ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第二章

第七話 戦の足音

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 狗奴国くなこくとの戦いに向けて、出雲国いずものくにと同盟を組めたことを伝えると、吉備国きびのくにの王は驚きの声をあげた。
 これまで頑なに共に戦うことを拒んできた出雲国を、この若い皇子がどうやって説得してきたのか、知る由もなかったが、長く決着がつかなかった狗奴国との戦いに、王は確かな手応えを感じたようだった。

 月読つくよみ達の一行は、旅の準備を整え、次に吉備国と海を挟んで向かい合う、伊予国いよのくに(現愛媛県)へ向かう予定にしていた。
 伊予国は、西側の海から狗奴国に近く、関係も深いと言われている国だ。
 狗奴国同様、海運輸送によって勢力をつけた、海人族あまぞくと呼ばれる豪族により支配され、大陸からの影響で、優れた航海術や漁撈だけでなく、先進的な農耕技術を有していた。
 伊予国はこれまで、邪馬台国との関係を明らかにしていなかったが、どちらかというと狗奴国側に近い立場であると思われた。
 このままでは、いざ戦いになった時、東の海から挟み撃ちされる恐れもあり、避けては通れない国のひとつであったのだ。
 しかし、それはつまり、敵陣の一角に足を踏み入れることにもなりかねず、危険を伴うことであった。

「我が国が、狗奴国からの鉄器調達の要請を拒めば、そなた達の動きを止めようとする動きが生じるかもしれぬ」

 出雲国を去る際、月読に王が忠告した。
 これまで、戦いに対しては中立な立場を貫いてきた出雲国が、鉄器技術と諸国の兵力を従えて、邪馬台側についたとなると、同盟国の少ない狗奴国は、かなり不利な立場に追い込まれる。
 そのため、強行手段に及ぶことも考えられるのだ。

「くれぐれも御身に気をつけられよ」

 出雲国王は、月読の命を狙う輩も出て来る可能性を想定してそう言い、伊予国で戦いが起こる場合は、援軍を送ることを約束してくれた。
 吉備国の王も、その点を懸念し、伊予国に向かう月読に、鉄の剣で武装した兵士を乗せた船団を用意してくれることとなった。
 月読も、次の旅は、これまでにない危険なものになることを覚悟し、吉備国滞在中は、連日昼夜、牛利と共に剣術の鍛練に励むことにした。





「本日をもって、墓地の造成は完了いたしました。明日からは、土を盛っていく作業に入ってまいります。どうか、これからも変わらず工事の安全を、神にお祈りください」

 男鹿おがは、壹与いよの前に跪き、静かに語った。

「大儀でした。明日以降も頼みます」

 壹与はうっすらと笑みを浮かべ、淡々とした口調でこたえた。
 頭を深く下げ、男鹿が祈祷の間を去って行くと、壹与は、悲し気な顔をして、深いため息をついた。
 彼女の傍らに座った張政ちょうせいは、そんな様子を不安そうな表情で見守っていた。
 表面上は、意識して男鹿への想いを出さぬよう努めていても、隠しきれない想いが少女の全身から滲み出ていた。

「おつらそうですな」

 壹与の心の内をうかがうように、張政がそう言うと、壹与は伏し目がちに笑って首を振った。

「必要な情報は、私がお伝えしますので、男鹿がこちらに来ることを控えさせましょうか」

「それはやめて!」

 張政の言葉に、壹与は突然立ち上がり、大声を上げた。
 張政を見おろす瞳に、涙が滲んでいた。

「しかし、あの者と顔を合わせるのは、おつらそうですので……」

 戸惑いながら張政が言うと、壹与は床に膝を付き、老人の腕をつかむと、その顔を睨みつけた。

「そもそもあなたが、私に男鹿を引き合わせたのよ。なのに今更、彼を私から取り上げないで!」

 壹与の頬には、既に幾筋も涙が流れていた。
 男鹿の前で抑えていた想いが、張政の言葉によって爆発したのだった。
 彼女は、恋する想いを封じ、男鹿と国を治める同士として接することを心に決めた。
 それが、彼と共に過ごすことが許される、唯一の方法だと思ったからだ。
 しかし、心の中まで変えることなどできるはずもなく、たとえ心を偽った会話しかできないとしても、毎日少年がここを訪れるのを心待ちにしていたのだ。
 なのに、そんなひとときさえ奪われては、心の置き場所が見当たらなくなると思った。

