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後章
待ってください!
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謁見室を出ると、壁に凭れて待っていたデュリオ王子がすぐに駆けてきた。大きな手て私の両頬を包むと、ほぐすように揉み始める。
「大丈夫だったか? 何を言われた?」
「ひゃいじょぶれす。……。……。」
自由にならない口で「大丈夫」と答えて黙り込む。
あの会話をデュリオ王子に、どうやって切り出すべきなのだろう。母であるカミッラ正妃が、レナート王子の『廃太子』を求めている。知っていたとしても、知っていなかったとしても切り出しにくい。
デュリオ王子が私の頬を揉むのをやめて、深碧の瞳でじっと覗き込んでから従者を振り返る。
「エミリオ、リーリアと自室に戻る。先に行って温かいお茶を用意しておけ」
命じるデュリオ王子の声に、せわしない足音が遠くなっていく。再び私の方を向き直ったデュリオ王子が、厳しい眼差しを私に向ける。
「俺の部屋で話を聞く。話さないは無しだ。何があっても絶対に話させる」
迷うように小首を傾げると、おでこを指が強く弾く。
「……労わり合って隠し事をする為に、俺は側にいるんじゃない。そんな顔するぐらいなら、何でもいいから俺に頼れ。俺は――」
言いかけた言葉を止めて、乱暴にデュリオ王子が私の頭をくしゃくしゃに撫でる。頬がほんの少し赤い顔を見るなんて初めてだった。
同じ王宮の部屋でも、住む人が違えば雰囲気は随分と違う。
柔らかな浅黄色の壁とブラックウォルナットで統一された家具。レナート王子の部屋とは趣が異なる部屋は、デュリオ王子らしい柔らかな強さを感じた。
物珍しさにぐるりと見回すと、中央に置かれたソファーに長い足を投げ出して、デュリオ王子が私を手招く。駆け寄って少し間を開けて隣に座ると、続きを問う様にデュリオ王子が綺麗な顎を軽く上げる。
言いずらい気持ちは変わらない。でも、さっきの言葉が胸を過ぎって、素直に小さく頷く。
「カミッラ正妃が、レナート王子の『廃太子』を願い出るそうです。その布石として、討伐に聖女の同行を進言されました。ソフィア様とレナート王子が王都を出て、国王陛下代行をデュリオ王子が任される。デュリオ王子を王にする機運を高めるのだと思います。知っていましたか?」
赤味のある短い金髪を掻き上げて、デュリオ王子が忌々しげに舌打ちする。
「知らなかったが、『廃太子』を望む動きが出る事は予想してた。母……いや、旧国派にとって今は、俺を王にする絶好の機会だからな。だが、レナートが王位を望む限り、俺は王を望まない。父も同じだろう。母が言って来たら、動いても意味はないと伝える気でいた。まさか、先にお前に言うとはな……」
明言された変わらない姿勢に胸を撫で下ろす。でも、色々腑に落ちない事があって、直ぐに眉を顰める。
「何故、私に先に教えてたのでしょう? 私に教えてしまえば、デュリオ王子に伝わる。これでは、デュリオ王子に隠して動いた意味がなくなります」
知ったらデュリオ王子が邪魔をするから、カミッラ正妃は言わずに動いた。私からこうして伝われば、デュリオ王子は当然動く。これでは意味がないだろう。
「とことん狡いからだ」
長い足を組むと、肘をついてデュリオ王子がそっぽを向いてしまう。
「何が狡いんですか? 説明してください」
ソファーに手をついて身を乗り出すように尋ねる。
「昔から、俺はすぐ言葉や行動に移す。別の時に母から聞けば、間違いなくお前を連れて遠征する事を選んんだ筈だ。お前はきっと拒否しないから、聞く事もなくグレゴーリ公爵と直接交渉に出ただろう」
ゆっくりと振り返ったデュリオ王子が、乗り出した私の手を引いて抱き寄せる。
「側に居て顔を見てたら、危険を承知で連れて行くなど選べない。悔しいが、付け込まれたって事だ」
ほんの少し胸を押し返すようにして、腕の中からデュリオ王子の顔を見あげる。少しだけ困ったような顔を、こんな状況なのに一瞬愛しいと思ってしまう。
「でも、それは嫌ですよ。私を想ってくれるのは嬉しいですが、私をの所為でデュリオ王子が付け込まれるのは絶対に嫌です。弱みになる為に、私は側にいるのではありません」
何処かで聞いた言葉を言ってしまったと思った瞬間、デュリオ王子が私を強く抱きしめて笑いだす。
「俺の台詞の真似をするな。だが、お前は弱みになる女じゃない。それは間違いない」
楽し気にデュリオ王子が笑って、笑うたびに耳を吐息が擽る。くすぐったさに身をよじりながら、私も肩に顔を埋めて笑う。
私とデュリオ王子は昔から、似た者同士の所がある。後ろに下がるよりも前へ、止まってるなんて選択ができない。
同じ事を願って、同じ方へと進む。それはとても心強くて、居心地が良い。
