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朝の章

12.永遠の別れ4

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 今日は一体、あと何度驚けば良いのだろう。

 母はぐりんとあかりの方へ顔を向け、視線だけでどういうことかと尋ねてくる。あかりは真っ赤になった顔で、首を横に何度も振った。

「……静くんて心臓に悪い……」

 大きなため息とともに、母が疲れた様子で椅子にもたれかかる。
 あかりも完全に同意である。熱くてたまらない頬に比較的冷たさの残る指先をあててみるものの、残念ながら無意味だった。
 汗で少し冷えたからと、温かいココアにするのではなかった。

「? すみません」
「嘘でしょ欠片も照れてない。普通言う方も恥ずかしくなるものじゃないの?」
「これが素なの、静くん……」

 あれほど甘い言葉を吐いておいて、ダメージを受けるのは周りだけなのだ。それがいつもちょっと悔しい。

 先に立ち直った母が、座り直して真面目な顔に戻る。

「えーと、結婚、だったかな?」
「はい」
「その、いろいろと早すぎない? あかりまだ高校生だし、付き合い始めたのだって先週だよね」

 あかりも頷く。
 いつもならあかりが動揺しながら質問するのだけれど、母が横にいてくれるのでとても頼もしい。

「僕はあかりさんと五つ歳が離れていますから、高校生のあかりさんと付き合って、世間の目が甘いのは学生である今だけです。来年社会人になった途端、法律を意識する人が増えるでしょう」
「うーん、それは、そうかもね。大学生と高校生ならよくあることだけど」

 社会人と高校生って聞くとちょっとね、と母が小さくこぼす。

「僕は高校教師になりますから、尚更です。だからと言ってあかりさんを諦める選択肢だけはありません」
「きょ、教師!?」

 あかりはつい声を上げる。就職先を決めたのは知っていても、具体的な内容までは聞いていなかった。

「うん。でもあかりの学校に赴任することはないから、安心して」

 そういう問題ではない、と思うのはあかりだけだろうか。

「だから結婚を?」
「はい。もちろんあかりさんに一生そばにいてほしいと思っているのが一番の理由ですが。僕は関係のない人たちに気持ちを疑われて、引き離されるのが怖いです」

 言いたいことは、わかる。
 高校教師が別の学校とはいえ高校生と付き合っていたら、問題しかない。それが例え学生時代からの恋人だったとしても。
 結婚していれば、少なくとも世間の目を気にする必要はなくなる。

「なるほど、ね。お話はわかりました。けど」
「……お許しいただけませんか」
「その前に、まず本人に許可を取った方が良かったかもね」
「……? あれ、あかり大丈夫?」

 大丈夫なわけが、ない。
 あかりは顔を覆って下を向いていた。

(今なら恥ずかしさで死ねるかも……)

 熱い。
 顔だけでなく、頭や体まで沸騰してしまいそうだった。
 先ほどから、鼓動が二人の目に見えてしまわないか心配するほど、心臓が強く高鳴っている。

 まさか母の前でこれほど愛を語られるとは。

「聞いて、ないよ……」
「何を?」

 あかりは思わず顔を上げて、恥ずかしさで潤んだ視界に静を捉えた。

「いろいろだよ。お母さんに許可取るとかも、聞いてない!」
「え? この前、二人の未来について真剣に考えてるって言ったよ。覚悟しておいてって」
「そ……だ、けど。でも、確認からの実行が早すぎるよ」

 なにしろ、ほんの三日前の出来事だ。付き合い始めて、四日しか経っていない。
 それでいきなり親に正式な挨拶をされるなんて、思わないではないか。

「それは、ごめん。でも僕にはあかりのいない未来なんて考えられないから」
「う」

 だから母の前でそんなことを言わないでほしい。母の方を見られない。

「先に許可を取りたかったのは、それが筋だと思ったからだよ。大事なお嬢さんに得体の知れない男が近づいたら怖いだろうし」
「うう」
「許してもらえたら、プロポーズはちゃんと別でする。だから、あかりは待っててくれると嬉しい」
「…………はい」

