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1巻
1-3
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教会は、思っていたよりも早く見つかった。
街から少し外れた場所まで来ると、教会らしき建物が見えてきたのだ。それを目印に歩みを進めた。
焦る気持ちと比例して徐々に早足になり、息が上がってくる。そして教会の門の前まで来た時には、額にじんわりと汗をかいていた。
初めて近くまで来た教会は、建物こそ大きいものの、古くてどこかさびれた雰囲気を醸し出している。
ちょっと躊躇したが、勇気を出して扉を押した。年季が入っているせいか、ギギギと音をさせながら、扉がゆっくりと開く。
中も古い造りだったが、綺麗な場所だと感じた。きっと丁寧に掃除されているのだろう。
木の長椅子がいくつか並び、窓からは明るい太陽の光が差し込んでいる。
祭壇は豪華とは言えないけれど、毎日磨かれているようで、埃一つ落ちていない。その中央には女性の像が置かれていて、たくさんの花で埋め尽くされていた。
高い天井にはステンドグラスが嵌め込まれている。美しい女性とその周りを飛び交う鳥が、花に囲まれている模様だ。そこから差し込む光が反射して、床に綺麗な模様が映し出されていた。
唐突に、マルコからの手紙を思い出す。
『教会の天井にあるステンドグラスがとてもキラキラしているのですが、天井が高すぎて手が届きません。ここはどうやったら掃除できるか、いつも仲間と話しています。僕が大きくなったら、掃除できるのでしょうか?』
そんな疑問を投げかけられていたが、あの高さまで手を届かせるのは、いくらマルコが大人になっても無理だろう。そう思うとクスリと笑えた。
そこで自分が久々に笑ったことに、はたと気づく。
帰還の儀式が行われる数日前より、緊張して心から笑えていなかったのだ。そして、いざ儀式が行われたら、失敗して裏山に転がっていて……挙句、雨に降られて全身びしょ濡れになり、街に出ても不安だけが募るばかりだった。
なんだ、私、こんな状況でも笑えるんじゃない。
笑えるなら、まだ大丈夫な気がしてきた。
それに、温かみのあるこの礼拝堂を、こんな小さな子供たちが維持しているのだから、私も頑張らなくちゃ。
そんな風に前向きな気持ちになったおかげか、気がつけば口ずさんでいた。
大地に緑が生い茂り 新緑が光る
我らが大地の収穫は 女神の恩恵を受け 成り立つ
命あるもの また命を紡ぐ
これは、この国の住民なら誰もが知っている讃美歌のワンフレーズ。初めて聞いた時は、その美しい音程に心が惹かれた。祈りの塔でもよく歌っていたので、いまだにふとした時に口にしてしまう。
静かな教会の礼拝堂に私の歌声だけが響くのは心地よい。
そうして歌い終えた時には、晴れ晴れとした気分になっていた。
すると、いきなり拍手が聞こえた。
驚いてそちらへ顔を向けると、扉のすぐ横の長椅子に老人が座っている。前しか見ていなかったので、気づかなかったらしい。
老人は椅子から立ち上がり、私に近づきながら口を開く。
「あんた、とてもいい歌声をしているな。驚いた」
「ありがとうございます」
「お願いじゃ、もう一度歌ってくれないか?」
身綺麗な格好をした老人は、杖をつき、熱意のこもる瞳で懇願してきた。
「同じ歌でいいから、頼む」
最初こそ戸惑ったものの、私は結局もう一度同じ曲を歌う。
その間、老人は目を閉じて聞き入っていた。
歌い終わると、老人は目を開けて温かい拍手をしてくれる。恥ずかしいが、とても嬉しかった。
「心に染み入るようだった。亡くなった連れ合いも歌がうまくてな。昔を思い出したよ」
そう言った老人の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「わしはこの街に住んでいて、時間があればこの教会に来ているんだ。なあ、あんた、教会の歌い手になる気はないかね?」
「いえ、そんな……」
突然の申し出に面食らっていると、老人が説明を始めた。
「教会の歌い手がいなくなってしまっての、ここを訪れる人々が減ってきたんじゃ。ここは孤児院も兼ねているから、運営するには寄付金が必要でな」
先ほど、街でおばさんが話していたのと同じ話だ。
とはいえ、いきなりそう言われても、教会側の都合だってあるだろうし勝手には決められない。私が困惑していたところ、老人は祭壇に向かって声をかける。
「アルマン神父も問題はないじゃろ?」
いきなり声を張り上げた老人に驚いて、彼の見ている方へ振り返れば、祭壇の裏側から急に人影が現れた。
その神父服に身を包んだ男性は白髪で、五十歳ぐらいに見える。
男性――アルマン神父は苦笑したあと、私を見た。その視線に全てを見透かされているような気持ちになり、一瞬たじろぐ。
