。その姿にジュリアは僅かに目を綻ばせてから、クリスの問いに対する答え口にする。
「わたくしはグレゴーリ公爵家の名に恥じぬよう、深く歴史を学んでまいりました。セラフィンの歴史に『魔女』と断罪された存在はございませんわ。セラフィン王国に『魔女』は実在しておりません」
この国に『魔女』は実在していない。やはり、私と同じ答えだ。
実在しなかった『魔女』が、当然のように口にされる。それは、悪役として『魔女』が頻繁に使われているせい。
私も小さい頃から何度も本や寝物語や噂に『魔女』の存在を聞いてきた。
何時だって主役を脅かすのは『魔女』で、悪いことをしたら『魔女』がくると叱られたし、不可解な出来事は『魔女』の仕業と噂された。
『魔女』はセラフィン王国では、悪しき者の代名詞として定着している。
「ありがとうございます、グレゴーリ公爵のご息女殿。この国には、やはり『魔女』の存在はないのですね」
ジュリアが一礼して下がるのを見届けると、クリスが私を『魔女』と疑った村人たちを見渡す。
「この国に『魔女』はなかった。ならば、『魔女』は何処から生まれたのでしょうか? 僕はその答えを持っています。グリージャ皇国では、物語に『魔女』が出る事はありません。何故なら歴史に実在し、凄惨な事実が語り継がれているからです。折角ですから、本物の『魔女』の話をして差し上げましょう」
そう言うと、クリスは静まり返った村人に向かって、グリージャ皇国に実在した『魔女』について語りだした。
グリージャ皇国に実際に『魔女』がいたのは二百年前の話。現皇帝の流れを汲む皇王と『魔女』は、十年にも渡って国の頂点を争ったとクリスが語りだす。
正当な皇王と得体のしれない『魔女』。圧倒的に皇王に味方する者が多かったのに、『魔女』は一向に打ち倒される事はなかった。
ただ一人の『魔女』が持つ恐ろしい力が、騎士の一軍を上回ったからだ。
『魔女』は、自分を厭う街をいくつもの炎で焼き、周辺を草一本も生えない土地に変えた。
望みを拒む商人に怒り、海に渦を起こし船を沈め、川を氾濫させて船を流す事もあった。
討伐の騎士の宿営地には、暗雲が立ち込め幾つもの大きな雷が落ちたという。
遠くにその存在を見るような眼差しで、淡々と『魔女』の惨劇をクリスが語る。
恐怖を演出するように暗い顔をしたり、声を潜めたりする事はないのに、暗い眼差しが真実の重みを伝えて聞く者の心を冷やした。
「誰の言葉も、誰の叫びも、絶対的な力を持つ『魔女』の前では無力です。力がある『魔女』は望む事を叶えるのに配慮の必要はありません。暴虐を続ければ、弱い者はいづれ跪くか、『魔女』の前に灰塵に帰するか。グリージャ皇国にとって、『魔女』は国を覆い滅ぼす厄災でした」
作られた悪の象徴としての『魔女』と、現実に一国を滅ぼしかけた『魔女』。同じ名で語られるのに、話のもたらす衝撃は全く違う。
クリスの話を聞いた、幼い子は耳を塞ぎ、女性は怯えて隣の者に縋っていた。そして、男たちは何かを堪える様な顔で拳を握りしめていた。
震える村人にクリスがゆっくりと背を向ける。その青い瞳が私の瞳と重なると、柔らかな弧を描いた。
クリスは、何を狙っているの?
軽やかな足取りで近づくと、大地に跪いてクリスが真っ直ぐに私を見上げる。
「この国は、勿体ない事をしていますね。『魔女』と呼ばれた憐れなリーリア。誰かの為に不思議な力を使う貴方は、僕には美しく優しい『聖女』にしか見えない。グリージャ皇国は、貴方を心から欲します」
まるでダンスに誘うかのように、クリスが私に手を差し出す。
突然の行動の意味を、私を含めて誰もがすぐには理解出来なかった。
水を打ったように静まり返る中で、大人とは思えない柔らかそうな手を見つめるとクリスが微笑む。
「僕の手を取って、グリージャ皇国に来て下さい。我が国の民には、人と違うと貴方を傷つける真似は決してさせません。貴方の優しさを讃える歓声を持って迎え入れ、その力を信じて心からお慕い致します」
言葉が静寂に水滴を落とした。水面に広がる波紋のように、全てを理解した人々に動揺のざわめきを広げていく。
何がどうしてこうなった?
