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21 家族

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 ――恐い……。怖いコワイこわい……。

 心の中では母親を切り捨てていたつもりであったが、いざ芙由美を目の前にしたとき、遥奈は自分の身体が驚くほど動かない事に恐怖した。
 商店街で再開してから、母親に言われるまま家に戻り、唯々諾々と彼女を家に上げてしまう。
 もう、芙由美はこの家の住人ではないのに。
 先に帰っていた亜紀にも、恐い思いをさせてしまった。顔を合わせた瞬間の妹の表情が、頭から離れない。
 元々、この家は那津男の持ち家である。古い日本家屋であるが、それなりの広さがある。一階の和室八畳間だった部屋をフローリングに改装してリビングにしたり、台所も水回りをシステムキッチンに替えたりしたらしい。和洋折衷ならぬ、古今折衷といった雰囲気の家だ。
 昔風なのか天井が少し低い気もしていたが、那津男と良好な関係になってからは狭いとは思っていなかった。
 なのに、今のこの息苦しさはどういう事なのだろうか。
 リビングのソファに悠然と座る母親の芙由美を前にして、遥奈と亜紀はその正面に正座して座っている。ラグが敷いてあるし、母親との間にローテーブルもあるので、位置関係はおかしな事ではない。
 だが、遥奈も亜紀も、母親を前にして身動きが取れなかった。
 機嫌の良い母親には逆らわない。
 それは、那津男と再婚するより前から、二人に染み付いた習性であった。

「お姉ちゃん……」
「大丈夫……。もうすぐ帰って来るわ……」

 遥奈は熱くなってきた頬に手を当てた。さっき殴られたばかりの場所だ。
 那津男を捨てて、新しい父親の家に行く。
 芙由美が唐突に言い出した事に対して、遥奈が素直に喜ばなかったので叩かれたのだ。芙由美にとっての正解は、『ヒドい男の元に残された娘が、新しい父親を用意した母親を喜んで迎える』というものだったらしい。
 理不尽が過ぎる。
 だが、それが遥奈と亜紀の、かつての日常であった。

「何、コソコソ話してるの!」
「ご、ごめんなさいっ!」
「まあ、いいわ。サインとハンコを貰ったら、こんな古臭い家からとっとと出ていくわよ」
「え……今日?」
「そうよ? 善は急げって言うでしょ? これは、あなたたちの為なんだからね」

 苛立った顔から一転して満面の笑みを浮かべている母親は、本気でそう考えているように見える。
 その笑顔が、本当に気持ち悪かった。
 と、玄関に人の気配がした。

「やっと帰ってきたみたいね。まったく、グズなんだから」

 遥奈は思わず、壁掛け時計を見た。針は夕方の六時半より少し前を指している。
 那津男の勤める工場の定時は夕方の六時。工場から自宅までは、車で十五分くらいの距離である。つまり、那津男は仕事が終わったら、どこにも寄らず真っ直ぐに帰ってきたという事である。
 母親の理不尽な物言いに、遥奈は初めて恐怖以外の感情を覚えた。
 それは、苛立ちであった。
 自分の事はいい。妹の事であれば自分が守る。だが、那津男へ意味もなく攻撃的な言葉を向ける母親に対して、遥奈の腹腔には堪えようのない苛立ちが湧き上ってきた。

「ただいま。……お前っ! 芙由美……」
「久しぶりね。預けていたものを返してもらいに来たわ」
「預けていたもの?」
「もちろん、遥奈と亜紀よ」
「どういうつもりだ?!」
「悪かったわね。大変だったでしょう? この子たちの相手をするなんて……」

 母親の視線が、見下ろすように遥奈たちをねめつけた。その威圧的な視線に、遥奈は顔を伏せそうになる。
 だが、腹腔にわだかまる苛立ちを支えに、遥奈は歯を食いしばって顔を上げた。反抗的な表情を母親に向けてしまっているかもしれないが、もう迷わない。ここにいるのは、遥奈たちだけではないのだから。

「ふっざけんな! このクソアマ! 今さら遥奈たちの母親ヅラかよ!」
「ツラも何も、アタシはこの子たちの母親よ。血の繋がってないアンタと違ってね。でも、安心してちょうだい。それも今日で終わりよ。アンタなんかより、よっぽど甲斐性のあるヒトを見つけたから。この子たちは新しい父親の元で幸せになるの」
「この……アマ……」
「それに、慰謝料も養育費も請求しないわ。アタシと結婚したことなんか忘れて、一人で自由にしていいわよ。アタシたちから解放してあげる」

