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1巻
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そうだ、王子だって初対面の人間と結婚するのは嫌に決まっている。そもそも花嫁が現れるとは、誰もが思っていなかったのでしょう? だったらちょうどいい。王子に頼んで、私を元の世界に帰すように王を説得してもらおう。流されるまま結婚なんて冗談じゃない。
レオンさんに案内されて歩みを進める間も、私は策を練った。いつの間にか城を出ていたのか、晴れた空の下、鳥のさえずりを聞いてハッとなり、慌てて周囲を見回す。
外から見る城はテレビなどでしか見たことがない、外国の城そのままだった。見上げるほど高い外壁には所々ツタが絡まっている。綺麗に整えられた庭園の中心にそびえ立つ城の存在感に、圧倒されてしまう。
レオンさんについて庭園を進むと、やがて太い一本の道が現れた。
「ここは道が悪いので、お気をつけ下さい」
レンガ造りの歩道は、少し欠けている箇所もあったので、でこぼこしている。雨の日はそこに水がたまってぬかるみそうだ。
それにしても、この服装は足元が見えづらいし重いので、歩きにくい。ドレスの裾を汚さないように、細心の注意を払って進む。
そうしてしばらく歩くと、目の前に大きな建物が現れた。木が茂る中にたたずむ神秘的な景観は、古い教会を思わせる。その建物を前にして、レオンさんが説明してくれた。
「ここが神殿になります」
その場所へ近づくにつれ、静穏な雰囲気が感じられた。周囲には、人の気配がない。
階段を上って神殿の中に足を踏み入れると内部は薄暗く、厳かな空気が漂っている。
レオンさんの背中を追いかければ、床に触れる靴の音が周囲に響き渡る。どうやら神殿の奥まで来たらしく、いっそう神々しさを感じ、緊張してきた。
中庭を囲む回廊を通り、さらに奥へ進むと、二人の女性がいた。彼女たちも神に仕える身なのだろうか、レオンさんと同じような長衣を羽織っている。私たちが近づけば、彼女たちはゆっくりと頭を下げた。
レオンさんが目で合図を送ると、女性の一人が私に近づいてくる。彼女は純白のレースでできた、何メートルもありそうな長いベールを両手に抱えていた。
「失礼します」
「あ、ありがとうございます」
そっと手を伸ばし、手際よく私にベールを被せてくれた彼女にお礼を口にした。しかし、ベールを被ったことにより、前がよく見えなくなってしまう。おまけに頭が重くなり、ふらふらする。
「行きましょう」
先に進むように促されるけれど、ベールのせいで視界が薄暗く、どこを歩いているのかわからない。仕方ないのでレオンさんの後ろを慎重に進んだ。
やがてレオンさんが立ち止まる。顔を少し上げると、大きな扉が視界に入った。
重厚な扉は、私の背丈よりもずっと高い。そして、細かい部分の装飾まで美しかった。
レオンさんによって、その扉が開け放たれる。直後、私に向かって風が吹いた。
真っ先に視界に入ってきたのは、見上げるほど高い天井。そこから差し込む光がとても神秘的で、息を呑む。しばし美しい光景に見とれると同時に、この雰囲気に圧倒される。
「大丈夫ですか?」
緊張していると声をかけられたので、静かにうなずいた。
人の気配が感じられないこの場所に、私とその隣を歩くレオンさんの足音だけが響き渡る。
やがて目の前に、豪華な主祭壇が近づく。
その両隣には天使像が建ち、静かに周囲を見守っている。前には、背の高い椅子が二つ設置されていた。
レオンさんは、私に椅子へ腰かけるように言い、自分は祭壇の方へ近づいていった。さっきから歩きっぱなしなので少し疲れたし、一息つきたいと思いながら、椅子の側まで行く。
そこで、隣の椅子に腰かけている人物がいることに気づいた。
私からは背中しか見えないが、もしかしてエドワード王子かもしれない。
ごくりと唾を呑み込み、手をギュッと握った。
彼にこの結婚は無理だと、早く直談判しなければ!
急いでベールを持ち上げて、顔を出した。視界が開けたことにホッとする。
そして、すぐさま椅子に座る人物へと視線を向けた。
つやつやして癖のないブロンドの髪に、天使の輪が輝く。青い瞳を真っ直ぐ私に向けているこの人がエドワード王子――私の結婚相手なの?
私は思わず叫んでしまった。
「子供じゃない!!」
エドワード王子は子供だった。せいぜい十二歳ぐらいだろう。
「失礼な!! 子供ではない」
ムッとした表情ですぐさま言い返すエドワード王子だけど、どう見ても子供だから。少なくとも結婚できる年齢ではなさそうだ。
法律にひっかかる! そんなのこの国では関係ないと言われても、私は気にする!!
なぜ私は異世界で、初対面の少年と結婚しなければならないのでしょうか。
……なんでだ!!
レオンさんが咳払いで落ち着くように訴えてくるけれど、これが落ち着いていられますか。
しばらくすると、レオンさんはあきらめたのか小さくため息をついた。
そして祭壇に向かって両膝をつき、なにやらブツブツと言いはじめる。
両手を組んでいるそのポーズは、まるで祈りを捧げているみたいだ。
なにをしているのか、全然わからない。それに、大人しく待っているわけにもいかない。
エドワード王子に直談判しなければ! けれど子供相手に話が通じるのかしら?