ひとしきり笑って体を離すと、デュリオ王子がお日様みたいな明るい笑顔を見せる。
「リーリア。聖女として遠征に同行する気があるなら、俺に魔術を今すぐ教えろ」
「魔術をですか? 教える事はできますが、国の禁忌ですよ? 王子が率先して破って良いのですか?」
デュリオ王子が唇の端を上げて、悪戯っ子のように白い歯を零す。こういう笑顔をする時は、国の決まりだってデュリオ王子には通じない。
「構わん。俺とお前だけの話だ。俺が魔術を知っていれば、今後のお前の負担は軽くなる。違うか?」
魔術は奇跡じゃないから、私一人では出来る事に限界がある。ずば抜けて魔力の高いデュリオ王子が、手伝ってくれたら出来る事はずっと増える。
「わかりました。禁忌なので全て口頭で教える事になります。少し時間が掛かると思いますが、頑張って覚えて下さいね」
「ああ、早速今から始めろ」
頷くとドレスの膝の上に一度手を置いて、開いて握るを繰り返しながら魔力が体の中を循環していく感覚を試す。
魔術を人に教えるのは、私にとってこれが初めてだ。魔法と魔術では、魔力の使い方から違う。
「魔法は魔力を外に出して融合させますが、魔術は外に出しません。内側に残したまま使います。まず、魔力を体の中で循環させて見て下さい、よく巡るのが分かったら指先を中心と思って少し多めに集めて下さい」
軽く頷いて、デュリオ王子が僅かに目を伏せる。暫くすると、ほんの少し首を捻って目を閉じる。
内側と外側。言葉だと簡単に感じるけれど、これが案外難しい。私は最初に習得した魔術なら息をするように使えるけれど、後から覚えた魔法は今も外に出す事が上手く制御できない。
デュリオ王子の握った拳が、一定間隔で僅かにだけど緩むと握るを繰り返し始める。デュリオ王子はやっぱり感がいい。魔力を体の中で循環させていると、皆こういう動きがしたくなるのだ。
邪魔をする訳には行かないから、息をひそめてじっと待つ。動く事も気が引けるから、周囲を見て時間を潰す。家具、小物、テーブルの上のティーセット。一つ一つ眺めて、最後に視線がデュリオ王子の横顔で止まる。
赤の混じった金色の眉。真っ直ぐで意思と気の強い性格をよく表していると思う。
その眉と睫毛の色はやっぱり同じ色をしている。深碧の瞳にばかり見てしまうけど、とても長くて綺麗だった。鼻筋も彫刻みたいな陰影を描いていて綺麗で、目を閉じていると精悍さよりも気品が強く出る。
普段は恥ずかしくなってしまうから、こんな風に顔をしっかり見るのは案外初めてかもしれない。
引き締まった肌と赤い唇。触れたら見るよりもずっと柔らかい。
攫うって言われて、今こうして婚約者として一緒にいる。当然、特別な関係だから、いつか唇を重ねる日が来るのかもしれない。触れてみたい?
一瞬で、火が付いたみたいに顔が赤くなっていく。
はしたない? 恥ずかしい? どうしよう?
デュリオ王子が目を開ける前に元に戻したくて頬を抑えると、ゆっくりと深碧の瞳が開いた。
「部屋が暑いのか?」
「熱いです! とっても! でも、気にしなくていいです。それよりも、できましたか?」
デュリオ王子が頷くのを確認して、私は指先で空に一つ赤く輝く線を引く。少しだけ震えているのは、口づけを想像した赤い顔を見せた恥ずかしさの所為だ。
僅かの時間をおいて線が空中で弾けたのを確認して、平静を装った顔でデュリオ王子を見る。
「集中させた指先で、魔力で線を書けます。外に出して融合するのではなく、自然にある魔力に乗せると言うか上書きする感じです。イメージは指先がペンで、魔力がインク、書く場所にある魔力が紙です」
デュリオ王子が指先を上げる。私と同じ様に横へと動かすと、たった一度で鮮やかな緑の線が引かれた。
「狡い! こんな事も、デュリオ王子は狡いです! 一回でできるなんて反則です。私は未だに魔法が下手なのに……」
緑の魔力が弾けた向うで、デュリオ王子が子供みたいに得意げな表情を浮かべる。
「知っているか? セラフィン王家が、魔法を編み出したんだ。王家は元々魔力の扱いには長けてると、喧伝こそしないが密かに代々自負してる」
そういえば、今の国王陛下も魔力はかなり高い。レナート王子もデュリオ王子も、魔法は小さい頃から大人顔負けだった。あっという間に抜かされそうな予感に溜め息をつく。
「では、次は基本の練習です。今から魔力で文字を一つ書きます。真似をして下さい」
空に古代文字の一つを書く。それ程難しく無いけど、基本の書き方がこの文字には全て詰まってる。
デュリオ王子が早速、私の真似をする。初回にしてはかなり上手い。だけど、やっぱりまだまだだ。
「デュリオ王子、点が力み過ぎです。魔術は一定にして下さい。今後、術の種類によって使う魔力量を変える必要があります。暫くは、色々な量でその文字を安定して書けるように練習を積んで下さい。慣れてからら実際の述に挑戦しましょう」
