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エリ2

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「ただいま、千佳さん」
「お帰りなさいませ、お嬢さま」

 自宅に帰ったあたしを玄関の広間で出迎えたのは、ウチに住み込みで働いているメイドの千佳さんだった。少しクセのあるセミロングヘアを後ろで束ね、いつもと同じクラシカルなロングメイド服を身に着けている。
 図書館で佐倉さんと別れたあたしは、どこにも寄らずに自宅に戻った。いつもなら、クラスの友達とカラオケやファミレスなどに寄り道してから帰るのが放課後の定番のコースだった。だけど、今日は図書館で佐倉さんと話をしなければならなかったから、門限を考えると、寄り道せず真っ直ぐに帰宅するしかなかった。

「ママは?」
「今日は料理番組の収録があるとかで、帰りは遅くなるそうです」
「パパは……聞くまでも無いか」
「ええ。旦那様もお仕事ですが、奥様と時間が合うそうなので、お二人は外でお食事をされると、先ほどお電話がありました」
「そう……」
「お嬢さまもご一緒しますか? 今からお召し替えすれば間に合うかと」
「やめておくわ。せっかくの夫婦水入らずだもの」
「では、お嬢さまのお食事のお支度をいたしますね」
「お願いね。どのくらいで?」
「仕込みは終わっておりますので、一時間ほどで」
「そう。出来たら呼んでちょうだい」
「かしこまりました」

 あたしは千佳さんにヒラヒラと手を振って、二階の自分の部屋へと向かった。
 正直、夕食時に母と顔を合わせずに済む事はありがたい。何かにつけて厳しい母は、そこにいるだけでプレッシャーになる。気を抜けるはずの家で落ち着けないのは理不尽だと思うけど、自分はまだ子供なのだから仕方ない。
 あたしは部屋に入るなり鍵を閉め、鞄をベッドに放り出した。そして壁に設えられた大きな姿見に向かって正面から自分を見つめると、スカートを無造作に持ち上げた。
 何も無い。
 普通なら履いているはずの下着は無く、そして生えているはずの陰毛もまるで無かった。ツルリとした幼女のような割れ目が見えるだけだ。電車の中で、あたしは何度腿をすり合わせただろう。内腿を伝って滴る愛液を抑えるように、普段以上に内股になってしまっていた。でも、完全に抑える事は出来なかった。学校指定の二―ソックスは内股の側がしっとりと濡れてしまっていて、歩いている間、不快に感じていた。さっきも普通に千佳さんと話していたけど、彼女にバレないかと冷や冷やだったのだ。

「はあっ……」

 鏡に映る、あまりにも淫らな自分の姿に、あたしは大きく溜息を吐いた。
 自分に、こんな背徳的な気持ち良さを与える存在になったクラスメイト。少し目を閉じて、あたしは佐倉さんとの出会いの時を思い出していた。

   ***

 お嬢様というのは、意外とストレスが溜まる。
 要領よく良い子でいれば、パパもママも厳しくは言わない。だからあたしは、両親の前でも学校でも『良い子』でいた。勉強はそれなりに出来ていたから問題は無かったし、友達と遊ぶことも程々にしていたから、うるさく言われる事も無かった。反抗期らしきものも自分の中にはあったけど、それを表に出す事はしなかった。そうしていれば、怒られる事もなく、ある程度の自由があったからだ。
 ただ、良い子を演じているためか、あたしは家の中でも緊張を解く事が出来なかった。本当にリラックス出来るのは、自分のベッドの中だけだ。
 自由ってなんだっけ?
 それに、親というものは自分の子供に期待するからか、どれだけ良い成績をとってもさらに上を求められる。厳しくヒステリックに言われれば反発したのかもしれないけど、コワイ笑顔で求められるとそういう訳にもいかなかった。とにかく、母親の見せる笑顔のプレッシャーというのは、本当にツラい。あたしも笑顔を返すのだが、その度に心がくたびれていく感覚がある。
 それでも、良い子でいる事は止められなかった。
 親に良い顔をして、学校でも良い顔をして……。
 だから、ある日あたしは、悪い事をしてみようと思った。子供染みているとは分かっているけど、何かに反発していなければ弾けてしまいそうになっていたから……。



