ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第二章

第四話 変化

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 月読つくよみ達が、河内国へ来た日から、約半年が過ぎようとしていた。
 その日、月読は宮殿の回廊を、小走りで妻の部屋へと向かっていた。
 通りがかった侍女達は皆、その姿を微笑みながら見送った。
 月読は、妻である言葉媛ことのはひめの部屋へ着くと、しばらく戸口で乱れた息をつき、青い顔をして立ち尽くしていた。

「皇子様、どうぞ中へ」

 侍女が抑えきれずに、くすくすと笑いながら声をかけた。

「……よいのか?」

 月読が、恐る恐る部屋へ足を踏み入れると、侍女は、背にしていた天幕を捲った。
 そこには言葉媛がしとねの上に横たわっていた。
 月読は捲られた天幕の隙間から中へ入り、腰をおろすと、妻の顔を心配そうな表情で覗き込んだ。

「申し訳ありませぬ。このような姿で……」

 少しやつれた顔で夫を見つめてそう言う妻に、彼は微笑んで首を左右に振った。

「……大丈夫なのか?言葉は」

 傍らの侍女に、月読は不安気な表情で尋ねた。
 彼は、妻の具合が良くないと、使いの者から聞き、水路工事の現場から心配で駆けつけてきたのだった。

「ご心配なく。ご懐妊による悪阻つわりでございます」

 年配の侍女は、微笑んで月読の顔を見上げた。

「……子ができたのか?」

「はい。皇子様、おめでとうございます」

 月読は、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに言葉媛の方へ向き直り、妻の手をとると、嬉しそうに微笑みかけた。

「ありがとう。言葉」




「本当におうらやましい。媛様はあのようなお方に、あんなにも愛されて……」

 月読が去った後、侍女が言葉媛の額の汗を手拭で拭いながら語りかけた。
 媛は幸せそうに微笑み、頷いて瞳を閉じた。
 そのまま眠りにつくかと思われたが、しばらくして、再びゆっくりとそのまぶたが開いた。

「でも、あの優しさが、私だけのものと思ってはいけないのよ」

 言葉媛は、小さな声でつぶやいた。
 彼女も、月読がこれから、国同士の結束を固めるため、各地で妻を娶るであろうことは理解していた。
 そして、たとえそれが政治的な結婚であったとしても、その妻を彼が愛し、大切にするであろうことも。自分がそうであったように。

「あの方は、亡くなった方にさえ、まだ愛情を注いでおられるのだもの」

 彼女は、月読の髪に、いつも目立たぬように、女物の櫛が挿されていることに気付いていた。
 それはおそらく、ここへ来る前に亡くしたという、妻の形見であろうと確信していた。
 優しくされるほど、愛されていると感じるほど、彼がこれから出会う女達にも同じように愛情を注いでいくのかと思うと、胸が締め付けられる思いがした。

「それに、あの方は近く戦の旅に向かわれる。いずれにせよ、共に過ごせる時間は長くはないのよ」

「媛様、もうお休みくださいませ。お腹のお子にひびきます」

 侍女は涙ぐむ媛に、困惑した表情を浮かべて上掛けを整えた。
 言葉媛は、侍女に背を向けると、声を殺して泣いた。
 彼女は月読に出会って、大切にされるほど、寂しくなる思いがあることを、初めて知ったのだった。
 侍女はそんな媛の肩を、黙って摩ることしかできなかった。




「ここを発つまでに、子に会えるだろうか」

 月読は、牛利ぎゅうりと建造中の船を見ながら、あごに手を当てて思いを巡らせた。
 船は着々と形を成してきており、彼の兵のために、河内王が用意させている鉄の剣も、既に予定の半数以上は完成していた。
 おそらくあと半年足らずで、旅立ちの準備がすべて揃うかと思われたが、侍女の話では、言葉媛の出産は、七、八ヶ月は先になりそうだったのだ。
 しかし、宇多子との間に子がなかった月読にとって、初めて誕生する我が子は愛おしく、旅立つ前にぜひ一度抱いてみたかった。

「少しくらい出発を遅らせてもよろしいのでは?」

 牛利は、真剣に思い悩んでいる月読を、微笑ましく感じながら提案した。

「うーむ」

 月読は、唇を軽く噛んで、再び考え込んだ。
 我が子に会いたいのは山々だったが、邪馬台に残してきている壹与いよの事を思うと、一日も早く狗奴国くなこくを打ち落とし、朝廷を造って帰郷したかった。
 こうしてこの国で、過ぎてゆく時間さえ、常々歯がゆく感じていたのだ。

「壹与様なら大丈夫ですよ。張政ちょうせい殿も付いてますし、男鹿おが審神者さにわになってお支えしておりますから。今は国をあげて、卑弥呼様の巨大な墓造りに取りかかっているようですし」

