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痛み
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初めて肌を重ねた次の日の朝。千歳が目を覚ますと、先に布団を出たのか、既に金花の姿はなかった。
「……痛い、な」
彼は独りごちつつ妙に重い身体を起こす。背中が軋む。まるで生娘の如く臓腑の奥深くが痛む。肌蹴たままの浴衣から覗く素肌には、昨晩の情事の痕があちこちに薄赤く色付いていた。目に見える範囲でさえこの有様では、全身を鏡に映せば一体どんな惨状が広がっているのだろうか。まだ薄らぼんやりとした意識の中、彼は一つ確信したことがある──この行為の本質は、愛というよりも暴力だ。
こちらの経験が初めてだから痛みを覚えたのかもしれないが、昨晩の金花の抱き方は決して優しいと言えるものではなかった。無論快楽を覚えなかった訳ではない。しかし朝になってみれば、あれは恐ろしかった、と評するしかないのだ。あの男の中にある優しさと残酷さを天秤にかけるとするなら、情事の時の金花は後者の方に傾いていた。抱かれる側というのは総じてこんな思いをするものなのだろうか。身体を重ねることによって触れた金花の内面は、千歳の恐れを掻き立てるのに十分なものであった。
「お早う。もう起きたのか、暫くは伏せっているかと思ったぞ」
「……あんたこそよく起きられたな」
「目が冴えちまったんだ。昨日は良い晩だったからな」
身体を引きずるように歩いてきた千歳とは対照的に、金花の様子はむしろ常よりも生き生きとして見えた。公演に向けて芸の練習をする子供たちの傍らで、彼自身も手遊びに短刀をくるくると回している。情事のことを隠す気もない口振りにこちらの方が恥ずかしくなって俯くと、金花はさらに愉しそうな顔をする。互いに昨晩のことを思い返して神妙な顔をしていると、そこに柘榴が手を叩きながら割り込んできた。
「お取り込み中のところ悪いけど、千歳、起きたんなら早めに着替えて頂戴。金花はあの子たちの様子を見てやって。今晩ここの名士がわざわざ見に来るそうだから、上手くいけば良い金蔓になるわよ」
「名士?」
「そう、汽車に乗ってる時に大きいお屋敷が見えたでしょ。あそこには跡継ぎの若い御曹司が住んでいて、何やら暇を持て余してるんですって」
「はいはい、どうせ金持ち特有の冷やかしだろうに。いつも通りやれば良いんだよ」
柘榴に急かされた千歳は早速身支度を整えに行く。今日の彼女は先程の言葉通り気合いが入っているようで、常よりも頬紅の色が濃く顕れて見えた。どうやら見世物小屋のような商売でも太客が入ることはあるらしい。相手を喜ばせなければならないのだから、芸を見せる方はさぞかし大変である。裏方の自分にはさして関係のない話なのだが、少し落ち着かない心持ちになるのも確かだ。金花の言う通り、いつも通りやれば良い──千歳は自分にそう言い聞かせつつ、着物の帯をきつく締める。情事の痕が隠れていることを確かめると、彼は一つ息を吐いた。
果たして夜の人波が疎らになった頃、見世物小屋の派手な旗を掻き分けて、この場には似合わぬ洋装の男がテントを訪ねてきた。
仕立ての良さそうなスーツによく磨かれた靴。並の小金持ちでないことは子供たちにも理解出来たようで、一心に男を見つめる彼らの視線にはどこか羨望のようなものが混じっていた。
「こんばんは。貴方が座長さんですね。べっ甲座の曲芸、見させて貰いましたよ」
「お前が、あの洋館の……」
金花が訝しげな視線を向けると、男は被っていた帽子を取り恭しく頭を下げる。千歳はそこで初めて男の容貌を視界に収めた。柔らかな微笑みに匂い立つ気品。金花とはまた趣が異なるが端正な顔立ちだ。ひそひそと囁く子供たちの中で、彼はただ黙って二人のやり取りを見ていた。
「ええ。僕は羽二重と申します。ここに伺ったのは他でもない、貴方がたの活動……身寄りのない子供たちを引き取っているという噂に、興味を持ったからなのです。僕もそういったことに常々関心がありまして。貴方は見捨てられるかもしれなかった子供たちの才能を、芸として開花させている。大層素晴らしいことです」