焦りながらも椅子に座り、隣にいる少年に接触を試みることにした。
「ねぇ、ボク、ちょっと聞いてもいいかな?」
努めて優しい声色を出したところ、相手は一瞬、キョトンとした。彼は瞬きを数回繰り返したあと、口を開く。
「『ボク』とは誰のことだ」
あきらかにムッとした様子を見せた彼に、内心焦った。
「え、あの、君だっていきなり結婚とか嫌でしょう? この儀式について、どう思っているの?」
どうやら子供扱いが気に入らなかったらしい。だけど初対面なんだもの、どうやって呼んだらいいのかわからないわ。
静謐な空気の中、レオンさんの声だけが響き渡る。
少年の返答を待っていると、彼は眉根を少し寄せた。
「神聖なる儀式の最中に、ペラペラと口を開くのはマナー違反だと思っている」
「……」
はい、おっしゃる通りでございます。悪い大人ですみませんでした。
だけど、わけもわからずこの場にいるのだから、私としては苦痛で仕方ない。
それに、このまま大人しくしていたら、場の雰囲気に流されて結婚という事態に陥りそうだ。
いっそ、レオンさんが祈りを捧げている間に逃げ出そうか。だけど、どこへ行くの? 仮に逃げても、道もわからなければ、行き場所もない。
そこで隣の少年をチラッと横目で見る。
王とよく似た輪郭をした彼は、まるで映画の中に出てくる王子様みたい。
今からこんなに美形なら、将来が恐ろしいわ。きっと、誰もが憧れる王子様になるんだろうな。
「――カ様」
そんな彼が将来選ぶ女性は、どんな人かしら? 映画とかの定番だと隣国のお姫様よね。
「――リカ様」
彼の隣に並ぶ女性が、私なんてないわー。あり得ないわ。しかも年齢差を考えなさいよ。神様とやらも、人選ミスじゃない?
「リカ様」
「は、はい」
一人で納得してうなずいていたところ、名を呼ばれたことに気づき、反射的に返事をする。どうやら、先ほどからレオンさんに呼ばれていたみたいだ。しまった、全く祈りの言葉を聞いていなかったのが、ばれたかも。
真正面から見つめられて、苦笑いでごまかす。長々と続いたレオンさんの祈りは、いつの間にやら終わったようだ。レオンさんは優しく微笑み、王子へ視線を投げた。王子はうなずくと、なにやら胸ポケットをガサゴソと探りはじめる。
その仕草が可愛らしくて、微笑ましく思ってしまう。
兄妹がいないからよくわからないけれど、弟がいたら、こんな感じなのかしら。
私はそう考えつつ、うつむいて胸ポケットの中を探る王子を温かい目で見守っていた。やがて彼の頬がパアッと明るくなる。どうやら目的を果たした様子だ。よかったね。
そして、彼は私に視線を向けてきた。
首を傾げて見ていると、手招きされる。なに? と首を捻れば、早く来いと言わんばかりに、手招きが激しくなった。
十分近くにいるので、わざわざ呼ぶ必要なんてないのに。
そう思いながらも、可愛らしい顔をした彼に近づく。すると、彼はもっと近くに来いとでも言いたげな表情を浮かべた。
言いたいことでもあるのかと、私はさらに顔を近づける。その時、彼の手がスッと伸びてきたと思ったら、なにかを首にかけられた。
驚きながら瞬きすると、レオンさんの拍手が響く。
「おめでとうございます、エドワード王子、リカ様」
え? なにがおめでたいの?
怪訝な表情を向ければ、レオンさんが口を開いた。
「結婚の儀は無事に終了しました。これで二人は、神に祝福された夫婦となります」
「は!?」
いったい、なにがどうなってるの!?
「そんなこと、認めていないわ!」
思わず叫んだけれど、レオンさんは落ち着いている。
「ですが、リカ様は先ほど『はい』と返事をなされました」
確かに言った。だけど、名前を呼ばれただけかと思っていたのに。
「それに、王子の指輪を受け取ったのは、リカ様も納得されたからだとばかり」
レオンさんの視線の先は、私の首元だ。
そこでハッとして確認すると、ネックレスがかけられていた。その先になにかがついている。
「これは指輪?」
指輪は細かい模様が入っていて、緩いカーブが優雅な雰囲気だ。アンティークテイストで、質がとてもよさそうだった。
「代々王家に伝わる指輪です」
「なぜ、そんなに大事なものを私に!?」
焦っていると、横から子供の声が聞こえる。
「それは花嫁となった者に贈られる指輪だ」
「ちょっと待ってよ! いきなり、そんなこと言われても困るわ!!」
大人げないと自分でもわかっている。つい、子供相手に怒鳴ってしまった。
「これは受け取れない」
指輪を首から外して王子に渡そうとすると、ポツリとつぶやきが聞こえた。
「……嫌なのか」
「そりゃそうよ!! 結婚は、こんなに簡単に決めちゃいけないわ。もっと長い時間をかけて、一生一緒にいたいと思える相手とするものよ」
「そんなに……嫌か」
あれ……?
まずい。ズルズルと鼻水をすする音が聞こえてきた。おまけに涙声だ。
「あなたが嫌だとかじゃなくて、あのね、なんていうのか、まだ早いと思うの」
しどろもどろに弁解している間も、王子の目には涙が溜まっていく。
「いや、だからね。お互いを知らないのにね……」
助けてほしくてレオンさんに視線を向けたら、慌てて逸らされた。
ちょっと、知らんふりしないで助けてよ~!
焦る私の前で、王子が涙ぐみながら話しはじめた。
「神なるアスランが、僕に花嫁を授けてくれると信じていたんだ。小さい頃からそう言われ続けていて、現実に花嫁が現れたから、嬉しかった」
そ、そんな……。これぞまさに、刷り込みってやつかしら?
