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20 再会

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「ハルハル、やっぱり彼氏でも出来たんでしょ? なんか前よりもスッキリした顔してる。んー、スッキリってより、幸せそう?」
「それだと、なんだか私がバカっぽく聞こえるんだけど……」

 昼休み、学習机を向かい合わせにしてお弁当を突きながら、クラスメイトの遠山千佳が遥奈に聞いてきた。
 遥奈がスッキリとしている理由は、自分では分かっている。遥奈に対して呪いのようにつきまとっていた母親の件を、那津男が切り払ってくれると約束してくれたからである。多分、それが顔に出ていたのであろう。ニヤニヤとした笑みを浮かべていたわけではないであろうが、油断すると頬が緩んでしまっているのは自覚している。
 そんな遥奈の様子が変わった事を、千佳は敏感に察知したようである。いつもながら、友達の事をよく見ている。

「彼氏じゃないってば。まあ、決まりじゃないけど、お母さんの事が一段落しそうってだけ」

 ウソは言ってない。とはいえ、最初に母親が入院しているなどという大ウソを吐いているのだが。

「退院が近いのかな? なんにせよ、良かったねー、ハルハル」

 心配している様子を見せつつも、あまり踏み込んだところまでは聞いてこない。適度な距離感を保ってくれている千佳に、遥奈の心には感謝の念が湧き上がってくる。
 ウソを吐き続ける事には心が痛まなくもないが、本当の事を言うわけにもいかない。友達の心遣いに対してはウソ偽りのない笑顔を向けて、感謝の言葉を口にした。

「うん。ありがと」

   ***

 学校の帰り道、夕食の献立を考えながら、遥奈は商店街で食材の買い物をしていた。家事はほとんど亜紀と半々でやっているが、食事の支度は遥奈が主に担当している。亜紀も普通に包丁は握れるが、料理が好きという事もあって普段は遥奈が担当しているのである。
 那津男が、母親の芙由美を探すと言ってくれてから一週間ほどが経っていた。
 さすがに、すぐに見つかるなどとは思っていないが、遥奈の心が軽くなったのは確かである。
 母親から、逃れられる。
 心の中では母親を切り捨てている遥奈であるが、それでも、これまでは何をするにも母親の影がまとわりついていた。那津男を受け入れつつも、母親の姿を心から消し去る事は出来なかったのである。
 その母親が、今でもどこかで生きている。
 妹の亜紀が言うように、自分たちの知らないところで母親が野垂れ死んでくれているのが一番望ましい。積極的に不幸を願うわけではないが、自分たちの今の幸せに関わってきてほしくはないのである。勝手に生きていたのだから、勝手に死んでてくれと思うのだ。
 だが、そんな後ろ向きの願望も、那津男が解消すると約束してくれた。遥奈の歳で法律などの詳しい事は分からないが、生きていようが死んでいようが、遥奈たち姉妹と芙由美を、強制力を持って切り離す事は可能らしい。その辺りの事は、義理の父親を信頼している。信頼に値するだけの想いを、遥奈は亜紀と共に那津男から受け取っている。文字通り身も心も、である。
 遥奈はただ、信頼している義父からの、良い報せを待っているだけでいいのだ。
 その時まで、遥奈はそう思っていた。



「遥奈!」

 食材の書かれたメモを見ながら歩いていた遥奈の腕が、横合いからいきなり掴まれた。驚いた遥奈は、反射的に腕を振りほどいて二、三歩後ずさる。そして、一体何事かと、腕を掴んだ人物の顔を見て愕然とした。

「お……母……さん」
「ああ、よかった、すぐに会えて!」

 遥奈は一瞬、それが誰だか分からなかった。しかし、遥奈がすぐに分からなかったのも無理はない。それは、彼女の服装が少女の記憶にあるものと、まるで違っていたからである。だが、それは確かに母親の芙由美であった。
 失踪前の芙由美は見てくれは良いものの、それほど着ているものにお金をかけていなかった。量販店や衣料店にある吊るしの服を適当に組み合わせただけの、どこにでもある普通の格好をしている事が多かった。一方で、化粧は濃い目であった。それは夜な夜な飲み歩いて男を引っかける為であったのだが、ひとことで言ってケバい見た目と言えた。だが、隠しきれない豊満な身体がそれに合わさり、男から見れば実に蠱惑的に見えたのであろう。
 しかし、今の芙由美の姿は、清楚な貴婦人といった印象であった。白いブラウスに落ち着いた薄いピンクのタイトスーツ。スーツの襟にはアクセントに花のアクセサリー。首元には太めの金のネックレス。料理などほとんどした事の無い指先はマニキュアで整えられ、細い手首には可愛らしくも精緻なデザインの高級そうな腕時計が光っている。
 失踪する前の母親とはかけ離れた姿に、遥奈は絶句した。

「うそ……」
「もー、ホントにどうしようかと思ったわよ。ウチに行ったら誰もいないし、カギは変えられてたから入れないし、那津男の工場に行こうかとも思ったけど、先にあんたたちと話をしておきたかったし……、でも会えて良かったわ! 喜びなさい! 新しいお義父さんが見つかったのよ!」
「……………………は?」

 ――この人は何を言っているのだろう? 私たちにはもう、ちゃんとした父親がいる。それに、私たちを捨てたんじゃないの? 新しい父親? 見つけた?