「褒めていただいたところ恐れ入るが、うちはお前の期待するような慈善事業じゃあないぞ」
「そうでしょうとも。ですから、未来ある子供たちの中でも特に才能のある者を、僕のところで引き取りたいのです」
「はあ……そりゃ随分な頼みだな。俺がただで引き渡すと思うか?」
「不躾なお願いであることは承知しています。ただし受けていただけるなら、それなりの対価は保証しましょう」
羽二重と名乗った青年は密談でもするような調子で声音を低く落とすと、懐から何某かを取り出して見せる。その途端、金花の表情が変わったのがはっきりと見て取れた。あの男は自分の話が嘘ではないことを証明するために、恐らく金銀や宝石の類などの本物の財を忍ばせていたのだろう。先立つものがなければ商売は出来ない。気乗りしない様子であった筈の金花も、流石に態度を変えざるを得ないようだった。
「……条件を付けよう。引き渡すのは一人だけだ。それともう一つ、子供に見世物小屋のことも、そこに来る前のことも、一切聞くな。良いか?」
「良いでしょう。それでは一人、僕が選ばせていただきます」
金花は羽二重にテントの中を案内する。端の方でずっと押し黙っていた柘榴は何か言いたげに彼の袖を引いたが、あの有無を言わさぬ視線で睨まれて俯くことしか出来なかった。千歳は座ったまま努めて神妙な顔をする。この中の誰かが売られるのだ。羽二重に買われた子供は恐らく、これから殺しを生業とせずとも済むのだろう。彼の身なりからして何不自由のない生活であることも間違いない。それらがここで育った子供にとって良いのか悪いのかは分からないが。いずれにせよ自分には関係の無い話だ、そう思った矢先、洋装のあの男と丁度目が合った。
「……君は」
「え?」
次の瞬間、笑みを浮かべていた筈の男の顔色が変わった。驚いたような、恐れのような、それでいて果てしない喜びに打ち震えているような様子で、その瞳は見開かれている。羽二重はそのまま真っ直ぐに千歳の方を指さした。
「座長さん。彼が良い」
「おい、まさか」
「子供ではありませんが、まだ彼も年若いでしょう。あの年頃の学生であれば書生として居候をするのもよくある話です。僕に彼を引き取らせてくれませんか」
「……」
「断る」
金花の答えは千歳の当惑よりもずっと早かった。彼もまた先程の愛想笑いから一転して、心底嫌で堪らないというような顔で羽二重のことを睨み付けている。そこに千歳の意思が入り込む余地など、どこにもないのだった。
「何故です」
「千歳はやっと見つけた俺の家族だ。どんなに大金を積まれたって渡すものか」
「何もお渡し出来るのは財に限りませんよ。人脈も土地も全て、先立つものさえあれば何だって手に入ります」
「要らない。悪いが交渉はこれで終わりだ。お前とこの話は二度としない」
二人の男の冷たい視線が交差する。羽二重は諦めた様子でふいとかぶりを振ると、帽子を被り直して胸元のタイを締める。そのまま帰ろうとする直前、彼は再び千歳の方を向いた。
「……そうですか。残念です。ところで貴方、千歳と言いましたか」
「はい。俺に、何か」
「貴方はこの見世物小屋に居られて、幸せですか?」
「……」
「いえ、何でもありません。難しいことを聞いてしまいましたね。ですがここが嫌になったら、僕のところに来てください。僕はいつでも貴方を待っていますから」
何も言えずにいる千歳に少し名残惜しそうな微笑みを向けると、羽二重は踵を返してテントを出ていく。子供たちさえ何も口にしない。金花は暫くその後ろ姿を黙って見つめていたが、不意に些か乱暴な手付きで入口の布を引いた。彼が一座の方を振り向くと同時に、千歳は腕を思い切り掴まれる。その痛い程の力の込め方に、この男の中で燻る不愉快がありありと感じ取れた。千歳はその手を振り払えなかった。振り払ったところで、意味が無いことを悟っていた。
「今あったことは全て忘れろ。良いな」
「……はい」