クリスの言葉は、セラフィン王国を私に棄てさせる申し出だ。当然、やすやすと口にして出来る事でも、して良い事でもない。
一体何を考えているのかと、行動の真意を問う様にじっと見つめる。
「一時の茶番ですよ」
クリスの唇が声を出さずにそう囁く。そして、茶番の終わりを急かすように、人差し指を僅かに動かして手を取れと誘う。
村人が『聖女リーリア』と私を呼ぶ声が聞こえた。
『ディルーカ伯爵令嬢』に対する複雑な感情が残っている為か未だ声は小さい。だけど、『聖女』と私を確かに慰留していた。
頑なに、私を『魔女』と信じる人達を一転させる事は容易ではない。
逆風の中で本物の『魔女』と私の違いを示し、他国での『聖女』の価値を示して、クリスは私を――『聖女』を惜しむ気持ちを村人に生んだ。
全てを見越してここまで導いたのなら、クリスの胸には幕引きまで描かれているのだろう。その彼が手を取れと促すなら、その通りにすれば彼が終幕まで私を導いてくれる。
迷うように手を胸に抱えると、クリスがその笑みを深めた。
クリス……。でも……、この人は私の為の利を選ぶ人じゃない。彼が目指すのは彼の為の利。
それに、ここではない場所では、私に期待を持ち、歓迎してくれた人がいる。彼らがここにいなくても、一時の茶番だとしても、その思いを裏切る事はしてはいけない。
胸の前で握り合わせた手に、一度力を込めてから口を開く。
「私を評価してのお申し出は、大変有難く思います。しかし、どんな状況であっても、私はセラフィン王国の民の一人。祈るならば、この国とこの国の民の為に祈りたいと思っています」
村人から漏れた安堵のため息が、一つになって大きく響く。私を見上げた青い瞳の奥に、落胆が過ぎる。
「素直な方だから、僕のリードで踊って下さると思ったのですが。そう簡単にはいきませんか……」
愛らしい声で小さく呟いた後、はっきりと人々に聞こえる声でクリスが返答を受け容れる。
「流石は慈悲深い『聖女』様ですね。貴方がセラフィン王国をそのように愛するなら、残念ですが僕は引き下がるしかありません。貴方に寄り添われる民が、僕は心から羨ましいです」
クリスが村人の満足心を煽ると、華やいだ歓声が微かに上がった。今日、もっと柔らかな空気を引き際と判断して、アランが私の帰還を宣言する。慌ただしく騎士たちが動き出し、来た時よりも少しだけ大きくなった歓声に送り出され、最後の『聖女』の仕事が終わった。
逗留地であるシャンデラに向かう馬車から、小さくなった村を見つめてそっと息を吐く。
『聖女』としての時間は、『魔女』の汚名を晴らすのに確かに意味があった。でも、思った以上に悪い噂が残っている事もはっきりと悟る事になった。
「我が国の魔女が、この国に根付いているなんて驚きました」
向かいの席から掛けられた言葉に、慌てて顔を向ける。クリスは私と同じ様に、小さくなっていく村を窓から見つめていた。
「クリス様に指摘されるまで、私も『魔女』の存在を当たり前と思っていました。当然だと思ってしまうぐらい、小さな頃から『魔女』の話が身近にあったんです。でも、改めて探せば『魔女』と裁かれた者は誰一人いなかった。なんだか不思議な気分です。この国の『魔女』が作られたものだったなんて」
窓の外を眺めていたクリスが振り返る。柔らかな薄紅の髪の下から、楽し気な青い瞳が上目遣いに私を見つめる。
「人ならざる力と民を害する悪しき女。それを『魔女』と呼ぶなら、やはり我が『グリージャ皇国の魔女』が元なんでしょう」
そういえば、少し前にライモンドがグリージャ皇国の『魔女』を打ち取ったのはセラフィンの騎士だと言っていた。
「……クリス様が舞踏会でおっしゃった二百年前の内乱。そこで、セラフィン王国が助力したのですよね? 魔法が生み出された頃で、お役に立ったと聞いた事があります」
対峙した騎士が『魔女』の話を持ち帰って、それぞれに語った話が物語の土台になった。流入の経路としては、一応の説明がつく。
「確かに二百年前の内乱で、『魔女』を討ち取ったのはセラフィン王国の騎士たちでした。その時に話を持ち帰ったとは考えられますが、やや広まり過ぎな気がします」
『グリージャ皇国の魔女』の結末。今はなくなった『魔術』と隆盛を極める『魔法』。この時期がそのきっかけになったのだろうか?
