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⑥ 夫の過去の恋話

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 それから何不自由ない日々を送った。詩集を読み漁り、手芸に没頭し過ごした。あまりに自由で、そして退屈で、そんな暮らしぶりで一月が過ぎた頃、私は家政婦長に愚痴をこぼした。

「ただこんな、ここにいるだけの自分が虚しいです」

「上流階級のご夫人とは、そういったものではございませぬか?」

「まだ婚姻しておりませんし、よって妻としての働きもしていません」

 私は家政婦長に相談し、主人である彼に働きに出たいと申し出ることにした。彼女は、言うだけ言ってみては、といった呆れ具合であった。

 一月ぶりに、多少の緊張感を携え彼の部屋をノックする――。




「――というわけで、働きに出ることをお許しください」

 やはり彼はカーテンの向こうの揺り椅子に腰掛け、姿を私に見せてはくれなかった。

「我がミュラー家の夫人となる者が、外で職を持つというのか」

「私は本当に、あなたの妻として迎えられるのですか!?」

 私はこれでも辛抱強さには自信がある。しかし、いまだ顔を見せることもない不遜な主人に、苛立ちは募るばかりだ。

「私には、あなたがさっぱり分かりません! 分かるわけありませんわ。言葉もろくに交わさず、お顔すら見せず、いったい私をどうしたいと言うのでしょう? あなたの方から私をこちらへお呼びになったというのに。ここで飼い殺すおつもりですか? そういったご趣味をお持ちですの?」

 いったんそこは静まり返る。彼は無言を貫くように思われたが。

「すまない、そんなつもりはなく……」

「それでしたら、私を外で働かせてください。私には子どもの頃から追い続けた夢があります。良い御家の夫人となるより、よほど生き甲斐を感じられ、生涯の終わりまで従事できるそれを、既に見つけております。こんな私でも、待っていてくれる人々がいるから。必要としてくれる人々も……。だから、こんなところに閉じこもっているだけではいられないのです!」

 こんな反抗するようなことを言って、すぐさま実家に帰されてしまうのだろう。父を失望させてしまうが、「横柄な態度」を取られることより「無視」されることの方が苦しいのを、私は実感してしまった。

「図らずも閉じ込めてしまい、申し訳なかった。しかし今はまだ、君が外に出ることを許可できない」

 彼は椅子に腰掛けたまま言い放った。

「どうしてですかっ……」

「私は、遠い以前、恋をした人が忘れられず……」

「は?」

 彼が脈絡のないことを、カーテン越しに語り始めた。

「ずっと探していた。彼女の本当の名が分からず、雲を掴むような話だ。私は彼女を忘れない、けれど彼女は私のことなんて、すぐに忘れてしまうだろうと、それはそれは焦った」

 私はなぜ今、そのようなことを聞かされているのか分からない。

「お付き合い、していたわけではないのですか、その方と?」

「いいや、まったくだ。私は彼女を特別に想っていたけれど、彼女にとって私など、立場上優しくしてやるだけの存在だった。だから、あのたった一夜、もしかして彼女も私と同じ想いを抱いているのかと、夢をみた。とても幸せだったんだ」

「……その一夜とは、どちらで?」

「誰もいない、月夜の小川で。彼女が私をいざなったように見えたんだよ、まるで妖精のように」

「……そして?」

「川のせせらぎ聴こえる中、彼女に口づけを――」

 私はつま先から踏み出し、彼と私の間を阻むカーテンを思いきり振り飛ばしていた。

 すると、そこにいたのは――。


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