 牛利は邪馬台の張政との間に、使者を頻繁に行き来させ、情報の共有をしていた。
 そして当然、それは逐一月読にも報告されていたので、壹与が大掛かりな事業に着手し始めていることは、彼も知っていた。
 しかし、この日の月読は、牛利の言葉に表情を曇らせた。

「……そのことなのだが、真に神託なのであろうか……」

 卑弥呼の死後も、壹与から神の言葉を聞いてきた月読は、卑弥呼の墓に関する今回の神託に、以前より疑問を感じていたのだった。
 墓の完成によって、壹与の権威を誇示するという、目的がはっきりしすぎているような気がしていたのだ。
 神託とは、本来まじないのようなもので、行動と目的が関連性を持たないものなのだ。
 まさかとは思いながら、その点で今回の神託には、人による意図が感じられて仕方がなかった。

「それに修行経験もない男鹿に、すぐに審神者が務まるとも思えぬ」

 牛利は思わず言葉を失った。壹与が神託が聞けなくなったことは、月読には伏せていた。
 月読への想いが原因であるだけに、彼にいらぬ負担を掛けたくなかったのだ。
 しかし、民の目はごまかせても、優れた審神者であった月読の目は、欺く事はできなかったようだった。

「実は……」

 牛利は、意を決して月読に真実を語る事にした。




 牛利から事実を聞いて、月読は頭を抱え込んでいた。

「そんな苦しみも知らず、私は……」

 壹与の自分へ対する想いには気が付いていたが、少女期の兄へ対する憧れのようなものと考え、神の声が聞こえなくなるなど、思ってもいなかったのである。

「しかも、男鹿にも、神に背くようなことまでさせてしまうとは……」

「奴なら、壹与様と運命を共にする覚悟です。本人が選んだ道です」

 牛利は、少しでも、月読の心を軽くしたかったが、こんなことを言っても、意味がないことはわかっていた。
 自分が原因で、幼い二人が大きすぎるものを背負うことになっていることに、月読は己を責め、心を痛めていた。

「私は、どうすればいいのだ」

 額に拳を押し付けながら、月読は吐き捨てるようにつぶやいた。
 すぐにでも邪馬台に戻り、二人の重責を代わりに背負ってやりたかったが、今更自分が戻ったところで、彼らが民に伝えた神託を否定することになる。
 民は、神託により月読が南へ旅立ち、倭国を統一して戻って来ると信じているのだ。
 万が一、神託が偽りであったと民が知れば、壹与も男鹿もただではすまないであろう。
 場合によっては、民を欺いた罪で命さえ危うくなる。
 壹与達を救うには、彼らの神託通りの結果を、自分が持ち帰るしかないのだ。

「やはり、一日も早く出発するべきだな。そして、必ず狗奴国を降さなくてはならぬ」

 そうつぶやき、しばらく黙って考え事をしていた月読は、ふと、牛利の顔を見上げて言った。

「牛利、私に剣の使い方を教えてはくれぬか」

 牛利は、見開いた目を若い皇子に向けた。

「せめて己の身は自分で守れるようになりたいのだ」

「……」

 牛利は、困ったような表情をして目を逸らした。
 彼は、この先、戦いの場では常に主に寄り添い、命をかけて守るつもりでいた。
 そして、なるべくなら、神の子である月読の手を、血で汚したくないとも思っていた。
 そのため、月読が今以上に手練てだれになる事は望んでいなかったのだ。

「あの日、難升米なしめの屋敷で、お前は戦いが終わってから来たような顔をしていたが、本当は、私の側に兵が近付かぬよう、部屋の外で抑えていたのではないのか」

 月読には、牛利の難升米へ対する憎しみの深さを思うと、彼があの場にいなかったとは考えられなかった。
 そのため、実戦経験の無かった自分を、陰から援護していたに違いないと思ったのだ。
 黙り込んだ大男を見て、月読の中で予想は確信に変わった。

「あの戦いで、私は難升米と一対一でなければ、やられていた。いや、それでも危なかった。あの時は、お前から渡された剣に守られたようなものだ」

 月読も幼い頃から、付きの者に剣の手ほどきは受けていたが、今思えばそれは遊びのようなものであったと感じていた。
 難升米のような老いた男相手にも、苦戦するようでは、この先に待ち構えている狗奴国との戦いでは、とても通用しないと思ったのだ。

「せめてお前達には、私のことを気に掛けず戦って欲しい。そのために強くなりたいのだ」

 月読は、牛利の腕を強く握りしめて懇願した。
 その意志の固い瞳に、牛利は、戸惑いながらも頷くしかなかった。 





 五ヶ月後、予定より少し早く、船と剣が完成し、月読達一行は河内湖から航路で、狗奴国を目指す旅に出発することとなった。
 出発の日、月読は身重の言葉媛のもとを訪れた。