 タバコは吸ってみようとは思わなかった。煙いし、臭いし。
 お酒は未成年だから、買う事も出来ない。家にあるお酒という手もあるが、千佳さんにバレずに飲むのは難しい。千佳さんなら黙っててくれるかもしれないけど、ママに聞かれたら正直に答えちゃうだろう。
 まあ大体、悪いことと言っても、あたしに考えられるのはそのくらいだった。
 そんな時、たまたま観ていたドラマで、少年が万引きして補導される場面が流れた。それが、ストンとあたしの腑に落ちた。お酒やタバコのように、多少年齢が若くてもお目こぼしされるようなモノでは無い、正真正銘の犯罪。万引きなどと薄い言葉で誤魔化しているけど、それは間違いなくタダの泥棒。悪い事だ。
 何より、誰でも簡単に出来る事が気に入った。そう、あたしでも。もちろん、コンビニなんかでは防犯カメラも多いし、スーパーや本屋でも同様だ。モノが多くてカメラの少ないお店。そんなお店を探して、あたしは学校が休みの日に、地味な服装をして電車に乗った。物を簡単に放り込めるような、口の大きなトートバッグを抱えて。



 そして電車を降りたのは、自宅と学校のちょうど中間の駅だった。学校近くではクラスメイトに会うかもしれないし、自宅近くではご近所さんに会うかもしれない。そこは乗り換えなども無い小さな駅で、特に用事も無いから、これまでわざわざ降りた事はなかった。駅の周辺はそれなりに栄えているようだけど、少し歩けば住宅街、その向こうは未開発の空き地や山といった地域だ。
 改札口を出たあたしの眼に、派手な色彩の、しかし少しくたびれた雰囲気のアーチが見えた。のぼりや看板の並んだ、商店街の入り口だ。
 始めての場所というのは心が躍る。そして、これからあたしがする事も初めての体験だ。
 万引き。初めての悪い事。
 何かが欲しいわけでもなく、万引きそのものが目的で商店街を練り歩いていたあたしは、たぶん悪い顔をしているだろう。そう思って、あたしは衣料品店のショーウィンドウに写る自分の顔を見た。
 笑っていた。
 これから悪い事をしようというのに、あたしは笑っていたのだ。今までに見た事のない自分の笑顔を見て、あたしは口の端をひきつらせた。口角は吊り上がり、反対に目尻は下がっていた。悪魔的な、という表現がよく似合う、実に悪い笑顔だった。それは、気持ち悪い笑顔。とても気持ちの悪い笑顔だった。
 と、あたしの視線は、悪い顔で笑っている自分の背後にあるお店に向かった。
 反射するショーウィンドウに写っているのは、古色蒼然とした古本屋だった。店頭に並んだ古雑誌は陽光を浴びて退色し、軒となっているテント地の張り出しに書かれたらしい店名は、かすれて読む事も出来ない。今どき手で開くサッシの入り口は曇りガラスとなっており、薄暗い店の中はよく見えない。
 どう見てもそこは、一見さんがフラッと気楽に入れるようなお店ではなかった。売っているモノと同様に、古い古い雰囲気のお店。モノが多くてカメラの少ないお店。まさにあたしが探していたお店だ。
 振り返ったあたしは、その古本屋に躊躇う事なく足を踏み入れた。
 店内は思ったより広かった。入口から三列の通路は店の奥まで続き、通路を隔てているのは天井まで作りつけられた本棚だ。一応はジャンル別になっているらしく、マンガや小説、実用書、雑誌などが、さらに細かいジャンルで分けられている。
 興味深げにキョロキョロしながら奥へ進んでいくと、店の中ほどで商品が一変した。最初はどう変わったのか分からず、ただ違和感を覚えただけだった。だが、よくよく見れば、並んでいるのが桃色と肌色の本ばかりである事に気が付いた。

