ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第一章

第五話 刹那の愛

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 暗い洞窟の中に、月読つくよみはいた。

 悪夢のようなあの朝の出来事から約半日が過ぎ、反逆者として捕えられた彼は、ここで夜を迎えた。
 人里離れた山の中にある、罪人が幽閉される牢の中である。
 天然の洞窟の口に木製の柵を張ったもので、岩肌がむき出しの壁には、幾筋も滲み出た水が流れ、内部はじめりとした重い空気でよどんでいた。
 柵の外には、屈強な男が、長い槍を手に月読の様子を見張っている。

「ヴッ……」

 小さなうめき声をあげて、見張りの男が前のめりに倒れるのが見えた。

「月読様」

 倒れた男をまたいで、大男が柵に近付いて来た。
 月明かりを背後から受け、影しか見えなかったが、月読にはその声に覚えがあった。

牛利ぎゅうりか?」

 昔、から帰った難升米なしめと対面した際、かたわらにいた牛利だった。
 難升米と共に魏へ渡ったこの大男は、用心棒的な役割で、帰国後もいつも陰から主人を見守っていた。
 そんな男がここへ来たということは、自分の息の根を止めて来るよう、あるじに命じられたに違いない。

「今、ここを開けます」

 やはり、自分を亡き者にするつもりかと、月読は諦めと絶望の中、覚悟を決めた。

「あなたを助けに来ました」

「助けに?」

 思いがけない言葉に、一層不信感を募らせ、月読は洞窟の奥で身を固くした。

「私はあなたの味方です」

 牛利はそう言って、柵を閉じている頑丈な縄をほどき始めた。

「まさか。お前は難升米の……」

「そばでずっと見てきたからこそ、この国をあの男の自由にはさせられないのです」

 月読には、牛利が嘘を言っているようには思えなかったが、完全に警戒心を解く事はできなかった。
 そんな月読の目が、遠くから近付いて来る人影をとらえた。
 その視線に気がついた牛利は、柵に背を向け、腰から短剣を抜くと、闇に向かって構えた。

「誰だ!」

 牛利の声に、人影は一瞬びくっと身を縮め、茂みの中に身を隠した。

「誰だと聞いておる!」

 揺れる茂みに向かって、牛利は短剣を片手に飛び込んで行った。

「きゃあ!」

宇多子うたこ?」

 月読は思わず駆け寄って、柵を握りしめた。
 牛利が捕えた人影の発した声は、紛れも無く聞き慣れた妻のものであったのだ。

「おい、放せ!妻の宇多子だ!」 

「あなた!」

 緩められた牛利の手から逃れ、茂みの中から手足の細い女が月読のもとへ駆け寄って来た。

「お前、なぜここに?」

 柵越しに月読は宇多子の頬に触れた。
 熱い頬が涙で濡れている。

「お父様はなんてことを……」

 宇多子も、震える手で月読の頬に触れた。

「宇多子、壹与いよは無事か?」

「あの子は……」

 言いかけて宇多子は、牛利の方をちらっと見た。

「あの者は……。私の味方だと言ってくれている」

 宇多子は、ほっと息をついて微笑み、言葉を続けた。

「昨夜、父が私のもとへ来て、あなたが卑弥呼様を殺し、女王を偽っていると言いました」

「あいつ……!」

「でも、父と入れ替わりにやって来た壹与が、事実を教えてくれたのです。そして、父があなたを罠にはめようとしているから、注意するようにと……」

「壹与の奴、難升米のくわだてを見破っていたのか。それに比べて私は……」

 月読は歯ぎしりをして、柵をこぶしで叩き、ひたいを打ち付けた。
 そんな月読の拳を、宇多子がそっと両手で包み込んだ。

「ご自分を責めないで。それより、これからどうするかを考えましょう」

 月読の唇に、宇多子のそれが重なった。
 牛利はゴホンと咳払いして、気まずそうに二人に背を向けた。

「二人でどこか遠くへ行きましょう」

 宇多子が柵越しに、月読の首に腕を巻き付けてきた。
 甘い香りが月読を包み込み、無意識のうちに彼の腕も、強く女の体を抱きしめていた。

「二人で……」

 宇多子の声が、呪文のようにそう繰り返した。
 このまま、この女と幸せに暮らせたら……。
 月読は全てを捨ててもいいと思った。
 住み慣れた土地も、王家も、民も。
 どうせおそらく明日には消される命だ。
 それならいっそ、全てを捨て去って、愛する妻とどこか遠い土地で静かに暮らせればいい。
 若者の心は、ほぼ固まりかけていた。