「『魔女』はグリージャ皇国にいた。そして、我が国の騎士が倒した。遠い昔の事でなんだか不思議な気がします」
握ったり開いたりを繰り返していた手を膝の上でクリスが組む。
「そうですね。他国に内乱の終止符を打って頂くなんて中々ないはなしでしょう。しかし、あの時代に『魔女』を倒すのは我が国の騎士ではなく、セラフィン王国の騎士が――セラフィン王国で生み出された魔法がひつようだったんです。リーリア様は、魔術をお使いになりますか?」
突然の問いに、心臓が小さく音を立てて跳ねる。魔術は思いっきり利用しているけれど、禁忌だから絶対の秘密だ。
「魔術はこの国では禁忌。そうですよね、ジュリア」
慌てた所為で、護衛の間は空気として扱えと言われているのに、ジュリアに話を振ってしまう。思いがけない私のミスにジュリアが慌てる。
「えっ、ええ。そうですわ。魔術は、この国では禁忌となっております。その様な力が遠い昔にあった事は存じておりますが、詳細はわたくしも存じません」
ジュリアの言葉に頷きながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。
クリスの質問に深い意味はない。今は『グリージャ皇国の魔女』の話をしているだけだ。
「セラフィン王国では、禁忌なのですね……。では、お二方は魔術と言われても、馴染みがないでしょう。二百年前は魔法ではなく、世界では魔術が主流でした。『グリージャ皇国の魔女』。彼女は宮廷魔術師だった女性です」
「まぁ! グリージャ皇国では女性が王宮に仕える事ができますの?」
女性である事が理由で夢を諦めたジュリアが感嘆の声を上げると、クリスが苦笑いを浮かべる。
「僕の国は、常に人手不足ですからね。戦いで一族に男性がいなければ、女性が代わるしかない。勿論、数は少ないですよ。戦いで前線に近くなる下級貴族の出身者ばかりでした」
「そうなのですね……」
知らずに羨んだ事を恥じるように、ジュリアが目を伏せる。その様子にクリスがそっと目を細める。
「素直な方なんですね。女性でも力ある者は、表舞台に立てば相応の活躍ができます。それは確かと、僕が保証しますよ。でも、道は整えて行うべきでしょう。ただ、やみくもに進めばどんな良策も皺寄せが来ます」
「皺寄せですか?」
できれば、ジュリアみたいに夢を諦める人は減って欲しい。そう思う私と、同じ様に誰かにも夢を追って欲しいジュリアがクリスを見つめる。
「本来にはない状況が、『魔女』の始まりの切っ掛けでもありました。身分の低い宮廷魔術士の女性は、出会う筈のない第三王子と恋に落ちた。二人の願いが何だったのか。本当の事は今はもう分かりません。ただ、第三王子は王位を望み。宮廷魔術師の女は力を得て『魔女』となった」
馬車の中が水を打ったかのように静まり返って、荒い道を行く馬車の車輪の音だけが響く。
出会う筈のない二人。身分の壁。宮廷魔術師の女と第三王子は、結ばれる事を反対されたのかもしれない。そこから、反発が起こり諍いが重なり、王位簒奪まで行きついた。
愛する男の王位簒奪を成す為に、宮廷魔術師の女性は『魔女』となったのだろうか?
クリスは私達に魔術について尋ねた。『魔女』の恐ろしい力は、魔術が元だったのだろうか?
でも、村で語られた恐ろしい程の力を、魔術で生み出せるとは思えない。恐ろしい程の力のある魔術は、見た事も聞いたこともないし、あったとしても途方もない人数の魔力が必要なのは明白だ。
例え宮廷魔術師であっても、一人で自由に扱えるなんてあり得ない。
この疑問をクリスにぶつけたい。でも、どう尋ねたらいい?
魔術が禁忌である以上、その力の詳細を私は知らない事になっている。
静寂をジュリアの怒声が破る。
「何て事をなさったの! その状況を誰かが知れば、リーリア様に不利な噂が囁かれますわ!」
私の不利? ジュリアの言葉の意味に気づいてクリスを見る。
『グリージャ皇国の魔女』の状況は、当てはめようと思えば今の私の立場と良く嵌る。
セラフィン王国の正統な継承者は、一位のレナート王子。今の私は第二のデュリオ王子の婚約者。旧来の教会派が失速した今、力を持ち始めた旧国派は二人の王子の順位を覆す為にレナート王子の廃太子を望んでいる。
批判を受けたクリスが愛らしい顔に、老獪さを微かに滲ませて微笑む。
「ですから、その部分は伏せてお話をしたでしょう? 大丈夫です。『魔女』と謀反を起こした王族の関係は、グリージャ皇国でも詳しく知る者は少ないです。自国の歴史も知らない者が、他国の秘密を知る術はないでしょう」
「そんな事は分かりませんわ! 今日の話を聞いた誰かが、暴くかもしれませんもの!」
即座に否定したジュリアの剣幕に、クリスが肩を竦めて両手を上げる。
「未来は、確かに何が起こるか分からない。二百年前、宮廷魔術師だった『グリージャ皇国の魔女』にとって、魔法が生れた事は思いもよらない未来だった。魔術と魔法。一瞬の対峙では、速さのある魔法に利があるんです。『魔女』は魔法に倒れ、魔術は術者を失い塵となり、力を失った簒奪者は敗北した。これが二百年前の顛末です」
二百年前と今。魔術と魔法。『グリージャ皇国の魔女』と『セラフィン王国の魔女』。考え込んだ私の手を、身を乗り出したクリスが取る。