「これ……エッチな本……」

 あたしは、自分の心臓が口から飛び出すのではないかと思った。それくらい、店の中に並ぶものを見てドキドキしていたのだ。
 以前、クラスメイトが学校に、姉から借りたといってイヤらしいマンガを持ってきた事がある。その娘はアレを女性向けのマンガ雑誌だと言ったけど、その内容のイヤらしさは男性向けのエロマンガと同じくらいだと思う。男性向けのマンガなど読んだ事は無いけど、あれだけ過激な内容なのだから、男性向けにも負けないだろう。多分。
 その雑誌は、オトナの恋愛と不倫や浮気がテーマだった。火遊び。道ならぬ恋。主人公のヒロインは恋人や夫がいながら他の男に身を任せ、そして破滅していく話が多かった。
 中でもあたしの心に残ったのが、不倫がバレて夫に恥ずかしいお仕置きをされる人妻の話だった。何度謝っても許されず、身体を苦しい態勢に拘束される人妻。鞭で打たれたり、男の人のモノを模した細長い物を女の大事なところに押し込まれたりする人妻。そして、お仕置きを受けているはずなのに恍惚とした表情を浮かべる人妻。
 大人のオモチャというモノを知ったのもその時だ。ディルドとか、バイブレーターとか、女の身体を悦ばせるための卑猥な道具。それを使われて気持ち良さそうに喘ぐ女。
 アレと同じようなマンガは無いものか。あたしは人気の無い店内で、本棚を端から端へ舐め回すように探し始めた。
 幸い、店の中に客は、あたし以外には一人しかいなかった。小柄なロングヘアの女性が一人、官能小説のコーナーで立ち読みをしている。彼女の姿は、横から背中の方しか見えないけど、大人向けの小説を読んでいるのだから、多分二十代くらいだろう。何より、色合いは地味でも、身体のラインが際立つオトナの服装をしている。ニットのハーフネックにタイトなパンツスタイルで、豊かな胸とほっそりとした腰のギャップがとても激しく、魅惑的な曲線を描いている。眼鏡と目深に被った白のベレー帽で顔は見えないが、多分美人に違いない。その美人は、どうやら官能小説に夢中らしかった。
 あたしは安心して、人目を気にせずに店内を物色し始めた。そして分かったのが、その古本屋は大人向けの商品がとても充実しているという事だった。商品の半分が大人向けのモノで、アダルトDVD、官能小説、ヌード写真集、ポルノ雑誌、などなどだ。昔はコンビニでも、いわゆるエロ本が買えたらしいが、今では普通の本屋でも見かける事は少なくなった。
 普段の生活ではめったに見られない大人向けの恥ずかしい商品。それらが、店の奥半分にみっしりと並んでいる。
 そしてあたしは、目当ての成年コミックのコーナーに辿り着いた。アダルトDVDが肌色メインであるのに対して、成年コミックのコーナーはどちらかというと桃色がメインだった。いずれの成年コミックもビニールがかけられていて中身は見えないが、大体定価の三割から五割くらいの価格で買える。
 だけど、今日のあたしは万引きに来たのだ。あの日、クラスメイトに見せてもらったのは雑誌だったので、サイズが大きくて万引きには向かない。でも、単行本なら一回り小さいから、持ってきているトートバッグに簡単に放り込める。成年コミックは普通の少女向けコミックに比べて何故か二回りも大きいが、雑誌よりはマシなサイズだ。
 あたしは人妻がお仕置きされるような、そんな成年コミックを探して、端から一冊ずつチェックしていった。



