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第二章 とある男の物語
16 竜の泪
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耐え切れず瞼を閉じると、訪れたのは音のない闇だった。
続いてふわりと鼻先を掠める花のような香り。唇に触れていた温かく湿った感触が僅かに離れた後、もう一度だけ柔らかく食んで、そのまま頬を伝い閉じたままの瞼に押し付けられた。目尻を優しく舐められ初めて、自分が今泣いていたのだと気付いた。
大事な物でも守るように俺の頭を両手で抱え込んだ男が、旋毛のあたりに唇を押し当てながら、何度も髪を梳き労わるように撫でる。唇は最後に額に強く押し付けられた後、ゆっくりと離れて行った。後を追うように目を開けると、思いの外近くにこちらを覗き込む澄んだ緑の瞳があった。
……この男は、こんな顔をしていただろうか。
初めて見た時から美しい男だとは思った。第二皇子が「父上の情婦」などと呼ぶ位だから、皇帝の閨の相手なのだろう。あの場にいた誰もが納得するほどの美貌だった。
だが、それだけ。たとえどれだけ美しくても、本当に皇帝の情婦であろうとなかろうと、俺には何の関係もない。
人と、人でない者との間に引かれた見えない一本の線。決して俺には越えられない線。その線がある限り、何処で、誰が、何をしようと、それは全て向こう側の出来事。俺には関係ない……はずだった。
なのに男は易易とその線を越えた。そして澄んだ緑の瞳で今みたいに俺を見て言ったのだ。「ありがとう」と。
礼を言われたのは恐ろしく久しぶりで、名など聞かれたのは生れて初めてだった。そうして呼ばれた「ウルド」という三文字に、何故か酷く動揺した。優しく繰り返す声が、まるで特別な何かを呼んでいる様だった。
だから俺を一晩貸せと言われた時は、正直がっかりした。僅かに感じた何かが、急激に萎んでいった。やっぱり人は、誰もかれも結局同じ事をする。線の向こうで値踏みして、俺の意思などお構いなしに押し付ける。瞳も顔もその身体も、美しいのは上辺だけ。一皮剥いたらみな同じ……中にいるのは、化物だ。
……それで、良かったのに……。
部屋に着き飯を食い、……気付いたら俺の膝の上、乗り上げた男の緑の瞳がすぐ傍にあった。
口付けは、勿論したことがある。互いの口をくっ付けて舐めたり噛んだり……。場合によっては盛り上がるが、ただそれだけ。それより他に何の意味も価値もない。
なのにナルジェという男としたそれは、不思議なものだった。
相手を、自分を確かめるための行為。温度を感じ、感触を感じ、今確かにここにいて、生きていることを俺自身にわからせるための口付け。欲を押し付ける傲慢さも、本性を引きずり出そうとする貪欲さもない。
ただ温かい唇を、気付いたら貪っていた。
視界が変わり過去の自分が見えた時、身震いした。あまりのリアルさに、あの日々をもう一度繰り返す恐怖に。だが鼻を掠めた男の香りが、頬を撫でる心地よさが、ここは違うと教えてくれた。「お前がいるのは俺の部屋、触れているのはこの俺だ」男の言葉を信じ、かつての俺を共に見続けた。
もう変えられぬ、終わったはずの日々。その中で絶望していく過去の俺と共に、もう一度絶望していく今の自分にどうしても耐え切れず、最後は目を閉じた。
男は何も言わず、ただ涙を拭ってくれた。生れて初めて人前で涙を流し、同じく生れて初めて人に涙を拭われた。
額に押し付けたのを最後に離れた唇を、惜しいと思った。膝から降り去っていく男のことを、何故か引き止めたいと思った。今確かにあった腕の中の温もりが、太腿に感じた重みが、全部無かったことにされそうで、握った拳を慌てて腿に押し当てた。
