上 下
17 / 36
第二章 とある男の物語

16 竜の泪

しおりを挟む
 耐え切れず瞼を閉じると、訪れたのは音のない闇だった。
 続いてふわりと鼻先を掠める花のような香り。唇に触れていた温かく湿った感触が僅かに離れた後、もう一度だけ柔らかく食んで、そのまま頬を伝い閉じたままの瞼に押し付けられた。目尻を優しく舐められ初めて、自分が今泣いていたのだと気付いた。
 大事な物でも守るように俺の頭を両手で抱え込んだ男が、旋毛つむじのあたりに唇を押し当てながら、何度も髪を梳き労わるように撫でる。唇は最後に額に強く押し付けられた後、ゆっくりと離れて行った。後を追うように目を開けると、思いの外近くにこちらを覗き込む澄んだ緑の瞳があった。

……この男は、こんな顔をしていただろうか。

 初めて見た時から美しい男だとは思った。第二皇子が「父上の情婦」などと呼ぶ位だから、皇帝の閨の相手なのだろう。あの場にいた誰もが納得するほどの美貌だった。
 だが、それだけ。たとえどれだけ美しくても、本当に皇帝の情婦であろうとなかろうと、俺には何の関係もない。
 と、との間に引かれた見えない一本の線。決して俺には越えられない線。その線がある限り、何処で、誰が、何をしようと、それは全て向こう側の出来事。俺には関係ない……はずだった。
 なのに男は易易とその線を越えた。そして澄んだ緑の瞳で今みたいに俺を見て言ったのだ。「ありがとう」と。
 礼を言われたのは恐ろしく久しぶりで、名など聞かれたのは生れて初めてだった。そうして呼ばれた「ウルド」という三文字に、何故か酷く動揺した。優しく繰り返す声が、まるで特別な何かを呼んでいる様だった。
 だから俺を一晩貸せと言われた時は、正直がっかりした。僅かに感じた何かが、急激に萎んでいった。やっぱり人は、誰もかれも結局同じ事をする。線の向こうで値踏みして、俺の意思などお構いなしに押し付ける。瞳も顔もその身体も、美しいのは上辺だけ。一皮剥いたらみな同じ……中にいるのは、化物だ。

……それで、良かったのに……。

 部屋に着き飯を食い、……気付いたら俺の膝の上、乗り上げた男の緑の瞳がすぐ傍にあった。
 口付けは、勿論したことがある。互いの口をくっ付けて舐めたり噛んだり……。場合によっては盛り上がるが、ただそれだけ。それより他に何の意味も価値もない。
 なのにナルジェという男としたそれは、不思議なものだった。
 相手を、自分をための行為。温度を感じ、感触を感じ、今確かにここにいて、生きていることを俺自身にための口付け。欲を押し付ける傲慢さも、本性を引きずり出そうとする貪欲さもない。
 ただ温かい唇を、気付いたら貪っていた。
 視界が変わり過去の自分が見えた時、身震いした。あまりのリアルさに、あの日々をもう一度繰り返す恐怖に。だが鼻を掠めた男の香りが、頬を撫でる心地よさが、と教えてくれた。「お前がいるのは俺の部屋、触れているのはこの俺だ」男の言葉を信じ、かつての俺を共に見続けた。
 もう変えられぬ、終わったはずの日々。その中で絶望していく過去の俺と共に、もう一度絶望していく今の自分にどうしても耐え切れず、最後は目を閉じた。
 男は何も言わず、ただ涙を拭ってくれた。生れて初めて人前で涙を流し、同じく生れて初めて人に涙を拭われた。 
 額に押し付けたのを最後に離れた唇を、惜しいと思った。膝から降り去っていく男のことを、何故か引き止めたいと思った。今確かにあった腕の中の温もりが、太腿に感じた重みが、全部無かったことにされそうで、握った拳を慌てて腿に押し当てた。

 求め探し続けたモノを取り上げられたようで、理不尽に男が恨めしいと思った。引かれた線などまるで最初から無いように俺だけを見つめたナルジェの緑の瞳が、堪らなく欲しかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

早く惚れてよ、怖がりナツ

ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。 このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。 そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。 一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて… 那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。 ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩 《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

愉快な生活

白鳩 唯斗
BL
王道学園で風紀副委員長を務める主人公のお話。

処理中です...