 棚の端まで来たあたしは、「それ」を目にした瞬間、吸い寄せられるようにその商品を手に取っていた。目にしてからそれを手に取るまで、完全に無意識の動作だった。後から思い返しても、それを見てから手に取るまでの記憶が無い。
 バイブレーター。
 女の身体を悦ばせるための、淫らな道具。
 それが今、あたしの手の中にある。マンガどころではない、本物の大人のオモチャが、あたしの目の前にあった。
 それを手にしたまま、あたしは想像した。マンガで見て想像していたよりも遥かに大きなそれを、自分の身体に飲み込ませる。モーターの力で震えるそれが、あたしの身体の奥深くで暴れまくる。マンガの中の女性は、悲鳴を上げるほど気持ち良さげに喘いでいた。マンガなのだから大袈裟に表現されているのだろうけど、まるっきりウソというワケでもないはずだ。
 あたしは想像した。そのオモチャを自分の中に……。
 その時のあたしは、多分、笑っていたのだろう。薄く開いた唇の端から、涎がつうっと零れてきた。慌てて口元をぬぐう。
 他の商品を探すふりをして、あたしは店内の天井付近を見回した。カメラは無い。
 カウンターは無人。レジの鍵はついていないので、多分、店主が持っているのだろう。呼べば店主が出てくるのだろうが、カウンターの奥に人の気配はない。
 さっきの美人は、まだ官能小説を読んでいる。
 手にしたバイブレーターを、持ってきた大きなトートバッグへ無造作に放り込んだ。
 振り向いて、静かに歩き出す。スニーカーなので、足音はほとんどしない。
 曇りガラスの引き戸は開いたままだ。そのまま滑るように店の外へ出た。赤い夕日がビルとビルの間から見えている。
 駅の方へ身体を向け、速歩きで歩を進めた。でも、絶対に走らない。手首の腕時計へ目をやって、急いでいる風を装う。
 後ろから誰かが来る気配は無い。
 十歩ほど歩いて、あたしは大きく息を吐き出した。どうやら自分でも気付かないうちに、ずっと息を止めていたみたいだ。
 歩きながら大きく息を吸い込んで、今の状況を思い返す。そして、ゆっくりと息を吐き出す。
 心臓の鼓動が段々と速くなってきた。腕や手足が震え、身体の中を得体の知れない何かが這い回っている。手足と舌がビリビリと痺れる。舌先が敏感になっているようだ。
 やった。やってしまった。店の外に出てしまったのだから、もう言い訳は出来ない。
 あたしは、万引きをしたのだ。
 不思議と達成感は無かった。あるのは震えばかり。だけどその中に、舌先を痺れさせる甘い感覚があった。蕩けるような悪寒。不快な気持ち良さ。後戻りできない後悔と、初めての経験に震える心。
 あたしの心と身体は、バラバラになりそうだった。自分の身体なのに、自分の身体じゃないみたいだった。見慣れない商店街が、まるで異世界のように感じられる。
 早くベッドに倒れ込みたかった。あたしの安全地帯。この世界で唯一安らげる場所。電車に乗って、駅から自宅まで歩いて、もうすぐだ。
 あたしの心は、既に自室のベッドの中に潜り込んでいた。あとは本当に帰るだけ。
 なのに、あたしの心は、入りかけたベッドから一気に引きずり戻された。身体がいきなり後ろ向きに引っ張られたと気付いたのは、一瞬の後。

「ちょっといいかしら?」
「な、なにっ?」

 突然の事に、あたしの心はパニックに陥りそうになった。
 早く帰りたいのに。あたしは早くベッドに辿り着きたいのに。
 あたしを止めた何かに、あたしの心はストレートな怒りをぶつけそうになった。イラついた感情を止めることなく、怒鳴り返そうとする。
 だけど、あたしを止めたのが知っている顔だと分かって、あたしの心は一気に冷え込んだ。

「……地味メガネ?」
「知ってる? あのお店、古い作りだけど、カウンター周りにカメラがあるのよ」
「は……、ウソよ! ちゃんと確認したもの!」

 そうよ。ちゃんと確認したんだもの。あんな古いお店にカメラなんてあるワケがない。ウソばっかり! それに、さっきの古本屋にいたのが地味メガネだったのは驚いたけど、あたしが万引きしたところを見ていたはずもない。そう、確かに彼女は、天井まで作りつけられた棚の向こう側にいたはず。