「私はここで神父をしているアルマンです。祭壇の裏を掃除していたら、とても美しい歌声が聞こえてきたので聞き惚れてしまいました。急に姿を現して驚かせるのも悪いので、そのまま隠れて聞き入っていたのですが、素晴らしい歌声ですね。非常に懐かしい気持ちになります」
褒められて照れていると、アルマン神父はジッと私を見て、続けて口を開いた。
「だが歌に、多少の迷いが感じられました」
鋭い言葉に、今の状況を言い当てられた気がして、驚いてしまう。
「実は私、自分の今後に迷っています。役目を終えたばかりで行くあてもなく、なにをすべきか見いだせないのです」
アルマン神父はおや、とばかりに片眉を上げ、ゆったりとたずねてくる。
「役目? あなたはその年齢で役目を終えたというのですか?」
「はい」
聖女としての役目は終わってしまった。
だからこそ、迷いを持ちながらもここにいるのだと告げたかったが、口をつぐんだ。
すると、突然アルマン神父が笑い出した。隣にいる老人も微笑んでいる。
予想外の反応に、アルマン神父と老人の顔を交互に見比べてしまう。やがてアルマン神父は口を開いた。
「失礼ですが、年齢をお聞きしてもよろしいですか?」
「はい、十九歳になります」
そう答えるとアルマン神父は再び微笑んだ。
「まだまだお若い。仮に人生が八十年で終わるとしても、あなたはその四分の一も学んでいない。それを自分自身で『役目は終わった』と決めつけるのは、いかがなものかと感じます。あなたが今まで背負っていたのが重大な役割だったとしても、人は生きている間、日々役割を持って神に生かされているのです。今は一つの役割が終わり、次なる山に差しかかっているのでしょう」
アルマン神父の言葉が胸にズシリとのしかかった。
私の役割は終わった訳じゃない。人生はこれから――
そうだ、まだ十九歳。やりたいことだってたくさんある。
聖女としての役目を終えたからといって、私自身の人生まで終わった訳じゃない。
そう考えると、先ほどまで悩んでいたのが嘘のように晴れ晴れとしてくる。隣にいた老人も笑いながら声をかけてきた。
「わしは、生きているうちは、自分の役割は終わることがないと思っている。八十歳になる老いぼれがそう言うのだから、お嬢さんはまだまだいろいろな可能性を秘めているんじゃないか。それをそんな思いつめた顔をして。深く考えても、なるようにしかならんものじゃて」
自分の憂鬱を笑い飛ばされ、気持ちがより軽くなった。
心にいい風が吹き込んだ気がする。私はそこで決意し、顔を上げた。
そうだ、私には歌がある。聖女となる前から、ただ歌うことが好きだった。
この歌が誰かの喜びになるというのなら、喜んで捧げよう。それに、教会で歌うことは手紙をくれたマルコへのお礼にもなるかもしれない。
たとえ聖女という肩書がなくなったとしても――
アルマン神父は私の様子を見て、優しく微笑みつつ説明してくれた。
「ここには毎日、街の人々がやってきます。その時に鎮魂歌だったり、神に祈りを捧げる歌だったりを歌っているのですが、どうでしょう、あなたの都合がつくようならば歌いに来ていただけませんか?」
「はい、私でよければ」
「お嬢さんがここに来てくれるのなら、わしも通う楽しみが増えたわい。老体に毎日の教会通いは難儀だと思い始めていたが、あの歌声を聞くため、張り切って通い続けるとしよう」
老人の笑い声が礼拝堂に響き、アルマン神父も静かに笑いながら口を開いた。
「行くあてがないのでしたら、一から自分の居場所を作り上げるのも新たな課題なのかもしれません」
自分の居場所を自分で作り出す……
かけられた言葉を胸に刻んで、唇をギュッと噛みしめる。
その時、軽やかな足音が近づいてくると同時に、祭壇の横にあった扉が開かれた。
「アルマン神父!! 教会の裏の草取りが終わりました!!」
そこから顔を出したのは男の子。丸顔で目がクリッとしていて、茶色のくせ毛がはねている。可愛い顔立ちの子だ。
彼は私を見ると、あっ、と気まずい顔をしたのち、無言で頭をぺこりと下げた。
「ご苦労さまでした、マルコ」
アルマン神父が呼んだ名前を聞き、私は顔をバッと男の子へ向ける。
彼が、あの手紙をくれていたマルコなのだ。
彼に会えて、嬉しくなった。だが彼が手紙を出していたのは聖女だった私にであって、今ここにいる私ではない。手紙のことを口にしては、変に思われるだろう。
そう考えて、黙っていることにした。
「彼はマルコです。ここにいる自分より小さい子供たちの面倒をよく見てくれるので、大変助かっています」
アルマン神父に褒められたマルコは、嬉しそうに頬を赤く染めた。
そして、アルマン神父の視線は私へと注がれる。
「まだお名前をお聞きしていませんでした」
そう言われたので、背筋を伸ばして答えた。
「サヤです。よろしくお願いします」
アルマン神父は私に微笑んだあと、マルコに声をかける。
「マルコ、今後はサヤさんが歌い手として教会に来てくださるそうです」
そう告げられ、マルコは目を見開き、表情をパッと明るくした。
「本当ですか?」
喜びにはしゃいでいるマルコに、アルマン神父は私に教会を案内するように頼む。