 それに、家に入ろうとしていた事にも遥奈は衝撃を受けていた。夫と娘たちを捨てて勝手に出ていったのに、どのような顔をして家に戻ろうなどと思ったのだろうか。
 いや、話ぶりからは戻るというより、単に入ろうとしていただけのようである。だが、今の遥奈の感覚からすれば、それは不法侵入に他ならない。
 しかし、娘の不審そうな顔にも気付かず、芙由美は続ける。

「今度のはちゃんとした人だから安心しなさい。那津男みたいに若いとやっぱりダメね。今度の人は、アタシよりちょっと年上なだけですごくしっかりした人よ。あんたたちの事も、ちゃーんと面倒見てくれるってさ。事情を話したら、迎えに行ってあげなさいって言ってくれたのよ!」

 グラグラする頭で、遥奈は必死に考えた。だが、どれほど考えても、目の前の女がまくしたてる内容が分からない。言葉は理解できるのだが、意味が分からないのだ。

「……ほら、離婚届もちゃんと持ってきてあるから、あとは那津男のサインとハンコを貰うだけ。そうしたら、あなたたちも一緒に、新しいお義父さんのウチへ行きましょう!」

 商店街の真ん中で、芙由美は嬉々として封筒を取り出した。中に入っているのは、彼女の言う通り離婚届なのだろう。
 彼女の表情を見れば、完全に本気なのがうかがえる。
 だが、分からない。母親の考えている事が分からない。
 分かるのは、芙由美の持つ書類によって、那津男と芙由美の縁が切れるという事である。それは、遥奈たちの望む事でもある。
 唯一気がかりなのが、親権だ。
 マンガやドラマでも見た事はあるが、両親の離婚によってどちらが子供を引き取るのか揉める事が多い。そして、大抵の場合は母親が親権を得てしまうのも知っている。今の芙由美の口ぶりでは、彼女も遥奈と亜紀の親権を得る事を当然のように考えているようである。

 ――そんなのは絶対にイヤっ! 助けて、お義父さん!

 往来の真ん中で、ニコニコと笑う母親に逆らう事も出来ず、遥奈は何も言えずに立ち尽くしていた。

   ***

「ただいまー。……んん? 誰か来てるのか?」

 仕事から帰ってきた那津男は、玄関の土間に見慣れない女性もののパンプスがあるのに気が付いた。遥奈や亜紀のものではありえない。そのような大人向けの履物を、二人は一足も持っていないのだ。

「誰だ……?」

 思い当たる人間はいない。
 那津男は近しい親戚など一人もいない天涯孤独の身であるし、放蕩の限りを尽くしていた芙由美も親類縁者から絶縁されたと聞いている。だから、遥奈や亜紀を訪ねてきた親戚という事も無いだろう。

「ただいま。……お前っ!」

 訝しみながら暖簾をかき分けて入ってきた那津男は、リビングに信じられない人間がいる事に驚いた。そこにいたのは、半年前までは妻であった芙由美だった。ソファに悠然と腰かけているが、その姿は半年前とは比べ物にならないくらい上品な格好だ。一体、失踪していた半年で何があったのか。
 芙由美を挟んでローテーブルの反対側には、遥奈と亜紀が座っていた。ソファではなく、ラグの敷かれた床にであるが、どういう訳なのか二人は母親を前に正座している。自分の家の中なのに、見知った顔ばかりなのに、リビングが異様な雰囲気に満たされている。

「芙由美……」
「久しぶりね。預けていたものを返してもらいに来たわ」
「預けていたもの?」

 那津男に心当たりはない。一応、芙由美の荷物は失踪後にまとめて段ボールに放り込んであるが、そんなものをわざわざ取りに来たはずもない。

「もちろん、遥奈と亜紀よ」

 芙由美の正面に座っている遥奈と亜紀の身体がビクリと震えた。
 そこで、那津男はこの場の雰囲気の異様さの正体に気が付いた。
 恐怖だ。
 二人の義理の娘は、実の母親を前にして、恐怖に震えている。

「どういうつもりだ?!」
「悪かったわね。大変だったでしょう? この子たちの相手をするなんて……」

 芙由美の、労りさえ感じられるセリフを聞いた瞬間、那津男の中にあった驚きは消え失せた。代わりに、腹の底から耐えがたい怒りが吹き上がってくる。

「ふっざけんな! このクソアマ! 今さら遥奈たちの母親ヅラかよ!」
「ツラも何も、アタシはこの子たちの母親よ。血の繋がってないアンタと違ってね。でも、安心してちょうだい。それも今日で終わりよ。アンタなんかより、よっぽど甲斐性のあるヒトを見つけたから。この子たちは新しい父親の元で幸せになるの」
「この……アマ……」
「それに、慰謝料も養育費も請求しないわ。アタシと結婚したことなんか忘れて、一人で自由にしていいわよ。アタシたちから解放してあげる」

 なんという上から目線の言い方だろうか。
 那津男は、腹の底から目の前の女を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。あまりにもあんまりな物言いに、那津男は拳を握りしめ、バリバリと奥歯を噛み締める。
 だが、母親を前に震えている二人の娘に目をやると、二人とも不安そうな眼をこちらに向けていた。
 自分は二人に何と言った?