 『アタシたち』という言葉を受けて、元妻を睨みつけていた那津男の視線が遥奈たちに向けられた。芙由美に向けられていた視線とは違い、穏やかで優し気な目だ。その目が『大丈夫だ』と告げている。
 遥奈の脳裏に、那津男からの約束がよみがえった。多分、亜紀も同じ言葉を思い出しているはずだ。

『お前たちを芙由美から切り離す』
『俺だけの娘にする』

 遥奈と亜紀は、一瞬顔を見合わせた。そして、信頼を込めた顔で義理の父親を見上げる。
 那津男は、自信に満ちた笑顔で二人の娘を見返していた。
 そして、少し目を瞑り、再び芙由美を睨みつける。

「待て、慰謝料だと?」
「ええ、そうよ。離婚するんだから、男が女に慰謝料を払うのが当たり前でしょう?」

 母親が遥奈たちに何か言ってくるのかとも警戒したが、ドヤ顔で笑みを浮かべている芙由美は那津男に目を向けたままだ。その顔は、嬉々として元夫をやり込めようとしているように見える。

「まあ、この子たちの面倒を見てくれた半年分を差し引いて、プラスマイナスゼロになったと思ってちょうだい」
「お前、本当にバカだったんだな。バカな女ほど可愛いっていうけどな、限度ってもんがある。子供がいるような歳でそれじゃあ、子供が可哀そうだ」
「……んなっ! なんですって?!」

 ストレートに罵られた母親は、一転して憤怒の形相で立ち上がった。
 遥奈は知っている。母親に対して『バカ』という単語は禁句なのだ。
 娘の目から見ても、母親は頭の良い方ではない。要領が悪いとも言えるが、単純に己の欲望に忠実でもある。そのせいで、芙由美の行動は『バカ』の一言で表される事が多く、それが理由で男とケンカ別れとなった事も一度や二度ではない。自分ではなく、男が殴られる場面を遥奈は何度も見てきたのだ。
 那津男はそれを知らないのだろうが、それでも、芙由美を煽るのに最適な言葉を選択したと言えるだろう。

「悪いが、この二人は俺のモノだ。お前には渡さない。お前はお前で好きに生きて、俺たちの見えないところで勝手に盛ってろ」
「ふ……ふざけないで! この子たちはアタシの子なのよ?! アンタにあげるわけないでしょ!」
「まず最初に言っておくが、慰謝料を貰うのは俺の方だ」

 親権の話から、いきなり慰謝料の話に飛んだ。
 それで意識の矛先が逸らされたのか、怒りを露わにしていたはずの芙由美の表情がスンとなる。

「は? 何言ってるの? 離婚するなら女の方が慰謝料を貰うに決まってるでしょ。でないと生活できないじゃない」
「だから、お前はバカだと言ってるんだ。慰謝料っていうのは、民事上の罪に対する罰なんだよ。離婚しただけで慰謝料が出るなんて、そんなバカな話があるか、バカ。でもって、浮気っていう罪を犯したのは、バカなお前の方だ」

 夫婦ゲンカのシリアスな状況であるが、遥奈は思わず噴き出しそうになってしまった。あまりにもポンポンと『バカ』を連発する那津男の物言いに、遥奈は爽快感を覚えてしまったのだ。

「ぶっ……くく……」

 遥奈はなんとか堪える事が出来た。だが、隣の亜紀は堪える事が出来ずに噴き出してしまった。だが、それも仕方の無い事かもしれない。これまで自分たちを支配してきた暴虐な母親が、大好きな男によってやり込められているのだ。痛快と言っていいだろう。
 そんな亜紀を、芙由美は見逃さなかった。ギロリと視線を亜紀に向け、ローテーブルを回り込んで殴ろうとする。

「親をバカにするの?!」
「やめてっ!」

 反射的に立ち上がった遥奈は、二人の間に入って両手を広げた。それは、何度も繰り返された光景だ。母親の癇癪から妹を守るために身体を張る。遥奈にとってはいつもの事である。
 だが、今日だけは、いつもと違った。

「よせっ!」
「離しなさいよっ!」

 遥奈の目の前で、亜紀に掴みかかろうとした芙由美の手首を、那津男がガッチリと掴んでいた。元妻の手首をギリギリと握り締め、腕を背中の方へ捻り上げる。
 それでも暴れながら、芙由美は亜紀を睨みつけた。