緊張しながらマルコに近づくと、彼は笑顔を向けてくれた。
「では僕が案内します。ついてきてください」
彼に導かれるまま、教会内をまわる。
お世辞にも新しいとは言えないけれど、隅々まで掃除がいきわたっていて、気持ちのいい空間だ。廊下を歩いていると外から子供の笑い声が聞こえてきたので、視線を向ける。見れば子供たちが集まって外で遊んでいた。
「ここには十三人の子供が集まって生活しているんです。皆、身寄りのない子供たちで、教会への寄付で生活しています。それが最近、讃美歌を歌ってくれていたお姉さんがいなくなってしまって、あまり人が集まらなくなってきたんです。生活が成り立たなくなるのも困るけれど、教会の聖女様の像にちゃんとした歌を捧げられないことが申し訳なくて」
マルコは一瞬うつむいたあと、顔をパッと上げた。
「だからサヤさんが来てくれて、すごく嬉しいです」
きらきらと輝くマルコの瞳は純粋そのものだ。期待されていると知り、私も気合が入る。
「期待に応えることができるように頑張るわね」
最近までいた歌い手の女性ほど綺麗な歌声を響かせることができるか自信はないけれど、自分なりに頑張ってみよう。
教会を案内してもらったあと、翌日の礼拝堂で讃美歌を歌う時間を確認して宿屋に帰る。
最初に宿屋を出た時とは違い、驚くほど心が軽くなっていた。
そして翌日。私は宿で提供された朝食を食べ終えると、さっそく教会へと向かった。
まだ時間には早かったけれど、宿屋にいても特にすることはない。
早く到着した私を、マルコを筆頭とした子供たちが笑顔で歓迎してくれた。
「おはよう、マルコ」
「サヤさん」
マルコが笑顔で駆け寄ってくる。彼は服の上に白い簡素なローブを羽織り、胸に金の飾りのペンダントをつけていた。この服装が讃美歌を歌う時の正装なんだとか。正装など用意していなかったと焦る私に、マルコは白いローブを手渡してくれた。
「それ、前の歌い手のお姉さんの忘れ物なんです。よかったら羽織ってください」
準備がいいマルコの言葉に甘え、服の上からローブを羽織る。
扉を開けて礼拝堂の中を見ると、五人ぐらいの人が集まっていた。
「前はこの時間になると、並べてある椅子の半分ほどは人で埋まっていたけれど、今ではこんなに少なくなってしまいました」
そう説明するマルコの表情が一瞬曇る。だがすぐに顔を上げ、明るく言った。
「でも、これからまた、増えますよね」
期待するような眼差しで見つめられて、若干、いやかなりプレッシャーだ。私は苦笑しつつも答えた。
「頑張るわ」
そう答えた時、子供たちの中の、小さな女の子が泣いているのに気づいた。急いで近づいてしゃがみ込み、目を合わせてたずねる。
「どうしたの? なぜ泣いているの?」
女の子はヒックヒックと嗚咽を漏らしつつ、口を開いた。
「あのね、転んじゃって、おひざから血が出ちゃったの」
慌てて女の子のひざを見ると、血がにじんでいる。
「大丈夫?」
そう聞くとマルコが女の子の前に立ち、説明をする。
「さっき走っていたら転んでしまって、少し血が出たから水で洗い流したんです。傷自体はたいしたことないけれど、血が出たことにびっくりしちゃったんだね?」
マルコが優しく声をかけると、女の子は泣きながらうなずいた。見ればうっすらとだけど傷口が見えた。でも血は止まっているようだ。マルコの言う通り、血を見たことに驚いて泣いてしまったのだろう。
「讃美歌を歌い終わったら、アルマン神父にお薬を塗ってもらおうか。それまで我慢できる?」
マルコがそう切り出すと、女の子は勢いよくうなずいた。
マルコはここにいる子供たちのお兄ちゃん役みたいだ。歳の割に面倒見がよくて、しっかりしている。
やがてマルコは子供たちを整列させ、呼びかけた。
「みんな、今日は新しい歌い手のお姉さん、サヤさんが来てくれた。また人が集まってくるように、僕たちも心を込めて歌うぞー!!」
すると、次々に子供たちの声が上がる。
「おー!!」
「頑張るぞー!!」
「がんばるー!!」
見れば、一番小さな子までが上の子につられて、高く拳を掲げていた。一致団結している子供たちに、微笑ましい気持ちになる。そんな私にマルコが声をかけた。
「さあ、行きましょう。まずは僕たちが讃美歌を歌ったあと、サヤさんが歌ってください」
「わかったわ」
私がうなずくとマルコは礼拝堂に続く扉を開け、祭壇の前に子供たちを並ばせた。私は最後尾に並び、彼らの様子をうかがう。
古びたパイプオルガンの前の椅子に座っていたアルマン神父が、音を奏で始める。行儀よく一列に並んだ子供たちは、祈りを捧げに来た人々に頭を下げた。そしてマルコの目くばせと共に、音楽に合わせて歌い出す。
この地に恵みを与えてくれる神々よ
我らはその恩恵にあずかれることを日々感謝いたします
さすが毎日歌っているだけあって、上手だった。目を閉じて、心地よいハーモニーに聞き入る。
それに、この曲は私も知っている。
聖女だった頃、祈りを捧げる際に歌った歌は、この国で広く親しまれている曲ばかりだった。