「未来に何かが起こった時は、いつでもグリージャ皇国へいらしてくださいね。村で言った言葉に、偽りはありません。かつて、セラフィン王国にしかない魔法が、僕の国の内乱を終える剣となりました。今度は、『聖女』の力で是非ご助力頂きたいものです」
クリスの求めた終幕は、『聖女』の力をグリージャ皇国へ持ち帰る事。
だとしたら、あの時に手を取らなくて良かった。愛らしく微笑むクリスにため息を吐くと、ジュリアが手刀でその手を叩き落とした。
「リーリア様に触らないで下さいませ。馬車は私の手の届く範囲、外では剣先が届く範囲にはお入りにならいで! クリス様を警戒対象ではなく、私は敵対対象とみなす事に致しますわ!」
「ジュリア、落ち着いて……」
宥めたけれど、珍しくジュリアは引かない。愛らしく頬を膨らませて、指を突きつける。
「お人好しの貴女は、嫌いじゃありませんわ。でも、この方の子供のような顔に騙されないで下さいませ! 中身は、とっても悪い大人ですのよ!」
クリスに騙されたらいけないのは、十分私も理解してる。
「ジュリア、あのね。心配は嬉しいし、クリス様が危ないのはよく分かってる。でも、この方は大使様ですから……」
真っ赤になって怒っていたジュリアが、冷静さを取り戻して失言に口を押さえる。視界の端では、クリスが儚げに自嘲する様な笑みを浮かべるのが見えた。見せた事のない胸が痛くなるような表情に驚く。
「クリス様、あの――」
「この外見は僕にとって武器です。でも、引け目でもあるんです。悪い大人と言われても、大人扱いなら嬉しい……そう思うぐらい大人になりたかった。――という事で、騎士殿の発言はお二人への貸しという事で収めて差し上げますね」
いつも通りの愛らしいけど底知れない笑顔を浮かべて、クリスが私とジュリアに貸しを強引に作る。
この場合だと貸しはジュリアだけだと思うのだが、私にまで付くのは何故だろう。理由を問いたいけれど、そんな余裕はなさそうだ。
頬を引き攣らせるジュリアが更なる怒りをぶつける前に、遠くに見え始めた白いシャンデラの街並みを指差す。
「シャンデラが見えてきましたよ! ほら、とても綺麗です」
ひときわ目立つ大きく荘厳な建物は、教会派の主要な教会の一つである大修道院。そこで本物の『聖女』であるソフィアが、巫女としての時間を過ごし、初めての奇跡を起こした。
そして、この美しい大修道院のある街でソフィアの母であるイレーネが命を散らした。
胸の中にある違和感。ソフィアの事をここで知ったら、その小さなしこりは解けて消えていくだろうか。
『魔女』の問い掛けに驚く者、進み出た少年を怪訝に思う者、美しい容姿にうっとりとする者。様々な視線を受けて、クリスが柔らかそうな薄紅の髪を揺らして微笑む。
「はじめまして。僕はグージャ皇国より使者として参りました。セラフィン王家の許可を頂き、聖女様の『奇跡』に立ち会う幸運を得ました」
グリージャ皇国の使者、王家の許可と言う言葉にざわりと人々の声が揺れる。騒めきの中でクリスが笑顔を困惑の表情に替えて人々を見渡す。
「本当に素晴らしい力でした。だから、不思議でなりません。何故、『魔女』と仰るのでしょう? 皆さんは、物の『魔女』を知って口にされているのですか?」
答えを探り合う囁き声があちらこちらで交わされる。でも、進み出て答える者は誰もいない。
当然、異国の使者は雲の上の人だから、畏れ多いという事はあるだろう。でも、それ以上に顔を曇らせた村人の様子が、答えに自信がない事を物語っていた。
騒めきは止まらないのに、視線を向ければ俯く。そんな状況にクリスが肩を竦める。
「誰もお答え頂けないなんて残念です」
大して残念そうではない顔でそう告げると、クリスは村人から村長へと向き直る。
「貴方は、当然ご存知なのですよね? 堂々と『魔女』とリーリア様に仰っていましたからね。さぁ、僕の問いに答えを下さい」
弾むような口調でねだるクリスは無邪気な少年にしか見えない。最初は訝しむ様に見ていた村長も、一呼吸して相好を崩すと尊大さを取り戻して胸を張る。
「知っていますよ! 子供だって知っている事です!」
「どのように? もっときちんと聞かせて下さい」
村人の視線がクリスの言葉を追うように村長を見る。
この場の流れをクリスが支配している事に、何人気づいているだろうか。
本物の子供であれば、こんな風に耳目を集める事に長けていない。僅かな間合い、会話の呼吸、小さな仕草。どれも老獪な社交の技術が駆使されている。
「ええ。我が国の物語に『魔女』は幾度も出てくるのですよ。人を誑かし、破滅に導く悪しき存在としてね。その姿は女の形で、得体のしれない恐ろしい力を持つ」
「物語の『魔女』なのですね? 他にはありますか?」
にこりとクリスが笑うと、村長が理解を得たと思ったのか笑みを深める。村長は、クリスが舵をとって何処かへ会話を運ぼうとしている事に気づいていないみたいだ。
見た目と実年齢の大きな差。これはクリスの武器だと思う。幼い愛らさが、彼の狡さを簡単に隠してしまう。
「あります。この国の全ての恐ろしい事には、常に『魔女』の噂が付きまとうんです。我々にとって最も不可思議で恐ろしい虚鬼を生みだすのも『魔女』と言われているんですよ!」