「だけど花嫁に、こんなに嫌われてしまうなんて……」
「いやいや、そうじゃなくてねっ! 小さい頃からこの儀式について聞かされて育ったあなたから見たら普通の状況かもしれないけど、私はね、ほら、心の準備が必要だから」
なんとかなだめようと、子供相手に必死になる。
「心の準備とは、どのくらいでできる? 明日? 三日後?」
「それはわからないわ。だけど、すぐには無理かな」
正直に答えれば、彼はややうつむいた。なにかを思い悩むように、眉間に皺を寄せている。
「……いつまでかかる?」
「うーん……ごめんね、わからない」
ここでごまかすより、きっぱり告げる方を選んだ。こう答えれば、彼も余計な期待を持たずに済むだろう。
返答を聞いた彼は瞬きをしたあと、スカイブルーの瞳で私を真っ直ぐに射貫く。
「……じゃあ待つ」
「え?」
「心の準備ができていないというのなら、できるまで待つ」
「だ、だけど、すごく長くかかるかもしれないよ」
意外な言葉を聞いて焦った私は、そう言った。
「大丈夫だ! まだまだ時間はあるし!」
胸を張って言い張る彼は年相応の子供らしく、可愛かった。だがしかし、ここで流されるわけにはいかない。
だって私は、この世界にたまたま来てしまっただけ。
申し訳ないけど、結婚なんてしてたまるか! バイトだってあるし、早く帰らねば!
「でもね――」
「リカ様、少しお待ち下さい」
声を上げた途端、レオンさんに遮られる。
「まずは場所を変えましょう。そこでリカ様へご説明したいと思います」
確かにここは神聖なる場所だし、騒いではいけなさそうだ。
レオンさんの提案にうなずき、神殿をあとにした。
歩いてきた道を戻り、最初に通された部屋へ戻った私は、重苦しいドレスを脱がされた。改めて見てみると、これはウェディングドレスだったのね。今頃気づいた自分の鈍さを呪う。
用意された着替えは先ほどよりも華美ではないけど、やっぱりドレスだ。愛用していたルームウェアを懐かしく思いながら、しぶしぶ袖を通した。
着替えていると、首元に光るネックレスが視界に入る。これ、このままでいいのかな。
まあ、指輪についてはあとで考えよう。まずは、今後のことをよく考えなくては。
考える暇もなくここまで来て、いきなり既婚者になったわけだけど、認めるわけにはいかない。もう一度じっくりと話を聞こう。
そう、聞きたいことは山ほどあるのだから。
着替え終えた私は、部屋のソファに腰を落ち着けた。改めて部屋を見回すと、趣味のいい西洋風の調度品が視界に入ってくる。映画の中みたいな光景に、これまた映画の中の登場人物のような王子様。改めて考えると、やはり夢を見ているんじゃなかろうか。
高級そうな家具ばかりの広い部屋では、身の置き所がわからなくて落ち着かない。私がこんなドレスを着たところで、あきらかに場違いでしょう。
そう考えていると、扉がノックされる。返事をしたところ、レオンさんが入室してきた。その直後、侍女が紅茶のカートを押して入ってくる。侍女は手際よく紅茶を準備すると、一礼をして去っていった。
出された紅茶のカップに口をつける。ふわっと香る茶葉の匂いで、少しだけ落ち着いた。それと同時に、喉がカラカラだったことに気づく。いまさらそんなことに気づくなんて、私はどれだけ緊張していたのだろう。でも、そりゃそうか。いきなり異世界トリップの上、結婚ときたのだから。
そう、結婚だよ、結婚!!
人生の一大イベントがこんな簡単に行われるとは、夢にも思わなかった。紅茶を飲み干して一息つき、ソファにもたれかかる。
「落ち着きましたか?」
声をかけられて思い出す。そうだった、レオンさんがいたのだった。まったりするにはまだ早い。
「そもそも私が選ばれたのは、なにかの間違いじゃないですか?」
そう切り出した私に、レオンさんは首を横に振った。
「魔法陣は完璧に描かれていました。それに、必要な聖水などもすべて揃えた上での儀式です。たまたまなどということはあり得ません」
「……そうですか」
力説するレオンさんに答える私の声は小さい。
「このままランスロード国に留まる気持ちはありませんか?」
「それはありません」
いきなり違う世界で暮らせって言われても、納得なんてできるわけない。私には私の生活があるもの。気がかりなのはバイトのシフト! 長期無断欠勤になったらクビになってしまう。今のところは時給もいいし、気に入ってたんだけどなぁ……そうなったら次を探すしかないか。
考え込んでいると、レオンさんが口を開く。
「ですが、ここで召喚の儀式が成功したのにも、なんらかの意味があったと思います。すべては神の決めたことですから」
そう言われても、あなた方と違ってそんな簡単に納得できるわけじゃないんです!
