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本 編
第5話 新たな生活2
しおりを挟む服飾店を出た足で向かったのは、庶民に人気だというパンケーキ屋さんだ。もう正午を告げる鐘が鳴ったから、昼食にしようということでそのお店に入ったんだ。
お店の中は混んではいたけど、幸い並ばずに入れた。案内されたテーブル席に座って、パンケーキと紅茶を注文し、料理が届くのを待つ。
それにしても……周りを見ると、若い女性客ばかりだ。僕たちみたいな男同士の組み合わせのお客なんて見当たらないよ。席に案内してくれた人も、注文を聞いてくれた人も、表情には出していなかったけどさ。
お店のチョイスを間違えたんじゃないの、ローワン様。
「ここのパンケーキは、絶品らしい。オリヴァーから聞いたんだ。奥方や嫁さんが通っていると」
へぇ。僕とのデートだから、気を遣って情報を仕入れてくれたのかな。
おいしいパンケーキを食べられるのは嬉しいけど……でも、やっぱり男同士でくるところじゃない気が。
「そうなんですか。それは楽しみですね」
とはいえ、そうと言うほかない。もう席に着いて、注文もしちゃったんだし。
注文した品は、先に紅茶が届いた。砂糖たっぷりの甘いフルーツティーだ。ちょうど、時季のマスカットの香りがする。
スマイス公爵邸の茶葉に比べたら安いものなのかもしれないけど、十分おいしい。僕の味覚が、特に高級品を求めていないのもあるだろう。そういえば、ローワン様が作ってくれたシチューもすごくおいしく感じたし。
「おいしいですね。このフルーツティー」
「そうか。口に合ったのならよかった。私は、紅茶の良し悪しについては、いまいち分からないものだから」
言われてみると、ローワン様はもう紅茶を飲み干していた。香りを楽しむこともなく、ガバガバと飲んでしまったみたいだ。あーあ、もったいない。
「ローワン様は、細かいことにはあまりこだわらなさそうですね」
「そうだな。男たるもの、海のように広い大らかさを持たなくては」
懐を広くする、ってことかな。確かにローワン様の器は大きそうだ。
僕は、悪戯っぽく笑った。
「あ。じゃあ、浮気しても許してくれるんですね?」
「バカ者。それとこれとは話が別だ。浮気なんて断固として許さん」
ありゃりゃ、すっかり気分が僕の婚約者になっちゃってるよ。いやまぁ、求婚したのは僕なんだけどさ。ちょっと、面白い。
「お待たせしました」
おっ。とうとう、噂のパンケーキが運ばれてきた。
わぁ、生地がふわふわだ。想像以上。ブドウジャムが添えられていて、二段のパンケーキの上には生クリームも乗ってあるし、おいしそう。
目をキラキラとさせる僕を見て、店員さんは微笑ましく思ったんだろう。優しげな目をしてくすりと笑った。
「可愛いお孫さんですね」
「いえ、婚約者です」
はっと我に返る、僕。ローワン様……いちいち、訂正を入れなくても。孫ということにしておけばいいのに。ほら、また店員さんが驚いているよ。っていうか、反応に困っていそう。
考えた末、僕は「もう、おじいちゃん!」と声を大きくした。
「おじいちゃんのお婿さんになるって言ったのは、もう昔の話だよ! 店員さんを困らせないの!」
僕の演技に、その場に固まっていた店員さんははっとした顔をした。あ、そういうことか、と『婚約者』という言葉の意味を勝手に解釈してくれたようだ。
「ふふ、お仲がよろしいのですね」
ローワン様のことまで微笑ましそうに見つめる店員さん。「では、ごゆるりとどうぞ」と一礼してから、立ち去っていった。
ふぅ。なんとか、助け舟を出せたよ。よかった。
「私はお前の『おじいちゃん』ではないが?」
顔を上げると、目の前のローワン様は不満げな顔をしている。ちょっと、むくれている感じ。まったく、子供じゃないんだから。
「噓も方便というものですよ」
「嘘をつく理由なんてないだろう。それとも、嫌なのか」
