偽装結婚の行く先は

深凪雪花

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番外編

陽だまりの笑顔と凍土の茨1

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 どうして笑わなくなった、というのは愚問だ。
 タミエルが笑わなくなったのは五歳の時から――そう、母に捨てられたあの時から、何かが抜け落ちたように笑い方を忘れてしまった。
 母子家庭育ちのタミエルにとっては、母だけが絶対的な存在だったのに。その母に見捨てられて、父は生まれる前に責任を取らずに逃げたということで、タミエルはそれから母方の祖父母に育てられることになった。
 祖父母は優しかった。大切に、大切に、タミエルのことを育ててくれた。
 それでも、捨てられて傷付いた心が癒やされることはなく。
 ――俺はいらない人間なんだ。
 ――生まれてこなければよかったんだ。
 そんな思いを胸の底に抱いたまま、成長していくタミエルは、いつしか『凍土の茨』と呼ばれるような冷めた大人になった。


 ◆◆◆


「よっ、仕事は慣れてきたか」

 黙々と書類仕事に勤しむタミエルに、隣の先輩が朗らかに声をかけてきた。この人はいつもそうだ。新人のタミエルを色々と気にかけてくれている。ちらとも笑わないタミエルに周囲は近寄らなくなった今でも、だ。
 そのことをありがたいとは思うけれど、やはりタミエルには笑い返すことができなかった。淡々とした事務的な対応になる。

「おかげさまで少しずつ慣れてきました」
「そうか。何か困ったことがあったら相談するんだぞ」
「ありがとうございます」

 母に捨てられたあの日から早十三年。十八歳になったタミエルは、地元の街学校を卒業してこの春から王都に佇む魔王城の文官として働いている。
 といっても、この国をよりよくするために、なんて大層立派な志望動機は持っていない。ただ学業が得意だったことと、祖父母の下から手っ取り早く独り立ちできる職業だったから、志望しただけだ。我ながら不純な動機だと思う。もちろん、仕事はきちんとこなしているけれども。
 その日も誰とも雑談せず、ひたすら書類仕事に打ち込んでいると、やがて正午を告げる鐘が鳴った。昼休憩の時間だ。
 一旦、仕事をする手を止めて、持参した弁当を文机の上に取り出し、昼食を食べようとした時だった。開けっ放しの窓から、

「お疲れ様でーす! パンの移動販売にきました!」

 と、元気いっぱいな声が響いたかと思うと、パンが詰め込まれたケースを手に、金髪の青年が執務塔へ飛び込んできた。ここは二階なので、宙を飛ぶ飛空魔術を使ったに違いない。
 ふわりと床に着地した青年は、女性受けしそうな端正な顔立ちをしている。無邪気な笑顔が印象的な、人懐っこそうな雰囲気だ。
 青年を見た時、タミエルは一目で分かった。

(アスタロト、だ)

 保育園時代、一人でいたタミエルに声をかけてくれて、いじめからも守ってくれた――初恋の男の子。王都に戻ってきた以上は会う可能性もあるとは思っていたが、まさか本当に再会することになるとは。
 アスタロトがやってくるなり、職場の先輩たちがわらわらとアスタロトの周りに集まった。パンを購入する目的もあるだろうが、口々に「大きくなったなぁ、アスタロト」、「パン屋に就職したんだってな」などと声をかけていることから、顔見知りなのだと思われる。
 どうして文官たちがアスタロトと知り合いなのか、と内心首を捻るタミエルに、隣の席の先輩が「タミエル、お前は買わないのか」と声をかけてきた。

「俺は弁当がありますから。……あの、シトリー先輩」
「ん? なんだ」
「アス……あの男の人のことをみなさんご存知のようですが、どうしてですか」

 仕事以外でタミエルから話しかけられるなんて、よほど驚いたのだろう。先輩は最初こそ目を丸くしていたが、無視することなく答えてくれた。

「あの子、アスタロトっていうんだけど、セーレ様のご子息なんだよ。それで子供の頃から何回か職場に顔を出してるから、みんな知ってるんだ」
「セ、セーレ様の息子?」

 セーレといったら、魔王の側近の一人だ。さらに夫も同様に魔王の側近で、ビッグカップルならぬビッグ夫夫として有名な二人だった。彼らの間には子供が二人いると耳にしたことがあるが……そのうちの一人がアスタロトだったのか。

(恵まれすぎだろ)

 タミエルの境遇とは天と地ほどの差がある。どうして文官でも武官でもなく、パン屋で働いているのかは謎でしかない。

「――あの、お一ついかがですか」

 ふと顔を上げると、いつの間にか近付いてきていた青年――アスタロトと目が合う。すると、どうやらアスタロトもタミエルに気付いたらしかった。橙色の瞳を真ん丸くしてから、ぱっと顔を明るくする。