特にどこの神を信仰しているわけでもないので、そう叫びたいけれど、ぐっと堪えた。そして、ふと思いついたことを言ってみる。
「成り行きで結婚してしまったわけだけど、それは今だけ、という考えではダメですか?」
「それはどういう意味でしょうか」
「つまり、一時的な結婚です。だって、花嫁を召喚するけれど、その花嫁と一生添い遂げなければならないという決まりはないんですよね?」
この考え方ならば、とりあえず結婚はしたものの、離婚という形でもいいのだ。ランスロード国の戸籍制度がどうなっているのか知らないけれど、私自身にここでの離婚歴がつくのは構わない。
「王とエドワード王子が納得するのか、わかりかねます」
「むしろ、そっちの方が都合がいいんじゃないですか?」
そうよ、特別な力もない私よりも、隣国のお姫様などを嫁に貰った方が政治的にいいはず。それになにより、私と彼には歳の差があるじゃない。彼が年頃になったら、間違いなく美男子に成長するだろう。その隣に並んでいるのが私だなんて、恥ずかしい。絵にならないわ。
「あの王子も大きくなったら、若い女性の方がよくなると思います、きっと! 将来、本当に結婚したいと思える相手と、改めて結婚すればいいじゃないですか」
いくら儀式の結果とはいえ、私と彼では釣り合わない。だったら、もっとふさわしい相手を探すべきだ。
「だからレオンさん、この花嫁召喚という儀式について、ひいては私が帰る方法について、詳しく調べてもらえませんか?」
語気を強めてレオンさんにそう伝える。いきなり知らない国に召喚されて結婚だなんて、私としてもやっぱり納得がいかない。
「王にも、直談判したいと思います」
そう、国のトップに直接交渉するしかないと、私は意気込んでいた。
「わかりました。神殿の奥に古い書物を数多く収蔵している書物庫があります。時間はかかると思いますが、そこで調べましょう」
「お願いします」
レオンさんが約束してくれたことに、ホッと安堵する。
すると、レオンさんがたずねてきた。
「逆に言えば、書物の解読が終わるまでは、王子のお側にいてもらえますか?」
「レオンさん?」
すがるような眼差しで頼みごとをしてくるレオンさんを見つめたところ、彼は口を開いた。
「エドワード様が幼い頃、王妃様が亡くなっております。そんな事情もありまして、エドワード様には甘えられる女性が必要だと思うのです」
「えっ……」
私は、驚きに目を瞬かせる。
「その立場ゆえに、寂しいと口にすることができずに育ってきましたが、本来ならもっと甘えたいのでしょう。夜に一人でシーツに包まり、泣いている時もあると報告を受けています」
「そうだったの……」
脳裏に浮かんだエドワードの姿が、昔の自分と重なった。
親を亡くした辛さは、私もよく知っている。愛情をくれる親がいる日々が当たり前だと信じて疑わなかったあの頃。それがどんなに幸せなことだったのか、失って初めて気づかされた。両親がいっぺんにいなくなり、不幸のどん底へ落とされた気がしたものだ。
しばらくは毎日泣いて過ごしていた。これほどまでに悲しいことがあるものなのかと、すべてを恨んでいた。
切なさに涙を流す日々が続いたある日、鏡を見た私は、そこに映った自分の顔に驚愕した。
目は生気を失ってよどみ、隈もできていて、病的なまでに頬がこけていた。
『これは誰?』
一瞬、本気でそう思ってしまったくらいだ。私の健康を考え、食事に気を使ってくれていた母が見れば嘆くだろう。もちろん、父だって同様のはず。そこでふと気づいた。
私が泣き暮らしていては、きっと両親は浮かばれない。私にできることは、二人が安心するように、健康で楽しく暮らすことだ。亡くなった両親に、心配をかけたくない。
そこからは、時が悲しみを少しずつ癒してくれた。もちろん、すべてが順調だったわけもなく、時には涙を流した夜もあった。
まだ幼いエドワードも、そんな夜を過ごしたりしているのかしら? その辛さが痛いほどわかるため、このまま彼を放って帰ってしまってもいいのか、考えはじめた。
「リカ様がお側にいると、王子の表情が明るく見えました。きっと嬉しくてたまらないのだと思います」
「……」
自分の経験からいって、辛い時に側にいてくれる人がいるのといないとでは、全然違う。私も辛い時、誰かに側にいてほしかった。せめて兄妹でもいれば、ちょっとは違ったのかもしれないと思ったっけ。エドワードは、その役目を私に求めているのだろうか。
うつむき、押し黙って考えた私は、しばらくして顔を上げた。
「本当の花嫁としては無理ですが、王子の気持ちが少しでも落ち着くのなら、側にいましょう。母親代わりは無理でも、姉のような立場にならなれると思います」
「リカ様」
「ただし、帰るまでの期間限定になりますけれどね」
もういいや、深く考えることは後回し。どっちにしろ、今すぐには帰れないのだから。
それならば、私を望んでくれるエドワードの側にいて、帰るその日まで、彼の成長を見守ろう。
私がいることでエドワードの悲しい気持ちが薄れるのならば、私がこの世界に召喚された意味があったのだと、そう思える。
その時、急に扉が開き、大きな足音が響いた。
「レオン! 話は終わったか!?」
いきなり現れたのはエドワードだった。彼は興奮しながら側に駆け寄ってくる。
「で、いつごろ心の準備ができるか考えたか?」
私の返答をわくわくした様子で待つ彼は、あまり話が通じてないらしい。そんな彼に苦笑しつつ、私は口を開く。
「まずはご挨拶しましょう、王子」
「ん? 名前ならレオンから聞いた」
「違います。ちゃんと自分の口から」
そこで彼と真正面から向き合う。
「はじまして、王子。私はリカです。年齢は十九歳ですよ」
「エドワード・カドリックだ。十一歳になる」
