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7.薔薇の間へ向かいましょう
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茶色の長い髪を丁寧にブラッシングする手つきは優しい。ほどなくして、サラサラの指通りの良い髪になる。
薄化粧を施した上に、仕上げはパフでパウダーをはたいた。柔らかく優しい石鹸の香りに包まれ、息を深く吸い込んだ。
「どうせ暗闇なんだから、気合いれてお化粧しても無駄じゃない?」
「しっ、お嬢様。動かないでくださいませ」
フェイスブラシを肌にあてながら、ハンナが私をたしなめる。こんな時は逆らってもいいことがない。黙ってジッと動かずに、終わるのを待つのみだ。
やがてハンナは身を起こす。どうやら終わったみたいだ。
「ふぅ、できましたわ。お綺麗ですわ、お嬢様」
ハンナは満足そうに微笑んだ。私は鏡に写った自分を見る。
艶のあるサラサラの髪、白い肌にほんのりのせたチーク。まつげもクルンと上がって、いつもより目がパッチリとして見える。
「うん、今日も素敵に仕上げてくれてありがとう」
礼を言うとハンナは照れくさそうに頭を下げた。
「これから寝るっていうのに、お化粧するのもちょっとアレだけどね……」
綺麗に仕上げてもらったが、これから寝るだけなのだ。
「そう言いましても、今日は薔薇の間をお使いになる日じゃないですか」
ハンナの言う薔薇の間とは夫婦の寝室のことだ。私とランスロット・ハーディ侯爵は毎月、定期的に薔薇の間で夜を過ごしていた。
一週間に一度ほどだろうか。前日にランスロット・ハーディ侯爵の使いの者が来て、封書を渡していく。
その封書には、薔薇が描かれたカードが入っている。それが『薔薇の間でお会いしましょう』というメッセージらしい。
女性側の事情、例えば体調不良などでお断りする場合は、一言メッセージを添えてカードを返す。そのまま受けとったのなら、了承という意味らしい。
「こんな回りくどいやり方をしないで、普通に口で誘えばいいのにね」
「お嬢様はランスロット様に直接誘われたいのですか?」
ハンナに言われ、想像してみた。
腕を組み、目をスッと細め私を見下ろすランスロット・ハーディ侯爵。そして低く発する声。
『――明日の夜、薔薇の間だ』
目の前で言われたら拒否はできない。たとえどんなに体調不良でも。
震えあがって『はい』の返答、一択だ。それを考えるとメッセージカードでやり取りができて、良かったのかもしれない。こちらの都合で断ることもできるし。
「まあ、初夜もまだだし、夜を共にするというより、添い寝部屋といった方が正しいわね」
「お嬢様」
ハンナにやんわりとたしなめられ、口を尖らせた。
「だって本当のことじゃない」
初夜もまだの私たち。幾度か薔薇の間で夜を過ごしたが、指の一本も触れてこない。いつも背中を向けて寝ているランスロット・ハーディ侯爵。
これなら自室で寝ているのと変わらないじゃないか。そう思うのは私だけ?