先行者の威厳を見せて告げると、不満そうにデュリオ王子が空に何度か文字を書く。瞬く間に上達していく様に息をのむ。
「今すぐ教えろ」
「駄目です。上達が早いのは認めますが、この基本はすごく大事です。今日の実技はここまでです。後は座学で我慢して下さい」
言って簡単な術を空に書いて、手早く手のひらにもう一つ術を書く。魔力を流すと僅かに水の香りが漂って、弾けるような小さな音が続く。
「今のは、水の術の一つです。空に書いたのは受けの術。私は『器』と呼びます。手に書いたのは送りの術。『送り』と略す事があります。魔術は二つの術が必要で、『器』に『送り』から魔力を送って使います」
短く相槌をうってから、言葉を遮る様にデュリオ王子が手首を軽く上げる。
「処刑の時は、お前の手に『送り』があって、木材の中に『器』があった。魔力封じの枷があったが、体中で使うから影響を受けなかった。そう言う理解でいいか?」
流石に理解も早いと思いながら頷くと、一瞬デュリオ王子が眉をひそめる。
「何時、『器』を書いた? 囚われた地下牢から部屋を移ってから、一度も外に出ていない筈だ」
慌てて手を振って、首も振る。レナート王子と『心』が入れ替わっていた事は言いづらい。
内容が内容だけに、信じて貰えないという不安も流石にあるし、レナート王子としてずっと隠して行動していたから今更と思う。
デュリオ王子に詰め寄られて胸倉をつかまれた事、レナート王子が『私』だった事を話すのも抵抗がある。
「……偶然! 少し触れる機会が色々あったんです。それよりも座学です。あれは、『遠隔術』と言います。規程の量を魔力で満たせば、離れていても発動できます。『近接術』と言うのもあるのですが、こちらは少し癖があるので『遠隔術』の後に教えますね」
突然、デュリオが私が書いた術を真似て空に魔力で術を書く。
教えるより先に、勝手に無茶をするこの性格は本当に困る。頬を膨らませて抗議の意思をはっきり示すと、自分の手に送りの術を書いて魔術を発動して打ち消す。漂う水の香りに、デュリオ王子が驚いた様に瞳を瞬く。
「魔力を送るのは本人でなくてもいいんだな」
「はい。『遠隔』以上の、大きな魔術の利点です。複数の人で一つの『器』に魔力を送る。一人ではできない大きな事も可能になります」
悪戯少年の眼差しで、デュリオ王子が私に手を伸ばす。危険を感じ取って慌ててその手首を、両手でしっかりと捕まえる。
「私の顔に落書きなんていけませんよ! それ、アルトゥリアの悪戯っ子が、一度はやって泣くまで怒られるやつです! 魔術には悪い部分もあります。空に書いた線が消えるのは、魔術を消費して耐えられずに弾けるんです」
ぴたりと手を止めて、デュリオ王子が肩を竦めて悪戯がわりに頬を撫でる。
「この線は存在するのに、魔力を消費するのか。アルトゥリアの悪戯っ子が書いたら、どうやって消す?」
「書いた人が自ら触れて、吸収すれば消えます。でも、消さなければ書いた人が死ぬまで残り続けて、維持の為の魔力消費が続きます。だから、『送り』は必ず自分で書きます。あと、『器』は人に書いては駄目です。『器』は術で強化して本来以上の魔力を蓄えますから、発動したら『器』になったものが壊れます」
これは、魔力を習う時に一番最初にきつく教えられる事だ。
腕を組んで考え込んだデュリオ王子が、ポケットからハンカチを取り出して術式を再び書く。やれというような視線を受けて、ため息を吐いてから睨む。
「濡れますよ? 書くのはこれを最後にして下さいね」
『送り』の術を書いて魔力を流し込むと、術が一瞬光ってコップ一杯程の水が溢れる。同時にハンカチは塵のようになって、空中に霧散した。
濡れた足元の床を見つめてデュリオ王子が、厳しい顔で私を見る。
「遠隔使用が出来て複数人でより大きな力が得られるが、『器』になる品は二度と戻らない。当然、規模が大きい程『器』には大きな魔力が必要になるんだな?」
木や土や宝石。自然の品は、比較的魔力を多く含む。それでも、処刑の時の木材程度では維持も考えると、水を出す単純な魔術が限界だった。
「はい。大きな魔術は魔力を多く含む大地か、貴重な魔石を使います。でも、使えば大地はやせ細ってしまうし、代わりになる魔石は入手が難しい。大きな魔術は準備が難しいんです。しかも、準備の段階で急襲されたら、対抗する術が殆どありません。考えてみると、弱点を補う為に魔法が生まれた気がしませんか?」
デュリオ生王子が小さく指を振ると、私の髪が柔らかな風に揺れる。魔法はほんの一瞬で直感的に、こうして利用できる。使える規模は個人の魔力による部分も大きいけれど、中途半端な術よりずっと使い勝手がいい。
「いずれ禁忌書架から魔術の本を探して試したかったが、簡単には無理そうだな」
今日一番怖い顔を作って、身を乗り出してデュリオ王子を睨む。