そこでスッと手を差し出す様子は、幼いけれど様になっている。好奇心いっぱいの瞳を向けてくる彼は、きっと結婚の意味をあまり理解していないのだろうな。だからこそ、こんな表情を浮かべているに違いない。もう少し年齢が上だったら、『こんなのっぺり顔が俺の嫁!?』と残念がっていたはずだ。
「よろしくな、リカ!」
無邪気な笑顔を見て、改めて思う。
彼はきっと、幼い頃から儀式のことを聞かされて、召喚された私と結婚するべきだと思い込んでいるだけだ。
差し出された手を握り返し、キラキラと輝く純粋な瞳を見つめていたら、扉がノックされた。
「エドワード様、失礼します」
「クラウスか」
扉が開き入室してきたのは、黒い短髪に切れ長の目を持つ青年だった。年齢は私と同じぐらいだろうか。
「リカに紹介する。クラウスだ」
エドワードがそう告げると、クラウスは深くお辞儀をした。
「クラウス・ディーンと申しまして、エドワード様の付き人をしております。どうぞクラウスとお呼び下さい、リカ様」
「はじめまして、クラウス」
しっかりとした挨拶をされて、私も姿勢を正す。
レオンさんに案内されて歩みを進める間も、私は策を練った。いつの間にか城を出ていたのか、晴れた空の下、鳥のさえずりを聞いてハッとなり、慌てて周囲を見回す。
外から見る城はテレビなどでしか見たことがない、外国の城そのままだった。見上げるほど高い外壁には所々ツタが絡まっている。綺麗に整えられた庭園の中心にそびえ立つ城の存在感に、圧倒されてしまう。
レオンさんについて庭園を進むと、やがて太い一本の道が現れた。
「ここは道が悪いので、お気をつけ下さい」
レンガ造りの歩道は、少し欠けている箇所もあったので、でこぼこしている。雨の日はそこに水がたまってぬかるみそうだ。
それにしても、この服装は足元が見えづらいし重いので、歩きにくい。ドレスの裾を汚さないように、細心の注意を払って進む。
そうしてしばらく歩くと、目の前に大きな建物が現れた。木が茂る中にたたずむ神秘的な景観は、古い教会を思わせる。その建物を前にして、レオンさんが説明してくれた。
「ここが神殿になります」
その場所へ近づくにつれ、静穏な雰囲気が感じられた。周囲には、人の気配がない。
階段を上って神殿の中に足を踏み入れると内部は薄暗く、厳かな空気が漂っている。
レオンさんの背中を追いかければ、床に触れる靴の音が周囲に響き渡る。どうやら神殿の奥まで来たらしく、いっそう神々しさを感じ、緊張してきた。
中庭を囲む回廊を通り、さらに奥へ進むと、二人の女性がいた。彼女たちも神に仕える身なのだろうか、レオンさんと同じような長衣を羽織っている。私たちが近づけば、彼女たちはゆっくりと頭を下げた。
レオンさんが目で合図を送ると、女性の一人が私に近づいてくる。彼女は純白のレースでできた、何メートルもありそうな長いベールを両手に抱えていた。
「失礼します」
「あ、ありがとうございます」
そっと手を伸ばし、手際よく私にベールを被せてくれた彼女にお礼を口にした。しかし、ベールを被ったことにより、前がよく見えなくなってしまう。おまけに頭が重くなり、ふらふらする。
「行きましょう」
先に進むように促されるけれど、ベールのせいで視界が薄暗く、どこを歩いているのかわからない。仕方ないのでレオンさんの後ろを慎重に進んだ。
やがてレオンさんが立ち止まる。顔を少し上げると、大きな扉が視界に入った。
重厚な扉は、私の背丈よりもずっと高い。そして、細かい部分の装飾まで美しかった。
レオンさんによって、その扉が開け放たれる。直後、私に向かって風が吹いた。
真っ先に視界に入ってきたのは、見上げるほど高い天井。そこから差し込む光がとても神秘的で、息を呑む。しばし美しい光景に見とれると同時に、この雰囲気に圧倒される。
「大丈夫ですか?」
緊張していると声をかけられたので、静かにうなずいた。
人の気配が感じられないこの場所に、私とその隣を歩くレオンさんの足音だけが響き渡る。
やがて目の前に、豪華な主祭壇が近づく。
その両隣には天使像が建ち、静かに周囲を見守っている。前には、背の高い椅子が二つ設置されていた。
レオンさんは、私に椅子へ腰かけるように言い、自分は祭壇の方へ近づいていった。さっきから歩きっぱなしなので少し疲れたし、一息つきたいと思いながら、椅子の側まで行く。
そこで、隣の椅子に腰かけている人物がいることに気づいた。
私からは背中しか見えないが、もしかしてエドワード王子かもしれない。
ごくりと唾を呑み込み、手をギュッと握った。
彼にこの結婚は無理だと、早く直談判しなければ!
急いでベールを持ち上げて、顔を出した。視界が開けたことにホッとする。
そして、すぐさま椅子に座る人物へと視線を向けた。
つやつやして癖のないブロンドの髪に、天使の輪が輝く。青い瞳を真っ直ぐ私に向けているこの人がエドワード王子――私の結婚相手なの?
私は思わず叫んでしまった。
「子供じゃない!!」
エドワード王子は子供だった。せいぜい十二歳ぐらいだろう。
「失礼な!! 子供ではない」
ムッとした表情ですぐさま言い返すエドワード王子だけど、どう見ても子供だから。少なくとも結婚できる年齢ではなさそうだ。
法律にひっかかる! そんなのこの国では関係ないと言われても、私は気にする!!
なぜ私は異世界で、初対面の少年と結婚しなければならないのでしょうか。
……なんでだ!!
レオンさんが咳払いで落ち着くように訴えてくるけれど、これが落ち着いていられますか。
しばらくすると、レオンさんはあきらめたのか小さくため息をついた。
そして祭壇に向かって両膝をつき、なにやらブツブツと言いはじめる。
両手を組んでいるそのポーズは、まるで祈りを捧げているみたいだ。
なにをしているのか、全然わからない。それに、大人しく待っているわけにもいかない。
エドワード王子に直談判しなければ! けれど子供相手に話が通じるのかしら?