「男鹿の気持ちを利用して、審神者さにわにしたのはあなたよ!それなのに……!」

 張政の両腕をつかんだまま、うなだれた壹与は、声をあげて泣き出した。
 乾いた床に無数の涙の粒が染みをつくっていった。





「男鹿様!こちらにお越しください!」

 壹与との謁見を終え、卑弥呼の墓の築造現場へ戻った男鹿を、現場を監督する役人が遠くから呼んだ。
 目をやると、数人の護衛兵達が、長槍を手に円陣を組んでいるのが見えた。
 駆け寄ると、円陣の中心には、後ろ手に縛られ、布をすっぽりと頭から被った一人の男が、胡座を組んで座り、槍を突きつけられていた。

「地方から派遣されて来た役夫えきふの中に、怪しい者達を見つけまして、声を掛けたところ逃げ出したのです。この男だけは、なんとか取り押さえたのですが……」

 見ると、男の太腿には布の上から弓矢が刺さっていた。護衛兵が放った矢による負傷により、逃げ遅れたのであろう。

「ご覧ください」

 役人は、そう言って、男を覆っていた汚れた布を捲り上げた。

「……!」

 あらわになった男の姿を見て、男鹿は思わず息を呑んだ。
 男の顔も、手足も黒い入れ墨で覆われていた。

「そして、このようなものを腰に挿しておりました」

 役人は、手にしていた剣を鞘から抜き、男鹿の前に差し出した。
 それは、鈍色の刀身に波紋が浮かぶ鉄の剣だった。

「狗奴国の兵士か?」

 希少な鉄製の剣を、とても身分が高そうには見えない、こんな兵士が持っているということは、邪馬台周辺国では考えられないことであった。
 また、特徴的な文様の入れ墨は、狗奴国をはじめとする、海人族の傭兵ようへいが、士気を高めるため好んで施すことで知られていた。

「おい!残りの者達はどこへ行った? お前達の目的は何だ?」

 男鹿は、男の肩を激しく揺さぶって問いつめた。
 男は無言で、涼しい顔を少年に向けていたが、突然にやりと不敵な笑みを浮かべた。
 そして次の瞬間、くぐもった声を上げ、前のめりに倒れると、男の口元から、赤黒い血が溢れ出した。

「こいつ!舌を切ったな!」

 役人は、忌々し気に舌打ちした。
 男鹿は、男の体を揺さぶって、なおも彼らがここへ来た目的を聞き出そうとしたが、間もなく、何も語ることなく男は絶命した。

「逃げた男は、何人だ?」

 男鹿は、声を荒げて、役人に尋ねた。
 少年の顔は蒼白になっていた。

「四人……、いや五人かもしれませぬ」

 男鹿の気迫に、役人は後ずさりしながら答えた。
 男の口から聞き出すことはできなかったが、男鹿には、彼らの標的が思い当たっていた。
 それは、彼にとって、最も大切な者の命だった。

「現場をたのむ!」

 男鹿はそう言い残すと、今来たばかりの神殿への道を、駆け戻って行った。





 男鹿が神殿に駆けつけると、入り口付近で門番が殺され、倒れていた。
 男鹿は門番の手に握られていた銅剣を手にとり、強く握りしめた。
 幼い日の、実家で起こった惨事が目に浮かび、少年の手は震えていた。
 難升米の屋敷でも、壹与や女達を外に連れ出す任務を負った彼に、実戦経験はなく、人を殺めたこともなかった。
 しかし、直感で怪しい男達のねらいが壹与であると感じた彼は、柄を握る右手の震えを左手で抑え、目を閉じると、大きく深呼吸した。

(たのむ、動いてくれ!)

 自分の体に懇願して、剣を片手に、男鹿は祈祷の間を目指して駆け出した。

 途中、回廊や、各部屋には、おびただしい数の侍従や侍女達が、血を流し、倒れていた。
 これまで、神殿が直接敵に襲われたことはなく、不意をつかれ護衛兵も間に合わなかったのだろう。
 敵は少数とはいえ、丸腰の侍従や侍女には為す術がなかったに違いない。