「子供の……躾は……親の義務でしょおおおっ!」
「違う! お前のそれは、躾なんかじゃないっ! それからっ!」
「痛い痛い痛いっ! やめてっ! 折れるっ!」
「お前はもう、この二人の母親じゃない! お前が自分から捨てたんだ!」
「きゃあっ!」

 那津男は遥奈と亜紀を守るような形で間に入り、芙由美をソファに突き飛ばした。義父の背中が自分たちを守る頼もしい壁のように見えて、遥奈の目に涙が浮かび上がる。

「いいか、慰謝料も養育費も要らんというのは、こっちのセリフだ。この半年、俺が何もしていなかったとでも思っているのか? お前が新しい男とせっせと励んでいる間、お前からこの二人を守る準備を進めていたんだ。裁判の準備なんか、とっくに出来てる。あとは、消えたお前を探し出すだけだったんだ。ははっ……。そっちから出てきてくれて、正直、気が抜けたよ。何の冗談かと思ったぜ」

 そこまで一気にまくし立てた那津男は、腰をかがめて遥奈と亜紀に目線を合わせた。

「大丈夫か、二人とも?」
「平気よ、お義父さん」
「パパっ!」

 息詰まる雰囲気に耐え切れなくなったのか、亜紀は那津男の首にかじりつくように抱き着いた。

「怖がらせて悪かったな。もう、終わるよ。……遥奈、その頬っぺたはどうした?」
「これは……、ええと……」

 遥奈は思わず、打たれて熱を持ち始めた頬に手を当てた。どうやら、赤く腫れ上がっているらしい。以前の癖で、母親を庇うような答えをしてしまう。
 それだけで察したのか、那津男は振り返って芙由美を睨みつけた。

「な……何よ、それ……」

 突き飛ばされた格好のまま、ソファで喘いでいた芙由美が、信じられないものを見たという目でこちらを見ていた。

「何がだ?」

 那津男は亜紀のお尻に腕を回し、娘を抱き着かせたままヒョイと立ち上がった。ふらつくことなく、しっかりと立って芙由美に向き直る。
 遥奈も一緒に立ち上がり、那津男の反対側の腕に自分のそれを絡ませた。
 那津男を中心に、寄り添う遥奈と亜紀。これが今の家族の姿である。それを見せつけるように、三人は芙由美を見下ろした。

「お義父さん……? パパ……? 違うでしょっ! そいつは、アンタたちの父親じゃないっ! 離婚するんだから、赤の他人よっ! 新しい父親は、ちゃんといるのよっ!」
「違うっ!」

 反射的に叫んだ遥奈は、自分の声の大きさに驚いた。それは絶叫と言っても良かった。限界まで抑えつけられていたバネが、抑えごと破壊して弾けた瞬間であった。

「私たちのお義父さんは、もう居るの。ここに居るの。新しい父親なんて必要ない!」
「パパは、パパの方がいい。新しい人なんて知らない……」
「ウソ……よね? 冗談でしょ……?」
「ウソでも冗談でもない。これが、二人の意思だ。俺たちの意思だ。離婚には同意する。慰謝料も養育費も要らん。だが、二人の親権はもらうぞ。二人は、俺のモノだ」

 ソファに身体を載せていただけの芙由美が、ずるりと床に落ちた。目から光が消え、顔からは表情が消え、ふらりと立ち上がる様は幽鬼のようである。

「帰るなら、最後に連絡先を置いていけ。次に会うのは、家庭裁判所だな」

 『裁判』という単語を耳にした瞬間、芙由美の身体が震えだした。玄関へ向かってフラフラとしていた足取りが止まり、三人に向かって首だけをぐるりと巡らせる。
 何か、様子がおかしい。
 自分の思い通りにならず、娘二人にも拒否されてショックを受けているのは分かる。だが、こんな芙由美は初めて見る。

「……芙由美?」
「ふ……ふふ……ふへ……? へあ……あ……あは……あははっ! あははははっ! あーっははははははっ!」
「おい、どうしたっ?」
「きぃいえあああああっ!」

 耳障りな奇声を上げた芙由美は、目の前にあった電話機を掴むといきなり那津男たちに向かって投げつけた。

「きゃあっ!」
「クソアマっ! なにしやがんだっ!」
「お義父さん! あの人、おかしいよ!」
「分かってる! 亜紀は二階に逃げてろ。遥奈は警察に電話だ」
「パパっ!」
「分かった」