「絶対に、絶対にいけません!! 魔術は複数で使う事が前提だから、個人の魔力に対して制限がありません。魔法は、体が限界を訴えれば魔力の融合ができないけど、魔術は身体の限界を越えて魔力を送り続けられるんです。限界を超えた魔力供給は、人形みたいに動かなくなって元に戻らなくなります」
私の頭を宥めるように撫でて、デュリオ王子が天井を仰ぐ。
「諸刃の剣だな。条件さえ揃えば効果が高い。だが、中途半端な知識では危険。万人が扱えるものじゃない。禁忌にするのは当然の判断か」
その言葉に何度も頷くと、優しい笑顔が返ってくる。
もう無茶はしないと思うけど、最後にもう一度念押ししておく。
「絶対に、今は文字を書く練習だけにして下さい。今後、安全なものから徐々に教えて差し上げます。どうか、私に魔術を教えた事を後悔させないで下さい」
「分かった。リーリアが言う通り、文字の練習だけしておく」
一つ、安堵のため息を落としてから、他に言う事はないかと、髪を指に絡ませてくるりと回す。
大きな手が手首を掴んで、私の手を無理矢理止める。
「その癖……。もう、やめろ」
「癖ですか?」
髪を巻きつけた指を見て、見上げたデュリオ王子の顔は傷ついた少年のようだった。
既視感のある状況に、同じ事があったのはいつだろうと考える。とても最近の事だと感じるけど、思い当たる機会が見つからない。
手首を取った手に、僅かだけど力が籠る。
「あいつが同じ事を、当たり前みたいにしてた。俺のいなかった時間を思い知らされて、嫉妬したくなる」
重なった記憶に僅かに目を見開く。
レナート王子だった私が、デュリオ王子に詰め寄られた日。あの時も、レナート王子だった私が髪を弄ったら、デュリオ王子は無理矢理手を掴んで止めた。
そして、「真似を見たい気分じゃない」「仕草が移るほど側にいて」と同じ眼差しでレナート王子の私に怒っていた。
あれは、私でレナート王子じゃない。でも、それをデュリオ王子が知る事はない。
長くて器用そうな指が私の顎をそっととらえて、顔がゆっくりと近づく。
「リーリア、お前は俺に攫われたんだ」
また、デュリオ王子の熱のある眼差しと言葉に、心が激しく揺さぶられる。
間違いなく今のデュリオ王子は私を好きで、私もきっとデュリオ王子が好き。お母様は「一番好きな人と、恋をして結ばれなさい」と私に言った。攫うと言った言葉に、このまま攫われてしまってもいい筈だ。
ゆっくりと目を閉じて、長かった初恋が実るのを待つ。
互いの髪が触れて、吐息が混ざる。唇が唇の熱を感じるまで僅かという瞬間、縋った紫色の眼差しが頭を過ぎった。
「っ、まだ……まだ、待って下さいっ」
咄嗟に顔を背けると、深碧の瞳が傷ついたのを隠すように一度強く閉じられる。
傷つけるつもりなんてかったし、口づけを拒みたかったわけじゃなかった。
ただ、縋る眼差しを向けた人が望んで、導かれるかのように今がある。そう思ってしまったら、デュリオ王子と結ばれる事が、レナート王子を置いて行く事のような気がした。
「デュリオ王子。あの、私。口づけが嫌な訳ではないんです。攫われたくない訳でもないんです。ただ、気持ちの整理がつかなくて……。あと少し、もう少しだけ、待って貰えませんか?」
ゆっくりと瞼を開けて、デュリオ王子の瞳が私の心の奥底を覗くように見つめる。
「忘れられないのか、レナートの事が?」
「違います。きっと、違う。ただ、レナート王子を置いていく様で怖いんです」
戸惑う様に瞳を揺らして、デュリオ王子が私の頬に包むように優しく触れる。頬を預けると熱い指先が優しく撫でる。
「あの日、外苑にいたら俺を選んだか?」
「……選びました。だって、貴方は私の初恋だから、攫って欲しいと願ってたんです」
口にした瞬間に、あの頃の思いが溢れて一粒の涙になった。あの頃も今も、私の胸はデュリオ王子の存在に揺らされ続けてる。それは間違いのに、踏み出せない。
私の指先にそっとデュリオ王子の指先が重なって、過去を手繰り寄せるように少しずつ指を絡める。
「レナートを置いてく真似は俺も望まない。一度、お前を待たせた。だから、今度は俺が待つ。でも、二度と譲らない」
返事の代わりに絡めた指を強く握る。
今すぐには答えられない。 我儘なのは分かっている。だけど、もうこの手を離さないで欲しい。
デュリオ王子が苦し気に微笑むと、そっと耳に唇を寄せる。
「好きだ。もう、ずっと前から好きだった」
「私は――」
答えるよりも先に、私の髪を少し乱暴に掻き上げて、額にデュリオ王子が唇を落とす。
「お前が好きというまで、唇には触れない。でも、他は待たない」
一粒の涙の痕が残る頬に唇が触れて、小さく音を立てる。
嫌じゃない。心地よくて、やっぱり嬉しい。
小さく頷くと確かめるように、反対の頬にも同じ様に唇が落ちる。
「早く整理をつけて、全て俺に攫われろ」
