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第1話 政略結婚から始まる初恋1
しおりを挟む『大丈夫ですか?』
初めて声をかけられた、あの時。
すごく綺麗な顔立ちの男の人だと思った。
今にして思えば――あの時から運命は始まっていたのかもしれない。
◆◆◆
リンフォルディア王国三大侯爵家の一つ、アディントン侯爵家。その一人息子であるクリフォード・アディントンが、本当は女性であると、その日おおやけになった。
どうして、男児だと偽っていたのか。それはアディントン侯爵夫人がもう子を望める年齢ではなく、また当時のアディントン侯爵は病にかかっていていつ死ぬとも分からぬ命だったため、妻子の身を案じたからだ。
というのも、リンフォルディアでは家督は男児しか継げない。そのため、もしアディントン侯爵が亡くなれば、アディントン侯爵家は取り潰されてしまい、妻も我が子も路頭に迷うことになる。ゆえにアディントン侯爵は我が子を男児だと偽ることにした。
――我が子が、婿を迎え入れられる十八歳になるまで。
「今日からもう男装しなくていい。今まで窮屈な思いをさせてしまってすまなかったな、クリフォード……いや、クレア」
アディントン侯爵邸、夕食の席にて。
クリフォード改めクレアは、「いえ」とにこりと笑って応じた。事情があったのだから、男性のふりをさせられていたのはもうどうでもいい。
今は、そんなことよりも。
「それよりも、父上。ぼ……私の結婚相手のことですが」
クレアは一人娘として婿を娶らねばならないわけだが、三大侯爵家ともなれば家督を継ぐ長男以外だったら、選びたい放題。ずっと男装していたクレアにも憧れの男性はおり、その彼を推薦しようとしたところ――。
「うむ。もう決めておるぞ。コールドウェル侯爵家の次男エルトン君を、お前の婿にする」
「え……」
クレアはぴしりと固まった。
コールドウェル侯爵家。同じ三大侯爵家の一つ。これ以上ないといっていいほど、身分的にはクレアと釣り合う。
しかし、問題はそこではない。勝手に結婚相手を決められたこともそうだが、何よりもその相手にクレアは絶句するほかなかった。
(エルトン・コールドウェル――っ!?)
嘘だろう、冗談だろう。
エルトン・コールドウェルといったら。リンフォルディア国王の側近で切れ者……ではあるが、かつての苦々しい記憶がクレアの頭に浮かんだ。
――時を遡ること、五年前。とある舞踏会でのことだ。
その日、『クリフォード・アディントン』として参加していたクレアだが、赤ワインを置いてあるビュッフェコーナーにて、手を滑らせてグラスを割ってしまった。
そこへ、声をかけてきたのが、当時十九歳のエルトンだ。
『大丈夫ですか?』
優しい声に、クレアは最初は感激した。もし、クレアが令嬢の姿なら声をかけてくれる男性は少なからずいるだろうが、当時のクレアは男装していたのだ。令息相手にも気を遣ってくれる人なんだ、と尊敬の念さえ抱いた。
だが。
『わわっ!』
ガッシャァァァン!