村長が『魔女』について言い切ったとばかりに鼻を鳴らすと、クリスの愛らしい顔に小馬鹿にしたような冷笑が浮かんだ。
天使の外見に大人の表情。無邪気な振る舞いに老獪な計算。その乖離を表に出した瞬間のクリスは、いつも歪な怪物のような気配を一瞬見せる。
「貴方が言った話は、全て人の作り事ですね。僕が尋ねているのは、実在する『魔女』です。それが答えの全てなら、貴方は『魔女』知らないという事です」
突如、雰囲気を変えたクリスに気圧されて、村長が表情を引き攣らせる。
「作り事……。いや、違う。物語なのだが……。だが……ではない魔女は、実在する魔女は……。それは……、私は……知って……」
漸く真剣に『魔女』の実在する記憶を探り始めた村長が、繋いだ言葉を途切れさせて黙り込む。
動揺した姿と答えが返せない状況に、村人のざわめきが不穏などよめきに変わった。
「おい。村長は、何故答えない? 『魔女』はいないのか?」
「まて、まて。『魔女』はいる。ほら、あの話にも、あの噂にも出てくる」
「だから、どれも物語だろう? それに噂は噂で……」
「だが、教会がリーリア・ディルーカは『魔女』だと断言した」
それぞれが自分の知る『魔女』の話を口にして、実在を確認しあう声が幾つも耳に届いた。でも、明確な根拠を打ち出して存在を説明する会話は、一つも聞こえてこなかった。
幾ら囁き合っても、肯定の答えはきっと誰からも上がらないだろう。
王妃の教育の中で、人よりも詳細に私は歴史を学んだ。その記憶を辿っても、『魔女』のようだと表現された悪女はいたけど、本物の『魔女』として裁かれた者の記憶はない。
実在の『魔女』を記憶に見つけられなかったのか、村長が苛立たし気に爪を噛む。そして、挑戦するような眼差しでクリスを見る。
「実在を問われても困りますな。裁かれた女の罪状を私が全て把握しているなら、村長ではなく罪を裁く官吏になっていますよ。そもそも、過去の実在が一体何になるというのです? 不可思議な力を持って、国に仇を成す可能性がある。そんな女を物語になぞらえて『魔女』と呼んで何が悪いのですか?」
答えを棄てて開き直った村長にクリスが顔を顰める。
状況が動かないなら、私が進み出るべきだろうか。でも、当事者の私の言葉は答えを示せても人を納得させられるとは思えない。
誰か。そう考えて視線を周囲に向けると、伺うような眼差しを向けるジュリアと目が合った。
目的の為に、ジュリアは王妃を目指していた。彼女なら答えをきちんと返せる。静かに頷いて行動を認めると、クリスの側までジュリアが進み出た。
手を胸に当てて騎士の一礼をとると、優雅さを兼ね揃えた凛々しさにうっとりとした溜息が周囲から漏れる。
「異国のお客様に対して、自国の歴史に回答ができないなど見過ごせませんわ。わたくしに、発言をお許しいただけますかしら?」
「ええ、麗しい騎士殿。是非、お聞かせください」
申し出にクリスが承諾の返事をすると、村長が顔を真っ赤にしてジュリアを制止する。
「旧国の騎士がでしゃばるな! 引っ込んでいろ!」
異国の使者を前に、自国の派閥を表に出して叱責するなど見苦しい。騎士だけでなく、村人の一部も眉を顰める。
「お黙りなさい。わたくしの名は、ジュリア・グレゴーリ。この国の筆頭貴族であり、代々王家に忠誠を誓ってきたグレゴーリ公爵家の子ですわ。それでも口を出すなと?」
騎士団長を歴任してきたグレゴーリ公爵の名を知らぬものは誰もいない。
毅然とジュリアが自らの名を名乗ると、村人たちが息を飲んで静まり返る。村長の真っ赤だった顔は、青くなったと思ったら、通り越して白に変わった。
唇を震わせた村長を無視して、ジュリアが美しい笑顔をクリスに向ける。
「グリージャ皇国のお客様に、この国の貴族を代表して非礼をお詫び致しますわ」
「お気になさらず。何処にでも底の浅い者はおります」
鷹揚にクリスが謝罪を受け容れると、騎士たちがジュリアの謝罪を後押しするように一斉に礼をとった。その姿にジュリアは僅かに目を綻ばせてから、クリスの問いに対する答え口にする。
「わたくしはグレゴーリ公爵家の名に恥じぬよう、深く歴史を学んでまいりました。セラフィンの歴史に『魔女』と断罪された存在はございませんわ。セラフィン王国に『魔女』は実在しておりません」
この国に『魔女』は実在していない。やはり、私と同じ答えだ。
実在しなかった『魔女』が、当然のように口にされる。それは、悪役として『魔女』が頻繁に使われているせい。
私も小さい頃から何度も本や寝物語や噂に『魔女』の存在を聞いてきた。
何時だって主役を脅かすのは『魔女』で、悪いことをしたら『魔女』がくると叱られたし、不可解な出来事は『魔女』の仕業と噂された。
『魔女』はセラフィン王国では、悪しき者の代名詞として定着している。
「ありがとうございます、グレゴーリ公爵のご息女殿。この国には、やはり『魔女』の存在はないのですね」
ジュリアが一礼して下がるのを見届けると、クリスが私を『魔女』と疑った村人たちを見渡す。
