サトリ

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第1章

14.マーマレードジャム

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 黒猫の死体を見た。

 車に撥ねられたらしいそれは当たっただけで轢かれてはいないのだろうか。血は出ていなくて今まで見た事があるどれよりも綺麗だった。

 次にその道を通った時には死体は既に片付けられていた。


「うわぁ~ん。スオウ!大丈夫なの?」

 玄関を開けるなりスオウは瑞希に抱きつかれた。

「…何しに来たの?」

 スオウは怠そうに訊いた。

「心配だから見に来たんだよ!だって、もう夏休み入ってから結構経ったんだよ。分かってる?」

 瑞希はスオウに抱きついたまま言った。
 スオウの母親が死んだのは夏休みに入ってすぐの事だった。

 長期休暇の間に色々と必要な手続きを終わらせられるので、そこにかんしては不幸中の幸いと言うやつなのだろうとスオウは思った。学校が始まる頃には世間からは忘れかけられているだろう。そうであってくれる方が良い。

「…いい加減離れて瑞希。暑い」

「あはは、ごめんごめん」

 瑞希は軽く笑いながら離れた。

「取り敢えず、上がっていく?」

「いいの?迷惑じゃない?」

「うちに来てる時点で迷惑だからいいよ」

 そう言ったスオウの顔が微笑っているように見えて、瑞希は少しの間ボーッとしていた。

「どうかした?」

 なかなかリビングに入ってこない瑞希に声をかけた。

 瑞希は「なんでもない」と言って、笑いながらスオウの後について行った。

「ねぇ、スオウ。一人で…暮らしてるの?」

 リビングを見回して瑞希が訊いた。

「そうだけど」

 スオウは冷蔵庫からジュースのボトルを出しながら答えた。

「…何その反応」

 コップとボトルを持ってリビングに来たスオウは瑞希の顔を見て言った。

「だ、だって、スオウ生活能力ゼロじゃん?」

「…今までも一人暮らしみたいなものだったから大して変わらないと思うけど」

「まぁ、それはそうだけど…それとこれとは別だし…どうせロクなもの食べてないんでしょ」

「生きていければそれでいいでしょう」

 コップにジュースを注ぐとスオウは再び台所の方に行った。

「お祖母ちゃんとかいないの?」

「…私のお母さん勘当されてたみたい。で、麻奈さんは婚約者いるし『別に一人で大丈夫です』って言った。お金もあるしね。あ、麻奈さんは私のお母さんの妹なの」

「そ、そうなんだ」

 相変わらず淡々と話すスオウに瑞希はなんて言ったらいいか分からず、複雑そうな顔をしていた。

      ************

 形だけの葬式を終えた夜の事だった。

「-本当に大丈夫なの?スオウちゃん」

 スオウの家の玄関で麻奈が心配そうな顔をして訊いてきた。

「はい、大丈夫です」

 スオウは無表情で答える。

「…本当にごめんなさい。姉さんが勘当されてるとはいえあの二人があなたの面倒を一切見ないなんて。それどころか葬式にも…」

 麻奈の言う二人とは麻耶と麻奈の両親の事だ。
 麻奈の両親-つまりスオウの祖父母は麻耶の葬式にも通夜にも顔を一切見せなかった。

「麻奈さんが気にする事じゃないです。私も今まで顔も見た事のない人にいきなり引き取られても正直困りますから」

「え…と、そ、それなら…いいんだけど」

 淡々と話すスオウに麻奈は戸惑っていた。

「父親の話もこの前聞きました」

 そう言ったスオウの驚く程の感情の無さに麻奈は狼狽した。
 スオウと麻奈は殆ど会ったことはない。しかし、こんなにも感情の起伏のない子だっただろうかと麻奈は思った。

「あ…そうなの。ごめんなさい。私も知らなくて…お父さんの事…ねぇ、スオウちゃん。なんなら私が…」

「いえ、大丈夫です。それに、麻奈さんは婚約者がいるんでしょう。同棲も始めたと聞きました。相手の方にも迷惑がかかります。例えば-」

