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1巻
1-1
しおりを挟む大理石の床はシャンデリアの輝きを反射して、まばゆい光を放っている。その眩しさに顔をしかめ、私はゆっくりと周囲を見回した。
ここはどこだろう……
自分が誰で、なにをしていたのかもわからない。覚醒したばかりの頭は靄がかかったみたいにぼんやりとしている。白大理石を基調にした壁に金の蔓が這う空間――どこかの広間に人が集まり、ざわめいていた。
皆、遠巻きにこちらの様子をうかがうか、ひそひそとささやき合うだけで、誰も近寄ってこない。
広間の中央にある螺旋階段の端に立つ私の正面にあるのは、広い男性の背中。
まるで私を庇うように立つ人物の背中を、不思議な気持ちでじっと見つめていた。
「君はなにをしたのか、わかっているのか」
男性の厳しい声が響くと、辺りはシーンと静まり返る。緊迫した声を聞き、私は肩をびくりと揺らした。
なにが起こっているのかわからず、息を呑み、瞬きを繰り返す。
そっと横にずれて、視線を前方に向けると、そこにいたのは美しい女性。
長い金の髪を綺麗に巻き、真っ赤なドレスを身に着けた女性はとても麗しく、そして勝気そうに見えた。
彼女は唇をキュッと噛みしめると、一度うつむいた。
だが、すぐさま顔を上げ、キッと鋭い視線を男性に向け、口を開く。
「お言葉ですがライザック様。私は今、アーネット様とお話をしているのです。誰も食ってかかろうなどと思っていません。まずは落ち着いてください」
女性の声は淡々としていて、感情を押し殺している風にも聞こえた。一方、男性はいらだった声で答える。
「落ち着いてなどいられるものか!! 君がした嫌がらせの数々、今まで我慢していたが、もう限界だ!!」
急にこちらを振り返った男性の顔は、怒りで歪んでいた。
「ほら、アーネットがこんなに脅えているではないか!!」
男性の声の大きさに驚き、私はよろめく。そしてそのまま、フワッと宙に浮いたような感覚に襲われる。
あ、これ、いつもの貧血……
そう思うと同時に力なく、足から崩れ落ちた。
視界に入っているのは、男性の焦った顔と、その向こうにいる女性の驚いた顔。
後方に倒れ込んだ私はしたたかに後頭部を打ち、意識を手放した――
***
まどろみの中、小鳥のさえずる音がどこからか聞こえてくる。
もう朝かしら。
面倒だなぁ、起きたくないわ。だけどそろそろ起きないと、学校に遅刻しちゃう。
うとうとしていたかったが、そっと瞼を開けた。
視界に入ってきたのは高い天井。白を基調とし、蔓と果実の模様が描かれている。
あれ、私の部屋の壁紙、こんな模様だったかしら。
自分の部屋のはずなのに見覚えがなく、不思議に思い、その場で目を瞬かせた。
ボーッとしたまま顔を横に向けると、ベッドカバーが見える。
その白いレース素材の布にも見覚えがないし、子供の頃から愛用していたキャラクターつきのタオルケットも見当たらない。
ここはどこ!?
自分の部屋じゃないと気づき、目をクワッと見開くと同時に、飛び起きた。
そして、私が寝かされていた部屋の全貌を確かめる。
やけに高級そうで巨大なベッドが置けるだだっぴろい部屋。その他にソファと本棚、壁に飾られた絵画にマントルピースの暖炉がある。それら豪華な調度品に囲まれて寝ていたらしい。
「ここは……どこよ」
これは夢なの?
それとも、旅行にきたんだっけ? でも、私が泊まるホテルにしては高級すぎる。まさかスイートルーム? だけどそんなお金はないし、そもそも旅行に出た覚えだってない。
それに、不思議とこの部屋に既視感があるのはなぜ?
どこかで見た光景だと思いながら、キョロキョロと部屋を見回した。シーツをまくり上げ、そろそろとベッドから下りると、ふかふかの絨毯の感触。
足下を見て驚愕した。私が身に着けていたのは、真っ白なネグリジェだったから。
可愛いレース刺繍のデザインで、裾がひらひらしてロマンチックな雰囲気を醸し出している。
まるでお姫様が着るようなネグリジェだけど、私、こんな寝間着は持っていない。
愛用のパジャマはタオルケットと同じ、キャラクターつきだったはず。
私の身になにかが起きている……!!