焦りながらも椅子に座り、隣にいる少年に接触を試みることにした。
「ねぇ、ボク、ちょっと聞いてもいいかな?」
努めて優しい声色を出したところ、相手は一瞬、キョトンとした。彼は瞬きを数回繰り返したあと、口を開く。
「『ボク』とは誰のことだ」
あきらかにムッとした様子を見せた彼に、内心焦った。
「え、あの、君だっていきなり結婚とか嫌でしょう? この儀式について、どう思っているの?」
どうやら子供扱いが気に入らなかったらしい。だけど初対面なんだもの、どうやって呼んだらいいのかわからないわ。
静謐な空気の中、レオンさんの声だけが響き渡る。
少年の返答を待っていると、彼は眉根を少し寄せた。
「神聖なる儀式の最中に、ペラペラと口を開くのはマナー違反だと思っている」
「……」
はい、おっしゃる通りでございます。悪い大人ですみませんでした。
だけど、わけもわからずこの場にいるのだから、私としては苦痛で仕方ない。
それに、このまま大人しくしていたら、場の雰囲気に流されて結婚という事態に陥りそうだ。
いっそ、レオンさんが祈りを捧げている間に逃げ出そうか。だけど、どこへ行くの? 仮に逃げても、道もわからなければ、行き場所もない。
そこで隣の少年をチラッと横目で見る。
王とよく似た輪郭をした彼は、まるで映画の中に出てくる王子様みたい。
今からこんなに美形なら、将来が恐ろしいわ。きっと、誰もが憧れる王子様になるんだろうな。
「――カ様」
そんな彼が将来選ぶ女性は、どんな人かしら? 映画とかの定番だと隣国のお姫様よね。
「――リカ様」
彼の隣に並ぶ女性が、私なんてないわー。あり得ないわ。しかも年齢差を考えなさいよ。神様とやらも、人選ミスじゃない?
「リカ様」
「は、はい」
一人で納得してうなずいていたところ、名を呼ばれたことに気づき、反射的に返事をする。どうやら、先ほどからレオンさんに呼ばれていたみたいだ。しまった、全く祈りの言葉を聞いていなかったのが、ばれたかも。
真正面から見つめられて、苦笑いでごまかす。長々と続いたレオンさんの祈りは、いつの間にやら終わったようだ。レオンさんは優しく微笑み、王子へ視線を投げた。王子はうなずくと、なにやら胸ポケットをガサゴソと探りはじめる。
その仕草が可愛らしくて、微笑ましく思ってしまう。
兄妹がいないからよくわからないけれど、弟がいたら、こんな感じなのかしら。
私はそう考えつつ、うつむいて胸ポケットの中を探る王子を温かい目で見守っていた。やがて彼の頬がパアッと明るくなる。どうやら目的を果たした様子だ。よかったね。
そして、彼は私に視線を向けてきた。
首を傾げて見ていると、手招きされる。なに? と首を捻れば、早く来いと言わんばかりに、手招きが激しくなった。
十分近くにいるので、わざわざ呼ぶ必要なんてないのに。
そう思いながらも、可愛らしい顔をした彼に近づく。すると、彼はもっと近くに来いとでも言いたげな表情を浮かべた。
言いたいことでもあるのかと、私はさらに顔を近づける。その時、彼の手がスッと伸びてきたと思ったら、なにかを首にかけられた。
驚きながら瞬きすると、レオンさんの拍手が響く。
「おめでとうございます、エドワード王子、リカ様」
え? なにがおめでたいの?
怪訝な表情を向ければ、レオンさんが口を開いた。
「結婚の儀は無事に終了しました。これで二人は、神に祝福された夫婦となります」
「は!?」
いったい、なにがどうなってるの!?
「そんなこと、認めていないわ!」
思わず叫んだけれど、レオンさんは落ち着いている。
「ですが、リカ様は先ほど『はい』と返事をなされました」
確かに言った。だけど、名前を呼ばれただけかと思っていたのに。
「それに、王子の指輪を受け取ったのは、リカ様も納得されたからだとばかり」
レオンさんの視線の先は、私の首元だ。
そこでハッとして確認すると、ネックレスがかけられていた。その先になにかがついている。
「これは指輪?」
指輪は細かい模様が入っていて、緩いカーブが優雅な雰囲気だ。アンティークテイストで、質がとてもよさそうだった。
「代々王家に伝わる指輪です」
「なぜ、そんなに大事なものを私に!?」
焦っていると、横から子供の声が聞こえる。
「それは花嫁となった者に贈られる指輪だ」
「ちょっと待ってよ! いきなり、そんなこと言われても困るわ!!」
大人げないと自分でもわかっている。つい、子供相手に怒鳴ってしまった。
「これは受け取れない」
指輪を首から外して王子に渡そうとすると、ポツリとつぶやきが聞こえた。
「……嫌なのか」
「そりゃそうよ!! 結婚は、こんなに簡単に決めちゃいけないわ。もっと長い時間をかけて、一生一緒にいたいと思える相手とするものよ」
「そんなに……嫌か」
あれ……?
まずい。ズルズルと鼻水をすする音が聞こえてきた。おまけに涙声だ。
「あなたが嫌だとかじゃなくて、あのね、なんていうのか、まだ早いと思うの」
しどろもどろに弁解している間も、王子の目には涙が溜まっていく。
「いや、だからね。お互いを知らないのにね……」
助けてほしくてレオンさんに視線を向けたら、慌てて逸らされた。
ちょっと、知らんふりしないで助けてよ~!
焦る私の前で、王子が涙ぐみながら話しはじめた。
「神なるアスランが、僕に花嫁を授けてくれると信じていたんだ。小さい頃からそう言われ続けていて、現実に花嫁が現れたから、嬉しかった」
そ、そんな……。これぞまさに、刷り込みってやつかしら?