ずるずると着物の裾を引き摺りながら、金花は千歳を自室へと連れて行く。その剣幕に誰も止める者はいなかった。衝立の布が垂れ下がる瞬間、布団の上に投げ出された千歳は、そのまま覆い被さった金花に首を掴まれる。
「……ッ、う……」
じわりと絞められて咄嗟に息を吸おうとしたが、呻くような声が漏れるばかりだ。遂に自分は殺されるのだろうか──殺さない、とは言っていたものの、手加減しているようには到底思えない。これは本能的な恐怖だ。見上げた先には、獣のような金色の眼光が鋭く輝いていた。
「ああ、嫌だ、嫌だ!どいつもこいつもお前を欲しがる。誰も彼も邪魔ばかりする。俺は俺の家族が欲しかっただけなのに!」
金花は忌々しげに叫ぶ。千歳の耳には、この世の全てを呪っているかのように聞こえた。首を押さえる力が俄に強まる。意味もなく藻掻いた指先が空を切る。意識が朦朧として目の前が白く濁り始めたその時、彼は手を放すと深く息を吐く。戻った息を思い切り吸った勢いで咳き込んだ。その弧を描いた口元は酷く疲れているのにどこか自嘲的で、何かを悟ってしまった破れかぶれの顔付きをしていた。
「そうだ……分かった。あの最低な親父がどうしてお袋を殴っていたのか分かったよ。こうすれば、絶対に手に入るからだ」
「……金花?」
「でもあれは一つ馬鹿な間違いをした。俺は同じ間違いはしない。芸も殺しも家族も、あの野郎が出来なかったことを全てやり遂げるんだ。あの時の俺は正しかったって証明してやるんだ」
「何の話だか解らないが……さっきのことが気に障ったんだろ。俺が何かしたなら、悪かった」
「いいや、謝るな。あの成金はお前のことを何も知らないんだから」
千歳が伸ばした手を金花は握り返す。彼は平静を取り戻したように見えた。しかし何を言わんとしているのかは一切分からなかった。二人の心は、少しも通い合っていない。金花の言葉が分からないように、千歳の言葉もまたこの男に届きはしないのだ。
「俺はお前を殺さない。だから、付き合ってくれるな、千歳。俺しか知らないお前を見せてくれ」
金花は奇妙な程晴れやかに笑うと、千歳の枕元に短刀を突き立てる。手荒に着物の帯を解かれる。肉薄する死と性の交錯に、自分はあと何度これを繰り返すのだろう、と思った。
「……痛い、な」
彼は独りごちつつ妙に重い身体を起こす。背中が軋む。まるで生娘の如く臓腑の奥深くが痛む。肌蹴たままの浴衣から覗く素肌には、昨晩の情事の痕があちこちに薄赤く色付いていた。目に見える範囲でさえこの有様では、全身を鏡に映せば一体どんな惨状が広がっているのだろうか。まだ薄らぼんやりとした意識の中、彼は一つ確信したことがある──この行為の本質は、愛というよりも暴力だ。
こちらの経験が初めてだから痛みを覚えたのかもしれないが、昨晩の金花の抱き方は決して優しいと言えるものではなかった。無論快楽を覚えなかった訳ではない。しかし朝になってみれば、あれは恐ろしかった、と評するしかないのだ。あの男の中にある優しさと残酷さを天秤にかけるとするなら、情事の時の金花は後者の方に傾いていた。抱かれる側というのは総じてこんな思いをするものなのだろうか。身体を重ねることによって触れた金花の内面は、千歳の恐れを掻き立てるのに十分なものであった。
「お早う。もう起きたのか、暫くは伏せっているかと思ったぞ」
「……あんたこそよく起きられたな」
「目が冴えちまったんだ。昨日は良い晩だったからな」
身体を引きずるように歩いてきた千歳とは対照的に、金花の様子はむしろ常よりも生き生きとして見えた。公演に向けて芸の練習をする子供たちの傍らで、彼自身も手遊びに短刀をくるくると回している。情事のことを隠す気もない口振りにこちらの方が恥ずかしくなって俯くと、金花はさらに愉しそうな顔をする。互いに昨晩のことを思い返して神妙な顔をしていると、そこに柘榴が手を叩きながら割り込んできた。
「お取り込み中のところ悪いけど、千歳、起きたんなら早めに着替えて頂戴。金花はあの子たちの様子を見てやって。今晩ここの名士がわざわざ見に来るそうだから、上手くいけば良い金蔓になるわよ」
「名士?」