ふと、アンティーク調のドレッサーがあることに気づいた。繊細なレリーフが施された上品なデザインだ。鏡はぴかぴかに磨かれている。
ドレッサーを視界に入れた途端、ダッシュで駆け出した。
腰を折り、鏡に姿を映した瞬間、息を呑む。
ブラウンのストレートヘアは、長くて艶がある。そして、ほっそりとしたしなやかな手足に豊満な胸。白い肌にふっくらとした唇、くっきりとした二重瞼の大きな目に、長いまつ毛。
鏡に映っている絶世の美少女を見て、私は頬に両手を添えて叫んだ。
「アーネット・フォルカーじゃない!!」
ちょっと、これはどういうことなの。なぜ私がアーネットになっているのよ、誰か説明して!!
髪を振り乱し混乱する私だが、そんな姿さえ可愛いな、チクショー。なんて、言葉が荒くなってしまうのも、動揺している今は許して欲しい。
状況が把握できず、心臓がバクバクと音を立てる。
冷静になろうと胸に手を当てると、ふくよかな弾力にまたショックを受けた。悔しくなるほどのナイスボディだと実感する。
アーネット・フォルカー。
彼女は私がプレイしていた乙女ゲームの主人公で、十八歳になる、侯爵の一人娘。
以前、私はあるゲームに夢中になっていた。その名も『切り開け乙女の運命』。
このゲームでは、ストーリーが展開していく中でアーネットがさまざまなヒーローと出会う。そして運命の男性と想いを通じ合わせてハッピーエンドになることもあれば、バッドエンドを迎えたり、庶民になって商売を始めたりすることも。隠し要素として王女となり政治に関わるルートもある。
他にも結末はいろいろとあるのだけれど、男などいらんわとばかりに女傑ルートへ進む場合もあり――
ようは恋愛メインにするかしないかは自分次第の、シミュレーションゲームだ。
一部のルートを除き、アーネットのゲームにおける設定は、完全なる清純派だった。物静かでおっとりしていて、控えめで優しい女性。それこそ男性のみならず、女性からも好かれ、絶世の美少女で性格もよしといった嫌味のないキャラ。
ゲームをプレイしながら思ったものだ。
『うわー。こんな完璧な女性と友人になりたくないわー』と。
もし友人になったら、自分なんて完全なる引きたて役だろう。そんな心の狭いことを考える自分が嫌だが、思ってしまうものはしょうがない。
だけどなぜ、よりによってアーネット・フォルカーになっているのだ、私が。
小説とかゲームでよくある展開なら、悪役令嬢に転生するのじゃなくて?
そしてバッドエンドを防ぐため、奔走するのでしょう? そうでしょう?
私の本名は大沢あかり。
趣味はゲームと、某女性歌劇団のDVD鑑賞。いたって普通の高校三年生で、受験勉強の息抜きに購入したのが、このゲームだった。
まあ、息抜きというより没頭していましたよ。いい加減、勉強に本腰を入れないとやばいと気づき、ゲームを封印するまでは。
本当になぜ、こんなことになっているのだろう。なぜ、私がアーネットになっているの。
どれだけ考えてみても、原因は思い当たらない。
……うん、これは夢なのかもしれないわ。
そう思い、いそいそとベッドへ戻る。
ふかふかのベッドに身を倒し、再び体を休めた。それから天井の模様をじっと眺めながら考える。
夢、なのよね。もうしばらくしたら起きるはずだわ。
そうして、いつもの日常が始まるはず――
そう自分に言い聞かせて、静かに瞼を閉じる。
その時、扉が控えめにノックされ、人の足音がした。仕方がないので返事をして、そっと上半身を起こす。
入室してきたのは一人の女性だった。
侍女の服を身に着け、ひとつにまとめた黒色の髪に、スラッと背の高い彼女は、確かアーネットのお付きの女性のはず。名前は……
「エミリー」
自然と口から出た。
名前を呼ばれた彼女はホッとした顔をしつつ、手にしていた水差しをテーブルに置き、こちらに駆け寄ってきた。
「アーネット様、お加減はいかがでしょうか」
感極まった様子で目が潤んでいる。
「えっ、ええ、大丈夫よ。私はいったい……」
そもそも、なぜベッドに寝かされていたのだろうと不思議に思って首を傾げた時、後頭部がズキンと痛んだので、思わず顔を歪めた。
エミリーは慌てふためき、身を乗り出してくる。
「無理をなさらないでください」
そう言ってシーツを手に取り、私を寝かしつけようとする。エミリーの強引さに戸惑いつつも、聞いてみた。
「私はどうしたのかしら? なんだか記憶が曖昧で……」
エミリーは少しの間の後、説明してくれた。
「足元が悪くてお転びになったそうです。頭を打ったので、どうか安静に願います」
恐る恐る後頭部へ手を当ててみると、確かにポッコリと盛り上がっている。たんこぶに違いない。
夢なのに、やけにリアルだわ。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、自分がアーネットになっている理由を再び考えた。
しかし、やっぱりらちがあかない。あまりにゲームに夢中になっていたので、こんな夢を見ているのかしら?