「だけど花嫁に、こんなに嫌われてしまうなんて……」
「いやいや、そうじゃなくてねっ! 小さい頃からこの儀式について聞かされて育ったあなたから見たら普通の状況かもしれないけど、私はね、ほら、心の準備が必要だから」
なんとかなだめようと、子供相手に必死になる。
「心の準備とは、どのくらいでできる? 明日? 三日後?」
「それはわからないわ。だけど、すぐには無理かな」
正直に答えれば、彼はややうつむいた。なにかを思い悩むように、眉間に皺を寄せている。
「……いつまでかかる?」
「うーん……ごめんね、わからない」
ここでごまかすより、きっぱり告げる方を選んだ。こう答えれば、彼も余計な期待を持たずに済むだろう。
返答を聞いた彼は瞬きをしたあと、スカイブルーの瞳で私を真っ直ぐに射貫く。
「……じゃあ待つ」
「え?」
「心の準備ができていないというのなら、できるまで待つ」
「だ、だけど、すごく長くかかるかもしれないよ」
意外な言葉を聞いて焦った私は、そう言った。
「大丈夫だ! まだまだ時間はあるし!」
胸を張って言い張る彼は年相応の子供らしく、可愛かった。だがしかし、ここで流されるわけにはいかない。
だって私は、この世界にたまたま来てしまっただけ。
申し訳ないけど、結婚なんてしてたまるか! バイトだってあるし、早く帰らねば!
「でもね――」
「リカ様、少しお待ち下さい」
声を上げた途端、レオンさんに遮られる。
「まずは場所を変えましょう。そこでリカ様へご説明したいと思います」
確かにここは神聖なる場所だし、騒いではいけなさそうだ。
レオンさんの提案にうなずき、神殿をあとにした。
歩いてきた道を戻り、最初に通された部屋へ戻った私は、重苦しいドレスを脱がされた。改めて見てみると、これはウェディングドレスだったのね。今頃気づいた自分の鈍さを呪う。
用意された着替えは先ほどよりも華美ではないけど、やっぱりドレスだ。愛用していたルームウェアを懐かしく思いながら、しぶしぶ袖を通した。
着替えていると、首元に光るネックレスが視界に入る。これ、このままでいいのかな。
まあ、指輪についてはあとで考えよう。まずは、今後のことをよく考えなくては。
考える暇もなくここまで来て、いきなり既婚者になったわけだけど、認めるわけにはいかない。もう一度じっくりと話を聞こう。
そう、聞きたいことは山ほどあるのだから。
着替え終えた私は、部屋のソファに腰を落ち着けた。改めて部屋を見回すと、趣味のいい西洋風の調度品が視界に入ってくる。映画の中みたいな光景に、これまた映画の中の登場人物のような王子様。改めて考えると、やはり夢を見ているんじゃなかろうか。
高級そうな家具ばかりの広い部屋では、身の置き所がわからなくて落ち着かない。私がこんなドレスを着たところで、あきらかに場違いでしょう。
そう考えていると、扉がノックされる。返事をしたところ、レオンさんが入室してきた。その直後、侍女が紅茶のカートを押して入ってくる。侍女は手際よく紅茶を準備すると、一礼をして去っていった。
出された紅茶のカップに口をつける。ふわっと香る茶葉の匂いで、少しだけ落ち着いた。それと同時に、喉がカラカラだったことに気づく。いまさらそんなことに気づくなんて、私はどれだけ緊張していたのだろう。でも、そりゃそうか。いきなり異世界トリップの上、結婚ときたのだから。
そう、結婚だよ、結婚!!
人生の一大イベントがこんな簡単に行われるとは、夢にも思わなかった。紅茶を飲み干して一息つき、ソファにもたれかかる。
「落ち着きましたか?」
声をかけられて思い出す。そうだった、レオンさんがいたのだった。まったりするにはまだ早い。
「そもそも私が選ばれたのは、なにかの間違いじゃないですか?」
そう切り出した私に、レオンさんは首を横に振った。
「魔法陣は完璧に描かれていました。それに、必要な聖水などもすべて揃えた上での儀式です。たまたまなどということはあり得ません」
「……そうですか」
力説するレオンさんに答える私の声は小さい。
「このままランスロード国に留まる気持ちはありませんか?」
「それはありません」
いきなり違う世界で暮らせって言われても、納得なんてできるわけない。私には私の生活があるもの。気がかりなのはバイトのシフト! 長期無断欠勤になったらクビになってしまう。今のところは時給もいいし、気に入ってたんだけどなぁ……そうなったら次を探すしかないか。
考え込んでいると、レオンさんが口を開く。
「ですが、ここで召喚の儀式が成功したのにも、なんらかの意味があったと思います。すべては神の決めたことですから」
そう言われても、あなた方と違ってそんな簡単に納得できるわけじゃないんです!