「ター君! ター君だよね!?」

 嬉々として言うアスタロトに、けれどタミエルは冷たい眼差しを向けて。

「誰だ」
「え?」
「俺はお前なんか知らない」

 凍てついた目で言い放ち、タミエルは席を立った。弁当を持って、そそくさと職場を出て行く。ぽかんとしているアスタロトの顔を一切振り向くことなく。




 その足で向かったのは中庭だ。青々と草木が茂る中庭のベンチに腰かけ、弁当を広げた。色鮮やかな具材が挟まれたサンドイッチを頬張りながら、考えるのはアスタロトのこと。
 どうして、覚えていないふりをしてしまったのか。言葉では上手く言い表せない。分かっていることといったら、無邪気に再会を喜ぶアスタロトに苛立ちを覚えたことくらいだ。
 アスタロトは変わらない。明るく、素直で、人懐っこい。まるで太陽のように。
 一方のタミエルは……あれから随分と変わってしまった。ちらとも笑わず、捻くれていて、疑り深い。『凍土の茨』という異名はまさに的確だ。
 そんな相反する自分たちが昔のように仲良く一緒にいられるとは思えなかった。だから、咄嗟に知らないふりをしたのかもしれない、と思う。
 タミエルにとってアスタロトは初恋の人だが、アスタロトにとってタミエルは保育園で数年仲良くしていただけの友人の一人。覚えていないと言えば、もう関わってこないだろうと思ったのだが、予想に反してアスタロトはタミエルのことを追いかけてきた。

「ター君! ……本当に俺のことを覚えてないの?」

 しゅんとして言うアスタロトの表情に胸が痛まないわけではない。けれども、タミエルは知らないふりを押し通した。

「だから知らない」
「……そっか。まぁ、もう十年以上も前のことだもんね。仕方ないか」

 すっからかんになったパンのケースを手に、アスタロトはタミエルの隣に座る。それにはタミエルは顔をしかめた。おい、勝手に隣に座るなよ。
 物言いたげなタミエルの視線にアスタロトは気付くことなく、にこっと笑った。

「改めて俺、アスタロト。ター君とは同じ保育園に通ってたんだよ」
「……その『ター君』っていうの、やめてくれ」
「あっ! ごめん、つい」
「自己紹介が済んだのなら、さっさと職場へ戻ったらどうだ。だいたい、なんでわざわざ俺を追いかけてきたんだ」

 アスタロトには友人なんてたくさんいるだろう。保育園時代からクラスの輪の中心にいるようなタイプだったし、ここでも先輩たちから可愛がられているようだし、タミエル一人にこだわる必要はあるまい。
 ――俺に関わってくるな。
 ――お前の笑顔は癇に障るんだよ。
 ただの八つ当たり、もしくは嫉妬だと分かっていても、どす黒い感情が消えたりはしない。冷ややかに問えば、アスタロトはへらっと笑って。

「また仲良くなりたいなって思って」
「は?」

 今のタミエルと仲良くなりたいだと。何を言っているんだ、こいつ。
 意味を推し量りかねて眉間に皺を寄せるタミエルに、アスタロトは臆面なくもう一度言う。

「俺と友達になってよ。せっかく、再会できたんだから」
「お前、は……」

 変わらない。本当に変わらない。
 いつだってそうだ。お前は孤独でいる俺に手を差し伸べてくれる。――陽だまりのような温かい笑みを浮かべて。
 タミエルは思わずぽつりと呟いていた。

「……お前には参るよ」
「え? 何が?」
「今の俺を見てよく友達になろうだなんて言える。こんな俺と友達になっても、楽しくないだろ」
「どうしてそんな卑屈なことを言うの? ターく……じゃなかった、タミエルは昔と変わらないよ。俺、一目で分かったもん」

 タミエルは笑い出しそうになった。変わっていないなんてそんなはずがないだろう。母に捨てられたあの時から、タミエルは確かに変わってしまった。喜びや楽しいという感情なんて抱くことがなくなり、ただ淡々と毎日を送っているだけ。心は死人も同然だ。
 そんなタミエルにとって、昔と変わらないアスタロトは眩しすぎた。仲良くなんてなれない。なれるはずがない。
 タミエルは弁当を片付け、ベンチを立った。

「俺はお前と友達になれない。気持ちだけ受け取っておくよ」

 そう言い放って。タミエルはさっさとその場を後にした。
 強い拒絶の意思がようやく伝わったのだろうか。もうアスタロトが追いかけてくることはなかった。

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