でもまあ、そうだとしたら、そのうちに覚めるだろう。
目が覚めるまでは、この夢の中の生活を楽しもう。
そう割り切った時、大きな音を立てて扉が開いた。
「アーネット!!」
驚きのあまりビクッと肩を揺らし、上半身を起こす。すると、慌てた様子の男性が息を切らして部屋に入ってきたところだった。
男性は両手を広げ、私に近づいてくる。
「ああ、大丈夫だったかい!? 気が気じゃなかったよ」
いきなり入室し、しかも大きい声を出して、おおげさな仕草で近づいてくる男性は不審極まりない。そもそもノックぐらいしなさいよ。私の側に立つエミリーも驚いた様子だが、注意せずに一歩後ろに下がり、そっと頭を垂れた。
「アーネット、僕の天使よ。君が倒れた時、心臓がその場で止まってしまうかと思ったよ」
芝居がかった台詞を、まるで息をするかのように口にする男性に、目が点になる。
そこで男性をまじまじと見た。
柔らかな金の髪はややクセがあるが、艶もある。新緑色の瞳はキラキラと輝き、私を見据えていた。中性的な雰囲気を持っていて、目を惹く人だと思う。ただ、胸元を飾るスカーフの柄がどうにも気になった。地の色が紫と黄色で、赤い水玉模様がついているのだ。奇抜なデザインのスカーフに、顔の美しさが半減して見える。
なぜ、そのスカーフなのだろう。眉間に皺を寄せ、ジッと見てしまう。
それに彼が入室してきた途端、ムワッとするほど甘い香水のにおいが部屋中に漂った。甘すぎる香りは苦手だ。
男性はベッド脇で膝を折ると、そっと私の手を取った。
「どうしたんだい、僕をそんなに見つめるなんて」
真っ直ぐに見つめてくる男性を見て、やっと気づいた。
彼はこの国の王子、ライザック・ナイールだ。
確か、彼は――
「ライザック様はクリスティーナ様と……」
そう、彼はアンドラ侯爵家の令嬢、クリスティーナと婚約していたはずだ。それなのになぜ、私の部屋にいるの。
クリスティーナの名を出した瞬間、ライザックはスッと目を細めた。そして手にギュッと力を込め、口を開く。
「アーネット。僕は決めたよ」
「なにをですか?」
私をじっと見つめながら、彼はさも重大な決意かのように続けた。
「僕はクリスティーナと婚約を解消しようと思う」
ライザックは口を真一文字に結び、決定事項だとばかりの顔だ。
えっと、確かクリスティーナとライザックは幼い頃に両家で決めた婚約者同士だった。お互い申し分ない身分だし、良縁じゃない。それをなぜ解消するのだろう。
そして、どうしてわざわざ私に告げるの?
「まぁ……。それは大変ですね」
簡単に婚約破棄するなんて言うけどさー、両家の関係とかもあるじゃない? なのに一方的に断ったら、随分な醜聞になる。
そもそも、個人の意思でできることじゃないと思う。それこそ、ドロドロの展開が待ち受けてそうだわ。
まあ、私のことは巻き込まないでくださいね。
あとそろそろ、握った手を離してくださいません?