あー、あれか。きちんと結婚生活が上手くいっていることをアピールするために、薔薇の間を使用する必要があるのか。そもそも誰にアピールしているのだろう。家臣たちにかしら? それならとっくにばれていそうだけどね。
私たちの間には壁があるということを。
私の中で薔薇の間は、完全に添い寝部屋だと思っている。だだっ広いベットで間隔を開けて寝るだけ。
きっと今回もそうなるはず。
「いつか、ただの添い寝だけじゃない日がくるかもしれません。その日がいつ来てもいいように、準備を万端にしておくのです」
ハンナは私に真顔で言う。
私はそれを適当に流して聞く。
やがてハンナは鏡台から立ち上がるように言った。言われた通りにすると、全身くまなくチェックが入る。
シルクのネグリジェは落ち着いた上品な光沢で、手触りも良い。袖にはレースが装飾され、細かな刺繍が入っている。胸元のリボンがアクセントになっていて、優雅で上品なデザインだ。
「お嬢様、リボンがほどけかかっていますわ」
ハンナに指摘され、慌てて結び直そうとするが、どうにも上手くいかない。焦っているとハンナがそっと手を伸ばす。
「本当、私ってば不器用ね」
「お嬢様が不器用なのは、いつものことですから」
私がモタモタしている間に、ハンナはパパッとリボンを結び直した。ほれぼれするわ、その器用な手先。
私は刺繍など、手先の細かいことが大の苦手だ。ハンナはそれを十分承知している。
「でもこのリボン、やけにほどけやすいのよね。どうにかならないかしら?」
手触りがサラサラした素材だから、仕方がないのかもしれない。だが、これでは寝ている間に、はだけてしまうかも。少し心配になる。
「脱がせることを前提に作られたネグリジェですからねー」
「ん?」
ハンナがボソッとつぶやいた言葉に私は首を傾げる。そんな私を無視してクローゼットへ向かったハンナは、ガウンを手にして戻ってきた。
「さあ、準備ができました。今夜もお綺麗ですわ。そろそろ薔薇の間へ向かいましょう」
ハンナは私を案内するため、スッと扉の前に立つ。だから私も気合を入れる。
「ええ、出発しますか。いざ、添い寝部屋へ!!」
「ご、夫、婦、の、寝、室、ですよ!!」
大きな声を出し、強調するハンナについ笑ってしまう。
本当にハンナがいてくれるから、日々助かっている。彼女がいなかったら、寂しくて実家に帰りたくて仕方がなかっただろう。今以上にホームシックだったはず。その挙句、侯爵家を三日で飛び出していた自信がある。
ハンナは家族と離れ、私についてきてくれた。それは本当にありがたいことだ。
「ハンナが来てくれて本当に良かった。この侯爵家で本音で話せるのはあなただけよ」
「お嬢様……」
私はハンナの手を取り、ギュッと力を込める。真っすぐに彼女の目を見つめた。
「だからね、この屋敷から出ていく時も一緒だからね」
「どうして出ていく前提なんですか」
ハンナは呆れながらも冷静に、私にツッコんだ。
薄化粧を施した上に、仕上げはパフでパウダーをはたいた。柔らかく優しい石鹸の香りに包まれ、息を深く吸い込んだ。
「どうせ暗闇なんだから、気合いれてお化粧しても無駄じゃない?」
「しっ、お嬢様。動かないでくださいませ」
フェイスブラシを肌にあてながら、ハンナが私をたしなめる。こんな時は逆らってもいいことがない。黙ってジッと動かずに、終わるのを待つのみだ。
やがてハンナは身を起こす。どうやら終わったみたいだ。
「ふぅ、できましたわ。お綺麗ですわ、お嬢様」
ハンナは満足そうに微笑んだ。私は鏡に写った自分を見る。
艶のあるサラサラの髪、白い肌にほんのりのせたチーク。まつげもクルンと上がって、いつもより目がパッチリとして見える。
「うん、今日も素敵に仕上げてくれてありがとう」
礼を言うとハンナは照れくさそうに頭を下げた。
「これから寝るっていうのに、お化粧するのもちょっとアレだけどね……」
綺麗に仕上げてもらったが、これから寝るだけなのだ。
「そう言いましても、今日は薔薇の間をお使いになる日じゃないですか」
ハンナの言う薔薇の間とは夫婦の寝室のことだ。私とランスロット・ハーディ侯爵は毎月、定期的に薔薇の間で夜を過ごしていた。
一週間に一度ほどだろうか。前日にランスロット・ハーディ侯爵の使いの者が来て、封書を渡していく。
その封書には、薔薇が描かれたカードが入っている。それが『薔薇の間でお会いしましょう』というメッセージらしい。
女性側の事情、例えば体調不良などでお断りする場合は、一言メッセージを添えてカードを返す。そのまま受けとったのなら、了承という意味らしい。
「こんな回りくどいやり方をしないで、普通に口で誘えばいいのにね」
「お嬢様はランスロット様に直接誘われたいのですか?」
ハンナに言われ、想像してみた。
腕を組み、目をスッと細め私を見下ろすランスロット・ハーディ侯爵。そして低く発する声。
『――明日の夜、薔薇の間だ』
目の前で言われたら拒否はできない。たとえどんなに体調不良でも。
震えあがって『はい』の返答、一択だ。それを考えるとメッセージカードでやり取りができて、良かったのかもしれない。こちらの都合で断ることもできるし。
「まあ、初夜もまだだし、夜を共にするというより、添い寝部屋といった方が正しいわね」
「お嬢様」
ハンナにやんわりとたしなめられ、口を尖らせた。
「だって本当のことじゃない」
初夜もまだの私たち。幾度か薔薇の間で夜を過ごしたが、指の一本も触れてこない。いつも背中を向けて寝ているランスロット・ハーディ侯爵。
これなら自室で寝ているのと変わらないじゃないか。そう思うのは私だけ?