僕は、眉をハの字にした。
「嫌っていうか……店員さんが困っていたから、フォローしただけですよ。でもまぁ、ちょっと恥ずかしいですね」
「堂々としていれば、誰もがいずれは認めてくれる。何事も十年は忍耐だ」
そういうものなのか。
僕は、十年後に思いを馳せた。本来であれば、十年後に処刑されるはずだったけど、今はもうそのルートから外れた。実家からも勘当されたし、自由の身になったといっていい。
十年後の僕は、どこで何をしているんだろう。ローワン様は……六十歳だよね。さすがにもうお亡くなりになっているかな。
まだ出会ったばかりだけど、そう考えると、寂しいものがある。
……って、辛気臭いことを考えるのはやめよう。今はそれよりも、パンケーキだよ。
「あ、おいしい!」
パンケーキをナイフで切り分け、口に運ぶと、雪のように美味が溶けた。ジャムや生クリームの甘さと、パンケーキの少し塩気のある生地の掛け合わせが絶妙だ。
あまりのおいしさにぱくぱくと食べる僕のことを、ローワン様は優しい目で見つめていた。
昼食を食べ終えると、僕たちは帰路についた。
再び街路樹の並木道を通って、ソラーズ男爵邸に帰宅する。と、僕は家の前にある花壇に改めて気付いた。ネメシアの花々が、綺麗に咲いている。
「綺麗な花壇ですね。ローワン様が手入れしているんですか?」
つい聞いてしまったけど、一人暮らしだったんだから、そりゃあローワン様しかお世話をする人はいないか。
「ああ。この年になると、華やぎがほしくてな。数年前から花を植えているんだ」
「華やぎ、ですか」
そういえば、スマイス公爵邸にも広大な庭があって、庭師が手入れしてくれていたっけ。当たり前のようにあったものだけど、当たり前の景色じゃなかったんだよね。
ローワン様は、花壇の前にしゃがみ込んで、ネメシアの花にそっと触れた。
「そう。花というのはな、大切に扱うと美しく咲くものなんだ。愛情という名の水が、花を育てる。ひとと一緒さ」
僕は目をぱちくりとさせた。……ひとと一緒、か。じゃあ、両親から愛されなかった僕は、花に例えたらもう枯れちゃっているのかな。
浮かない顔をしていたんだろう。ローワン様は「ジュード?」と気遣わしげに名を呼んだ。
「どうした」
「あ、いえ……ボクは、こんなに綺麗に花を咲かせていないんだろうなって」
デイジーが惜しみなく愛してくれていたから、もしかしたらかろうじて枯れてはいないかもしれないけど。でも、雑草みたいな存在なんだろうな。
寂しげに笑う僕を見て、僕の家庭事情をうっすら察したのかもしれない。ローワン様は諭すように言った。
「……ジュード。お前はまだ蕾だ。お前という花が咲くのは、もっと先のことだ」
ローワン様の骨張った手が、ぽんと僕の頭の上に置かれる。
「お前はきっと、世界一美しく成長するよ。――これから私が愛していくのだから」
僕の顔を覗き込むようにして、茶目っぽく笑うローワン様。
……愛してくれる? 本当に?
世界一美しく、なんて大袈裟な言葉だとは思うけど。でも、優しい笑顔を見たら胸にこみ上げてくるものがあって、僕の涙腺は緩んだ。
「あ、りがとう……ございます、ローワン様」
嗚咽混じりの声でお礼を言う。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪える。
泣くな。こんなことで。
ローワン様も、意味が分からなくて困るだろう。
「お礼を言われることではない。私は、お前の婚約者なんだ」
言いながらローワン様は、今度は僕をその逞しい腕に抱え上げる。シワだらけの優しい顔がすぐ間近にあって、僕はどきりとした。
「大丈夫だ。花を咲かせるまで、ずっと傍にいるから」
「……はい」
――花を咲かせるまで。
それは、一体いつになるんだろうか。
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