 ――だめだ、勝てる気がしない。

 何より喜んでしまっているあかりには、文句を言う資格はなかった。

 あかりといる未来のために、こうして頑張ってくれるのが嬉しい。
 母に真剣に向き合ってあかりを望んでくれるのが、苦しいほど、嬉しい。

(この人が好き……)

 静の目が好きだ。
 その奥にあかりへの想いが滲むから。
 静の声が好きだ。
 優しさに満ちていて安心するから。
 静の手が好きだ。
 繋いでいるだけで幸せになれるから。

 静の体温も、匂いも、性格も、特技も、静を構成するすべてが好きだ。

 そんな気持ちで静を見つめれば、静もまた、あのとろけるような笑みを返してくれた。





「ごほんっ」
「!!」

 隣からのわざとらしい咳払いに、あかりは体をびくりと跳ねさせた。
 そうだ、また忘れていた。母がいたのだった。

「ごちそうさま。あーブラックのコーヒーがほしくなるなー」
「頼みましょうか?」
「あー……ありがとう、でもそういう意味じゃないから大丈夫」

 くるくると、少なくなった紅茶を母が意味もなくスプーンでかき回している。
 そして少しの沈黙の後、ソーサーに置いてあかりたちと目を合わせた。

「ストレートな愛情表現、大変結構。二人の気持ちもよーくわかりました」
「はい」
「あかりを助けてくれた静くんには感謝しています。でもね、やっぱり……親としてはそれだけじゃ不安なの」
「お母さん……」

 静は、あかりの欲目を抜きにしても素敵な人だ。ただその人柄を知ってもらうには、まだ少し時間が足りないらしい。

「ごめんなさいね。娘を任せるに値するのか、ちゃんと確かめないと」
「確かめるって、そんな」
「あかり、いいんだ。あかりも叔父さんにされてたでしょ。僕もそのつもりで来たから」
「えっ?」

 詠史に?
 一体いつだろう、とあかりは焦って記憶を辿る。その間にも二人のやり取りは続いていく。

「もうそちらの親御さんに挨拶済みなの?」
「はい、会ったのは偶然でしたが。もちろん絶賛されていました」

 一番最初に名前を呼ばれた時からだろうか。
 やはり誰かわからない時は素直に「どちら様でしょうか」と聞いた方が良かったかもしれない。

「さすがうちの娘。ところで静くんは料理はできるの?」
「それなりには。祖母から習って、介護食も作れます。叔父と暮らすようになってからは家事を全般、弟ができてからは分担してやっています」

 それから詠史の前で手を繋いでしまったのはきっとまずかった。しかもエレベーターの中では二人の仲の良さばかり見ていて、会話をほぼ聞いていなかったのも印象が悪かったと思う。

「そ、そう。なら、女性関係の方はどう? その顔にその性格でモテないはずないもの。わざわざ歳の離れたあかりを選ばなくても、選り取り見取りなんじゃないの?」
「――っ、お母さん!?」

 さすがに聞き捨てならなくて、会話を遮る。娘の恋人に向かって聞くことではない。

「あかりもよく考えなさい。大学に行けば大人っぽい子はたくさんいるし、社会に出れば独身女性で溢れてる。学校だって、新任のイケメンが来たら女子高生は群がるに決まってるよ」
「う……」
「しかも彼女もしくは奥さんが自分たちとそう変わらない歳だって知れれば、自分にもチャンスがあるって思うかもしれない」
「……それは、たしかに」
「静くんに隙が少しでもあるのなら、浮気の可能性は充分ある。そうやって心配し続けることに、あかりは耐えられる?」

 静が先生として赴任すれば、今日あかりの学校で起こった以上の騒ぎになるだろう。
 静が一途だからといって、周囲からのアプローチも減るとは限らない。他の子に目を向けるとは今のところ考えられないとしても、未来は誰にも、わからない。

