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第2話

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 揺蕩う微睡みの中、どこからか誰かの声が聞こえてきます。

「……ガ……ト…………ガーネ……ト…………ガーネット……」

 それが、わたくしの名を呼ぶ声だと気づき、しだいに意識が浮上して、ゆっくりと瞼を開きます。

「……ガーネット……」

 銀糸の長い前髪から覗く、紫眼の瞳がわたくしを心配そうに見つめていました。
 そこにいたのは、クラウス殿下の弟君である、ルベリウス・フィン・フロイデラント殿下です。

 白銀の髪で目元を隠しているので、表情は分かりにくいのですが、とても穏やかで優しいお方です。

 幼馴染でもある彼の姿を見て、わたくしにはとても懐かしく感じられて、切ない気持ちになってしまいました。
 ほっと安心するのと同時に、なぜだか、涙が込み上げそうになるのです。

 括り締められたはずの首に触れてみれば、なんの痕跡も異常もなく、正常に呼吸ができています。
 心臓がとくとくと脈打っていて、わたくしは生きているのだと、やっと実感することができました。

 あの恐ろしい出来事は、冤罪で処刑された人生は、すべてが夢まぼろしだったのでしょうか?
 ひどく残酷で悲愴な悪夢を、長い間、見続けていた気がします……。

「ガーネット、大丈夫?」
「えぇ……ここは?」

 ふと我に返り、横になっていたソファから身体を起こして、辺りを見回します。

「君が倒れているのを見つけて、ここに運んだんだ。急いで医師を呼んで診てもらったら、ひどく疲労しているから過労で倒れたのだろうと言われたよ……」

 そう言われ気がつきましたが、不思議なことに、この会話や光景には覚えがありました。
 確か、厳しい王妃教育に加え、学業成績の維持、学院行事の采配、領地視察の準備、公務書類の処理と……積もり重なる日々の疲労に耐えきれなくなり、倒れてしまったことがあったのです。

「わたくし、倒れてしまったの? ……また?」

 これまでのわたくしにとっては、初めての出来事のはずなのに、既視感がありました。
 これから起こるであろう未来の出来事まで、なぜか記憶にあるのです。

 混乱して考え込んでいると、ルベリウス殿下はわたくしが俯いているのを見て、憤る声で呟きます。

「君に仕事を押しつけて、こんなになるまで放っておくなんて……僕は兄上が許せない……」

 書類仕事を任せたまま放置しているクラウス殿下の行為を非難して、彼はわたくしのために憤ってくれるのです。
 親身になって心配してくれる、その優しい気持ちだけで、凍えていたわたくしの心は温かくなっていきます。

 ルベリウス殿下はクラウス殿下の二つ違いの弟君で、わたくしから見て一つ年下の幼馴染でもあります。
 わたくしがクラウス殿下の婚約者になってから、将来は親族になるのだからと、実の家族同然に大切に思い、仲良くしてきました。

「こうして気遣ってもらえるだけで、とても嬉しいですわ」
「ガーネット……」

 わたくしが微笑んで見せると、ルベリウス殿下は怒らせていた肩を落とし、背中を丸めて考え込んでしまいました。
 きっと幼い頃と同じく、前髪で見えない瞳を潤ませて、困ったお顔をしているのでしょうね。

 幼少期を思い出していると、遠くからクラウス殿下の声が聞こえてきます。

「――ガーネット! ガーネット、どこだ!」

 怒鳴り声が近づいてきて、扉が乱雑に開かれ、クラウス殿下が姿を現します。
 わたくしは反射的に立ち上がり、姿勢を正してカーテシーをし、挨拶しました。

「ガーネット! こんなところにいたのか、探させるな。任せていた仕事は終わったんだろうな?」
「……はい。いつも通り、書斎に処理済みの書類をまとめております」

 また既視感のある会話だと戸惑いながらも、習慣的に身についている動作や応答は抗いにくいようで、いつもとなんら変わらない返答をしてしまいます。

「そうか、ご苦労。ではこの書類も合わせて片づけておけ。私は大事な会合に参加してくる。お前は来なくていい、書類だけ任せたぞ」
「……はい、分かり――」

 いつも通り、クラウス殿下が書類を差し出して、流されるまま受け取ろうと、手を伸ばしてしまいました。
 ですが、ルベリウス殿下がそれを制止し、わたくしの前に立って、クラウス殿下に強い口調で訴えます。