この曲も、よく歌っていた曲の一つだったので、自然と私も口ずさんだ。
すると、それに気づいたマルコが歌いながら私の隣に来て、手をグイッと引っ張る。驚いて目を瞬かせた私の顔を見つめ、マルコが言った。
「知っているのなら、サヤさんも一緒に」
そのまま手を引かれ、子供たちの前へ出された。
観客は五人ほど。今まで一人で歌っていたので、これでも多いと感じてしまう。
私の歌でいいのかしら? なんだか緊張しちゃうわ。
そう思いながらも、静かに息を吸い込み、お腹の中心に力を入れた。
この大地を見守る神よ
祈りを捧げる民に豊かな実りを与えたまえ
我らは祈る この国の平和と神々のため
大地を愛する民に恩恵を与えたまえ
子供たちの声とハーモニーをつくり、礼拝堂の中に響き渡る自分の声。
誰かに歌を聞いてもらえることが、こんなに気持ちがいいとは知らなかった。感動しながら夢中で歌い続ける。
歌い終えたあと、盛大な拍手に包まれて、私はあまりの高揚感に目まいがした。
「本当にすごかった、サヤさん!!」
裏に引っ込んですぐ、私に駆け寄ってきたマルコは瞳を輝かせていた。
「感動しました。前の歌い手のお姉さんも上手だったけど、それ以上だ」
興奮冷めやらぬ様子のマルコは、頬を赤くしている。
「ありがとう。照れちゃうけど嬉しいわ。私も気持ちよかった」
「教会に来ていた皆も歌声を聞いて、最初はびっくりしたように呆けていたけれど、最後は目を潤ませて聞いていました。目を閉じて聞き惚れている人もいましたし」
歌いながらも、マルコは周囲の状況に気を配っていたみたいだ。私は歌うことだけで精一杯だったので、その観察力に感心する。
「すごいや、サヤさん。聖女様の歌声かと思うぐらい素晴らしかった!!」
突然、マルコの口から聖女の名が出てきたので、驚いて視線をさまよわせた。
焦るな、私。マルコは私が元聖女だったと知っている訳じゃない。自然に振る舞うのだと自分に言い聞かせた。
「あら、それなら次なる聖女様に立候補しようかしら」
笑ってごまかすと、マルコも笑う。
「聖女様の歌声、一度は聞いてみたかったな。素晴らしいのでしょうね」
騙しているようで心苦しくもあるが、今の私に聖女時代は関係ない。興奮して話すマルコに苦笑しながら返答した。
「そうね、私も聞いてみたいかな」
「だけどありがたい歌声だから、あまり一般にはお披露目していないようですよ。限られた人の前でしか歌わないそうです」
残念そうに表情を曇らせたマルコの言う通り、確かに私は大勢の前で歌うことはなかった。
私の歌声をよく聞いていたのは、この国の王子のエルハンス。彼は部屋で一人で歌っていると、たびたび現れた。
彼の出現に驚いている私に、『綺麗な歌声が聞こえてきたからさ、ついふらふらと足を向けちゃったよ』なんて軽口を叩いていたが、私が一人で寂しい思いをしていないかと心配して、様子を見に来てくれていたんじゃないだろうか。ついでに、面倒な執務の息抜きだったのかもしれない。
それに、リカルド。
護衛として側にいたから、彼が私の歌声を耳にすることは多かったはず。でも特になにか言われたことはない。
城にいた頃に想いを馳せていると、急に思い出した。
私は先ほど、膝を擦りむいていた女の子の側へ近寄ってしゃがみ込む。
「お膝は大丈夫? お薬塗ろうか?」
私が声をかけると、女の子はスカートの裾をまくり、膝を見せてくれた。
「あら」
先ほど見えた傷口はなくなっている。小さな傷だったので、見間違えたのだろうか。
「大丈夫かしら?」
そう聞くと、彼女はこくんとうなずいた。
「もう痛くない」
「じゃあ大丈夫ね」
私は安心して、立ち上がった。
それから一ヶ月が過ぎた。
教会へ通う合間をぬって、元の世界に帰る方法を探してはいたけれど、まったく手がかりがない。古本屋へも通ってみたものの、それらしきことが書かれた本は見つからなかった。やはり私一人で探すのは困難らしい。
一方で、嬉しいこともあった。教会に歌を聞きに来てくれる人々が多くなったのだ。
最初は数えるぐらいの人しか集まらなかったが、今では長椅子に座りきれないほど人々がやって来る。中には教会に来るついでだからと言って、新鮮な野菜や手作りお菓子などを持ってきてくれる人もいた。これにはマルコを筆頭に、子供たちが喜んだ。私も、協力できたようで嬉しい。
だけど不思議なことが一つある。どうやら噂が流れているらしいのだ。
『あの教会の歌い手の歌声には、不思議な力が宿っている』と。
歌声を聞いているうちに、長年痛かった膝が治ったとか、諦めていた子宝を授かったとか、そういう話だった。
いつだったかは、歌い終えると女性にいきなり手を握られたこともある。
『ここに通うようになって、もう治らないと言われていた母の病が回復してきたの。今では毎日、あなたの歌声を聞きたがるのよ。ありがとう』
感謝されて嬉しいけれど、私の歌に、そんな効果はないと思う。