「それに、あなたには関係ないでしょ!」
「大有りよ。あの店でトラブルを起こされるのはゴメンなの」

 一体、何を言っているのだろう。トラブルを起こされたくないのなら、このまま黙ってあたしを見逃せばいいのに。いつも一人で小説を読んでいるような地味な女は、教室の隅っこでいるみたいに大人しくしていればいい。
 でも、今日の地味メガネはいつもと違った。教室で見られるような、無表情で静かに本を読んでいるクラスメイトではなかった。
 彼女は、眼鏡越しの鋭い視線を、クラスの女王と呼ばれているあたしに向けていた。
 普段、クラスでも「良い子」でいようとしていたあたしの周りには、自然と人が集まってきていた。あたしは別に、誰かに何かを強要した事はないけど、みんながあたしの言う事する事についてくる。それが普通の事だったし、当たり前の事だった。自分で女王なんて名乗っているワケではないけど、あたしはその呼び方を受け入れてはいる。そう呼ばれるだけの態度でいようと思っている。
 なのに、今、バッグの紐を握りしめている地味メガネは、あたしの言う事を聞くどころかキツイ視線で詰め寄ってきていた。
 ここで初めて、あたしは地味メガネ……、いえ佐倉さんがクラスの輪というものから外れている存在だという事を思い出した。より正確には、彼女という存在を普段は意識していなかった事に気が付いた。
 あたしにとってクラスメイトというのは、あたしの周りにいる娘たちで、彼女は違う。ただ、教室という同じ場所にいるだけの存在だった。居ても居なくても気にならない。机や椅子と同じ、ただの風景だ。なのに、彼女はあたしに、まるでクラスメイトのように詰め寄ってくる。

「それに、ウチは進学校なんだから、万引きしたなんてバレたら、お終いなんじゃないの? ……しかも大人のオモチャとか。クラスのみんなが聞いたらなんて思うかしらね?」

 そこまで言われて、あたしはやっと、苛立ちの原因に思い至った。それと同時に、身体から血の気が引いていった。
 苛立ちは、疚しさの裏返し。だってあたしは、万引きをしてしまったのだから。
 それが、同じクラスの人間にバレてしまった。しかも、クラスのイレギュラーな存在に。

「別にあなたがどうなろうと、私の知った事ではないの。でもね、さっきも言ったように、あのお店でトラブルは起こして欲しくないのよ。だから……」

 心と身体が凍り付いたようなあたしは、彼女の行動を止める事が出来なかった。
 あたしのバッグの端を握り締めていた佐倉さんは、無造作にバッグに手を突っ込むと、大きなピンク色の箱を引っ張り出した。往来の真ん中で、恥ずかしげもなくそれをあたしに見せつける。

「……よくもこんなデカいモノ、盗もうなんて思ったわね」
「か、返して!」

 ようやく声を出す事が出来たあたしの身体は、それで金縛りが解けたみたいに動き出した。あたしの万引きの証拠であるバイブレーターの入った箱を取り返そうとする。
 でも、それより早くあたしの目の奥で火花が散った。一瞬遅れて佐倉さんとバイブレーターが視界から消える。自分が横を向いている事を自覚した瞬間、頬に痛みが走った。
 何が起こったのか、あたしは分からなかった。数秒遅れて、首を回す事を思い出し、視線を真っ直ぐに戻す。そして、頬を叩かれた事に気付いたあたしは、ジンジンする頬に手を当てて佐倉さんを見た。

「あなたのモノじゃないでしょ?」

 その時の佐倉さんの顔には、何の表情も浮かんでいなかった。感情豊かなクラスメイト達と違って、何の意図も読み取れない。それは、ある意味で母親の笑顔と似ていたかもしれない。オトナの表情だ。