「この国に『魔女』はなかった。ならば、『魔女』は何処から生まれたのでしょうか? 僕はその答えを持っています。グリージャ皇国では、物語に『魔女』が出る事はありません。何故なら歴史に実在し、凄惨な事実が語り継がれているからです。折角ですから、本物の『魔女』の話をして差し上げましょう」
そう言うと、クリスは静まり返った村人に向かって、グリージャ皇国に実在した『魔女』について語りだした。
グリージャ皇国に実際に『魔女』がいたのは二百年前の話。現皇帝の流れを汲む皇王と『魔女』は、十年にも渡って国の頂点を争ったとクリスが語りだす。
正当な皇王と得体のしれない『魔女』。圧倒的に皇王に味方する者が多かったのに、『魔女』は一向に打ち倒される事はなかった。
ただ一人の『魔女』が持つ恐ろしい力が、騎士の一軍を上回ったからだ。
『魔女』は、自分を厭う街をいくつもの炎で焼き、周辺を草一本も生えない土地に変えた。
望みを拒む商人に怒り、海に渦を起こし船を沈め、川を氾濫させて船を流す事もあった。
討伐の騎士の宿営地には、暗雲が立ち込め幾つもの大きな雷が落ちたという。
遠くにその存在を見るような眼差しで、淡々と『魔女』の惨劇をクリスが語る。
恐怖を演出するように暗い顔をしたり、声を潜めたりする事はないのに、暗い眼差しが真実の重みを伝えて聞く者の心を冷やした。
「誰の言葉も、誰の叫びも、絶対的な力を持つ『魔女』の前では無力です。力がある『魔女』は望む事を叶えるのに配慮の必要はありません。暴虐を続ければ、弱い者はいづれ跪くか、『魔女』の前に灰塵に帰するか。グリージャ皇国にとって、『魔女』は国を覆い滅ぼす厄災でした」
作られた悪の象徴としての『魔女』と、現実に一国を滅ぼしかけた『魔女』。同じ名で語られるのに、話のもたらす衝撃は全く違う。
クリスの話を聞いた、幼い子は耳を塞ぎ、女性は怯えて隣の者に縋っていた。そして、男たちは何かを堪える様な顔で拳を握りしめていた。
震える村人にクリスがゆっくりと背を向ける。その青い瞳が私の瞳と重なると、柔らかな弧を描いた。
クリスは、何を狙っているの?
軽やかな足取りで近づくと、大地に跪いてクリスが真っ直ぐに私を見上げる。
「この国は、勿体ない事をしていますね。『魔女』と呼ばれた憐れなリーリア。誰かの為に不思議な力を使う貴方は、僕には美しく優しい『聖女』にしか見えない。グリージャ皇国は、貴方を心から欲します」
まるでダンスに誘うかのように、クリスが私に手を差し出す。
突然の行動の意味を、私を含めて誰もがすぐには理解出来なかった。
水を打ったように静まり返る中で、大人とは思えない柔らかそうな手を見つめるとクリスが微笑む。
「僕の手を取って、グリージャ皇国に来て下さい。我が国の民には、人と違うと貴方を傷つける真似は決してさせません。貴方の優しさを讃える歓声を持って迎え入れ、その力を信じて心からお慕い致します」
言葉が静寂に水滴を落とした。水面に広がる波紋のように、全てを理解した人々に動揺のざわめきを広げていく。
何がどうしてこうなった?
クリスの言葉は、セラフィン王国を私に棄てさせる申し出だ。当然、やすやすと口にして出来る事でも、して良い事でもない。
一体何を考えているのかと、行動の真意を問う様にじっと見つめる。
「一時の茶番ですよ」
クリスの唇が声を出さずにそう囁く。そして、茶番の終わりを急かすように、人差し指を僅かに動かして手を取れと誘う。
村人が『聖女リーリア』と私を呼ぶ声が聞こえた。
『ディルーカ伯爵令嬢』に対する複雑な感情が残っている為か未だ声は小さい。だけど、『聖女』と私を確かに慰留していた。
頑なに、私を『魔女』と信じる人達を一転させる事は容易ではない。
逆風の中で本物の『魔女』と私の違いを示し、他国での『聖女』の価値を示して、クリスは私を――『聖女』を惜しむ気持ちを村人に生んだ。
全てを見越してここまで導いたのなら、クリスの胸には幕引きまで描かれているのだろう。その彼が手を取れと促すなら、その通りにすれば彼が終幕まで私を導いてくれる。
迷うように手を胸に抱えると、クリスがその笑みを深めた。
クリス……。でも……、この人は私の為の利を選ぶ人じゃない。彼が目指すのは彼の為の利。
それに、ここではない場所では、私に期待を持ち、歓迎してくれた人がいる。彼らがここにいなくても、一時の茶番だとしても、その思いを裏切る事はしてはいけない。
胸の前で握り合わせた手に、一度力を込めてから口を開く。
「私を評価してのお申し出は、大変有難く思います。しかし、どんな状況であっても、私はセラフィン王国の民の一人。祈るならば、この国とこの国の民の為に祈りたいと思っています」
村人から漏れた安堵のため息が、一つになって大きく響く。私を見上げた青い瞳の奥に、落胆が過ぎる。
「素直な方だから、僕のリードで踊って下さると思ったのですが。そう簡単にはいきませんか……」
愛らしい声で小さく呟いた後、はっきりと人々に聞こえる声でクリスが返答を受け容れる。
「流石は慈悲深い『聖女』様ですね。貴方がセラフィン王国をそのように愛するなら、残念ですが僕は引き下がるしかありません。貴方に寄り添われる民が、僕は心から羨ましいです」