「そう、汽車に乗ってる時に大きいお屋敷が見えたでしょ。あそこには跡継ぎの若い御曹司が住んでいて、何やら暇を持て余してるんですって」
「はいはい、どうせ金持ち特有の冷やかしだろうに。いつも通りやれば良いんだよ」
柘榴に急かされた千歳は早速身支度を整えに行く。今日の彼女は先程の言葉通り気合いが入っているようで、常よりも頬紅の色が濃く顕れて見えた。どうやら見世物小屋のような商売でも太客が入ることはあるらしい。相手を喜ばせなければならないのだから、芸を見せる方はさぞかし大変である。裏方の自分にはさして関係のない話なのだが、少し落ち着かない心持ちになるのも確かだ。金花の言う通り、いつも通りやれば良い──千歳は自分にそう言い聞かせつつ、着物の帯をきつく締める。情事の痕が隠れていることを確かめると、彼は一つ息を吐いた。
果たして夜の人波が疎らになった頃、見世物小屋の派手な旗を掻き分けて、この場には似合わぬ洋装の男がテントを訪ねてきた。
仕立ての良さそうなスーツによく磨かれた靴。並の小金持ちでないことは子供たちにも理解出来たようで、一心に男を見つめる彼らの視線にはどこか羨望のようなものが混じっていた。
「こんばんは。貴方が座長さんですね。べっ甲座の曲芸、見させて貰いましたよ」
「お前が、あの洋館の……」
金花が訝しげな視線を向けると、男は被っていた帽子を取り恭しく頭を下げる。千歳はそこで初めて男の容貌を視界に収めた。柔らかな微笑みに匂い立つ気品。金花とはまた趣が異なるが端正な顔立ちだ。ひそひそと囁く子供たちの中で、彼はただ黙って二人のやり取りを見ていた。
「ええ。僕は羽二重と申します。ここに伺ったのは他でもない、貴方がたの活動……身寄りのない子供たちを引き取っているという噂に、興味を持ったからなのです。僕もそういったことに常々関心がありまして。貴方は見捨てられるかもしれなかった子供たちの才能を、芸として開花させている。大層素晴らしいことです」
「褒めていただいたところ恐れ入るが、うちはお前の期待するような慈善事業じゃあないぞ」
「そうでしょうとも。ですから、未来ある子供たちの中でも特に才能のある者を、僕のところで引き取りたいのです」
「はあ……そりゃ随分な頼みだな。俺がただで引き渡すと思うか?」
「不躾なお願いであることは承知しています。ただし受けていただけるなら、それなりの対価は保証しましょう」
羽二重と名乗った青年は密談でもするような調子で声音を低く落とすと、懐から何某かを取り出して見せる。その途端、金花の表情が変わったのがはっきりと見て取れた。あの男は自分の話が嘘ではないことを証明するために、恐らく金銀や宝石の類などの本物の財を忍ばせていたのだろう。先立つものがなければ商売は出来ない。気乗りしない様子であった筈の金花も、流石に態度を変えざるを得ないようだった。
「……条件を付けよう。引き渡すのは一人だけだ。それともう一つ、子供に見世物小屋のことも、そこに来る前のことも、一切聞くな。良いか?」
「良いでしょう。それでは一人、僕が選ばせていただきます」
金花は羽二重にテントの中を案内する。端の方でずっと押し黙っていた柘榴は何か言いたげに彼の袖を引いたが、あの有無を言わさぬ視線で睨まれて俯くことしか出来なかった。千歳は座ったまま努めて神妙な顔をする。この中の誰かが売られるのだ。羽二重に買われた子供は恐らく、これから殺しを生業とせずとも済むのだろう。彼の身なりからして何不自由のない生活であることも間違いない。それらがここで育った子供にとって良いのか悪いのかは分からないが。いずれにせよ自分には関係の無い話だ、そう思った矢先、洋装のあの男と丁度目が合った。
「……君は」
「え?」
次の瞬間、笑みを浮かべていた筈の男の顔色が変わった。驚いたような、恐れのような、それでいて果てしない喜びに打ち震えているような様子で、その瞳は見開かれている。羽二重はそのまま真っ直ぐに千歳の方を指さした。
「座長さん。彼が良い」
「おい、まさか」
「子供ではありませんが、まだ彼も年若いでしょう。あの年頃の学生であれば書生として居候をするのもよくある話です。僕に彼を引き取らせてくれませんか」