ライザックにギュッと握られた手を抜こうとしても、なかなか抜けやしない。笑顔でグッと力を込めると、ライザックの顔に笑みが浮かぶ。
「ああ、アーネット。僕の決意を聞いて、それほどまでの笑顔を見せてくれるなんて、僕は幸せ者だよ」
いや、違うってば。
背筋がぞわぞわとしたため、強く手を引き抜き、やっと解放された。再び捕らわれちゃかなわんと、シーツの下に手を引っ込める。
ライザックはにっこり微笑むと、スッと立ち上がった。
「じゃあ、また来るから。安静にして、僕を待っていて欲しい」
キラキラした目で見つめられているけど、そんなことよりもライザックの胸元のスカーフの柄が気になって仕方ない。奇抜な色彩とデザインで、とにかく目に優しくないのだ。
なにも言えることはないため無言でいる私をどう勘違いしたのか、ライザックは両手を広げ、名残惜しそうな仕草を見せた。
「ああ、そんな悲しい顔をしないでおくれ。僕まで離れがたくなってしまう!!」
次から次へと芝居がかった台詞を口にするライザックは、まるで異次元の生物みたいだ。まったく理解できない。沈黙を続ける私に、彼はニコッと微笑んだ後、片目をつぶってみせた。
「じゃあ、僕はいくよ。必ずまた来ると約束しよう」
や、結構です。
喉まで出かかった言葉をグッと呑み込んだ私。ライザックはこちらの心中など知らずに、笑顔のまま退室した。扉がバタンと閉まった音を聞き、やっと落ち着く。
な、なんなの、あの人……
えっと、ライザックはこの国の麗しい王子様……だと思っていた。少なくともゲームの画面越しに見る彼は。ゲームの中では普通にイケメンだったのに、実際に目にした彼は服装のセンスが最悪だ。それに内面も、かなりイタイ。もしやこのゲーム、バグったか。
ゲームの中では、ライザックとの未来を選ぶことも、拒否することも自由だった。
私は、ゲームの彼も強引さが鼻について、あまり好きなタイプではなかった。それでいつも華麗にスルーする方針を取っていたが、なにせライザックはぐいぐいと積極的にくるし、大人しい性格のアーネットは、はっきりと拒否できないことが多かったのだ。そもそも強気に出られるキャラじゃないしなぁ、アーネットは。だが夢の中とはいえ、アーネットの立場になってみて確信する。
ライザックはない。あり得ない。
ここはプレーヤーとして、彼の好意をスルーしたい。
さきほどの様子を見るに、ライザックはゲームと同様に私、アーネットのことが好きなのだろう。……うん、認めたくないけど、好意をビシバシ感じた。
部屋の隅に控えていたエミリーが、水差しをベッド脇へ運んできた。なので思い切って聞いてみる。
「ライザック様は、いつもあんななの?」
エミリーは言葉に詰まったのち、首を傾げた。
「あんな、とはどのような意味でしょうか?」
うまいな、エミリー。質問に質問で返し、とぼけている。まあ、エミリーの立場で下手にライザックのことを語れまい。それこそ間違って本人の耳に入れば、不敬罪に問われかねないのだから。
これ以上、エミリーを追及するのはやめよう。そう思い、ベッドに横になる。
「……ちょっと、疲れたわ」
呟くと、エミリーがそっとシーツを肩にかけてくれた。
「少しお休みになってください。アーネット様は転倒なさったのですから」
「わかったわ」
どこで転倒したのかも、記憶が曖昧だ。
ただ、今はすごく疲れていて思い返す気力もない。私は高い天井を見つめながら、静かに瞼を閉じたのだった。
『切り開け乙女の運命』の舞台となるナイール国は、これといった資源や特産品のない、小さな国だ。
悲惨なくらいに貧乏というわけではないが、決して豊かではない、海に囲まれたこぢんまりとした国。海を隔てた隣のルネストン国などとは、比べものにならない小国である。
『資源もナイ、特産品もナイ、なんにもナイ、ナイール国』――そんな自虐的な歌を自国の子供たちが歌うほどの国。自然だけはたっぷりとあるけどね。
そんな国で、主人公は自分自身の生き方を切り開いていく。
恋愛に走るもよし、商売に走るもよし、政治に走るもよし。
乙女ゲーではあるけど、人生のシミュレーションという要素が強かったっけ。
私はというと、恋愛に走るつもりが、なぜか農民になって広大な畑を耕すエンドや、はたまた海を駆け巡る女海賊エンドを迎えたなぁ。