ささやかれた言葉に、頷く代わりにゆっくりとその肩に額を乗せる
今のままでは、このままでは……デュリオ王子に攫われて幸せになる事を私は選べない。
「大丈夫だったか? 何を言われた?」
「ひゃいじょぶれす。……。……。」
自由にならない口で「大丈夫」と答えて黙り込む。
あの会話をデュリオ王子に、どうやって切り出すべきなのだろう。母であるカミッラ正妃が、レナート王子の『廃太子』を求めている。知っていたとしても、知っていなかったとしても切り出しにくい。
デュリオ王子が私の頬を揉むのをやめて、深碧の瞳でじっと覗き込んでから従者を振り返る。
「エミリオ、リーリアと自室に戻る。先に行って温かいお茶を用意しておけ」
命じるデュリオ王子の声に、せわしない足音が遠くなっていく。再び私の方を向き直ったデュリオ王子が、厳しい眼差しを私に向ける。
「俺の部屋で話を聞く。話さないは無しだ。何があっても絶対に話させる」
迷うように小首を傾げると、おでこを指が強く弾く。
「……労わり合って隠し事をする為に、俺は側にいるんじゃない。そんな顔するぐらいなら、何でもいいから俺に頼れ。俺は――」
言いかけた言葉を止めて、乱暴にデュリオ王子が私の頭をくしゃくしゃに撫でる。頬がほんの少し赤い顔を見るなんて初めてだった。
同じ王宮の部屋でも、住む人が違えば雰囲気は随分と違う。
柔らかな浅黄色の壁とブラックウォルナットで統一された家具。レナート王子の部屋とは趣が異なる部屋は、デュリオ王子らしい柔らかな強さを感じた。
物珍しさにぐるりと見回すと、中央に置かれたソファーに長い足を投げ出して、デュリオ王子が私を手招く。駆け寄って少し間を開けて隣に座ると、続きを問う様にデュリオ王子が綺麗な顎を軽く上げる。
言いずらい気持ちは変わらない。でも、さっきの言葉が胸を過ぎって、素直に小さく頷く。
「カミッラ正妃が、レナート王子の『廃太子』を願い出るそうです。その布石として、討伐に聖女の同行を進言されました。ソフィア様とレナート王子が王都を出て、国王陛下代行をデュリオ王子が任される。デュリオ王子を王にする機運を高めるのだと思います。知っていましたか?」
赤味のある短い金髪を掻き上げて、デュリオ王子が忌々しげに舌打ちする。
「知らなかったが、『廃太子』を望む動きが出る事は予想してた。母……いや、旧国派にとって今は、俺を王にする絶好の機会だからな。だが、レナートが王位を望む限り、俺は王を望まない。父も同じだろう。母が言って来たら、動いても意味はないと伝える気でいた。まさか、先にお前に言うとはな……」
明言された変わらない姿勢に胸を撫で下ろす。でも、色々腑に落ちない事があって、直ぐに眉を顰める。
「何故、私に先に教えてたのでしょう? 私に教えてしまえば、デュリオ王子に伝わる。これでは、デュリオ王子に隠して動いた意味がなくなります」
知ったらデュリオ王子が邪魔をするから、カミッラ正妃は言わずに動いた。私からこうして伝われば、デュリオ王子は当然動く。これでは意味がないだろう。
「とことん狡いからだ」
長い足を組むと、肘をついてデュリオ王子がそっぽを向いてしまう。
「何が狡いんですか? 説明してください」
ソファーに手をついて身を乗り出すように尋ねる。
「昔から、俺はすぐ言葉や行動に移す。別の時に母から聞けば、間違いなくお前を連れて遠征する事を選んんだ筈だ。お前はきっと拒否しないから、聞く事もなくグレゴーリ公爵と直接交渉に出ただろう」
ゆっくりと振り返ったデュリオ王子が、乗り出した私の手を引いて抱き寄せる。
「側に居て顔を見てたら、危険を承知で連れて行くなど選べない。悔しいが、付け込まれたって事だ」
ほんの少し胸を押し返すようにして、腕の中からデュリオ王子の顔を見あげる。少しだけ困ったような顔を、こんな状況なのに一瞬愛しいと思ってしまう。
「でも、それは嫌ですよ。私を想ってくれるのは嬉しいですが、私をの所為でデュリオ王子が付け込まれるのは絶対に嫌です。弱みになる為に、私は側にいるのではありません」
何処かで聞いた言葉を言ってしまったと思った瞬間、デュリオ王子が私を強く抱きしめて笑いだす。
「俺の台詞の真似をするな。だが、お前は弱みになる女じゃない。それは間違いない」
楽し気にデュリオ王子が笑って、笑うたびに耳を吐息が擽る。くすぐったさに身をよじりながら、私も肩に顔を埋めて笑う。
私とデュリオ王子は昔から、似た者同士の所がある。後ろに下がるよりも前へ、止まってるなんて選択ができない。
同じ事を願って、同じ方へと進む。それはとても心強くて、居心地が良い。
ひとしきり笑って体を離すと、デュリオ王子がお日様みたいな明るい笑顔を見せる。
「リーリア。聖女として遠征に同行する気があるなら、俺に魔術を今すぐ教えろ」
「魔術をですか? 教える事はできますが、国の禁忌ですよ? 王子が率先して破って良いのですか?」