あー、あれか。きちんと結婚生活が上手くいっていることをアピールするために、薔薇の間を使用する必要があるのか。そもそも誰にアピールしているのだろう。家臣たちにかしら? それならとっくにばれていそうだけどね。
私たちの間には壁があるということを。
私の中で薔薇の間は、完全に添い寝部屋だと思っている。だだっ広いベットで間隔を開けて寝るだけ。
きっと今回もそうなるはず。
「いつか、ただの添い寝だけじゃない日がくるかもしれません。その日がいつ来てもいいように、準備を万端にしておくのです」
ハンナは私に真顔で言う。
私はそれを適当に流して聞く。
やがてハンナは鏡台から立ち上がるように言った。言われた通りにすると、全身くまなくチェックが入る。
シルクのネグリジェは落ち着いた上品な光沢で、手触りも良い。袖にはレースが装飾され、細かな刺繍が入っている。胸元のリボンがアクセントになっていて、優雅で上品なデザインだ。
「お嬢様、リボンがほどけかかっていますわ」
ハンナに指摘され、慌てて結び直そうとするが、どうにも上手くいかない。焦っているとハンナがそっと手を伸ばす。
「本当、私ってば不器用ね」
「お嬢様が不器用なのは、いつものことですから」
私がモタモタしている間に、ハンナはパパッとリボンを結び直した。ほれぼれするわ、その器用な手先。
私は刺繍など、手先の細かいことが大の苦手だ。ハンナはそれを十分承知している。
「でもこのリボン、やけにほどけやすいのよね。どうにかならないかしら?」
手触りがサラサラした素材だから、仕方がないのかもしれない。だが、これでは寝ている間に、はだけてしまうかも。少し心配になる。
「脱がせることを前提に作られたネグリジェですからねー」
「ん?」
ハンナがボソッとつぶやいた言葉に私は首を傾げる。そんな私を無視してクローゼットへ向かったハンナは、ガウンを手にして戻ってきた。
「さあ、準備ができました。今夜もお綺麗ですわ。そろそろ薔薇の間へ向かいましょう」
ハンナは私を案内するため、スッと扉の前に立つ。だから私も気合を入れる。
「ええ、出発しますか。いざ、添い寝部屋へ!!」
「ご、夫、婦、の、寝、室、ですよ!!」
大きな声を出し、強調するハンナについ笑ってしまう。
本当にハンナがいてくれるから、日々助かっている。彼女がいなかったら、寂しくて実家に帰りたくて仕方がなかっただろう。今以上にホームシックだったはず。その挙句、侯爵家を三日で飛び出していた自信がある。
ハンナは家族と離れ、私についてきてくれた。それは本当にありがたいことだ。
「ハンナが来てくれて本当に良かった。この侯爵家で本音で話せるのはあなただけよ」
「お嬢様……」
私はハンナの手を取り、ギュッと力を込める。真っすぐに彼女の目を見つめた。
「だからね、この屋敷から出ていく時も一緒だからね」
「どうして出ていく前提なんですか」
ハンナは呆れながらも冷静に、私にツッコんだ。
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