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群馬は草津の垢嘗退治

女湯にて

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 廊下に出ると相変わらず不穏な空気を感じる。旅館全体に垢嘗の気配が漂うせいで、常に見られているような気持ち悪さがあった。

 そんな粘つく不快感に寒気を感じながら温泉を目指して歩くと、どんどんと垢嘗の残穢が濃くなっていく。

 そしてたどり着いた女湯の暖簾のれん。白地に女と書かれた真ん中の裂け目からは、可視化するほどに濃い瘴気が漏れ出していた。

「美憂は平気そうですわね。わたくしはほんの少し気分が悪くなってきましたわ」

「大丈夫? ここから先は私一人で行こうか?」

「パートナーを一人で行かせる訳にはまいりません。耐えられないくらいではありませんから行けますわよ」

 暖簾をくぐって中へと入る。すると清潔にされている脱衣所にはカレーを食べた後の食器のように、泥に似た茶色く汚い残穢がベットリとこびりついている。

 そこから放たれる悪臭に美憂は思わず鼻を摘んだ。隣に立っている恵麗奈も目に涙を浮かべて辛そうな顔をしていた。

「これはきっついね。いくら呪いに耐性があっても臭さは耐えられないかも」

「とりあえず中に入りましょう。ささっと調べて終わらせたいですわ」

 幸いなことに脱衣スペースに置かれた籠に衣類は入っていない。これなら服を着たまま入っても大丈夫そうだと磨りガラスの引き戸を開いた。

「あれ? 臭くなくなった」

「本当ですわね。温泉の匂いはしますけど脱衣所で感じた悪臭は一切しませんわ」

 見れば洗い場も浴槽も綺麗なものだった。洗い場に取り付けられた鏡はピカピカに磨かれ、全部の椅子に木桶が立てかけられている。

 お風呂を見にいっても木でできた浴槽に変な部分は無く、独特な匂いを放つ温泉も無色透明で綺麗なものだ。

 この旅館の温泉の名物は露天風呂のようで、試しに外に出てみたが竹垣に覆われた岩造りの露天風呂があるだけだった。

「変だね。旅館全体で残穢が確認出来たのに肝心の女湯には不自然なほどに異常がない。それが逆に気持ち悪くて仕方ないよ」

「まるで証拠隠滅されたようですわね。あるいは綺麗にすることで獲物を呼ぶためとか」

 恵麗奈の言う通り今まで旅館の中で感じていた気持ち悪さが風呂場では一切感じない。無意識にそれを客が感じていたのなら風呂場で安らぎを感じることだろう。

 それを狙ってやっているとしたら垢嘗は非常に狡猾こうかつだ。そこからしばらく待ってみたが、一向に姿を現すこともなく特に異常も見られない。

「一旦戻ろうか。それと仕方ないから湯川さんに話を聞いてみよう。退魔衆については伏せて話すから変に思われるかもしれないけど背に腹は代えられないね」

 このまま待っていて時間を潰すのはもったいない。今は無事でいる湯川も旅館で働いている限り明日も元気でいてくれる確証はないし、恵麗奈だってずっとここにいたら体調を崩すかもしれなかった。

 そう判断して一旦お風呂を後にする。一応他の宿泊客がいた時のために持ってきていたカモフラージュのためのタオルと浴衣は出番がなかった。

 脱衣所に戻ると風呂場の綺麗さが嘘のように酷い臭いが鼻を付く。逃げるように廊下に出ると脱衣所よりはマシだが、それでも残穢がいたるところに見受けられた。

 やはり女湯には何かある。男湯を確認することはできないが御空に聞いていた情報が正しければ、垢嘗が出没するのは女湯なので関係ないはずだ。

「とりあえず湯川さんを探しに受付に行きましょうか」

 女湯を確認した足で受付へと向かう。そこまで向かうのにそこそこの距離を歩いたが、他のお客さんとすれ違うことは一度もなかった。

 それが垢嘗の影響かは分からないが、その場合は解決を急がないと旅館が業績悪化で廃業しそうだ。それに昼間見た限り草津温泉自体が経営危機に陥るだろう。

 受付では湯川が暇そうに入り口を眺めていた。ずっとこうしているから、二人が来た時もすぐに気づいて声をかけてきたのかもしれない。

「すいません湯川さん。少しお話させていただいても大丈夫ですか?」

「どうなさいましたか亜澄様。恥ずかしながら時間はございますので大丈夫ですが」

「あまり時間をかけられないので単刀直入に言わせてもらいます。私達はこの旅館に潜む妖怪、垢嘗を退治しに来ました。湯川さんにもそういった物が見えていますよね。この旅館の現状を打開するために協力して貰えませんか?」

「なにを、と言いたいところですが確信があるようですね。確かに私は幼い頃から霊感と呼べる物がありました。垢嘗にも心当たりがあります。その上でお二人に忠告させていただくなら、倒そうとするのはおやめください。あれは悍ましい化け物です」

 湯川は浴衣の裾を持ち上げて右足を見せてくる。露わになった彼女の右足首には黒い痣が浮かんでいた。

「脱衣所から半分身を投げ出して倒れていたお客様を助けた時、私はあの化け物の怒りを買ったようでした。この痣は夜になると強く痛むんです。日に日に痛みは増しています」

「それなのにどうして逃げずに旅館にいるんですか?」

「ここは私の祖先が建てた旅館なんです。先祖代々大切にしていた旅館だし、祖父母も両親も亡くなっているから私が投げ出す訳にはいかなくて」

 自分が死んだら旅館はどうしようと笑う湯川は諦めたような顔をしていた。源三と同じく彼女もまた妖怪に運命を狂わされた人間に違いない。

「そうだ。後でお電話でお伝えしようとしていましたが夜の女湯には近づかないでください。と言ってもそろそろ夜ですね」

 その時旅館の中の空気が変わった。澱むような垢嘗の残穢が、換気扇に吸い込まれた煙のように一点へと向かっていく。

「私に痣が現れた翌日から夜になると女湯からペタペタと這う音が聞こえてくるようになったんです。その日から予約されていたお客様は虫の知らせか全てキャンセルなされて、それどころか草津温泉自体が変わってしまいました」

「事情は分かりましたわ。それならわたくし達が垢嘗を倒せば全て解決ですわね」

「私の話を聞いていましたか? 人間では勝てないような化け物がこの旅館にはいるんです。幸いにも女湯から出てきたことはまだありません。ご宿泊料はお返しします。ですからお二人は明日の朝一にお帰りください」

 そう気丈に話す湯川の手は小刻みに震えていた。見える体質が災いして怖い思いを沢山したのだろう。それでも旅館の責任者としてこれ以上犠牲者は出さないという決意が見えた。

「今まで誰にも言えずに辛かったですわよね。ここはわたくし達を信じてください。ちゃちゃっと片付けて来ますから」

「彼女の言う通り私達はそういった者専門の仕事をしています。危なそうなら逃げますので一旦任せてくれませんか?」

「……本当に大丈夫なんですか? うちの旅館は助かりますか?」

「旅館といえば温泉ですわよね。それに入らずに帰るなんてあり得ませんわ。女湯を占拠する不届きものはわたくしが許しません!」
 
 恵麗奈の言葉に湯川は安心したようにくすりと笑う。信じる気になったのだろう。深々とお辞儀をした湯川に見送られて二人は女湯へと向かった。

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