一緒に片付けている間に、クレアはうっかりビュッフェコーナーのテーブルにぶつかり、さらに大量のワイングラスを床に落としてしまった。
エルトンはそのことに苛立ったんだろう。『いい加減にしろ……!』とクレアの肩をぐいっと掴み、後ろに押し倒した。結果、派手に尻餅をついたクレアは、お尻が赤ワインまみれになったのだった。
『邪魔ですから、早く着替えてきなさい』
冷たく言い放たれたあの言葉を、クレアは今でも覚えている。
その、エルトン・コールドウェルがクレアの結婚相手。悪夢のようだ。よりにもよって、どうしてエルトンなのだ。
「ど、どうして、エルトン様なんですか」
「お前と身分が釣り合い、かつ我がアディントン侯爵領を任せられるのは彼しかいない。もう希望を出して先方の了承はもらった。一ヶ月後には我が家へ婿入りするから、楽しみに待っていなさい」
クレアは口元が引き攣った。楽しみにしていろ、って。無理に決まっているだろう。
猛反対したいのは山々だったが、すでに縁談話は進んでいてエルトンが婿入りするのは決定事項。ここで駄々をこねるほど、クレアも子供ではない。
――諦めて受け入れるしかない。
内心がっくりとうなだれつつ、クレアは「……分かりました」と頷くほかなかった。
と、縁談話を受け入れたものの。
――嫌がらせしてやる。
赤ワインまみれにされた恨みは残っていたため、クレアはエルトンがやってくる日、庭のミモザの木に逆さ吊りにする罠をせっせと張っていた。
ちなみに今のクレアは、男装姿でなくもう令嬢姿だ。緩やかなウェーブがかかった金茶色のウィッグをつけており、淡い黄色いドレスに身を包んでいる。
罠を張り終えたクレアは、ぱんぱんと手の土を払い落とした。
「よし、と。引っかかったらいいな」
あの澄ました顔が驚きに目を丸くし、木に逆さ吊りになるなんて間抜けな姿を、この目で見て大笑いしてやるのだ。
自分で罠を踏まぬよう、注意してその場を立ち去ろうとした時。
「あっ」
春風が吹いて、かぶっていた帽子が吹き飛ばされた。クレアは慌てて、飛ばされていく帽子の端を掴もうとした瞬間だった。
「うわぁ!?」
うっかり、仕込んでいた罠を踏んでしまった。左足が木の上に引っ張り上げられる。クレアは見事に逆さ吊りになった。
つけていたウィッグは重力に逆らえずに地面に落下し、ドレスの裾もこれまた重力に逆らえずにめくれてしまう。これでは下着が丸見えだ。
クレアは羞恥から赤面しつつ、どうにか罠から逃れようともがいたが、非力なクレアには一人では到底罠から脱出できなかった。
じきにエルトンがやってくる時間だ。どうしよう。こんな姿をエルトンに見られたら。
内心大笑いされるのは、クレアの方になる。最悪だ。
そこへ、草木を踏みしめる音が響いて、クレアの前で止まった。
「……何をしているのですか、そんなところで」
怪訝な顔をした、エルトンだった。
だが、それも数秒のこと。切れ者と評価されるエルトンには、何がどうなっているのか察しがついたようだ。大きくため息をついたかと思うと、腰から剣を抜いて、クレアを逆さ吊りにしている紐を切り捨てた。
「わっ」
突然、解放されて地面に激突しそうになったクレアを、エルトンが抱き止めた。頭上にあるエルトンの瞳には呆れの色が見える。
「相変わらず、そそっかしいですね。自分で罠に引っかかってどうするんです」
「う……」
ぐうの音も出ない。エルトンに罠を仕掛けようとしたこともバレているし。
ゆっくりと地面に下ろされて、クレアはおずおずとお礼を言う。
「あ、ありがとうございます……エルトン、様」
「私の花嫁を逆さ吊りにしたまま放置はできませんよ。ご無事のようですから、アディントン侯爵の下まで案内していただけませんか」
「はい」
クレアは落ちていたウィッグを付け直し、さらに帽子をかぶった。完全なるクレアの貴族令嬢姿に、エルトンは多少驚いたようだ。目を丸くしていた。
「……なんだか、見慣れませんね」
正直な感想をこぼすエルトン。そこはお世辞でも、お綺麗だとか、お美しいだとか、言うところだろうに。
しかし、自分でも慣れない自覚はあるので、あえて触れず。「こちらですよ」とアディントン侯爵邸へと案内し、書斎にいる父の下へエルトンを連れて行った。
「父上。エルトン様がお見えになりました」
扉越しに声をかけると、父は喜色満面の笑みを浮かべて顔を出した。
「おお! エルトン君、ようこそきてくれた!」
「今日からお世話になります。ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
「堅苦しい挨拶はいいんだよ。君はもう義息子なんだから。長旅で疲れただろう、今日は部屋でゆっくり休むといい」
「お気遣いありがとうございます」
そんな定形文のようなやりとりを二人はして、一旦別れた。続いてクレアはアディントン侯爵邸にてエルトンにあてがわれた部屋まで、エルトンに案内だ。
「こちらがエルトン様のお部屋です」
「見晴らしのいいお部屋ですね。それと……夜はあなたと同じ部屋で、ということでよろしいのでしょうか」
クレアは「うっ」となった。そう、この部屋には寝台がない。さっさと子作りしろという父からの圧力で、エルトンとは寝室が一緒なのだ。
「……そ、うですね」
恥ずかしいったらない。顔から火が吹き出すとはこのことか。
クレアは逃げるように、
「それでは、夕食の時間までこちらでお休み下さい」
と、言い置いてその場を立ち去った。
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