「そっ…そうよね。逆に居づらくなっちゃうわよね。何だか本当にごめんなさい。困った時はなんでも言ってね。力になるから」

 麻奈は放っておけば何処までも喋りそうなスオウを遮った。

「じゃあ、私はまた明日荷物を整理しに来るから」

 麻奈はドアを開けた。

「はい…気をつけて」

 そう言うスオウの顔が心なしか微笑んでいるように見えて、急いで玄関を出た。

      ************

「-オウ。スオウ!」

 気づいたら瑞希に大声で呼ばれていた。

「…何?」

「どうしたのボーッとして?チャイム鳴ってるけど誰か来たんじゃないの?」

 目の前に瑞希の心配そうな顔があった。

「…ああ、ちょっと見てくる」

 今日は麻奈さんが来る予定も誰か来客がある予定もない筈だと。そう思いながらスオウはドアを少し開けた。

「ヤッホー」

 そこには長いポニーテールをなびかせた美々子が立っていた。
 スオウはドアを閉めようとした。

「ちょ…ちょっと待って。閉めないで」

 美々子が向こう側からドアを引っ張る。

「何で私の住所知ってるの?」

「えー。生徒手帳に書いてあったよ」

 スオウの質問に笑顔で答える美々子だがスオウは美々子に生徒手帳を見せた覚えはない。つまり勝手に見た事になる。

「…」

「あっ、スオウ。そんな顔しないで」

 スオウが軽蔑する様な目つきで美々子を見ている。

「スオウ?誰が来たの?」

 その時、瑞希がリビングから出てきた。

「何でもない。ただの変態ストーカー」

 スオウはドアをぐいぐい引っ張る。

「え…?」

 瑞希は状況が理解できずに首を傾げていると、美々子が慌てた様に喋り出した。

「ち、違うよ。さっきの撤回、スオウ!嘘だってば!この前ちょっと学校に行った時に先生が『スオウに渡すプリントがある』って言ってたから…『私がスオウの家知ってるから渡しておきます』って……あれ?」

 美々子は自分で言っていて整理がつかず首を傾げた。

「やっぱり盗み見たんだ」

 スオウが再びドアを引っ張る力を強める。

「わーゴメン!スオウ」

 スオウはいきなりドアを引っ張っていた手を放した。

「わっ!」

 反動で美々子が数歩後ろによろけた。

「…もう近所迷惑だから入って」

 スオウがため息を吐きながら言った。

「わぁーい」

 嬉しそうに玄関を上がった美々子とリビングのドアの所に立っていた瑞希は互いに言った。

「…誰?」

「…こっちが昔のクラスメイトで、こっちが今のクラスメイト」

 スオウは大雑把にそれぞれを紹介すると台所に行った。

「あー。えっと…中野瑞希です。スオウ適当だからごめんなさい」

 瑞希は美々子の豊満な胸をチラチラと見ながら言う。身長も自分より遥かに高い。何だか大人びていて瑞希は少しばかり緊張していた。

 だが、それと同時に瑞希は先程のスオウとのやり取りを見ている限り、少し変わった人だという印象を受けていた。

「いやいや、私は望月美々子。美々子でいいよ。私も瑞希ちゃんって呼ぶし。…スオウは呼んでくれないけど」

 二人が自己紹介をしているとコップを持ったスオウが戻ってきた。

「ハイ。飲み物」

 座っている美々子にコップを渡しながらスオウが言った。瑞希は「お手洗い借りるね」とトイレに立っていった。

「あ、そうだ。…はいコレ」

 美々子は先生に言われたプリントをカバンから出すと渡した。それとビンを渡した。

「それね、私が作ったんだけどあげる。冷蔵庫に入れれば一ヶ月くらいは大丈夫だと思うよ」

 ビンの中にはオレンジ色っぽいジャム状の物が入っている。

「…」

 スオウは暫くビンを見つめるとプリントをテーブルの上に置いて台所に行った。
 美々子はビンを直しに行ったのだろうかと思った。しかし、中々戻ってこないので様子を見に台所を覗いてみた。それと同時に瑞希がトイレから戻ってきた。