 祈祷の間に近付くと、護衛兵が、入れ墨をした男達と、戦っていた。
 男達の鉄製の剣に対し、護衛兵の銅剣は、刃を合わせるたびに、刃こぼれをおこし、彼らは我が身を防御するだけで精一杯のようだった。
 男鹿も敵に向かい、剣を突き合わせたが、そのたびに、金属片と火花が飛び散った。
 それでも、彼は敵の隙を突いて、一人の男の脇腹に剣を差し込み、一気に切り裂いた。
 初めて感じる肉や骨を切る鈍い感触と共に、血が飛び散り、男鹿の顔や衣を赤く染めた。
 幼い頃から牛利から剣術を刷り込まれていたせいか、頭で考えるより先に体が動いた。

「男鹿様!大王のもとへ!」

 ひとりの兵が、敵と向かい合いながら叫んだ。
 男鹿は頷くと、祈祷の間へ一気に走った。
 途中、彼の行く手を阻むように敵が現れたが、護衛兵が押さえ込み、それを乗り越えてさらに進んだ。

 祈祷の間に入ると、入れ墨をした男が二人、護衛兵相手に剣を振り回していた。
 床に横たわる兵の数から、彼らがかなりの手練であることがわかった。
 祭壇の前には、両手で剣を構えた張政の背中で、震える壹与の姿があった。

「壹与様!」

「男鹿!なぜ戻って来たの!」

 壹与には、学問に長けた男鹿が、剣術に優れているとは思えなかった。
 そのため、自分の身の安全より、少年の身を案じたのだ。
 だが、予想に反して、男鹿は女王に向かって行こうとする敵の前に、素早く立ちふさがり、剣の刃を巧みに何度もぶつけ合った。
 しかし、彼の持つ銅剣の刃はすでにぼろぼろで、刀身にはひびが入り、折れるのも時間の問題かと思われた。
 鋭く耳をつく金属音が響くたびに、壹与は目をきつく閉じた。
 次に目を開けた時、戸口付近で戦っていた護衛兵が、敵にたすき状に斬られ、倒れるのが見えた。
 もう、室内には、護衛兵で動ける者は誰もいなかった。

「男鹿!これを!」

 追いつめられ、張政の目前まで追いやられた男鹿の背中に向かい、老人は手に持っていた剣を差し出した。
 張政の剣は、魏で造られた鉄製だった。
 男鹿は、片手に握った銅剣を、敵の刃と交えながら、もう一方の手を背中に回し、張政の剣を受け取った。
 両手に握った二本の剣を交差させ、敵の攻撃を押し返すと、彼は素早く銅剣を捨て、鉄の剣に持ちかえた。
 そして、鉄剣を両手で握りしめると、そのまま身を屈め、隙のあった男の腹を掻っ切った。

(切れる…!)

 その軽さと切れ味に、少年は驚く間もなく、正面から剣を振り下ろしてきたもう一人の男に向かって、屈んだ体勢から一気に剣を振り上げた。
 鉄剣同士がぶつかり合うと、やわらかい銅剣と比べ物にならぬほど、柄を握る手に激しい衝撃が走った。
 刃を交えながら、今度は男鹿が、敵を追い込み、壹与から距離を置くように、戸口の方へ移動して行った。

「男鹿様!残りはそいつ一人です!」

 祈祷の間に駆け込んで来た護衛兵が、入れ墨の男の背後で剣を構え、声を上げた。
 男鹿と兵士に前後を挟まれ、それを聞いた男は舌打ちをすると、いきなり剣を自分の腹に突き刺した。

「こいつ!」

 慌てる護衛兵の前で、男は一度挿した剣を、体から引き抜くと、再び、今度は自分の胸を突き刺し、その場に崩れ落ちた。
 敵に身柄を拘束される前に、死をもって、自分の口を封じるよう、命じられているのだろう。
 間もなく男の体は動かなくなった。
 肩で激しく息をつきながら、しばらく倒れた男の屍を呆然と見ていた男鹿は、我にかえると、祭壇の方に目をやった。

「壹与様。お怪我は?」

 男鹿の呼びかけに、張政の背後から駆け出した壹与は、一直線に少年の胸に飛び込んでいった。
 思わず男鹿も、片手に剣を握ったまま、少女を両手で受け止めた。

「……よかった……」

 泣きじゃくる壹与の肩を抱きながら、男鹿は大切な者を失わずに済んだ安堵感を、噛み締めていた。
 間を置かず、男鹿にしがみつくようにして泣く壹与の背後から、張政が近付いて来た。