「……」
「断る」
金花の答えは千歳の当惑よりもずっと早かった。彼もまた先程の愛想笑いから一転して、心底嫌で堪らないというような顔で羽二重のことを睨み付けている。そこに千歳の意思が入り込む余地など、どこにもないのだった。
「何故です」
「千歳はやっと見つけた俺の家族だ。どんなに大金を積まれたって渡すものか」
「何もお渡し出来るのは財に限りませんよ。人脈も土地も全て、先立つものさえあれば何だって手に入ります」
「要らない。悪いが交渉はこれで終わりだ。お前とこの話は二度としない」
二人の男の冷たい視線が交差する。羽二重は諦めた様子でふいとかぶりを振ると、帽子を被り直して胸元のタイを締める。そのまま帰ろうとする直前、彼は再び千歳の方を向いた。
「……そうですか。残念です。ところで貴方、千歳と言いましたか」
「はい。俺に、何か」
「貴方はこの見世物小屋に居られて、幸せですか?」
「……」
「いえ、何でもありません。難しいことを聞いてしまいましたね。ですがここが嫌になったら、僕のところに来てください。僕はいつでも貴方を待っていますから」
何も言えずにいる千歳に少し名残惜しそうな微笑みを向けると、羽二重は踵を返してテントを出ていく。子供たちさえ何も口にしない。金花は暫くその後ろ姿を黙って見つめていたが、不意に些か乱暴な手付きで入口の布を引いた。彼が一座の方を振り向くと同時に、千歳は腕を思い切り掴まれる。その痛い程の力の込め方に、この男の中で燻る不愉快がありありと感じ取れた。千歳はその手を振り払えなかった。振り払ったところで、意味が無いことを悟っていた。
「今あったことは全て忘れろ。良いな」
「……はい」
ずるずると着物の裾を引き摺りながら、金花は千歳を自室へと連れて行く。その剣幕に誰も止める者はいなかった。衝立の布が垂れ下がる瞬間、布団の上に投げ出された千歳は、そのまま覆い被さった金花に首を掴まれる。
「……ッ、う……」
じわりと絞められて咄嗟に息を吸おうとしたが、呻くような声が漏れるばかりだ。遂に自分は殺されるのだろうか──殺さない、とは言っていたものの、手加減しているようには到底思えない。これは本能的な恐怖だ。見上げた先には、獣のような金色の眼光が鋭く輝いていた。
「ああ、嫌だ、嫌だ!どいつもこいつもお前を欲しがる。誰も彼も邪魔ばかりする。俺は俺の家族が欲しかっただけなのに!」
金花は忌々しげに叫ぶ。千歳の耳には、この世の全てを呪っているかのように聞こえた。首を押さえる力が俄に強まる。意味もなく藻掻いた指先が空を切る。意識が朦朧として目の前が白く濁り始めたその時、彼は手を放すと深く息を吐く。戻った息を思い切り吸った勢いで咳き込んだ。その弧を描いた口元は酷く疲れているのにどこか自嘲的で、何かを悟ってしまった破れかぶれの顔付きをしていた。
「そうだ……分かった。あの最低な親父がどうしてお袋を殴っていたのか分かったよ。こうすれば、絶対に手に入るからだ」
「……金花?」
「でもあれは一つ馬鹿な間違いをした。俺は同じ間違いはしない。芸も殺しも家族も、あの野郎が出来なかったことを全てやり遂げるんだ。あの時の俺は正しかったって証明してやるんだ」
「何の話だか解らないが……さっきのことが気に障ったんだろ。俺が何かしたなら、悪かった」
「いいや、謝るな。あの成金はお前のことを何も知らないんだから」
千歳が伸ばした手を金花は握り返す。彼は平静を取り戻したように見えた。しかし何を言わんとしているのかは一切分からなかった。二人の心は、少しも通い合っていない。金花の言葉が分からないように、千歳の言葉もまたこの男に届きはしないのだ。
「俺はお前を殺さない。だから、付き合ってくれるな、千歳。俺しか知らないお前を見せてくれ」
金花は奇妙な程晴れやかに笑うと、千歳の枕元に短刀を突き立てる。手荒に着物の帯を解かれる。肉薄する死と性の交錯に、自分はあと何度これを繰り返すのだろう、と思った。
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