デュリオ王子が唇の端を上げて、悪戯っ子のように白い歯を零す。こういう笑顔をする時は、国の決まりだってデュリオ王子には通じない。
「構わん。俺とお前だけの話だ。俺が魔術を知っていれば、今後のお前の負担は軽くなる。違うか?」
魔術は奇跡じゃないから、私一人では出来る事に限界がある。ずば抜けて魔力の高いデュリオ王子が、手伝ってくれたら出来る事はずっと増える。
「わかりました。禁忌なので全て口頭で教える事になります。少し時間が掛かると思いますが、頑張って覚えて下さいね」
「ああ、早速今から始めろ」
頷くとドレスの膝の上に一度手を置いて、開いて握るを繰り返しながら魔力が体の中を循環していく感覚を試す。
魔術を人に教えるのは、私にとってこれが初めてだ。魔法と魔術では、魔力の使い方から違う。
「魔法は魔力を外に出して融合させますが、魔術は外に出しません。内側に残したまま使います。まず、魔力を体の中で循環させて見て下さい、よく巡るのが分かったら指先を中心と思って少し多めに集めて下さい」
軽く頷いて、デュリオ王子が僅かに目を伏せる。暫くすると、ほんの少し首を捻って目を閉じる。
内側と外側。言葉だと簡単に感じるけれど、これが案外難しい。私は最初に習得した魔術なら息をするように使えるけれど、後から覚えた魔法は今も外に出す事が上手く制御できない。
デュリオ王子の握った拳が、一定間隔で僅かにだけど緩むと握るを繰り返し始める。デュリオ王子はやっぱり感がいい。魔力を体の中で循環させていると、皆こういう動きがしたくなるのだ。
邪魔をする訳には行かないから、息をひそめてじっと待つ。動く事も気が引けるから、周囲を見て時間を潰す。家具、小物、テーブルの上のティーセット。一つ一つ眺めて、最後に視線がデュリオ王子の横顔で止まる。
赤の混じった金色の眉。真っ直ぐで意思と気の強い性格をよく表していると思う。
その眉と睫毛の色はやっぱり同じ色をしている。深碧の瞳にばかり見てしまうけど、とても長くて綺麗だった。鼻筋も彫刻みたいな陰影を描いていて綺麗で、目を閉じていると精悍さよりも気品が強く出る。
普段は恥ずかしくなってしまうから、こんな風に顔をしっかり見るのは案外初めてかもしれない。
引き締まった肌と赤い唇。触れたら見るよりもずっと柔らかい。
攫うって言われて、今こうして婚約者として一緒にいる。当然、特別な関係だから、いつか唇を重ねる日が来るのかもしれない。触れてみたい?
一瞬で、火が付いたみたいに顔が赤くなっていく。
はしたない? 恥ずかしい? どうしよう?
デュリオ王子が目を開ける前に元に戻したくて頬を抑えると、ゆっくりと深碧の瞳が開いた。
「部屋が暑いのか?」
「熱いです! とっても! でも、気にしなくていいです。それよりも、できましたか?」
デュリオ王子が頷くのを確認して、私は指先で空に一つ赤く輝く線を引く。少しだけ震えているのは、口づけを想像した赤い顔を見せた恥ずかしさの所為だ。
僅かの時間をおいて線が空中で弾けたのを確認して、平静を装った顔でデュリオ王子を見る。
「集中させた指先で、魔力で線を書けます。外に出して融合するのではなく、自然にある魔力に乗せると言うか上書きする感じです。イメージは指先がペンで、魔力がインク、書く場所にある魔力が紙です」
デュリオ王子が指先を上げる。私と同じ様に横へと動かすと、たった一度で鮮やかな緑の線が引かれた。
「狡い! こんな事も、デュリオ王子は狡いです! 一回でできるなんて反則です。私は未だに魔法が下手なのに……」
緑の魔力が弾けた向うで、デュリオ王子が子供みたいに得意げな表情を浮かべる。
「知っているか? セラフィン王家が、魔法を編み出したんだ。王家は元々魔力の扱いには長けてると、喧伝こそしないが密かに代々自負してる」
そういえば、今の国王陛下も魔力はかなり高い。レナート王子もデュリオ王子も、魔法は小さい頃から大人顔負けだった。あっという間に抜かされそうな予感に溜め息をつく。
「では、次は基本の練習です。今から魔力で文字を一つ書きます。真似をして下さい」
空に古代文字の一つを書く。それ程難しく無いけど、基本の書き方がこの文字には全て詰まってる。
デュリオ王子が早速、私の真似をする。初回にしてはかなり上手い。だけど、やっぱりまだまだだ。
「デュリオ王子、点が力み過ぎです。魔術は一定にして下さい。今後、術の種類によって使う魔力量を変える必要があります。暫くは、色々な量でその文字を安定して書けるように練習を積んで下さい。慣れてからら実際の述に挑戦しましょう」
先行者の威厳を見せて告げると、不満そうにデュリオ王子が空に何度か文字を書く。瞬く間に上達していく様に息をのむ。
「今すぐ教えろ」
「駄目です。上達が早いのは認めますが、この基本はすごく大事です。今日の実技はここまでです。後は座学で我慢して下さい」