 もし静があかりでない誰かを選んだなら、その時はきっと耐えきれずに絶望するだろう。

「あか――」
「でも、私は静くんを信じる」

 あかりはいつの間にかうつむきそうになっていた顔を上げた。
 二人が、特に母が驚いた顔をするので、あかりはつい苦笑いする。
 
「楽観的なわけでも、希望的観測でもないよ。ただ、私は知ってるの。静くんがすごくまっすぐな人だってこと」

 母にだってそれは伝わっているはずだ。
 そうでなければ、真面目に話を聞いたりしないだろう。

「心配し続けるのは、想像しただけでも辛いよ。けど、静くんは心配させないように、ちゃんと伝えてくれるから」

 それが、あかりの見てきた静だった。
 普段はとてもそつのない人なのに、あかりに対してだけは不器用なほどにひたむきだ。あかりはそんな静に応えたい。

「それにね、静くんは、私が幸せにするの。だから大丈夫」

 ね、と静に笑いかければ、静は片手で口を覆ってからかすかに頷いた。

「…………うちの子まで……」
「え?」
「ううん、なんでも。成長が嬉しいって話。……それで静くんはどうなの?」
「……はい。心配はさせません」

 静は手を外し、しっかりとした視線で母を見る。

「どうして断言できるの?」
「僕が今まで好きだと思えた女性は、あかりさんだけだからです」
「!」

 そうなのか。
 東京に越して来てからはあかりだけかなと思っていたけれど、まさか初恋だったとは。

 予想外の情報に、あかりはにやけてしまいそうになるのを飲み物を口に含むことでごまかした。

「……本当に?」
「はい。自分で言うのも何ですが、高校の頃から顔のせいで女性に好意を持たれることが増え、告白されることは多かったと思います」
「でしょうねぇ」

 喜びも束の間、あかりの胸にちくりと針が刺さる。事実だとしても、本人の口からモテると聞くのは複雑だ。
 信じるのと、他の女性がまったく気にならないのは同じではない。それは静の言動が問題なのではなく、あかりが自分を磨いて身につける自信が必要なのだ。

「大学でもそれは変わらず、このままではいつか大事な人ができた時に困ると思い……就職先は女性がほぼいない、私立の男子校を選びました」
「男子校!?」

 想像もしていなかった言葉に、目を丸くする。
 あかりもそこまで詳しくないものの、私立は公立と違い、基本的に先生の異動がないことくらいは知っている。その分採用人数が少なくなるため、「希望した学校」へ就職できるかはかなり難しいのではないだろうか。

「公立ですとそういう希望はおそらく通りませんから。ちょうど第一志望の学校が、専任の数学教諭の一人が定年退職なさるということだったので、運良く内定をいただけました」
「数学……」
「うん。意外?」

 あかりは素直に頷く。
 数学といえば、あかりが静に教えていたメインの教科だ。昨日は違う科目を教わったから、専門で教えるほどになっていたとは知らなかった。

「それは、なんと言うか、普通の会社に入るよりは安心ね」
「はい。浮気は絶対にしません。紗緒里さんにも信じてもらえるよう、行動で示していきます」
「……むう」

 静の宣言に、あかりの頬が染まり、母の口が尖る。
 母の追及をものともしない静はすごい。これなら母だって、難癖をつけられな――

「……あ、あかりだってね、すごく料理が上手だよ!」
「!?」

 唐突に話の方向性が変わった。
 何を言い出すのだ、この母は。

「存じています。ひき肉のれんこんはさみ焼きがおいしかったです」
「え」
「あ、私もあれ好き……じゃなくて。あかりはね、昔からすごく良い子なの。まだ小学生の頃から率先して家事をやってくれて、勉強も進んでやるし、物分かりもよくて」
「ちょ」
「はい、優しくて思いやりがあって心が広くて、誰かのために動ける頑張り屋な女性です」

 ここは地獄だろうか。

 出来の良い静に対抗して、娘自慢をするのはやめてほしい。敵うわけがない。
 そして静もそれに乗らないでほしい。絶対に特殊なフィルターがかかっている。

 居たたまれなさに先ほどとは違う意味であかりが頬を赤らめていると、静が「ただ、」と続けた。

「その反動なのか、人を頼るのが苦手なところは心配です。ストーカーのこともきちんと相談してほしかった」
「えっ! ご、ごめ」
「そう、そうなの! この子ったら最初はともかく、一日何十件と電話増えてても全然言わないんだよ。警察からの留守電聞いた時の私の気持ちわかる!?」
「あの」
「お察しします。最悪の場合を想像してしまって、生きた心地がしませんよね」
「そうなのよー!」
「……」