「……だめだ」

 おもむろに月読は宇多子の体を引き離した。

「壹与を難升米のもとへ置いては行けない。あの子は、私が去れば唯一の王位継承者だ。巫女としての力も人一倍強い。奴のそばにいると、殺されるか、利用されるかだ」

 月読は宇多子の体から離した両手で、柵を握りしめ、少し離れた場所で背を向けている大男に声をかけた。

「おい、お前が本当に私の味方なら、私をここから出してくれ。あの子を…壹与を助けに行かなくてはならないんだ」

 牛利は月読の方へ素早く向き直ると、駆け寄って来て柵の縄に手をかけた。

「待って」

 宇多子がその手を止めた。

「素直に私とこの地を去ると言えば、逃がして差し上げたのに」

「宇多子?」

 月明かりの中、宇多子がせつな気に笑うのが見えた。

「お父様の目当ては、あの子でしたの」

「……?」

「壹与の巫女としての力が欲しかったのよ」

 月読には、妻の言わんとすることがすぐには理解できなかった。

「新しい大王おおきみとして君臨するためにね」

「宇多子、お前は……」

「私は難升米の娘。父を裏切ることはできないわ」

 月読は愕然がくぜんとした。
 あれほど愛をささやき合った妻までもが、彼の味方ではなかったのである。
 彼は柵を両手で握りしめ、激しく揺さぶり、叫んだ。

「ここから出せ!出してくれ!」

「父上は、あなたがこの地を去れば、命だけは見逃すおつもりでしたのよ。それなのにあなたは……」

 宇多子の言葉など耳にせず、月読は柵を揺さぶり続けた。

「無駄よ。この男も私がここへやったの。私がよしと言うまでは、柵に指一本触れやしないわ」

 絶望を感じた月読は、頭を柵に押し当て、すがるように身を滑らすと、膝をついて地に伏した。

「……二人で、遠くへ行こうと言ったじゃないか」

「邪馬台は、四方を山に囲まれたところよ。行き倒れなんてごめんだわ」

 愛情の無い返事であった。

「途中で父の兵が迎えに来てくれるはずだったの。山賊の振りをしてね。私だけ」

 月光の向きが変わり、宇多子の白い顔がくっきりと闇に浮かんだ。
 その顔は、無表情で、氷のように冷たかった。

「哀れな人」

 宇多子はそうつぶやくと、月読に背を向け、立ち尽くしている牛利の肩をたたいて促した。

「行くわよ」

 牛利は同情めいた瞳で、しばらく月読を見下ろしていたが、突然向きを変えると、少し前を歩き出していた宇多子の首に手をのばした。

「牛利、何を?」

 素早く大男の手から逃れた宇多子は、駆け出そうとしたが、再びのびた牛利の手に衣を掴まれ、横滑りするように地面に倒れた。

「牛利、裏切る気?」

 上半身を起こした宇多子に、牛利は股がると、その大きな手で白い細い首を絞め、後頭部を地面に叩き付けた。
 宇多子は咳き込み、口の端から白い泡を吹き出した。

「牛利!やめてくれ!宇多子を殺さないでくれ!」

 月読は、柵の中から叫んだ。

「牛利!その人は私の妻なんだ!」

 牛利の力がふっと弛み、宇多子の首からその手が離れた。
 宇多子は、ぐったりとしたまま、仰向けに倒れている。

「牛利、ここから出してくれ!早く!」

 月読は、激しく柵を拳で叩いた。

「牛利!」

 宇多子に股がったまま、のっそりと立ち上がった牛利は、大きくため息をつくと、月読のそばへやって来た。
 太い指が、器用に縄をほどいていく。

「宇多子!」

 牢の中から解放されると、月読は倒れたままの妻のそばへ駆け寄り、胸元に耳を寄せた。

「……よかった。生きている……」

 ほっと息をついた月読は、宇多子を抱き上げ、先ほどまで自分がいた牢の中へ入ると、乾いた場所を選んで静かに寝かせた。
 そして、胸の上でそっと手を重ねさせると、しばらくその顔を見つめていたが、一息つくと牢から出てきた。