『私はただ歌うことしかできませんが、それで元気になってくれるのなら嬉しいことです』
そう告げると、女性は笑顔を見せた。
街から少し外れた場所まで来ると、教会らしき建物が見えてきたのだ。それを目印に歩みを進めた。
焦る気持ちと比例して徐々に早足になり、息が上がってくる。そして教会の門の前まで来た時には、額にじんわりと汗をかいていた。
初めて近くまで来た教会は、建物こそ大きいものの、古くてどこかさびれた雰囲気を醸し出している。
ちょっと躊躇したが、勇気を出して扉を押した。年季が入っているせいか、ギギギと音をさせながら、扉がゆっくりと開く。
中も古い造りだったが、綺麗な場所だと感じた。きっと丁寧に掃除されているのだろう。
木の長椅子がいくつか並び、窓からは明るい太陽の光が差し込んでいる。
祭壇は豪華とは言えないけれど、毎日磨かれているようで、埃一つ落ちていない。その中央には女性の像が置かれていて、たくさんの花で埋め尽くされていた。
高い天井にはステンドグラスが嵌め込まれている。美しい女性とその周りを飛び交う鳥が、花に囲まれている模様だ。そこから差し込む光が反射して、床に綺麗な模様が映し出されていた。
唐突に、マルコからの手紙を思い出す。
『教会の天井にあるステンドグラスがとてもキラキラしているのですが、天井が高すぎて手が届きません。ここはどうやったら掃除できるか、いつも仲間と話しています。僕が大きくなったら、掃除できるのでしょうか?』
そんな疑問を投げかけられていたが、あの高さまで手を届かせるのは、いくらマルコが大人になっても無理だろう。そう思うとクスリと笑えた。
そこで自分が久々に笑ったことに、はたと気づく。
帰還の儀式が行われる数日前より、緊張して心から笑えていなかったのだ。そして、いざ儀式が行われたら、失敗して裏山に転がっていて……挙句、雨に降られて全身びしょ濡れになり、街に出ても不安だけが募るばかりだった。
なんだ、私、こんな状況でも笑えるんじゃない。
笑えるなら、まだ大丈夫な気がしてきた。
それに、温かみのあるこの礼拝堂を、こんな小さな子供たちが維持しているのだから、私も頑張らなくちゃ。
そんな風に前向きな気持ちになったおかげか、気がつけば口ずさんでいた。
大地に緑が生い茂り 新緑が光る
我らが大地の収穫は 女神の恩恵を受け 成り立つ
命あるもの また命を紡ぐ
これは、この国の住民なら誰もが知っている讃美歌のワンフレーズ。初めて聞いた時は、その美しい音程に心が惹かれた。祈りの塔でもよく歌っていたので、いまだにふとした時に口にしてしまう。
静かな教会の礼拝堂に私の歌声だけが響くのは心地よい。
そうして歌い終えた時には、晴れ晴れとした気分になっていた。
すると、いきなり拍手が聞こえた。
驚いてそちらへ顔を向けると、扉のすぐ横の長椅子に老人が座っている。前しか見ていなかったので、気づかなかったらしい。
老人は椅子から立ち上がり、私に近づきながら口を開く。
「あんた、とてもいい歌声をしているな。驚いた」
「ありがとうございます」
「お願いじゃ、もう一度歌ってくれないか?」
身綺麗な格好をした老人は、杖をつき、熱意のこもる瞳で懇願してきた。
「同じ歌でいいから、頼む」
最初こそ戸惑ったものの、私は結局もう一度同じ曲を歌う。
その間、老人は目を閉じて聞き入っていた。
歌い終わると、老人は目を開けて温かい拍手をしてくれる。恥ずかしいが、とても嬉しかった。
「心に染み入るようだった。亡くなった連れ合いも歌がうまくてな。昔を思い出したよ」
そう言った老人の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「わしはこの街に住んでいて、時間があればこの教会に来ているんだ。なあ、あんた、教会の歌い手になる気はないかね?」
「いえ、そんな……」
突然の申し出に面食らっていると、老人が説明を始めた。
「教会の歌い手がいなくなってしまっての、ここを訪れる人々が減ってきたんじゃ。ここは孤児院も兼ねているから、運営するには寄付金が必要でな」
先ほど、街でおばさんが話していたのと同じ話だ。
とはいえ、いきなりそう言われても、教会側の都合だってあるだろうし勝手には決められない。私が困惑していたところ、老人は祭壇に向かって声をかける。
「アルマン神父も問題はないじゃろ?」
いきなり声を張り上げた老人に驚いて、彼の見ている方へ振り返れば、祭壇の裏側から急に人影が現れた。
その神父服に身を包んだ男性は白髪で、五十歳ぐらいに見える。
男性――アルマン神父は苦笑したあと、私を見た。その視線に全てを見透かされているような気持ちになり、一瞬たじろぐ。
「私はここで神父をしているアルマンです。祭壇の裏を掃除していたら、とても美しい歌声が聞こえてきたので聞き惚れてしまいました。急に姿を現して驚かせるのも悪いので、そのまま隠れて聞き入っていたのですが、素晴らしい歌声ですね。非常に懐かしい気持ちになります」