求め探し続けたモノを取り上げられたようで、理不尽に男が恨めしいと思った。引かれた線などまるで最初から無いように俺だけを見つめたナルジェの緑の瞳が、堪らなく欲しかった。
続いてふわりと鼻先を掠める花のような香り。唇に触れていた温かく湿った感触が僅かに離れた後、もう一度だけ柔らかく食んで、そのまま頬を伝い閉じたままの瞼に押し付けられた。目尻を優しく舐められ初めて、自分が今泣いていたのだと気付いた。
大事な物でも守るように俺の頭を両手で抱え込んだ男が、旋毛のあたりに唇を押し当てながら、何度も髪を梳き労わるように撫でる。唇は最後に額に強く押し付けられた後、ゆっくりと離れて行った。後を追うように目を開けると、思いの外近くにこちらを覗き込む澄んだ緑の瞳があった。
……この男は、こんな顔をしていただろうか。
初めて見た時から美しい男だとは思った。第二皇子が「父上の情婦」などと呼ぶ位だから、皇帝の閨の相手なのだろう。あの場にいた誰もが納得するほどの美貌だった。
だが、それだけ。たとえどれだけ美しくても、本当に皇帝の情婦であろうとなかろうと、俺には何の関係もない。
人と、人でない者との間に引かれた見えない一本の線。決して俺には越えられない線。その線がある限り、何処で、誰が、何をしようと、それは全て向こう側の出来事。俺には関係ない……はずだった。
なのに男は易易とその線を越えた。そして澄んだ緑の瞳で今みたいに俺を見て言ったのだ。「ありがとう」と。
礼を言われたのは恐ろしく久しぶりで、名など聞かれたのは生れて初めてだった。そうして呼ばれた「ウルド」という三文字に、何故か酷く動揺した。優しく繰り返す声が、まるで特別な何かを呼んでいる様だった。
だから俺を一晩貸せと言われた時は、正直がっかりした。僅かに感じた何かが、急激に萎んでいった。やっぱり人は、誰もかれも結局同じ事をする。線の向こうで値踏みして、俺の意思などお構いなしに押し付ける。瞳も顔もその身体も、美しいのは上辺だけ。一皮剥いたらみな同じ……中にいるのは、化物だ。
……それで、良かったのに……。
部屋に着き飯を食い、……気付いたら俺の膝の上、乗り上げた男の緑の瞳がすぐ傍にあった。
口付けは、勿論したことがある。互いの口をくっ付けて舐めたり噛んだり……。場合によっては盛り上がるが、ただそれだけ。それより他に何の意味も価値もない。
なのにナルジェという男としたそれは、不思議なものだった。
相手を、自分を確かめるための行為。温度を感じ、感触を感じ、今確かにここにいて、生きていることを俺自身にわからせるための口付け。欲を押し付ける傲慢さも、本性を引きずり出そうとする貪欲さもない。
ただ温かい唇を、気付いたら貪っていた。
視界が変わり過去の自分が見えた時、身震いした。あまりのリアルさに、あの日々をもう一度繰り返す恐怖に。だが鼻を掠めた男の香りが、頬を撫でる心地よさが、ここは違うと教えてくれた。「お前がいるのは俺の部屋、触れているのはこの俺だ」男の言葉を信じ、かつての俺を共に見続けた。
もう変えられぬ、終わったはずの日々。その中で絶望していく過去の俺と共に、もう一度絶望していく今の自分にどうしても耐え切れず、最後は目を閉じた。
男は何も言わず、ただ涙を拭ってくれた。生れて初めて人前で涙を流し、同じく生れて初めて人に涙を拭われた。
額に押し付けたのを最後に離れた唇を、惜しいと思った。膝から降り去っていく男のことを、何故か引き止めたいと思った。今確かにあった腕の中の温もりが、太腿に感じた重みが、全部無かったことにされそうで、握った拳を慌てて腿に押し当てた。
求め探し続けたモノを取り上げられたようで、理不尽に男が恨めしいと思った。引かれた線などまるで最初から無いように俺だけを見つめたナルジェの緑の瞳が、堪らなく欲しかった。
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