言って簡単な術を空に書いて、手早く手のひらにもう一つ術を書く。魔力を流すと僅かに水の香りが漂って、弾けるような小さな音が続く。
「今のは、水の術の一つです。空に書いたのは受けの術。私は『器』と呼びます。手に書いたのは送りの術。『送り』と略す事があります。魔術は二つの術が必要で、『器』に『送り』から魔力を送って使います」
短く相槌をうってから、言葉を遮る様にデュリオ王子が手首を軽く上げる。
「処刑の時は、お前の手に『送り』があって、木材の中に『器』があった。魔力封じの枷があったが、体中で使うから影響を受けなかった。そう言う理解でいいか?」
流石に理解も早いと思いながら頷くと、一瞬デュリオ王子が眉をひそめる。
「何時、『器』を書いた? 囚われた地下牢から部屋を移ってから、一度も外に出ていない筈だ」
慌てて手を振って、首も振る。レナート王子と『心』が入れ替わっていた事は言いづらい。
内容が内容だけに、信じて貰えないという不安も流石にあるし、レナート王子としてずっと隠して行動していたから今更と思う。
デュリオ王子に詰め寄られて胸倉をつかまれた事、レナート王子が『私』だった事を話すのも抵抗がある。
「……偶然! 少し触れる機会が色々あったんです。それよりも座学です。あれは、『遠隔術』と言います。規程の量を魔力で満たせば、離れていても発動できます。『近接術』と言うのもあるのですが、こちらは少し癖があるので『遠隔術』の後に教えますね」
突然、デュリオが私が書いた術を真似て空に魔力で術を書く。
教えるより先に、勝手に無茶をするこの性格は本当に困る。頬を膨らませて抗議の意思をはっきり示すと、自分の手に送りの術を書いて魔術を発動して打ち消す。漂う水の香りに、デュリオ王子が驚いた様に瞳を瞬く。
「魔力を送るのは本人でなくてもいいんだな」
「はい。『遠隔』以上の、大きな魔術の利点です。複数の人で一つの『器』に魔力を送る。一人ではできない大きな事も可能になります」
悪戯少年の眼差しで、デュリオ王子が私に手を伸ばす。危険を感じ取って慌ててその手首を、両手でしっかりと捕まえる。
「私の顔に落書きなんていけませんよ! それ、アルトゥリアの悪戯っ子が、一度はやって泣くまで怒られるやつです! 魔術には悪い部分もあります。空に書いた線が消えるのは、魔術を消費して耐えられずに弾けるんです」
ぴたりと手を止めて、デュリオ王子が肩を竦めて悪戯がわりに頬を撫でる。
「この線は存在するのに、魔力を消費するのか。アルトゥリアの悪戯っ子が書いたら、どうやって消す?」
「書いた人が自ら触れて、吸収すれば消えます。でも、消さなければ書いた人が死ぬまで残り続けて、維持の為の魔力消費が続きます。だから、『送り』は必ず自分で書きます。あと、『器』は人に書いては駄目です。『器』は術で強化して本来以上の魔力を蓄えますから、発動したら『器』になったものが壊れます」
これは、魔力を習う時に一番最初にきつく教えられる事だ。
腕を組んで考え込んだデュリオ王子が、ポケットからハンカチを取り出して術式を再び書く。やれというような視線を受けて、ため息を吐いてから睨む。
「濡れますよ? 書くのはこれを最後にして下さいね」
『送り』の術を書いて魔力を流し込むと、術が一瞬光ってコップ一杯程の水が溢れる。同時にハンカチは塵のようになって、空中に霧散した。
濡れた足元の床を見つめてデュリオ王子が、厳しい顔で私を見る。
「遠隔使用が出来て複数人でより大きな力が得られるが、『器』になる品は二度と戻らない。当然、規模が大きい程『器』には大きな魔力が必要になるんだな?」
木や土や宝石。自然の品は、比較的魔力を多く含む。それでも、処刑の時の木材程度では維持も考えると、水を出す単純な魔術が限界だった。
「はい。大きな魔術は魔力を多く含む大地か、貴重な魔石を使います。でも、使えば大地はやせ細ってしまうし、代わりになる魔石は入手が難しい。大きな魔術は準備が難しいんです。しかも、準備の段階で急襲されたら、対抗する術が殆どありません。考えてみると、弱点を補う為に魔法が生まれた気がしませんか?」
デュリオ生王子が小さく指を振ると、私の髪が柔らかな風に揺れる。魔法はほんの一瞬で直感的に、こうして利用できる。使える規模は個人の魔力による部分も大きいけれど、中途半端な術よりずっと使い勝手がいい。
「いずれ禁忌書架から魔術の本を探して試したかったが、簡単には無理そうだな」
今日一番怖い顔を作って、身を乗り出してデュリオ王子を睨む。
「絶対に、絶対にいけません!! 魔術は複数で使う事が前提だから、個人の魔力に対して制限がありません。魔法は、体が限界を訴えれば魔力の融合ができないけど、魔術は身体の限界を越えて魔力を送り続けられるんです。限界を超えた魔力供給は、人形みたいに動かなくなって元に戻らなくなります」