褒められて照れていると、アルマン神父はジッと私を見て、続けて口を開いた。
「だが歌に、多少の迷いが感じられました」
鋭い言葉に、今の状況を言い当てられた気がして、驚いてしまう。
「実は私、自分の今後に迷っています。役目を終えたばかりで行くあてもなく、なにをすべきか見いだせないのです」
アルマン神父はおや、とばかりに片眉を上げ、ゆったりとたずねてくる。
「役目? あなたはその年齢で役目を終えたというのですか?」
「はい」
聖女としての役目は終わってしまった。
だからこそ、迷いを持ちながらもここにいるのだと告げたかったが、口をつぐんだ。
すると、突然アルマン神父が笑い出した。隣にいる老人も微笑んでいる。
予想外の反応に、アルマン神父と老人の顔を交互に見比べてしまう。やがてアルマン神父は口を開いた。
「失礼ですが、年齢をお聞きしてもよろしいですか?」
「はい、十九歳になります」
そう答えるとアルマン神父は再び微笑んだ。
「まだまだお若い。仮に人生が八十年で終わるとしても、あなたはその四分の一も学んでいない。それを自分自身で『役目は終わった』と決めつけるのは、いかがなものかと感じます。あなたが今まで背負っていたのが重大な役割だったとしても、人は生きている間、日々役割を持って神に生かされているのです。今は一つの役割が終わり、次なる山に差しかかっているのでしょう」
アルマン神父の言葉が胸にズシリとのしかかった。
私の役割は終わった訳じゃない。人生はこれから――
そうだ、まだ十九歳。やりたいことだってたくさんある。
聖女としての役目を終えたからといって、私自身の人生まで終わった訳じゃない。
そう考えると、先ほどまで悩んでいたのが嘘のように晴れ晴れとしてくる。隣にいた老人も笑いながら声をかけてきた。
「わしは、生きているうちは、自分の役割は終わることがないと思っている。八十歳になる老いぼれがそう言うのだから、お嬢さんはまだまだいろいろな可能性を秘めているんじゃないか。それをそんな思いつめた顔をして。深く考えても、なるようにしかならんものじゃて」
自分の憂鬱を笑い飛ばされ、気持ちがより軽くなった。
心にいい風が吹き込んだ気がする。私はそこで決意し、顔を上げた。
そうだ、私には歌がある。聖女となる前から、ただ歌うことが好きだった。
この歌が誰かの喜びになるというのなら、喜んで捧げよう。それに、教会で歌うことは手紙をくれたマルコへのお礼にもなるかもしれない。
たとえ聖女という肩書がなくなったとしても――
アルマン神父は私の様子を見て、優しく微笑みつつ説明してくれた。
「ここには毎日、街の人々がやってきます。その時に鎮魂歌だったり、神に祈りを捧げる歌だったりを歌っているのですが、どうでしょう、あなたの都合がつくようならば歌いに来ていただけませんか?」
「はい、私でよければ」
「お嬢さんがここに来てくれるのなら、わしも通う楽しみが増えたわい。老体に毎日の教会通いは難儀だと思い始めていたが、あの歌声を聞くため、張り切って通い続けるとしよう」
老人の笑い声が礼拝堂に響き、アルマン神父も静かに笑いながら口を開いた。
「行くあてがないのでしたら、一から自分の居場所を作り上げるのも新たな課題なのかもしれません」
自分の居場所を自分で作り出す……
かけられた言葉を胸に刻んで、唇をギュッと噛みしめる。
その時、軽やかな足音が近づいてくると同時に、祭壇の横にあった扉が開かれた。
「アルマン神父!! 教会の裏の草取りが終わりました!!」
そこから顔を出したのは男の子。丸顔で目がクリッとしていて、茶色のくせ毛がはねている。可愛い顔立ちの子だ。
彼は私を見ると、あっ、と気まずい顔をしたのち、無言で頭をぺこりと下げた。
「ご苦労さまでした、マルコ」
アルマン神父が呼んだ名前を聞き、私は顔をバッと男の子へ向ける。
彼が、あの手紙をくれていたマルコなのだ。
彼に会えて、嬉しくなった。だが彼が手紙を出していたのは聖女だった私にであって、今ここにいる私ではない。手紙のことを口にしては、変に思われるだろう。
そう考えて、黙っていることにした。
「彼はマルコです。ここにいる自分より小さい子供たちの面倒をよく見てくれるので、大変助かっています」
アルマン神父に褒められたマルコは、嬉しそうに頬を赤く染めた。
そして、アルマン神父の視線は私へと注がれる。
「まだお名前をお聞きしていませんでした」
そう言われたので、背筋を伸ばして答えた。
「サヤです。よろしくお願いします」
アルマン神父は私に微笑んだあと、マルコに声をかける。
「マルコ、今後はサヤさんが歌い手として教会に来てくださるそうです」
そう告げられ、マルコは目を見開き、表情をパッと明るくした。
「本当ですか?」
喜びにはしゃいでいるマルコに、アルマン神父は私に教会を案内するように頼む。
緊張しながらマルコに近づくと、彼は笑顔を向けてくれた。
「では僕が案内します。ついてきてください」
彼に導かれるまま、教会内をまわる。