改めて考えると、なんでもありだな、オイ。
そして、なぜか今見てるこの夢のアーネットはライザック王子と急接近しているらしい。ってことは恋愛ルートなのかしら? だとしても相手に不満あり、おおありだ。
まあ、なんにせよ、目が覚めたら現実に戻るはず。
そう、これは夢なのだから――
小鳥のさえずりが窓の外から聞こえる。
カーテンが引かれる音がして、日差しが部屋に入り込み、まぶしさにピクピクと瞼が動く。
「おはようございます、気持ちのいい朝ですよ」
私を起こす声にゆっくり目を開けると、視界に入ってきたのは高い天井。そしてエミリーの姿。
なんて長い夢なのだろうか。
ぼんやりと思いながら、上半身を起こした。
「体調はいかがですか?」
気遣うような視線と共に尋ねてくるエミリーに答える。
「ああ、うん。体調は大丈夫よ、体調は」
だが、頭の方がどうもおかしい。だって、なかなか夢から覚めないのだから。
あくびをしつつ背伸びをした。するとエミリーが驚いた顔をしてこちらを見つめる。
「どうしたの?」
首を傾げて聞いた私に、エミリーがハッとして答えた。
「いえ、長年アーネット様にお仕えしていますが、あくびをなさっているのを初めて見ました」
変なところで感心するものだと、逆に感心してしまった。
私だって人間だ。あくびもするし、伸びもする。人間だもの。
そこで、ハッと気づく。
この夢の世界では、私は大沢あかりじゃない。アーネット・フォルカーなのだ。
確かに見目麗しい侯爵令嬢のアーネットは、人前であくびなどしないのかも。
でもさ、いくらエミリーがいるとはいえ、自室だよ? 自分の部屋ですら気を抜けないなんて、そんなの嫌だわ、私。
この夢が覚めるまでは、ほどほどに好きにさせてもらおう。だって窮屈じゃない。
ベッドから下りると、クローゼットの前に立ち、エミリーに声をかけた。
「着替えるから、手伝って欲しいの」
一人で着替えたいところだが、ドレスの着方がわからない。
エミリーは笑顔でうなずき、クローゼットの扉を開いた。ぎっしり並んだドレスを見て、私は驚きのあまり口を大きく開けてしまう。さすが侯爵令嬢なだけあって、衣装持ちだわ。
「本日はどのお召し物にいたしましょう?」
エミリーが何着か手にしてすすめてくる。
クローゼットの中にあるドレスは白や若草色など、優しい色合いのものが多かった。
「えっと、そうね……」
迷っているとエミリーがおしとやかな雰囲気のドレスを差し出してくる。
「春の日差しをイメージさせるこちらのドレスはいかがでしょうか? 今日の空と同じ色合いですわ」
エミリーがはりきった様子ですすめてくるので、うなずいた。
「そうね、お願いするわ」
ネグリジェを脱ぎ、コルセットをつけ、ウエストをこれでもかと絞られる。気絶するんじゃないかと思うぐらい苦しい。
そしてやっとドレスを着用する。鏡台の前に腰かけるように促され、腰を落ち着けると、今度はパウダーをはたかれ、薄く化粧を施された。
鏡の中の自分を見て思う。
つ、疲れるわ、これ。着替えて化粧をするだけで、もうぐったりだ。ロールプレイングゲームならHPをぎりぎりまで削られているに違いない。これを毎日となると大変よね。美しくあるということは簡単なことではないのだと実感した。
最後に私の唇へ薄桃色の紅をひき、エミリーが鏡越しにニコッと微笑んだ。
「はい、出来上がりです。今日も美しいですわ、アーネット様」
鏡に映る私は、やっぱりアーネット・フォルカーだった。
ゲーム画面で見た彼女が、ここにいる。
自分の姿だというのに見とれてしまっていると、エミリーが声をかけてきた。
「さあ、下へ参りましょう。朝食の準備ができていますわ」
朝食と聞き、胸が躍った。実はお腹が空いていたのだ。夢だけどお腹が空くなんて変な感じ。だが空腹には抗えない。
「ええ、行きましょう」
そして朝食の席へ、いそいそと向かったのだった。
広間の扉を開けると、先に椅子に腰かけている人たちがいた。
渋みのあるロマンスグレーの男性と、物静かな印象を受けるほっそりとした女性。
アーネットの両親だ。
二人はどちらもアーネットによく似ている。
なんだか緊張しながら案内された席に腰かけると、父が声をかけてきた。
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