クリスが村人の満足心を煽ると、華やいだ歓声が微かに上がった。今日、もっと柔らかな空気を引き際と判断して、アランが私の帰還を宣言する。慌ただしく騎士たちが動き出し、来た時よりも少しだけ大きくなった歓声に送り出され、最後の『聖女』の仕事が終わった。
逗留地であるシャンデラに向かう馬車から、小さくなった村を見つめてそっと息を吐く。
『聖女』としての時間は、『魔女』の汚名を晴らすのに確かに意味があった。でも、思った以上に悪い噂が残っている事もはっきりと悟る事になった。
「我が国の魔女が、この国に根付いているなんて驚きました」
向かいの席から掛けられた言葉に、慌てて顔を向ける。クリスは私と同じ様に、小さくなっていく村を窓から見つめていた。
「クリス様に指摘されるまで、私も『魔女』の存在を当たり前と思っていました。当然だと思ってしまうぐらい、小さな頃から『魔女』の話が身近にあったんです。でも、改めて探せば『魔女』と裁かれた者は誰一人いなかった。なんだか不思議な気分です。この国の『魔女』が作られたものだったなんて」
窓の外を眺めていたクリスが振り返る。柔らかな薄紅の髪の下から、楽し気な青い瞳が上目遣いに私を見つめる。
「人ならざる力と民を害する悪しき女。それを『魔女』と呼ぶなら、やはり我が『グリージャ皇国の魔女』が元なんでしょう」
そういえば、少し前にライモンドがグリージャ皇国の『魔女』を打ち取ったのはセラフィンの騎士だと言っていた。
「……クリス様が舞踏会でおっしゃった二百年前の内乱。そこで、セラフィン王国が助力したのですよね? 魔法が生み出された頃で、お役に立ったと聞いた事があります」
対峙した騎士が『魔女』の話を持ち帰って、それぞれに語った話が物語の土台になった。流入の経路としては、一応の説明がつく。
「確かに二百年前の内乱で、『魔女』を討ち取ったのはセラフィン王国の騎士たちでした。その時に話を持ち帰ったとは考えられますが、やや広まり過ぎな気がします」
『グリージャ皇国の魔女』の結末。今はなくなった『魔術』と隆盛を極める『魔法』。この時期がそのきっかけになったのだろうか?
「『魔女』はグリージャ皇国にいた。そして、我が国の騎士が倒した。遠い昔の事でなんだか不思議な気がします」
握ったり開いたりを繰り返していた手を膝の上でクリスが組む。
「そうですね。他国に内乱の終止符を打って頂くなんて中々ないはなしでしょう。しかし、あの時代に『魔女』を倒すのは我が国の騎士ではなく、セラフィン王国の騎士が――セラフィン王国で生み出された魔法がひつようだったんです。リーリア様は、魔術をお使いになりますか?」
突然の問いに、心臓が小さく音を立てて跳ねる。魔術は思いっきり利用しているけれど、禁忌だから絶対の秘密だ。
「魔術はこの国では禁忌。そうですよね、ジュリア」
慌てた所為で、護衛の間は空気として扱えと言われているのに、ジュリアに話を振ってしまう。思いがけない私のミスにジュリアが慌てる。
「えっ、ええ。そうですわ。魔術は、この国では禁忌となっております。その様な力が遠い昔にあった事は存じておりますが、詳細はわたくしも存じません」
ジュリアの言葉に頷きながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。
クリスの質問に深い意味はない。今は『グリージャ皇国の魔女』の話をしているだけだ。
「セラフィン王国では、禁忌なのですね……。では、お二方は魔術と言われても、馴染みがないでしょう。二百年前は魔法ではなく、世界では魔術が主流でした。『グリージャ皇国の魔女』。彼女は宮廷魔術師だった女性です」
「まぁ! グリージャ皇国では女性が王宮に仕える事ができますの?」
女性である事が理由で夢を諦めたジュリアが感嘆の声を上げると、クリスが苦笑いを浮かべる。
「僕の国は、常に人手不足ですからね。戦いで一族に男性がいなければ、女性が代わるしかない。勿論、数は少ないですよ。戦いで前線に近くなる下級貴族の出身者ばかりでした」
「そうなのですね……」
知らずに羨んだ事を恥じるように、ジュリアが目を伏せる。その様子にクリスがそっと目を細める。
「素直な方なんですね。女性でも力ある者は、表舞台に立てば相応の活躍ができます。それは確かと、僕が保証しますよ。でも、道は整えて行うべきでしょう。ただ、やみくもに進めばどんな良策も皺寄せが来ます」
「皺寄せですか?」
できれば、ジュリアみたいに夢を諦める人は減って欲しい。そう思う私と、同じ様に誰かにも夢を追って欲しいジュリアがクリスを見つめる。
「本来にはない状況が、『魔女』の始まりの切っ掛けでもありました。身分の低い宮廷魔術士の女性は、出会う筈のない第三王子と恋に落ちた。二人の願いが何だったのか。本当の事は今はもう分かりません。ただ、第三王子は王位を望み。宮廷魔術師の女は力を得て『魔女』となった」
馬車の中が水を打ったかのように静まり返って、荒い道を行く馬車の車輪の音だけが響く。
出会う筈のない二人。身分の壁。宮廷魔術師の女と第三王子は、結ばれる事を反対されたのかもしれない。そこから、反発が起こり諍いが重なり、王位簒奪まで行きついた。
愛する男の王位簒奪を成す為に、宮廷魔術師の女性は『魔女』となったのだろうか?