 今度はあかりへの不満になってきた。けれどあかりを思うからこその言葉なのはわかるので、何も言えない。

「だいたいあかりはね、できなくたって別に怒らないのに、すぐ自分で自分を追い詰めるのよ。私が離婚する時だってすんなり受け入れて……寂しいとも言わないんだから」
「言わないだけなのがまた、もどかしいですよね。僕としては、もっと自分を大事にしてほしいです」
「ほんとそう!」

 やだ静くん話わかるじゃない、とテンションが上がる母に、あかりはもう口を挟むのを諦めた。とても耳が痛い。

「ああ、そうだ。紗緒里さんは、あかりさんのスマホの画面が割れてるのはご存知ですか?」
「えっ」

 諦めても、驚きはする。
 なぜ事件以降あかりのスマホを見たことのない静がそれを知っているのだ。

(あ! 上着……)

 一つだけ思い当たる節がある。
 日曜日の朝、スマホが見当たらず寝坊した時、あかりの上着の間に挟まれているのを見つけた。その後静に何も言われなかったし、画面が暗かったからひびには気づかれていないのだろうと思っていたのに。

「一応、聞いたけど……」
「フィルムではなく画面にひびが入った場合、ひびが広がったり操作できなくなることがあるそうです」
「操作も?」
「はい。電話番号は絶対に変えた方がいいと思いますし、あかりさんの機種は古い方ですから、この機会に機種変更してしまうのはいかがでしょうか」
「し、静くん、いいよそんな」

 このまま放っておくと静の言う通りになってしまいそうなので、止めに入る。
 あかりのスマホはたしかにひびが入っているけれど、少し使いづらい程度なのだから問題ない。

「あかり、まだ使えるからって理由で断るのは駄目だよ。お金が心配なら僕が出すから」

 いや、それを聞いて「じゃあ変える」にはならない。もっと駄目である。

「ああ、大丈夫。僕、もうあかりを養うつもりでバイト以外でもいろいろ稼いでるんだ。叔父さんが出してくれた大学の授業料もとっくに返し終わったし」
「早くない!?」
「春からも、仕事に支障がなければ副業OKな職場にしたから。安心して」

 改めて、静のレベルが高すぎる。
 彼に似合う女性になりたいと思っているのに、これでは追いつくまで相当な時間がかかってしまう。
 意欲的なのは良いことだけれど、ただでさえ五年先へ行ってしまったのだ。もう少しだけゆっくり歩いてほしいと思うのは、あかりのわがままだろうか。

「……私、この先静くんに頼りきりになるの、嫌だよ」
「うーん……わかった。僕は甘やかしたいけど、ほどほどにしておく」
「そうね。それにあかりの進学のためのお金ならお母さんがちゃんと貯めてるし、結婚したからってやりたいこと我慢しちゃ駄目だからね」
「うん、ありがとう。……うん?」

 あかりは母の言葉に引っかかって、首を傾げる。
 母はにこりと笑った。

「静くん以上にあかりのことわかってくれる人なんてそうそう現れないだろうし、お母さんも結婚早かったから頭固いこと言うつもりないよ」
「お母さん……」

 では先ほどまで静にしていた問答は何だったのか、とも思うけれど、あかりのためにしてくれていたのだろうから口には出さない。

「ありがとうございます。結婚はあかりさんが高校在学中でも構いませんか?」
「うんうん、いいんじゃない? もちろんプロポーズしてあかりに了承してもらえたなら、だけど」
「ありがとうございます。良い返事をもらえるよう、頑張ります」

 確実にあかりの目の前でする会話ではない。
 プロポーズの予約なんてされて、これでは静と会うたびにそわそわしてしまう。

 それでも会いたくないなんて考えることは絶対にないので、あかりは今後も喜んで静に会いに行くことだろう。
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