特にどこの神を信仰しているわけでもないので、そう叫びたいけれど、ぐっと堪えた。そして、ふと思いついたことを言ってみる。
「成り行きで結婚してしまったわけだけど、それは今だけ、という考えではダメですか?」
「それはどういう意味でしょうか」
「つまり、一時的な結婚です。だって、花嫁を召喚するけれど、その花嫁と一生添い遂げなければならないという決まりはないんですよね?」
この考え方ならば、とりあえず結婚はしたものの、離婚という形でもいいのだ。ランスロード国の戸籍制度がどうなっているのか知らないけれど、私自身にここでの離婚歴がつくのは構わない。
「王とエドワード王子が納得するのか、わかりかねます」
「むしろ、そっちの方が都合がいいんじゃないですか?」
そうよ、特別な力もない私よりも、隣国のお姫様などを嫁に貰った方が政治的にいいはず。それになにより、私と彼には歳の差があるじゃない。彼が年頃になったら、間違いなく美男子に成長するだろう。その隣に並んでいるのが私だなんて、恥ずかしい。絵にならないわ。
「あの王子も大きくなったら、若い女性の方がよくなると思います、きっと! 将来、本当に結婚したいと思える相手と、改めて結婚すればいいじゃないですか」
いくら儀式の結果とはいえ、私と彼では釣り合わない。だったら、もっとふさわしい相手を探すべきだ。
「だからレオンさん、この花嫁召喚という儀式について、ひいては私が帰る方法について、詳しく調べてもらえませんか?」
語気を強めてレオンさんにそう伝える。いきなり知らない国に召喚されて結婚だなんて、私としてもやっぱり納得がいかない。
「王にも、直談判したいと思います」
そう、国のトップに直接交渉するしかないと、私は意気込んでいた。
「わかりました。神殿の奥に古い書物を数多く収蔵している書物庫があります。時間はかかると思いますが、そこで調べましょう」
「お願いします」
レオンさんが約束してくれたことに、ホッと安堵する。
すると、レオンさんがたずねてきた。
「逆に言えば、書物の解読が終わるまでは、王子のお側にいてもらえますか?」
「レオンさん?」
すがるような眼差しで頼みごとをしてくるレオンさんを見つめたところ、彼は口を開いた。
「エドワード様が幼い頃、王妃様が亡くなっております。そんな事情もありまして、エドワード様には甘えられる女性が必要だと思うのです」
「えっ……」
私は、驚きに目を瞬かせる。
「その立場ゆえに、寂しいと口にすることができずに育ってきましたが、本来ならもっと甘えたいのでしょう。夜に一人でシーツに包まり、泣いている時もあると報告を受けています」
「そうだったの……」
脳裏に浮かんだエドワードの姿が、昔の自分と重なった。
親を亡くした辛さは、私もよく知っている。愛情をくれる親がいる日々が当たり前だと信じて疑わなかったあの頃。それがどんなに幸せなことだったのか、失って初めて気づかされた。両親がいっぺんにいなくなり、不幸のどん底へ落とされた気がしたものだ。
しばらくは毎日泣いて過ごしていた。これほどまでに悲しいことがあるものなのかと、すべてを恨んでいた。
切なさに涙を流す日々が続いたある日、鏡を見た私は、そこに映った自分の顔に驚愕した。
目は生気を失ってよどみ、隈もできていて、病的なまでに頬がこけていた。
『これは誰?』
一瞬、本気でそう思ってしまったくらいだ。私の健康を考え、食事に気を使ってくれていた母が見れば嘆くだろう。もちろん、父だって同様のはず。そこでふと気づいた。
私が泣き暮らしていては、きっと両親は浮かばれない。私にできることは、二人が安心するように、健康で楽しく暮らすことだ。亡くなった両親に、心配をかけたくない。
そこからは、時が悲しみを少しずつ癒してくれた。もちろん、すべてが順調だったわけもなく、時には涙を流した夜もあった。
まだ幼いエドワードも、そんな夜を過ごしたりしているのかしら? その辛さが痛いほどわかるため、このまま彼を放って帰ってしまってもいいのか、考えはじめた。
「リカ様がお側にいると、王子の表情が明るく見えました。きっと嬉しくてたまらないのだと思います」
「……」
自分の経験からいって、辛い時に側にいてくれる人がいるのといないとでは、全然違う。私も辛い時、誰かに側にいてほしかった。せめて兄妹でもいれば、ちょっとは違ったのかもしれないと思ったっけ。エドワードは、その役目を私に求めているのだろうか。
うつむき、押し黙って考えた私は、しばらくして顔を上げた。
「本当の花嫁としては無理ですが、王子の気持ちが少しでも落ち着くのなら、側にいましょう。母親代わりは無理でも、姉のような立場にならなれると思います」
「リカ様」
「ただし、帰るまでの期間限定になりますけれどね」
もういいや、深く考えることは後回し。どっちにしろ、今すぐには帰れないのだから。
それならば、私を望んでくれるエドワードの側にいて、帰るその日まで、彼の成長を見守ろう。
私がいることでエドワードの悲しい気持ちが薄れるのならば、私がこの世界に召喚された意味があったのだと、そう思える。
その時、急に扉が開き、大きな足音が響いた。
「レオン! 話は終わったか!?」
いきなり現れたのはエドワードだった。彼は興奮しながら側に駆け寄ってくる。
「で、いつごろ心の準備ができるか考えたか?」
私の返答をわくわくした様子で待つ彼は、あまり話が通じてないらしい。そんな彼に苦笑しつつ、私は口を開く。
「まずはご挨拶しましょう、王子」
「ん? 名前ならレオンから聞いた」
「違います。ちゃんと自分の口から」
そこで彼と真正面から向き合う。
「はじまして、王子。私はリカです。年齢は十九歳ですよ」
「エドワード・カドリックだ。十一歳になる」
そこでスッと手を差し出す様子は、幼いけれど様になっている。好奇心いっぱいの瞳を向けてくる彼は、きっと結婚の意味をあまり理解していないのだろうな。だからこそ、こんな表情を浮かべているに違いない。もう少し年齢が上だったら、『こんなのっぺり顔が俺の嫁!?』と残念がっていたはずだ。
「よろしくな、リカ!」
無邪気な笑顔を見て、改めて思う。
彼はきっと、幼い頃から儀式のことを聞かされて、召喚された私と結婚するべきだと思い込んでいるだけだ。
差し出された手を握り返し、キラキラと輝く純粋な瞳を見つめていたら、扉がノックされた。
「エドワード様、失礼します」
「クラウスか」
扉が開き入室してきたのは、黒い短髪に切れ長の目を持つ青年だった。年齢は私と同じぐらいだろうか。
「リカに紹介する。クラウスだ」
エドワードがそう告げると、クラウスは深くお辞儀をした。
「クラウス・ディーンと申しまして、エドワード様の付き人をしております。どうぞクラウスとお呼び下さい、リカ様」
「はじめまして、クラウス」
しっかりとした挨拶をされて、私も姿勢を正す。
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