「何を言っているんですか! ガーネットは兄上の無茶な仕事の押しつけのせいで、疲労困憊して倒れていたんですよ!!」

 書類を突き返されたクラウス殿下は怪訝な表情を浮かべ、わたくしをじろじろと見て言います。

「はぁ? ……疲労で倒れたなんて大げさだな。どうせ、寝ていただけだろう? もう起き上がって平気そうにしているではないか」
「兄上! いい加減にしてください!!」
「ルベリウス殿下、わたくしはもう大丈夫ですから」
「ガーネット、君はもう無理しないで……」

 このままでは兄弟喧嘩になってしまうと焦り、憤慨するルベリウス殿下を宥めていると、クラウス殿下はうんざりした様子で溜息を吐き、言い聞かせるようにして明言します。

「第一、家柄と血筋だけで秀でた才もない地味な女なのだ、できることでこの私に誠心誠意尽くすのは当然のことだろう。役立たずと放り出さずに使ってやっているのだから、ありがたいと感謝するべきだ」

 その刹那、一瞬にして空気が凍りつき、ビリビリと肌を刺す重圧が辺りを覆いました。
 クラウス殿下はルベリウス殿下を見て硬直し、青ざめた表情を浮かべています。
 何が起こったのか分からず、わたくしが困惑していると、ルベリウス殿下が告げます。

「今後一切、ガーネットに王太子の成すべき仕事を押しつけることは許さない! ――許さないぞ。クラウス――」

 それは、これまで聞いたこともない、ルベリウス殿下の低く重い声でした。
 普段の温厚で穏やかな彼とは一変して、口調や雰囲気があまりにも違います。

「なっ……なんて口をきくんだ、ルベリウス?! 欠陥者の分際で!」

 狼狽えるクラウス殿下が怒鳴りますが、ルベリウス殿下の動じぬ気迫に押され、たじろぎ後ずさっていきます。

「ぐっ……私は忙しいんだ! お前達にかまっている暇などない……ガーネット、分かっているだろうな! 書斎に置いておくからな!!」

 クラウス殿下はそう言い残すと、逃げるようにして、その場を立ち去っていきました。

 この出来事に既視感などはありません。
 知らない重い声が、知らない後ろ姿が、よく知っているはずの彼が、まるで知らない誰かに思えて……不安になります。
 縋る気持ちで、わたくしは幼馴染の名を呼びました。

「ルベリウス、殿下?」
「…………」

 わたくしの呼びかけに、ルベリウス殿下は振り返ります。
 肩を落として背中を丸め、揺れた前髪から覗いた瞳は潤んでいて、困ったお顔をしていました。
 彼は申し訳なさそうに項垂れて、穏やかな声で呟きます。

「ごめんね、ガーネット 。君を守れなかった」
「……そんなことはありませんわ。ルベリウス殿下はわたくしが挫けそうな時に、いつも支えてくれます。さっきだって庇ってくれました。ありがとう、ルー殿下」

 幼馴染のよく知る姿を見て、ほっと安心したわたくしは嬉しくなって、つい幼い頃に使っていた愛称で呼びかけてしまいました。

「いつも支えてくれるのは君だよ。君だけが僕の光なんだ、ガーネット」

 穏やかで優しい囁きが、わたくしの耳に心地よく響きます。

 ◆

 ルベリウス殿下が『欠陥者』などと中傷されたのは、王家でただ一人だけ色素が欠乏した状態で生まれてしまったからなのです。
 両陛下と兄妹は皆同じく煌めく金糸の髪と碧眼をしていたのに対して、ルベリウス殿下だけが眩い銀糸の髪と紫眼をしていました。