「ちょっと待ってなさい」
「……え?」

 呆然としていたあたしを放置して、佐倉さんはバイブレーターの箱を剥き出しのまま持って踵を返した。そして、元来た道を戻り、さっきの古本屋へと消えていく。

「ああ……、返しに行ったのね……。失敗しちゃった……か……」

 バレた。
 失敗した。
 あたしの初めての悪い事は、こうして失敗に終わった。
 そんなあたしの心の中に沸き上がってきたのは、安堵感と、そして軽いパニックだった。
 佐倉さんはこの後、どうするのだろう? お店の人に言い付けて、あたしを警察に連れて行くのだろうか。あたしの親に言うのだろうか。学校へは? 友達へは? お店へ行って謝らなくちゃいけないのだろうか。もう、今までと同じようには学校へは行けないのだろうか。母は、あのコワイ笑顔を消して怒るのだろうか。それとも、さらにコワイ笑顔を深めるのだろうか。友達は、もうあたしを女王なんて呼ばなくなるのだろうか。そうしたら、今の佐倉さんみたいに教室で一人になるのだろうか。教室で、みんながあたしを冷たい目で見るようになる。ううん、そうじゃない。あたしはクラスの輪から外れて一人になる。クラスの中にいるのにクラスメイトがいなくなる。誰もあたしに話しかけない。誰もあたしを見ない。あたしはいないのと同じになる。クラスの真ん中にいたはずなのに。クラスの女王だったのに。机の場所は変わらない。席順も番号も変わらない。なのに、誰もあたしに話しかけない。隣の席の子も、前の席の子も、同じ班の子も、いつも一緒に遊んでいる子も、誰も彼もがあたしを無視する。いないものと思う。あたしは一人になる。あたしは一人。一人。独り。ひとり……。

「き……っ! あ……」

 あたしは、道の真ん中で叫びだしそうになった。口元を抑え、絶叫と吐き気を堪える。視界は揺れて、あたしは立っているのが難しくなってくる。揺れる。視界が揺れる。揺れる世界の中で、道行く人の視線があたしに向けられている。おかしなものを見る目。いつもの好意的な視線とは違う、異物を見るような目。
 逃げたいのに身体が動かない。膝は震えているのに倒れる事が出来ない。
 と、あたしの視界にメガネがいっぱいに広がった。それが知っている顔だと思い出すのに、結構な時間がかかってしまった。実際にはほんの数秒の事かもしれないけど、あたしはその顔をじっと見つめていた。そしてそれが、地味メガネの顔だと思い出した。
 無表情の中に怪訝な光を浮かべて、佐倉さんがあたしを見つめ返している。

「えと……」
「はい、コレ」

 無表情のまま、佐倉さんはあたしの前に黒いビニール袋を突き出した。何か大きな箱のようなモノが入っている。

「え? ナニ?」
「欲しかったんでしょ? コレ。ちゃんと買ってきてあげたわよ」

 もしかしてこれは、あたしが万引きしようと思ったバイブレーターなのだろうか。

「で、でも……」
「ああ、別に勘違いしないでよね。はい、レシート。いつでもいいから清算して。それまでは貸しておいてあげる」

 突き出された黒いビニール袋を、あたしは勢いのまま受け取った。そしてノロノロとした動きで中を確認する。
 やっぱり、あたしが万引きしようと思った大人のオモチャだった。

「それにしても、……なんでそんなモノを?」
「……」
「ま、別に良いけど……」

 聞いた事を後悔しているような無表情で、佐倉さんは視線を逸らした。
 その時、あたしの耳元で天使が囁いた。ううん、もしかしたら悪魔かもしれない。だってこんな事、望んで良いはずがないのだから。
 天使と悪魔は同じ姿をしているって聞いた事があるけど、その話、今のあたしには凄く良く分かる。あたしの望みを叶えてくれるのなら、天使でも悪魔でも構わない。だって、それがあたしの望みである事を、たった今、気付かせてくれたんだもの。
 その望みを教えてくれたのが天使。その望みを叶える術を教えてくれたのが悪魔。
 あたしは、心の中ですごく納得してしまった。ヒトの心の中には、天使と悪魔がいる。どちらも同じ姿をして、同じ顔で囁くのだ。だってそれは、自分自身なのだから。

「ウチに……、来てくれない? ここじゃ話しにくいから……」
「良いけど?」
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