『お前たちを芙由美から切り離す』
『俺だけの娘にする』

 腹の下に力を入れ、那津男は愛しい娘たちに微笑んだ。視線だけで、『大丈夫だ』と伝える。
 それが伝わったのか、遥奈も亜紀も、表情がふっと和らいだ。
 そして、那津男は自分の中の冷静な部分を意識した。すると、そのおかげなのか、芙由美のおかしな言動に気が付いた。
 芙由美の口から、『慰謝料』という言葉が出たのである。

 ――どういう事だ? 浮気をしたのは芙由美の方だ。弁護士とも話したが、芙由美の方が有責になるのは確実だ。育児放棄ネグレクトだってある。慰謝料はむしろ、こっちがもらう方だろうに。

 何か、自分では気付かないうちに罠に嵌められたのだろうか。よく聞く話だ。証拠をしっかりと揃えなかったばかりに、ウソのDVで元夫から億の金をむしり取ったという悪女の話も聞いた事がある。
 もう一度、那津男は二人の娘をちらりと見た。血は繋がっていないが、愛しい那津男の娘たちだ。
 その二人と、那津男は今、肉体関係にある。世間一般の常識に照らし合わせれば、那津男の行為は未成年に対する性的虐待だ。それは、逃れようのない事実である。
 だが、それを知られているとは考えにくい。

 ――まさか、盗聴や盗撮……?

 芙由美が姿を現したのは裁判でも勝てる準備が整ったからで、ここに姿を現したのは那津男に対する勝利宣言をする為だったのだろうか。
 だが、不法な手段で手に入れた盗聴や盗撮のデータが、裁判で証拠として採用される事はない。
 遥奈たちには秘密のまま進めるつもりであったが、芙由美を見つけたら、そのまま民事裁判で離婚調停を進め、同時に育児放棄ネグレクトで接近禁止命令を出してもらうつもりであった。欧米では生涯接近禁止の命令を出せる自治体もあるようだが、日本の法律では禁止期間が半年と非常に短い。だがそれでも、法的な拘束力を持つ命令が出されたという事実は重い。それに、芙由美のような我慢の効かない女であれば、命令を破って刑事罰に処される事も考えられる。
 と、そこまで考えて、那津男は別の点に気が付いた。
 芙由美は、考えるのがあまり得意な方ではない。芙由美の新しい旦那とやらが遣り手であるかもしれないが、芙由美自身は十分な準備を整えて搦め手からめてでくるような女ではないのだ。
 そこで那津男は、芙由美に聞き返した。

「待て、慰謝料だと?」
「ええ、そうよ。離婚するんだから、男が女に慰謝料を払うのが当たり前でしょう?」

 まさかと思ったが、どうやらさっきの慰謝料という話は、自分が無条件で貰えると、本気で考えているのかもしれない。
 それを示すかのように、得意げな顔で芙由美は話を続けた。

「まあ、この子たちの面倒を見てくれた半年分を差し引いて、プラスマイナスゼロになったと思ってちょうだい」

 どうやら、この女は本気らしい。本気で、離婚イコール女が慰謝料を貰えるものだと思っているようである。
 妙な納得感と、おかしな安堵感が湧き上がってきた那津男は、大きく溜息を吐いた。

「お前、本当にバカだったんだな。バカな女ほど可愛いっていうけどな、限度ってもんがある。子供がいるような歳でそれじゃあ、子供が可哀そうだ」
「……んなっ! なんですって?!」

 まさか嘲笑されるとは思っていなかったのか、芙由美は気色ばんで立ち上がった。
 相変わらず感情的な女だと那津男は思った。その分、自分の方が冷静になれる。

「悪いが、この二人は俺のモノだ。お前には渡さない。お前はお前で好きに生きて、俺たちの見えないところで勝手に盛ってろ」
「ふ……ふざけないで! この子たちはアタシの子なのよ?! アンタにあげるわけないでしょ!」

 ――『あげる』……か。捨てたり拾ったり、自分の娘なら好き勝手してもいいと思ってるんだな……。なら、なおさら渡せねぇ……っ! この二人は、俺のモノだ!

 ここが正念場。
 自分の娘を、家族を、自分勝手な女に渡すわけにはいかない。
 那津男は再び奥歯を噛み締め、腹に力を込めた。
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