 わたくしが王太子の婚約者となり王宮に訪れた際、支度の整っていなかったクラウス殿下を待っている間、庭園に通されました。
 何気なく庭園を散策していると、片隅で蹲る幼子を見つけたのです。
 晴天の日差しが強い日で、眩しそうに顔を覆い蹲っている姿を見て、わたくしは自分の身体で影を作ってあげました。
 驚いた幼子がわたくしを見上げると、綺麗な白銀の髪から覗く紫色の瞳が、潤んでキラキラと輝いていました。
 それが、わたくしと彼との出会いです。

 ルベリウス殿下は強い光に弱い体質で、幼時は弱視で勉学が思うように捗らず、病弱であったことも相まって、手間のかかる欠陥者と謗られていました。
 彼は周囲の心無い言動に傷ついて、すっかりふさぎ込んでしまっていたのです。
 国や民を家族同然に愛し慈しむ国母になろうと決めていたわたくしは、目の前で幼子が悲しみに暮れているのを見て、黙って放っておくことなどできません。
 ですから、教師達が欠陥者に教えても無駄だと手を抜く中、わたくしは王妃教育の合間を縫ってルベリウス殿下の元へ通い、勉強を教えたのです。
 眩しくて教本が読めないと言うなら、カーテンを閉めて。ロウソクの明かりでも眩しいと言うなら、一緒にシーツを被って。試行錯誤しながら、教本を読み聞かせました。
 子供二人でくっついて実の弟のように接し可愛がるうち、ルベリウス殿下の笑顔もしだいに増えていきました。

 そしてなんと、驚くべきことにルベリウス殿下は天才だったのです。
 眩しさからくる眼痛や頭痛、周囲からの心無い言動に気が散って集中できなかっただけで、それらが解消されさえすれば、一度見聞きした教本の内容は全て覚えてしまうくらいです。
 難解な術式の理解も早く、特に魔術構築の才が有り、わたくしは自分のことのように大喜びして褒め称えました。
 教師達もルベリウス殿下の有能さを知り、仰天して見事に手の平を返して、彼への評価や対応が一転していったのです。
 その辺りからだったでしょうか、しきりにクラウス殿下に女は出しゃばるなと、男を立てるのが『理想の淑女』だと、地味であることを強要され始めたのは……。

 ◆

 悪夢の記憶では、ルベリウス殿下は将来国母となるわたくしのため、国を支える魔術師になると約束して、魔術技能が発展した他国へと留学していました。
 わたくしが冤罪で処刑された時、彼はこの国にいなかったのです。

 もしも、あの時わたくしの傍にいてくれたら、あの場所にいてくれていたら……何かが変わっていたでしょうか? あんな結末にはならずに済んだのでしょうか?

 考えれば考えるほど、あの恐ろしい記憶がただの悪夢だったなんて、わたくしにはどうしても思えないのです。
 苦痛があまりにも鮮明で生々しく、実際に自分の身に起きたことなのだと、体感としてあるのですから……。

 処刑された感覚を思い出してしまい、恐怖で身体が震えだして止まりません。
 ルベリウス殿下は怯える様子に気づき、脱いだ上着でわたくしを包み、心配して声をかけてくれます。

「ガーネット、大丈夫? 僕にできることならなんでもするよ」

 涙が滲む視線を彷徨わせ、躊躇いながら彼に問います。

「本当に……何でも?」
「もちろん」

 彼は真剣な態度で頷き返してくれます。
 わたくしは心細くて、ただ傍にいて欲しくて、呟きました。

「……留学しないで……傍にいて……」
「分かった」

 彼は唐突なわたくしのお願いを聞き入れて、柔らかく微笑んでくれます。

「君が望むなら、なんだって叶えてあげるよ。……君は何を望む? 何がしたい?」

 このまま悪夢と同じ未来など歩みたくはありません。
 わたくしは悪夢とは違う未来にするため、意を決してお願いします。

「わたくし、お願いしたいことがありますの――」

 ◆
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