クリスは私達に魔術について尋ねた。『魔女』の恐ろしい力は、魔術が元だったのだろうか?
でも、村で語られた恐ろしい程の力を、魔術で生み出せるとは思えない。恐ろしい程の力のある魔術は、見た事も聞いたこともないし、あったとしても途方もない人数の魔力が必要なのは明白だ。
例え宮廷魔術師であっても、一人で自由に扱えるなんてあり得ない。
この疑問をクリスにぶつけたい。でも、どう尋ねたらいい?
魔術が禁忌である以上、その力の詳細を私は知らない事になっている。
静寂をジュリアの怒声が破る。
「何て事をなさったの! その状況を誰かが知れば、リーリア様に不利な噂が囁かれますわ!」
私の不利? ジュリアの言葉の意味に気づいてクリスを見る。
『グリージャ皇国の魔女』の状況は、当てはめようと思えば今の私の立場と良く嵌る。
セラフィン王国の正統な継承者は、一位のレナート王子。今の私は第二のデュリオ王子の婚約者。旧来の教会派が失速した今、力を持ち始めた旧国派は二人の王子の順位を覆す為にレナート王子の廃太子を望んでいる。
批判を受けたクリスが愛らしい顔に、老獪さを微かに滲ませて微笑む。
「ですから、その部分は伏せてお話をしたでしょう? 大丈夫です。『魔女』と謀反を起こした王族の関係は、グリージャ皇国でも詳しく知る者は少ないです。自国の歴史も知らない者が、他国の秘密を知る術はないでしょう」
「そんな事は分かりませんわ! 今日の話を聞いた誰かが、暴くかもしれませんもの!」
即座に否定したジュリアの剣幕に、クリスが肩を竦めて両手を上げる。
「未来は、確かに何が起こるか分からない。二百年前、宮廷魔術師だった『グリージャ皇国の魔女』にとって、魔法が生れた事は思いもよらない未来だった。魔術と魔法。一瞬の対峙では、速さのある魔法に利があるんです。『魔女』は魔法に倒れ、魔術は術者を失い塵となり、力を失った簒奪者は敗北した。これが二百年前の顛末です」
二百年前と今。魔術と魔法。『グリージャ皇国の魔女』と『セラフィン王国の魔女』。考え込んだ私の手を、身を乗り出したクリスが取る。
「未来に何かが起こった時は、いつでもグリージャ皇国へいらしてくださいね。村で言った言葉に、偽りはありません。かつて、セラフィン王国にしかない魔法が、僕の国の内乱を終える剣となりました。今度は、『聖女』の力で是非ご助力頂きたいものです」
クリスの求めた終幕は、『聖女』の力をグリージャ皇国へ持ち帰る事。
だとしたら、あの時に手を取らなくて良かった。愛らしく微笑むクリスにため息を吐くと、ジュリアが手刀でその手を叩き落とした。
「リーリア様に触らないで下さいませ。馬車は私の手の届く範囲、外では剣先が届く範囲にはお入りにならいで! クリス様を警戒対象ではなく、私は敵対対象とみなす事に致しますわ!」
「ジュリア、落ち着いて……」
宥めたけれど、珍しくジュリアは引かない。愛らしく頬を膨らませて、指を突きつける。
「お人好しの貴女は、嫌いじゃありませんわ。でも、この方の子供のような顔に騙されないで下さいませ! 中身は、とっても悪い大人ですのよ!」
クリスに騙されたらいけないのは、十分私も理解してる。
「ジュリア、あのね。心配は嬉しいし、クリス様が危ないのはよく分かってる。でも、この方は大使様ですから……」
真っ赤になって怒っていたジュリアが、冷静さを取り戻して失言に口を押さえる。視界の端では、クリスが儚げに自嘲する様な笑みを浮かべるのが見えた。見せた事のない胸が痛くなるような表情に驚く。
「クリス様、あの――」
「この外見は僕にとって武器です。でも、引け目でもあるんです。悪い大人と言われても、大人扱いなら嬉しい……そう思うぐらい大人になりたかった。――という事で、騎士殿の発言はお二人への貸しという事で収めて差し上げますね」
いつも通りの愛らしいけど底知れない笑顔を浮かべて、クリスが私とジュリアに貸しを強引に作る。
この場合だと貸しはジュリアだけだと思うのだが、私にまで付くのは何故だろう。理由を問いたいけれど、そんな余裕はなさそうだ。
頬を引き攣らせるジュリアが更なる怒りをぶつける前に、遠くに見え始めた白いシャンデラの街並みを指差す。
「シャンデラが見えてきましたよ! ほら、とても綺麗です」
ひときわ目立つ大きく荘厳な建物は、教会派の主要な教会の一つである大修道院。そこで本物の『聖女』であるソフィアが、巫女としての時間を過ごし、初めての奇跡を起こした。
そして、この美しい大修道院のある街でソフィアの母であるイレーネが命を散らした。
胸の中にある違和感。ソフィアの事をここで知ったら、その小さなしこりは解けて消えていくだろうか。
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