「その剣は、おぬしにやる」

 張政はそう言って、剣の鞘を差し出した。
 てっきり、壹与を抱きとめたことを、咎められると思った男鹿は、不思議そうな表情で老人の顔を見た。

「それで今後も、大王をお守りするのじゃ」

 男鹿が鞘を受け取ると、張政は黙って祈祷の間を出て行った。
 男鹿は、鞘を握った左手で壹与の背中を抱き、右手に下げた剣を見つめた。
 その刃には血糊がべっとりと絡み付き、彼の手は爪の中まで赤黒い血で汚れていた。

(もう、戦いは始まっているのだ)

 男鹿は汚れた己の手を見つめながら、改めて女王を命をかけて守る決意を固めていた。




 狗奴国の兵らしき男達に、神殿が襲われ、壹与の命が狙われたとの報告は、吉備国にいた月読のもとにも届けられた。

「狗奴国め…。我々は警戒していて襲いにくいとみて、邪馬台を狙ったな」

 報告を受けて、月読は歯ぎしりをして悔しがった。
 今回の件は、月読達の動きを察知した狗奴国が、勝算が低いと悟り、同盟国が心を合わせるための象徴である壹与を亡き者にし、結束力をそごうとしたものと思われた。
 そこまで考えが及ばず、何も手を打たなかった自分を、月読は悔いた。

「壹与は、怪我はなかったのか?」

「壹与様は、男鹿の働きで、お怪我もなく、難を逃れられたようです」

 牛利は、少し誇らし気に胸を張った。

「奴は私が、幼い頃から剣術を叩き込みましたからね」

 それを聞いて、月読は少し安堵の表情を浮かべた。
 牛利に長年、直々に仕込まれたのであれば、その腕は確かであろうと思われたからだ。

「墓の現場は、他の者に委ねて、なるべく男鹿を壹与のそばにおけぬのか」

 月読の言葉に、牛利は黙り込み、あらぬ方向に目線を移した。

「張政殿が、あまり奴を壹与様のおそばに置きたがらぬのです」

「……?」

「まあ、男の私から見ても、奴はいい男ですからね」

 牛利の口ぶりから、月読には事情が飲み込めた。
 そして、またしても報われない恋に苦しんでいるであろう壹与を思い、胸が痛んだ。
 いずれ巫女の職務から解放されたとしても、邪馬台国の大王にまでなった壹与が、大夫たいふの身分である男鹿と夫婦になることは、民も、同盟国も許さないであろう。
 幼い頃からの男鹿の、壹与へ対する想いも聞いているだけに、愛し合いながらそばにいることさえはばかられる二人の心情を思うと、尚更せつなかった。

「壹与はまた泣いてるんだろうな」

 月読は、そうつぶやき、下唇を噛み締めた。
 壹与にしても、出雲国で出会った夕月ゆづきにしても、巫女とはいえ、生身の人間なのだ。
 生きていれば恋もし、神以外の者に心を奪われることもあるだろう。
 それを考えると、死ぬまで巫女であり続けた卑弥呼が、いかに偉大であったかを今更ながらに思い知らされた。
 かといって彼は、世にいる巫女達に、卑弥呼のような人生を歩んで欲しいとは思えなかった。
 やはり、巫女一人に責任を負わせる政は、とっくに限界に達しているのだ。
 改めて朝廷を造る必要性を感じ、月読は狗奴国との戦いへ向けての意志を固めた。
 そして、顔を上げ、真剣なまなざしを牛利に向けて言った。

「牛利、河内国王に使者を送ってくれ。航路で河内国に入って来る、怪しい輩の取り締まりを強化するようにと。また、今回の件で不安を抱えているであろう、壹与の力になってやって欲しいと」

 牛利は、月読の顔を見つめながら、大きく頷いた。





 夏も盛りを過ぎた頃、河内国王が壹与のもとを訪れた。
 二人が顔を合わせるのは、壹与が女大王に即位した際、王が祝いに訪れて以来だった。
 しかし、そのときは、数ある同盟国の王達からの祝辞への対応に終始し、親子がゆっくりと言葉を交わす機会はなかった。
 数年振りに、向かい合って座った父と娘の立場は、以前とは大きく異なっていた。