お世辞にも新しいとは言えないけれど、隅々まで掃除がいきわたっていて、気持ちのいい空間だ。廊下を歩いていると外から子供の笑い声が聞こえてきたので、視線を向ける。見れば子供たちが集まって外で遊んでいた。
「ここには十三人の子供が集まって生活しているんです。皆、身寄りのない子供たちで、教会への寄付で生活しています。それが最近、讃美歌を歌ってくれていたお姉さんがいなくなってしまって、あまり人が集まらなくなってきたんです。生活が成り立たなくなるのも困るけれど、教会の聖女様の像にちゃんとした歌を捧げられないことが申し訳なくて」
マルコは一瞬うつむいたあと、顔をパッと上げた。
「だからサヤさんが来てくれて、すごく嬉しいです」
きらきらと輝くマルコの瞳は純粋そのものだ。期待されていると知り、私も気合が入る。
「期待に応えることができるように頑張るわね」
最近までいた歌い手の女性ほど綺麗な歌声を響かせることができるか自信はないけれど、自分なりに頑張ってみよう。
教会を案内してもらったあと、翌日の礼拝堂で讃美歌を歌う時間を確認して宿屋に帰る。
最初に宿屋を出た時とは違い、驚くほど心が軽くなっていた。
そして翌日。私は宿で提供された朝食を食べ終えると、さっそく教会へと向かった。
まだ時間には早かったけれど、宿屋にいても特にすることはない。
早く到着した私を、マルコを筆頭とした子供たちが笑顔で歓迎してくれた。
「おはよう、マルコ」
「サヤさん」
マルコが笑顔で駆け寄ってくる。彼は服の上に白い簡素なローブを羽織り、胸に金の飾りのペンダントをつけていた。この服装が讃美歌を歌う時の正装なんだとか。正装など用意していなかったと焦る私に、マルコは白いローブを手渡してくれた。
「それ、前の歌い手のお姉さんの忘れ物なんです。よかったら羽織ってください」
準備がいいマルコの言葉に甘え、服の上からローブを羽織る。
扉を開けて礼拝堂の中を見ると、五人ぐらいの人が集まっていた。
「前はこの時間になると、並べてある椅子の半分ほどは人で埋まっていたけれど、今ではこんなに少なくなってしまいました」
そう説明するマルコの表情が一瞬曇る。だがすぐに顔を上げ、明るく言った。
「でも、これからまた、増えますよね」
期待するような眼差しで見つめられて、若干、いやかなりプレッシャーだ。私は苦笑しつつも答えた。
「頑張るわ」
そう答えた時、子供たちの中の、小さな女の子が泣いているのに気づいた。急いで近づいてしゃがみ込み、目を合わせてたずねる。
「どうしたの? なぜ泣いているの?」
女の子はヒックヒックと嗚咽を漏らしつつ、口を開いた。
「あのね、転んじゃって、おひざから血が出ちゃったの」
慌てて女の子のひざを見ると、血がにじんでいる。
「大丈夫?」
そう聞くとマルコが女の子の前に立ち、説明をする。
「さっき走っていたら転んでしまって、少し血が出たから水で洗い流したんです。傷自体はたいしたことないけれど、血が出たことにびっくりしちゃったんだね?」
マルコが優しく声をかけると、女の子は泣きながらうなずいた。見ればうっすらとだけど傷口が見えた。でも血は止まっているようだ。マルコの言う通り、血を見たことに驚いて泣いてしまったのだろう。
「讃美歌を歌い終わったら、アルマン神父にお薬を塗ってもらおうか。それまで我慢できる?」
マルコがそう切り出すと、女の子は勢いよくうなずいた。
マルコはここにいる子供たちのお兄ちゃん役みたいだ。歳の割に面倒見がよくて、しっかりしている。
やがてマルコは子供たちを整列させ、呼びかけた。
「みんな、今日は新しい歌い手のお姉さん、サヤさんが来てくれた。また人が集まってくるように、僕たちも心を込めて歌うぞー!!」
すると、次々に子供たちの声が上がる。
「おー!!」
「頑張るぞー!!」
「がんばるー!!」
見れば、一番小さな子までが上の子につられて、高く拳を掲げていた。一致団結している子供たちに、微笑ましい気持ちになる。そんな私にマルコが声をかけた。
「さあ、行きましょう。まずは僕たちが讃美歌を歌ったあと、サヤさんが歌ってください」
「わかったわ」
私がうなずくとマルコは礼拝堂に続く扉を開け、祭壇の前に子供たちを並ばせた。私は最後尾に並び、彼らの様子をうかがう。
古びたパイプオルガンの前の椅子に座っていたアルマン神父が、音を奏で始める。行儀よく一列に並んだ子供たちは、祈りを捧げに来た人々に頭を下げた。そしてマルコの目くばせと共に、音楽に合わせて歌い出す。
この地に恵みを与えてくれる神々よ
我らはその恩恵にあずかれることを日々感謝いたします
さすが毎日歌っているだけあって、上手だった。目を閉じて、心地よいハーモニーに聞き入る。
それに、この曲は私も知っている。
聖女だった頃、祈りを捧げる際に歌った歌は、この国で広く親しまれている曲ばかりだった。
この曲も、よく歌っていた曲の一つだったので、自然と私も口ずさんだ。
すると、それに気づいたマルコが歌いながら私の隣に来て、手をグイッと引っ張る。驚いて目を瞬かせた私の顔を見つめ、マルコが言った。