「お前に会えぬまま旅立つのはしのびないが、どうかすこやかに」

 媛の大きくなった腹に、愛しそうに触れ、月読は子に語りかけた。
 そんな様子を見て、言葉媛は口元を袖で抑え、涙をこぼした。
 狗奴国との戦いの旅に出る夫は、生きて再び会えるとは限らない。
 これがもしかしたら、一生の別れになるかもしれない。
 そう思うと、涙が止まらなかった。
 以前から覚悟していたはずなのに、その日が来ても、心の整理がつかなかった。

「狗奴国を平定し、落ち着いたら、必ず会いに来ます」

 袖口を噛み締め、必死に悲しみを堪えようとしている妻を抱き寄せ、月読は優しく口付けた。
 抱かれながら媛は、以前より夫の体が逞しくなっていることに気が付いた。
 そして、そのことでまた、戦いの準備がすすめられている事を実感し、胸が締め付けられる思いがした。

「体に気をつけて、いい子を産んでください」

 月読も悲しみをたたえた瞳をしていた。
 いつも控えめで大人しいこの媛が、今後ひとりで子を産み育てていくのかと思うと、側にいてやれない自分自身に憤りを感じていた。
 言葉媛は、涙を袖で拭い、懐から、銀色の組紐の両端に水晶の勾玉まがたまがついた飾りを取り出すと、月読に差し出した。

「私の首飾りから作り直したものです。離れていても、あなた様をお守りできるように、身につけてくださいませ」

「ありがとう。大切にします」

 月読は、勾玉を握りしめ、もう一度強く媛を抱きしめると、彼女の部屋を出て行った。




 湖畔に建つ宮殿の側に設けられた桟橋には、真新しい船が横付けされていた。
 河内国王が、月読の為に用意してくれた船は、内外の海洋交通の要所であるこの国においても、稀に見る大きなものであった。
 その上、王は、船の漕ぎ手として腕っ節のよい男達も用意してくれていた。

「狗奴国との決戦の日が近付きましたら、使者をお送りください。援軍と武器をすぐにお送りしましょう」

 見送りに来た河内王は、穏やかな笑顔を見せ、月読に向かって力強くそう言った。
 褐色の肌と、緋色の衣が晴天の空と湖の青に眩しく映え、一層王を雄々しく見せていた。
 いつしか月読は、この義理の父である王に、見た事がない父の姿を重ねていた。

「あなた様の御子も大切にお育ていたしますゆえ、ご心配なされますな」

 月読は、感謝しきれない思いで、深く頭を下げた。




「牛利殿!」

 月読に続いて船に乗り込もうとする牛利を、呼び止める声があった。
 牛利が立ち止まり、振り返ると、黒く日焼けし、衣を土で汚した男達が彼を取り囲んだ。
 彼らは、湖の排水用水路を掘る技術を、牛利のもとで学び、役夫えきふ(労役の作業員)達に指示を出す役割を担っていた、豪族出身の若者達だった。

「すまぬな。まだ工事の目処もつかぬというのに……」

 作業半ばで旅発つことを、詫びる牛利に、男達は一様に笑顔で首を振った。

「工事の方は、あなた様にご指導いただいたことを、なぞりながらすすめて参りますので、ご心配なく」

 男達は、目を輝かせながら、牛利の手に自分達の手を重ね合わせて力を込めた。

「我々は、あなた様に感謝の言葉を申し上げたくて参ったのです」

「感謝?」

「あなた様が教えてくださった技術のおかげで、これまで雨が降るたびに、床下まで浸水していた集落の被害が緩和されました。我々は自然に対しては無力なものと思っておりましたが、知恵によって回避できることがあると知ったのです」

「家族や国を我々自身でも守ることができる。その事を教えてくださったことに、感謝しております」

「誠にありがとうございました」

 口々に感謝の言葉を語る男達に、牛利は、驚いた表情を、一人一人の男達に向けていた。




 遠くなっていく河内国の宮殿を見つめ、甲板で立ち尽くしている牛利の隣に、 月読は並んだ。
 出港時から、珍しく呆然とした牛利の様子が気にかかっていたのだ。

「どうかしたのか?」

「……あ、いや……」

 月読に声をかけられ、我に返った牛利は頭を掻き、苦笑した。

「人を殺めること以外で感謝されたのは、初めてであったもので……」

 月読ははっとして、大男の軽く握られた右の拳を見つめた。
 この男はこれまで、敵を倒す事を命じられ、愛する人をその腕の中で失い、仇を討つ事を使命としてきた。
 これまでその手の中で、いったい、いくつの命が絶えて来たのであろうか。
 しかし、この男にも、人を斬る以外の生き方が、あるに違いない。
 戸惑いながら遠くに目をやる牛利を見ていると、月読は、祈るようにそう思わずにはいられなかった。

「早くそれが当たり前の世になればよいな」

 そう言って、月読も小さくなっていく河内の町に視線を移した。
 そして、しばらく二人の男は、船が波紋を残していく湖面を、言葉も無く見つめていた。
 やがて前方に、南から延びる半島が見えてきた。
 その北側には、海と湖の水が入り交じる海口が、彼らの船と未来を迎えるように広がっていた。
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