「お久しぶりでございます」

 父は、娘に深く頭を下げ、両手を床についた。
 邪馬台国に忠誠を誓う河内国の王にとっては、娘といえども、壹与の方が立場は上だった。

「お怪我がなくて何よりでした。怖い思いをされましたね」

 不審な者達に命を狙われた壹与に、王はいたわりの言葉をかけた。
 娘の自分に対し、丁寧な口調で語りかける父の姿を、壹与は不思議な気分で見ていた。

「……でも、幼い頃から身の回りの世話をしてくれた、侍従や侍女を多く失いました」

 壹与は今にも泣き出しそうな表情で、小さくつぶやいた。
 そんな女王の顔を見つめ、河内国王は眉をひそめた。
 このまだあどけなさが残る娘が、背負っているものを思うと、不憫で仕方がなかった。

「そなたが男鹿か」

 話題を変えるように、王は女王の後ろにひかえる少年に声を掛けた。
 男鹿は、神妙な面持ちで両手をつき、ひれ伏した。
 改めて背後に愛しい少年の存在を感じ、壹与の頬は、微かに紅潮した。
 そんな娘の表情に、父は一瞬目をとめたが、すぐに視線を少年の方へと戻した。

「大王の命をお守りしたそうだな。大儀であった。私からも礼を言う」

 王の言葉に、少年は一層身を低くした。

「それだけではないな。よくぞ、重い職務を担ってくれたな」

 頭を下げたまま、男鹿は河内国王はすべてを知っているのだと思った。
 壹与に、もう神の声が聞こえぬことも。
 そんな彼女に代わって、自分が審神者として、神託を偽っていることも。

「大王、少し外の風にあたりながら、お話致しませぬか」

 河内国王は、優しく微笑みながらそう言った。





男鹿あのものを愛しく思われているのですね」

 回廊を歩きながら、河内国王は壹与に語りかけた。
 壹与は唇を噛み締め、父から目を逸らした。
 この話をするために、父は自分だけを外に誘い出したのだ。

「私にはもう、神託が聞こえませぬ。既に巫女である資格はないのです。それでも、彼を愛してはいけないのでしょうか」

 思わず壹与は、ずっと納得できなかった正直な気持ちを、父にぶつけてみた。
 張政と違い、父なら自分の気持ちを理解してくれるのではないかと思ったのだ。

「事実はどうであれ、民達にとって、あなたは巫女であり女王なのです。それを裏切ってはなりませぬ」

 予想に反して、父は壹与の肩に手を置き、少し強い口調でそう言った。

「まるで飾り物だわ」

 うつむいてそうつぶやいた壹与の目から、涙がこぼれ、床に落ちた。
 そんな様子を見て、父はしばらく言葉を失ったが、気をとりなおし、娘の肩に置いた手に一層力を込めた。

「そうです。あなたは飾り物でよいのです。間もなく、あなたの名の下に、三十あまりの同盟国の、数千の兵が戦いに身を投じます。中には命を落とす者もいるでしょう。あなたは、彼らの心のよりどころに徹する義務があるのです。特定の者にだけ、心を寄せている場合ではありませぬ」

「そんなの無理よ。私にはそんな大きなものは背負えない」

 壹与は、涙に濡れた大きな瞳で、父の顔を見つめた。

「あなたは邪馬台国の女王なのですよ。覚悟なさい。卑弥呼様は、民達のために身をも滅ぼされたでしょう」

「私にはそんなことできない。神と言われた卑弥呼様と、私では違いすぎる」

 肩を押さえられたまま、壹与は首を左右に激しく振りながら泣いた。

「いいえ、あなたならできるはずです」

 娘の顔を覗き込むように、見つめながら、父は少し声を荒げた。
 尚も泣きじゃくる壹与の頬に両手を添えて、王はその顔を上に向けさせ、強引に目と目を合わせた。

「あなたは、卑弥呼様の娘なのですから」

 壹与は一瞬聞き違いかと思ったが、視線の先には、赤く充血した父の目があった。
 壹与は両手で口元を覆い、小さく首を左右に何度も振った。

「嘘……、だって、私のお母様は……」

 壹与は優しかった母、姉姫えひめの面影をうっすらと思い浮かべていた。
 母を失った時、まだ幼かった彼女の記憶は、おぼろげであったが、母のまなざしが、いつもあたたかかったことは、確かな記憶だった。

「あなたは、卑弥呼様と私の娘なのです……」

 河内国王は、壹与の頬に添えていた手を、再び彼女の肩に置き、深くうなだれた。
 壹与は立ち尽くしたまま、ただ呆然と、父の肩越しに、天高く立ち上る夏の雲を見つめていた。
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