「知っているのなら、サヤさんも一緒に」
そのまま手を引かれ、子供たちの前へ出された。
観客は五人ほど。今まで一人で歌っていたので、これでも多いと感じてしまう。
私の歌でいいのかしら? なんだか緊張しちゃうわ。
そう思いながらも、静かに息を吸い込み、お腹の中心に力を入れた。
この大地を見守る神よ
祈りを捧げる民に豊かな実りを与えたまえ
我らは祈る この国の平和と神々のため
大地を愛する民に恩恵を与えたまえ
子供たちの声とハーモニーをつくり、礼拝堂の中に響き渡る自分の声。
誰かに歌を聞いてもらえることが、こんなに気持ちがいいとは知らなかった。感動しながら夢中で歌い続ける。
歌い終えたあと、盛大な拍手に包まれて、私はあまりの高揚感に目まいがした。
「本当にすごかった、サヤさん!!」
裏に引っ込んですぐ、私に駆け寄ってきたマルコは瞳を輝かせていた。
「感動しました。前の歌い手のお姉さんも上手だったけど、それ以上だ」
興奮冷めやらぬ様子のマルコは、頬を赤くしている。
「ありがとう。照れちゃうけど嬉しいわ。私も気持ちよかった」
「教会に来ていた皆も歌声を聞いて、最初はびっくりしたように呆けていたけれど、最後は目を潤ませて聞いていました。目を閉じて聞き惚れている人もいましたし」
歌いながらも、マルコは周囲の状況に気を配っていたみたいだ。私は歌うことだけで精一杯だったので、その観察力に感心する。
「すごいや、サヤさん。聖女様の歌声かと思うぐらい素晴らしかった!!」
突然、マルコの口から聖女の名が出てきたので、驚いて視線をさまよわせた。
焦るな、私。マルコは私が元聖女だったと知っている訳じゃない。自然に振る舞うのだと自分に言い聞かせた。
「あら、それなら次なる聖女様に立候補しようかしら」
笑ってごまかすと、マルコも笑う。
「聖女様の歌声、一度は聞いてみたかったな。素晴らしいのでしょうね」
騙しているようで心苦しくもあるが、今の私に聖女時代は関係ない。興奮して話すマルコに苦笑しながら返答した。
「そうね、私も聞いてみたいかな」
「だけどありがたい歌声だから、あまり一般にはお披露目していないようですよ。限られた人の前でしか歌わないそうです」
残念そうに表情を曇らせたマルコの言う通り、確かに私は大勢の前で歌うことはなかった。
私の歌声をよく聞いていたのは、この国の王子のエルハンス。彼は部屋で一人で歌っていると、たびたび現れた。
彼の出現に驚いている私に、『綺麗な歌声が聞こえてきたからさ、ついふらふらと足を向けちゃったよ』なんて軽口を叩いていたが、私が一人で寂しい思いをしていないかと心配して、様子を見に来てくれていたんじゃないだろうか。ついでに、面倒な執務の息抜きだったのかもしれない。
それに、リカルド。
護衛として側にいたから、彼が私の歌声を耳にすることは多かったはず。でも特になにか言われたことはない。
城にいた頃に想いを馳せていると、急に思い出した。
私は先ほど、膝を擦りむいていた女の子の側へ近寄ってしゃがみ込む。
「お膝は大丈夫? お薬塗ろうか?」
私が声をかけると、女の子はスカートの裾をまくり、膝を見せてくれた。
「あら」
先ほど見えた傷口はなくなっている。小さな傷だったので、見間違えたのだろうか。
「大丈夫かしら?」
そう聞くと、彼女はこくんとうなずいた。
「もう痛くない」
「じゃあ大丈夫ね」
私は安心して、立ち上がった。
それから一ヶ月が過ぎた。
教会へ通う合間をぬって、元の世界に帰る方法を探してはいたけれど、まったく手がかりがない。古本屋へも通ってみたものの、それらしきことが書かれた本は見つからなかった。やはり私一人で探すのは困難らしい。
一方で、嬉しいこともあった。教会に歌を聞きに来てくれる人々が多くなったのだ。
最初は数えるぐらいの人しか集まらなかったが、今では長椅子に座りきれないほど人々がやって来る。中には教会に来るついでだからと言って、新鮮な野菜や手作りお菓子などを持ってきてくれる人もいた。これにはマルコを筆頭に、子供たちが喜んだ。私も、協力できたようで嬉しい。
だけど不思議なことが一つある。どうやら噂が流れているらしいのだ。
『あの教会の歌い手の歌声には、不思議な力が宿っている』と。
歌声を聞いているうちに、長年痛かった膝が治ったとか、諦めていた子宝を授かったとか、そういう話だった。
いつだったかは、歌い終えると女性にいきなり手を握られたこともある。
『ここに通うようになって、もう治らないと言われていた母の病が回復してきたの。今では毎日、あなたの歌声を聞きたがるのよ。ありがとう』
感謝されて嬉しいけれど、私の歌に、そんな効果はないと思う。
『私はただ歌うことしかできませんが、それで元気になってくれるのなら嬉しいことです』
そう告げると、女性は笑顔を見せた。
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