「柵をしてくれ」

 月読に言われ、牛利は再び器用に縄を操り、柵を閉じた。
 元通り柵が閉じられると、月読はさっきまでと逆の立場で妻を見下ろした。
 月明かりに照らされ、宇多子の肌は透き通るほど白く輝いていた。
 ただ、首元の絞められた跡だけが、赤黒くいやに痛々しかった。

「それでも……」

 月読の頬を一筋、熱いものがつたった。

「それでも私は、この人を愛していたのだよ」

 それは、月読が八年振りに、あの姉が死んだ夜以来、初めて流す涙であった。

「宇多子様も、この方なりに苦しまれたのですよ」

 思いがけず、牛利が口を開いた。

「あなた様や壹与様を愛さぬように。難升米の娘であるばかりに」

「……?」

「この地から出て行かせるから、命だけは助けて欲しいと、難升米に申し出たのはこの方ですから」

 無言で宇多子を見つめる月読の目から、涙が後から後から溢れ出し、頬を濡らした。
 やがて彼は唇を噛み締め、しばらく伏せていた目を見開き、夜空に向かって言った。

「壹与を助けに行く」



「お前は……なぜ……?」

 月読は、自分より頭ひとつ分以上背の高い男を見上げて尋ねた。

「一時の同情から私に味方したのなら、今からでも遅くない……」

「すべては計画通りなのですよ」

 牛利は涼しい顔をして言った。

「最初に申し上げたでしょう。私はあなたの味方です」

 難升米の屋敷を目指し、山中の牢からくだる山道で、二人の男は向かい合った。
 最も信じていた人間に、続けざまに裏切られたばかりの月読は、疑い深気なまなざしで、牛利を見ていた。

「そんな目で見ないでくださいよ。まいったなあ。私は裏切りませんよ」

 眉間に皺を寄せ、牛利は口を歪ませた。

「私が賢者なら、お前の言葉の真意も判ろうが、どうやら私には人を見る目が無いらしいのでね」

 月読は、味方と名乗る者を素直に信じる事ができない己が哀しかった。
 疑う事を知らなかった昨日までの自分が、まるで他人のように思えたのである。

「私は難升米の独裁に反対する者。あの男には倭国はおろか、邪馬台を治める力もありませぬ」

「その男の罠に、まんまとはまったのだぞ。私は」

 皮肉気に鼻で笑い、月読は額に巻かれた帯を解くと、垂らしていた髪をひとつに束ねた。
 巫女の装束を身に纏い、月光を浴びた月読は、どこか妖艶で神秘的に見えた。

「ご自分に自信をお持ちください。あなたに味方する者は、私の他にも数多くいるのです」

 悲壮に訴えかける牛利の言葉も、固くなってしまった月読の心には響かなかった。

「私は壹与を助けに行く。ただし助けはいらぬ。ひとりでやる。お前の言葉が真なら、黙ってこのまま行かせてくれ。もしそうでないのなら、今ここで私を殺せばよい。勿論、そう簡単には殺られぬつもりだがな」

 険しい顔つきで月読はそう言い、腰に差していた儀式用の剣を、額の前に構えた。
 牛利は軽く唇を噛み、眉間を寄せた表情のまま、月読を見つめた。

「そこまでおっしゃるのなら……」

 大男は一息つくと、自分の腰の長剣を抜き放った。
 月読はごくりとのどを鳴らして、一歩後ずさった。
 次の瞬間、月読の剣の三倍近くもありそうな青銅の剣が、牛利の手から離れ月読の居る方向へ飛んで来た。

 ガキーン!

 突然の金属音に驚いて、木々のこずえから鳥の群れが一斉に飛び立った。
 月読は目を見開いて、足元の地面に刺さる剣を見つめ、続いて牛利の顔を見上げた。

「そのような黄金の、しかも短剣では武器にならんでしょう。それを持ってお行きなさい」

 人懐っこい笑顔で大男はそう言い、剣のさやを放った。
 月読はそれを片手で受け取ると、刃を納め、腰に挿した。
 それでも、しばらくその場を立ち去りかねている月読に、牛利は少し口調を強めて言った。

「さあ、早く!夜が明けぬうちに!」

 その声に弾かれるように、月読は暗闇に駆け出した。
 そして、山道を駆け下りながら、次に牛利に会う事ができたなら、素直に感謝の言葉を口にしたいと思った。

 獣道のような道なき道を無我夢中で突き進み、踏み平された麓の道に差し掛かると、難升米の屋敷の灯りが見え、笛や太鼓の音が微かに聞こえて来た。
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