 亜紀の背中を押して二階に押し上げると、遥奈は足元に転がっている電話の子機を手に取った。幸い、本体のケーブルは切れておらず、すぐに警察を呼ぶ事が出来た。

『はい、警察です。どうしましたか?』
「お母さんが……お母さんが……っ」
『落ち着いて下さい。ちゃんと聞いていますよ』
「お母さんが暴れてるのっ! 助けてっ!」



 近所の派出所から警察官が来るまでの間、芙由美は家の中で暴れ続けた。手当たり次第に物を投げつけ、暖簾を引きはがし、ガラスを割り、食器棚を倒し……。
 冷蔵庫の中身まで掻き出してキャベツを投げつけてきたときは、一体何がしたいのかと遥奈は呆れてしまった。
 暴れる芙由美を那津男一人では抑える事が出来なかったのだが、駆けつけた二人の警察官によって無事制圧された。
 制圧。
 遥奈の『暴れている』という通報が効いたのか、二人の警察官は刺股さすまたを持ってきており、芙由美は文字通り制圧されたのである。投げる物の無くなったリビングで、刺股さすまたと警察官の腕力で芙由美は押さえつけられていた。
 屈強な警察官に俯せで組み伏せられ、後ろ手を極められて立ち上がる事も困難な状況なのに、芙由美はそれでも暴れようともがいている。
 芙由美が二階に上がろうとするなら、何としてでも食い止めるつもりで遥奈は階段の下で陣取っていた。もちろん、亜紀を守る為である。警察官が無線で制圧したと報告をしているのを聞いて、遥奈はへなへなと階段に腰を下ろす。

「はあ……っ」

 精神的に疲れを感じた遥奈は、視界の中でもがいている芙由美をぼんやりと眺めていた。
 彼女は、母親どころか、もはや人間とも思えなかった。だが、もうどうでもいい。こんな事をやらかして警察に連行されるのなら、今度こそ本当に母親を切り捨てられる。
 結果は予想外のものになったが、那津男は約束を守ってくれたのだ。この後の法的な手続きなどは全て那津男任せになるが、さっきの話ではかなり前から準備していたようである。
 その那津男は、芙由美の投げた皿が額に当たって流血していた為、表で救急車を待っている状態である。
 これで、終わる。
 そう思って、遥奈はもう一度、安堵の吐息を漏らそうとした。
 その時である。

「遥奈ああああっ!」

 地の底からの叫びのような声に、遥奈の身体はビクリと震えた。

「このおおおおお……、親不孝者っ!」

 この瞬間、遥奈の心を抑えていた最後のタガが外れた。階段から立ち上がり、芙由美の顔を蹴り飛ばすような勢いで近付く。

「……親……親ですって?! 親らしいコトなんて何にもしなかったクセに! お前が! 私たちに何をしてくれたっていうの! 誕生日は一人! 亜紀が生まれてからも私たちだけ! バカみたいに引っ越しするから友達も作れなかった! お前と男が豚みたいに毎晩鳴いているのが! どれだけイヤだったと思っているの! 男が私に声をかけただけで殴る! 可愛いと言われたら蹴る! この顔に産んだのはお前だろう! ふざけんな! …………ふざけんな、ふざっけんな、ざけんなっ! ざっけんなあああああああああっ!」

 遥奈はその見た目から、大人しいと思われがちである。事実、乗り込んできた制服姿の警察官も、私服の婦人警官も、遥奈と亜紀を静かに保護しようとしていた。
 だが、遥奈がこれまでの人生で溜め込んだ鬱憤を絶叫という形で爆発させたとき、周囲の大人たちは驚愕の視線を向けたまま沈黙していた。誰もが動きを止め、肩で大きく呼吸を整えている少女から目が離せない。
 やがて、大きく息を吸い、そして大きく息を吐きだした遥奈は、淡々とした口調で芙由美に告げた。その瞳だけは激情を保ったまま、親の仇でも見るような眼を母親に向けて。

「でも、二つだけ、感謝してあげる。私たちを生んでくれたコト。那津男さんを連れてきてくれたコト。でも、それだけ。母親はいらない。お前は、私たちの母親じゃない。……さようなら、。二度と顔を見せるな」

 最後の一言に、血を吐くような思い込めて遥奈は言い捨てた。そして踵を返し、二度と母親……だった女には目を向けなかった。
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