私の頭を宥めるように撫でて、デュリオ王子が天井を仰ぐ。
「諸刃の剣だな。条件さえ揃えば効果が高い。だが、中途半端な知識では危険。万人が扱えるものじゃない。禁忌にするのは当然の判断か」
その言葉に何度も頷くと、優しい笑顔が返ってくる。
もう無茶はしないと思うけど、最後にもう一度念押ししておく。
「絶対に、今は文字を書く練習だけにして下さい。今後、安全なものから徐々に教えて差し上げます。どうか、私に魔術を教えた事を後悔させないで下さい」
「分かった。リーリアが言う通り、文字の練習だけしておく」
一つ、安堵のため息を落としてから、他に言う事はないかと、髪を指に絡ませてくるりと回す。
大きな手が手首を掴んで、私の手を無理矢理止める。
「その癖……。もう、やめろ」
「癖ですか?」
髪を巻きつけた指を見て、見上げたデュリオ王子の顔は傷ついた少年のようだった。
既視感のある状況に、同じ事があったのはいつだろうと考える。とても最近の事だと感じるけど、思い当たる機会が見つからない。
手首を取った手に、僅かだけど力が籠る。
「あいつが同じ事を、当たり前みたいにしてた。俺のいなかった時間を思い知らされて、嫉妬したくなる」
重なった記憶に僅かに目を見開く。
レナート王子だった私が、デュリオ王子に詰め寄られた日。あの時も、レナート王子だった私が髪を弄ったら、デュリオ王子は無理矢理手を掴んで止めた。
そして、「真似を見たい気分じゃない」「仕草が移るほど側にいて」と同じ眼差しでレナート王子の私に怒っていた。
あれは、私でレナート王子じゃない。でも、それをデュリオ王子が知る事はない。
長くて器用そうな指が私の顎をそっととらえて、顔がゆっくりと近づく。
「リーリア、お前は俺に攫われたんだ」
また、デュリオ王子の熱のある眼差しと言葉に、心が激しく揺さぶられる。
間違いなく今のデュリオ王子は私を好きで、私もきっとデュリオ王子が好き。お母様は「一番好きな人と、恋をして結ばれなさい」と私に言った。攫うと言った言葉に、このまま攫われてしまってもいい筈だ。
ゆっくりと目を閉じて、長かった初恋が実るのを待つ。
互いの髪が触れて、吐息が混ざる。唇が唇の熱を感じるまで僅かという瞬間、縋った紫色の眼差しが頭を過ぎった。
「っ、まだ……まだ、待って下さいっ」
咄嗟に顔を背けると、深碧の瞳が傷ついたのを隠すように一度強く閉じられる。
傷つけるつもりなんてかったし、口づけを拒みたかったわけじゃなかった。
ただ、縋る眼差しを向けた人が望んで、導かれるかのように今がある。そう思ってしまったら、デュリオ王子と結ばれる事が、レナート王子を置いて行く事のような気がした。
「デュリオ王子。あの、私。口づけが嫌な訳ではないんです。攫われたくない訳でもないんです。ただ、気持ちの整理がつかなくて……。あと少し、もう少しだけ、待って貰えませんか?」
ゆっくりと瞼を開けて、デュリオ王子の瞳が私の心の奥底を覗くように見つめる。
「忘れられないのか、レナートの事が?」
「違います。きっと、違う。ただ、レナート王子を置いていく様で怖いんです」
戸惑う様に瞳を揺らして、デュリオ王子が私の頬に包むように優しく触れる。頬を預けると熱い指先が優しく撫でる。
「あの日、外苑にいたら俺を選んだか?」
「……選びました。だって、貴方は私の初恋だから、攫って欲しいと願ってたんです」
口にした瞬間に、あの頃の思いが溢れて一粒の涙になった。あの頃も今も、私の胸はデュリオ王子の存在に揺らされ続けてる。それは間違いのに、踏み出せない。
私の指先にそっとデュリオ王子の指先が重なって、過去を手繰り寄せるように少しずつ指を絡める。
「レナートを置いてく真似は俺も望まない。一度、お前を待たせた。だから、今度は俺が待つ。でも、二度と譲らない」
返事の代わりに絡めた指を強く握る。
今すぐには答えられない。 我儘なのは分かっている。だけど、もうこの手を離さないで欲しい。
デュリオ王子が苦し気に微笑むと、そっと耳に唇を寄せる。
「好きだ。もう、ずっと前から好きだった」
「私は――」
答えるよりも先に、私の髪を少し乱暴に掻き上げて、額にデュリオ王子が唇を落とす。
「お前が好きというまで、唇には触れない。でも、他は待たない」
一粒の涙の痕が残る頬に唇が触れて、小さく音を立てる。
嫌じゃない。心地よくて、やっぱり嬉しい。
小さく頷くと確かめるように、反対の頬にも同じ様に唇が落ちる。
「早く整理をつけて、全て俺に攫われろ」
ささやかれた言葉に、頷く代わりにゆっくりとその肩に額を乗せる
今のままでは、このままでは……デュリオ王子に攫われて幸せになる事を私は選べない。
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