「わぁ!スオウ何やってんの?」

 瑞希がドアを開けた途端、美々子の驚いた声が響く。

 何事かと思ったが、美々子の視線の先には湯呑みを持ったスオウが立っている。何にそんなに驚いているのか瑞希は分からなかった。

「お湯に溶かしてる」

 スオウも何がおかしいのかと言わんばかりだ。

「それマーマレードのジャムだよ!パンにつけるやつ。何でお湯に溶かしてるの?!」

 美々子が訳が分からないという風に言った時にはスオウはすでに湯呑みの中の物を飲んでいた。

「…不味い」

 珍しくスオウの感情が顔に出ていた。

「当たり前じゃんっ」

「…柚子湯だと思ったのに…」

 スオウが美々子に貰ったビンを見ながら呟く。

「それはマーマレードジャム…」

「ダメですよ。スオウにそんなのあげたら」

 美々子の背後で大笑いしている瑞希がいた。

「えっ…どうして」

 美々子は瑞希の方を振り返る。

「スオウは少し偏食め和食以外食べないんで…ジャムとか食べた事ないんですよ」

 瑞希はまだ少し笑いながら言った。

「え?じゃあパン食べた事ないの?」

「ない」

 美々子の問いにスオウは即答した。

「知らなかったですか?」

 瑞希が微笑んでいる。

「えっ、知らないよ。聞いた事ないし」

 美々子は膨れっ面をしている。

「だって、言ってない」

 スオウは別のコップにお茶を注いで飲んでいる。

「でも、お昼にパンとか食べてるの見た事ないですよね?」

「う~ん。言われてみればそうだけど、それだけじゃ分かんないよ。てか、給食とかはどうしてたの?」

 瑞希に指摘されて美々子は膨れっ面のまま言った。

「和食だけ食べてた。…コレは瑞希にあげる」

 スオウは蓋を閉めたビンを瑞希に渡した。

「スオウ。折角、美々子さんから貰ったんだから…」

「あー、いいよ。瑞希ちゃんにあげる」

 美々子は笑っている。
 瑞希はその笑顔を見て美々子の事が少し可哀想になった。

「スオウ。この際だからパン食べてみたら?」

「いい」

 スオウは一言答えるとリビングの方に歩いて行った。

「瑞希ちゃんよければそれ貰って」

 再度、笑顔で言われる。

「…そうですか。ではありがたく貰います」

 それから小一時間ほどして二人はスオウの家を出た。

「あの…スオウって学校ではどんな感じですか?」

 二人でオレンジ色の空の下を歩く中、先に口を開いたのは瑞希だった。

「ねぇ、なんで瑞希ちゃん敬語なの?同い年なのに」

 美々子は瑞希の質問には答えずに不満そうな声をもらした。

「え、あ…ごめんなさい。なんかこう美々子さん大人っぽいというか…まぁ…」

「…ま…いいんだけど、そのうち外してね、敬語。…んーそうだね、学校でもさっきみたいな感じだよ」

「…スオウが笑ったところ見たことありますか?」

 瑞希のいきなりの質問に美々子は一瞬不思議そうな顔をしたが、笑って答えた。

「この前、一度だけ少し笑ったの見たかな。可愛かったな~。いつも笑っていればいいのに…どうしてそんな質問を?」

「…スオウって昔から笑わなくってですね…いや、小さい頃は笑っていた気はするんですが…まぁ、とりあえず笑わないんですよ。というか感情の起伏がなくて…でも、今日、笑った気がしたから…気のせいじゃなかったみたいですね。ハハハ、ただのお節介です」

 瑞希は少し照れ臭そうに笑った。

「…それって」

 美々子が呟いた。

「どうしたんですか?」

「それって、スオウがもっと可愛く笑うかもしれないってこと!!」

「……」

 瑞希は一人でキャーキャー騒いでいる美々子を見て「やっぱりこの人は大丈夫だろうか?」と少し心配になった。

「-じゃあ、私の家ここなんで」

 瑞希がそう言ったのはスオウの家からそう遠くない所だった。

「なぁんだ。家、近かったんだね。羨ましいわ」

 美々子は瑞希の家を見上げた。

「…あの、美々子さん。スオウのこと…」

「大丈夫よ!」

 言いかけた瑞希を遮って美々子は笑った。

「また、遊びましょ。今度は一宮さんも誘って。同じ学校だったんでしょ。…でも、今度会う時までには敬語を外しといて欲しいな」

「アハハ、すみません」

 瑞希は夕陽に目を細めながら言った。

「…じゃあね、瑞希ちゃん」

 美々子が笑って手を挙げた。

「ハイ、気をつけて」

 瑞希は軽く頭を下げた。

 美々子はそれを見ると歩き始めた。

 瑞希は美々子が曲がり角を曲がるのを見ると家の中へと入っていった。
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